あくる朝七時、ボクは目を覚ましてすぐにシャワーを浴び、服を着替えてロドス号の上部甲板へと向かった。所用? 特にない。久しぶりにぐっすり眠れた夜の終わりには、こんな風に気晴らす歩みで朝の気分をあつらえるのも悪くはないよ。
既に陽の射す甲板には、幾つかの人影が散見された。薄手のトレーニングウェアを着て走っている影が四つ。連れ立って歩いているペアの影が三組。ボクはわざと目立つように甲板の中央を歩き、船首へと向かった。
甲板を行く人々は皆、ボクが視線を向けると目をあからさまに逸らすか、ただ真っ直ぐに前を見つめて歩き、もしくは走り去っていった。どこかずっと背後で聴こえるオハヨウの交換。ナカヨシの形はそれぞれでも、ここにいるヒトたちはみんな、例外なくボクを、ラップランドを強く意識している。
背後にある親愛、ボクが求めてやまないものだ。そして眼前の冷たい隔離もまた。
船尾へ向かって一生懸命走るキミ、確かに今ロドスは荒野の上だけど、前に進んでる船の上でそんなことして楽しいかい?
はん、またルームランナーだ! ボクは昨日エレベーターの前で出会ったリーベリの少女を思い出して笑った。
…………微かに朝霧が出てきた。ロドスの乾荒野行も終わりに近いのか?
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ボクはロドスの船首にたどり着き、その最果てたる舳先を目の当たりにした。
女が座っていた。チタンの輝きを思わせる、長い長い頭髪を空になびかせて。
厳めしい黒装束と、日に映える白い肌。おとぎの奇談からそのまま転がり出てきたかのようなその姿を見て、ボクはまず冷めた刀身を思い、次に異国の悲しい歌を想起し、最後にまたこの甲板と朝霧に立ち返った。
「おはよう」
幻聴かと思いきや、そうではないらしい。ボクに背を向けたまま、彼女は確かにそう言った。
「いい朝だね」
とボクは粟立つ首筋の肌をそっと手で撫でながら応えた。
「そこから……何か見えるかい?」
彼女はゆっくりと首を縦に振った。
「近いわ」
「そう……この荒廃も、終わりに近いということかな」
「いいえ、始まるのよ」
「楽しみだね」
「ええ」
彼女は立ち上がり、まとわりつく霧を払うかのように、その見事な銀髪を微風に流した。右手には長大な剣が収まっている鞘を握り、左手には赤いシャチを象った浮き輪を握りしめて。
「それで、あなた誰?」
第二話/サ・イ・ア・ク
朝食前に血液を身体から吸い出して、医療部のポストに投函しなきゃいけないボクの気持ちがわかるかい? どうかな?
もし血抜きを嗜む種類のヒト科であっても、それが三日おきだったり、時期によっては毎日だったりすれば辟易してくることだろうね。とにかく、ラップランドの名前をラベルに冠し、ラップランドの血を詰めたアンプルが巨大な機械の中に呑まれていくのを見るのはいい気分ではない。返してちょうだいよボクの×の源。
毎朝そんな気分でいる。散歩したってこれがあるんじゃ台無しだけど、たとえ塗り潰されたとしても気晴らしは気晴らしだ。無駄だとは思わない。およそ世の中は意味の形象でできている。付属する価値の話はまた別の、とても複雑な問題だ。
若干のめまいを覚えながら大食堂に入ってみるとどこか空気が浮わついていて、騒がしくはないが妙にかしましい。流れてくる声を拾い聞く限り、どのテーブルもシエスタのビーチやミュージック・フェスの話題で持ちきりのようだ。馬鹿デカいスピーカーを持ち込んでおきながら、周囲に慮った微妙な音量でスリーコード・パンクを流している輩もいる。ボクはその小心なロック精神を笑いたかったが、何か喉のあたりがむなしくなってやめた。
彼ら彼女らの活動圏内の合間に点在する席を見繕いつつ歩く。一番近かった壁際の席には、恐らくロドスで最も自由な存在の一つであろう男がファッション雑誌を片手に食後のひとときを楽しんでいる様子が
