アハハ。フフ。
ドクター。
ドクター。
キミ、今少しだけ、エスカレーターから降りるタイミングを躊躇したでしょ。遅すぎたらクツ挟まれやしないか、早すぎたら跳び降りたような格好になって、みっともなく見えたりしないかって、少しだけ考えたよね。
それから……そう、回転ドア。
くるくる回るあれを通り抜けるキミの姿を想像して、ちょっと可笑しくなったんだ。あれもタイミングが大事だよね。
むかし、ある夜更けに、ショッピングモールの守衛
ずっとずっとシリンダーの中をグルグルグルグル回っていたら、遠心力で分離してしまったんだよ。分離してしまったら最後──わかると思うんだけど──どっちがどっちだかわからなくなってしまうよね。それで、ドアの中から出ようにも出られない。もう必死になってグルグルグルグルグルグルグルグル回って、
ついにねぇ。
なっちゃったんだぁ。アハハハハハ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
地下厨房というのは天井の高い灰色タイル張りの部屋で、ステンレス製らしい調理台が二列、部屋の端から端まで並列しているありきたりな内装だった。天井から釣り下がるラックに引っ掛けられた鍋や匙や杓子やらが、やたらギラギラした白色の蛍光灯に照らされて鈍い輝きを放っている。
入り口近くの段ボール箱に顔を突っ込んでいるワルファリン女史の側を通り抜け、調理台の周囲を歩いて回ってみる。ここはエントランス程には汚れていない、というより清潔にさえ思えた。調理台は鏡のよう……とまでいかなくとも顔がはっきり映り込むぐらいに磨きあげられたままだったし、床にも目立った汚れはない。階段とこの部屋を隔てる両開きの扉は、エントランスの回転ドアに比べるとずいぶん勤勉に働いていたようだった。
その扉がぱかんと開いて、大きなボール箱を抱えたアブサントとマゼランが入ってきた。手近な調理台へ乗せられていく箱の中身を覗いてみると、半透明な樹脂製の袋や大振りのブリキ缶がぎっしり詰まっていた。
「なに食べる? 食品開発やってる部屋に譲ってもらったトライアル品から食堂でお馴染みのメニューまで、だいたい何でもあるみたいだよ」
そう言いながら黄色いラベルの缶詰を二つほど手に取っている。側まで寄ってきたワルファリン女史がそれを見るなり引き攣り気味の渋面を作って「屋外で開けろ」と釘を刺した。
「少し前に、あー……『それ』を休憩室で開けたうちの阿呆がスプリンクラーを誤作動させて始末書沙汰になった覚えがあるのだが──」
「そっか、ちょっと癖強いよね。大丈夫、そこの換気ダクトの下で開けるよ」
などと恐ろしいことを言いながらペンギン副隊長どののコートのポケットから缶切りが登場したところで扉が再度開き、メイヤーが勢いよく入室してきた。
「みんなお疲れー! あ、マゼランそれ明日のお昼にしようね」
早足でボクたちの間に割り込んだ彼女の手によって缶はつつがなく箱に帰った。特に残念がるでもなく「じゃ、このライ麦パンでサンドイッチにして持ってこうかな?」とまた箱を漁り始めたマゼランを横目で見ながら、どうやらメイヤーはボクに向き直ったようだ。
「言い忘れてたけど、君の持ってきたメモに書いてあったトランスポーターIDと、ロドスがちょっと前にここへ派遣したトランスポーターのIDが一致したよ。メモの内容自体を読み返してもみたけど……まあつまり、信用できる内容ではあったね」
「ヒトを信じることにかけては一流でね」
「うーん、私もロドスに『石橋を叩いて割ったオペレーターがいました』って報告せずに済んだから感謝しなきゃなぁ──アブサントもご苦労さま。慣れないことさせちゃってごめんね」
「あ、いいえ。私から言い出したことですし」
居心地悪そうにしているアブサントの手にはヒヨコ豆の缶が握られている。──しかし、ご苦労さま、ね。なんだか随分とボクには縁遠い言葉のように思える。口にしたことがあったかすら怪しいのはどういう訳なのかな。