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ぞくっとするようなソーダ水の残り香を口の中で転がしながら、ボクは栄光の宇宙船ロドス号の中層部、そのど真ん中に通った通路を歩いていた。朝食の感想は特にない。潤った口の冷たさと、数百グラム重くなった身体が全てだ。
このエリアには製造関連の機能が集中しており、通路の両側に交互に見えるドアには「○○製造施設、関係者以外立入厳禁」だの、「ラボ・○○ 御用の方は人事部を通してから」だのと書かれたプレートが打ち付けてある。みんな部屋にこもって何を作っているんだろう? きっと食品からトイレットペーパー、金属製品、暴力機械、病原菌まで取り揃えているよ。あと忘れちゃいけないのがクスリ。そういえばここ製薬会社だったね。ボクは自分の腰に下がった二刀を見下ろしてアハハアハ。
さて、いい加減目的地の話をしなければならない。
昨日言い渡された「廃村行き」──そのためのブリーフィングが、この通路の並びにあるはずの一室で行われる。そこへボクは足を運ばされているわけだけれど、行けども行けども正解の部屋を示すプレートは見えなかった。
部屋の位置くらいその辺のスタッフでも捕まえて尋ねてから来るべきだった、と若干後悔しはじめた頃になってようやく、そのドアはボクの目の前を通過した。
【ラボ・ルトラ】
【責任者:Mayer】
【注意:入室の際には必ず衣服の埃を落とし、本書下部の静電気除去シートに数秒間触れた後戸口を跨ぐこと】
【猛獺注意】
【危険物を取り扱っています】
【自律モジュールTHERMAL-EXは本研究所の管轄下にあります。勝手に餌を与えないで下さい。彼に関するご意見や苦情等はネットワークのメッセージボックスへ、ハッシュタグ『#何なのこのロボ』と共にご送付下さい】
【連絡:本日午後より一週間程度出張のため不在】
金属製のプレートの下にはこのような調子で無数のメモ書きや付箋が貼り付けてある。ボクはポケットからハンケチを取り出してコートのあちこちを払い、ぐにゃっとした感触のゴムシートに触れ、二礼四拍一礼の後に【自動──でもここを手で押さなきゃ開かないよ。変だよね】と書かれた大きなボタンを押した。レトロフューチャーそのものといった音色の電子音が数度、ドアはボクを迎え入れる。
目の前に広がった光景を、最初「部屋」だとは認識できなかった。
おそらく幅十メートル、奥行き二十メートル、高さ四メートルほどの空間。いや、空間という言葉の形はこの場所に似つかわしくない。空も間もほとんどなく、床にも壁にもテーブルにも所狭しと科学の産物が敷き詰められているんだ。
曖昧な物言いだ。具体的に、実際に見えたものを挙げていこう。何も映さない分厚く大きいモニター、解体しかけたまま床に放置されている源石動力装置らしいもの、絶えず微動する遠心分離機らしい機械、テーブルの上いっぱいに並べられたビーカーとシリンダー、湯気のようなものを発しつつ躍動する謎のアームと筒、それらから距離を置いた壁際に並ぶ巨大なコンピュータが三機、部屋の片隅に山と積まれたジャンクパーツたち、壁の一ヶ所から滝のように流れ落ちるケーブルの束……
そして、部屋の最奥のデスクに──椅子ではなくデスクに──腰掛けたヒト影。女。片手にマグカップ、もう片手に携帯型情報端末。人相は……見えた、肩あたりまである銀髪に同色の眼、血色は良いようだが目の下にうっすらと隈らしきものが窺える。黒い厚手のインナーと紺のタイトスカートの上に鮮やかなオレンジ色のコートを引っかけていて、裾から髪と同色の尻尾がやや板めいた印象でぶら下がっている。身長は160cm少々。
こちらに気づいて挙げた手は右手だが、おそらく本人は左メインの両利き。身体の重心はやや右前寄り。明らかに研究職だが動作はそれなりに機敏で、胸周り以外に余計な肉は見受けられない。作戦行動オペレーターとしての訓練経験はありそう、ってとこかな。
「や。こんにちは。ようこそ私の部屋へ!
テーブルや機器の合間を縫ってこちらに接近しながら行われた『メイヤー』の自己紹介からは、朗々とした活劇の台詞を早回しにして聴いているような印象を受けた。メイヤー……確か数ヶ月ほど前にちらっと名前は聞いた。技術部傘下でどうこう、はた迷惑な新入りがどうこう、って感じの伝聞。
ボクは目の前についと差し出された黒手袋の手のひらを握り、布を伝わってきた生のあたたかさに少しぞっとした。
「よろしく。調査隊というのは──」
「あ、私が隊長。技術部門からは私ともう一人。あとは医療部から一人、現地で合流するロドスのトランスポーターが一人。用心棒の君もあわせて頭数は五人だね。コーヒー飲む?」
情報についての感想を述べる前にボクの鼻先へ薄手の金属で出来たマグカップが突き出された。
「うん? 頂こうかな。しかし、物資サルベージ、だったかな。そんな人数で事足りるのかい? キミの言う医療部の人員が、あの盾持ちなら話は別だけど」
メイヤーは部屋の奥へ歩いていき、デスクのサイドテーブルの上にあるコーヒーメーカーにカップをセットしてスイッチを入れた。
「あー……ウチの本社の元警備主任ね。確かにあの人なら一人で仮設住宅やら大型源石エンジンの一つくらい持ち上げて運んでくれそうだけど。残念ながらシエスタ組らしいよ。医療部から誰が来るのか、当ててみる?」
サルゴン南部産の安物によく似た香り。ドクターの執務室でよく嗅ぐ高級品のものよりも好ましい。
「そのオイシャサンの参加はいいニュース寄り? 悪いニュース寄り?」
「ノーコメント」
「…………ワルファリン女史?」
メイヤーが口を開いて答える前に、どこかからカチャカチャガタガタと金属の擦れ合うような騒音がした。見回すと、部屋に入ったときにも見た隅のジャンクパーツの山が小刻みに揺れ動いている。彼女はそれを見て即座に「しまった」という顔をした。
「うわ、
少々慌てながらも愉快そうな声色でメイヤーは叫んだ。すると、ビーカーやシリンダーの置いてあった机の下から中型犬くらいの大きさの四足歩行する物体が飛び出してきて、ジャンクパーツの山をかき分け始めた。
最初何かの駄獣かと思われたその物体は、よく見ると四肢も胴体も全て樹脂や金属によって構成された、いわゆるロボットであることがわかった。差し渡し数メートルもあるガラクタの山を素早く、しかし意外な器用さをもって丁寧に崩していく様はある種の感嘆をボクにもたらした。こんなに細かい動きができる自律マシンはなかなかお目にかかれるものではない。単なるロボットアームならともかく、四肢を有する獣を模した類いのものならなおさらだ。
「どう? 面白いでしょ」
自らもジャンクの山に歩みよりながらメイヤーが嬉しそうに言った。
「さっき君は『人手は足りるのか』って訊いたけど、うちのラボにはこの『ミーボ』がたっくさんいるからね」
「なるほど?」
「まだ詰めるところいっぱいあるし、全部が全部音声認識で動いてくれるわけでも、完全に自律してるわけでもないんだけどね。とりあえずこの十八号と、そっちの子はわりと好き放題動けるよ」
メイヤーが後ろ指に指す方向を振り返ってみると、コーヒーメーカーを乗せたサイドテーブルがデスクのそばを離れ、歩いてこちらに近づいてきていた。どうも、こいつもテーブルではなく「ミーボ」らしい。
目の前で停止したミーボの背からありがたくマグカップを頂戴する。コーヒーメーカーと壁のどこかを繋いでいるらしい長いケーブルを引きずって歩くメカの背中をしばらく見送った後、ボクはメイヤーとミーボが張りついているガラクタの山の方に向き直った。
「お、これあの時のエステル材サンプルだ。五階から回してもらったやつ。こんなところに……まだなんかに使えるかな? お、こっちは──」
さほど声を低めるでもなく独りごちながらガラクタを一つ一つ取り上げて眺めているメイヤーは、あまり片付けの役には立っていないようだった。そんな主を尻目に、ミーボは積まれているものほとんど全てを無感動に選別してゆく。
掌の中のコーヒーはわずかに酸味が強く感じられた。
さっきからなんだろうね、このむず痒さは。
「三号機の外殻の耐久テスト、Cパーツをこれと入れ換えてもう一回やってみる……? 、いやでもフィールドワーク近いしぶっつけ本番で何かあったら……あ! ミーボ、もういいよ!」
メイヤーは使役獣を退かせ、床の一角を拳で数度叩きながら声を張り上げた。
「マーゼーラーン! ごめん今開けるからー!」
「─────!」
くぐもった声が床下のどこかから叫びに応えた。
「これをどかしたら動くかな? それ!」
メイヤーが床から壊れた電子調理器具らしい機械を持ち上げて脇に置いた瞬間、その部分の床が勢いよく跳ね上がって彼女の顎あたりに直撃し、金だらいを思いきり叩いたような音がラボに響き渡った。
「あだー!!」
顎を手で押さえながらひっくり返った技術屋の身体の向こうに、床下に閉じ込められていたらしいヒトの頭が飛び出てきた。「マゼラン」? これは聞き覚えのない名前だ。
「マゼラン」……もとい、艶やかなブラウンに白いメッシュの入った頭髪、金色の大きな眼を持つ若い女の生首(ボクのいる場所からは本当に首から上しか見えない)はゆっくりとあたりを見回した。
「うわー、ちょっと見ないうちにまた散らかってるねここ。メイヤーちゃ──あーっ!! メイヤーちゃんが死んでる!! どうして……!!」
どうしたもこうしたもあるかね。
相変わらず首だけ床から突き出ているマゼランの視線とボクのそれが交差する。
「わっ、下手人だ!」
「は?」
数瞬の沈黙の後にメイヤーが跳ねるように起き上がって叫ぶ。
「って死んでないし! うあー痛……口切っちゃったかな……」
「あ、起きた。大丈夫? 応急キットならこのコートの内ポケットにあるよ」
「……いいよ口荒れ軟膏くらいどっかにあるし。それよりなんでここから出てきたのさ」
マゼランは床に空いた穴から這い上がり、その全身をあらわにした。首から下は茶色いダボっとしたコートの前面を白い装甲板のような素材で覆った、なんとも珍妙な装備に覆われており、足元まで体型がはっきりしない。身の丈はメイヤーとそう変わらないが──
一歩前に踏み出し、コートの裾を払う動作。不思議な重心の取り方をしている。足に目をやると、なんとスケート靴のようなものを履いていた。
研究職の連中はみんなこうなのかな? 少なくとも白衣連にはこの手合いはいなかったけれど。
「いや、このリフト作ったのメイヤーちゃんじゃん。『我らが友情の直通回路!』とか言って、私がロドスと仮契約した時点でここに穴開けて、私の居室の換気ダクトと繋げてさ。誰にも許可取らずにこんな工事しちゃうのはさすがって感じだけど、まあ使わないのももったいないかなって。途中で人事部さんたちが会議やってる部屋の上をリフトが通過したときはどうなるかと思ったよ」
「乗り心地は?」
「最高」
「でしょ?」
「もう二度と使わないよ」
「イェイ」
二人は揃ってこちらを向き、これも完全に揃ったタイミングでVサインを作った手をボクに向けた。ボクは衝動的にマグカップの中身をまるごと床にぶちまけて、スラップスティックな笑いを提供してやりたくなった。我慢。
マゼランのコートのストラップにずんぐりむっくりな鳥を象ったフィギュアがぶら下がって揺れている。くそ、逃げてきた先にはまた忌々しいペンギンだ。決して悪くはない。
決してね。