考えるまでもない、「おはよう」と「おやすみ」で十分だからだろう。
ボクは仕事道具を調理台の側面に預けて自らも台の上に腰掛け、いつの間にか手に持っていた炭酸水のボトルを開封した。目の覚めるような音と共に食事が始まる。
◆◇◆◇◆
畜獣肉、食塩、砂糖、加工澱粉、亜硝酸ナトリウム。
脂肪のまだらに浮き上がった、缶入りの柔らかな肉塊を匙でつつきながら、この畜獣って何なんだろうね、と二メートル向かいでエネルギーバーを頬袋に貯めているメイヤーに訊いてみると、何を言ってるんだこいつはって感じの顔をされた。
「畜獣は畜獣でしょ。ロドスでは飼ってないけど」
「角のある四つ足の?」
「……それ、加熱剤ついてたと思うんだけど使った?」
缶を裏から見ると、底面に半透明の小袋が貼り付いていた。
「んーまあ、あっためなくても大丈夫なはずだけど。再加熱してないベーコンとかソーセージって君は結構平気で食べられる感じ?」
いくつか、というより無数に思うところはあったが言葉にはしなかった。「ァハハ」と笑ってみせたような気もする。昔の肉のことも含めてよく覚えていないというのが実情かな。角があって四つ足でェーァハハハハ。古生物が大陸を徘徊しているよ。
「食べてるうちにこの街の天気を思い出すような食感だね。ぬるくて、靴底か歯の裏にまとわりつくような。明日はまっとうなコンディションだと助かるな」
「ね。あぁ、マゼランの予報って精度かなり高いんだよ。気象観測ドローンの出来がいいから。マゼラーン、ラジオゾンデくんもう飛ばした?」
メイヤーの声に応じて振り向いたマゼランの手元から「プシュッ」という音がして室内に緊張が走ったが、正体がジンジャーエールの樹脂ボトルの開封音であることが判明すると解けた。
「充電できてないからまだだよ。寝る前に残量見て飛ばすかどうか判断しようかなって」
「えーっチャージ忘れてたの?」
「それはそうなんだけど、使えそうな車載電源はいま全部ミーボが食ってるじゃん。何にしてもマゼラン・ウェザーリポートは明日のお昼くらいからね」
メイヤーは肩をすくめた。
「──だって。大荒れにだけはならないことを祈るしかないね。たぶん屋内で完結する仕事だとは思うけど」
と言っても屋内で済むのはボク以外の話だろう。おそらく明日からは哀れなループスが一匹、廃工場の屋根の上で存在しない標的を待つ姿が……それすら誰にも観察されないわけだ。小屋も飼い主も食べ物もないのに、果たして犬は犬足りえるのだろうかね。
つくづく、今回の任務はボクを貶めている。形ばかりの警護なんて、それこそ形ばかりの行動隊か予備隊にでもやらせればいいんだ。今のところ身体のパーツの合計数くらいしかラップランドに勝っているところがない部隊でも、もう少し場数を踏めばマシになるだろう。
そもそもこれは体のいい厄介払いであって任務ではないということから目を背けつつ、「目の数」の優位性について思考が流れていく途中で、ボクは忘れかけていた事柄に行き当たって口を開いた。
「そういえば、現地で合流するトランスポーターの話。あったよね」
「そういえばねー」と気のないメイヤーの返事。何? ボクの方から行かないとダメなのかな? はしゃいでいると思わせるのはそれなりに得意だが、今はそういう気分じゃない。
「いやなに、仕事は楽に越したことはないよね。そのヒトが腕利きならボクの目も少しは休まるんだから。何か知ってるかい?」
「んー、知らないコードネームだったよ。私がロドスじゃ新参寄りってのもあるかもしれないけど」
「プロファイルある?」
「あるよー」
メイヤーはポケットからロドスのロゴが背面に入った小さなタブレットを取り出してパタパタ操作したかと思うと、ものの八秒でこちらに手渡してきた。
「はい。でも基本情報ページしか貰ってないよ」
「どうも」
「また女の人みたいだね。まーこんなにチャーミングなコばっかりのチームに今更男子放り込んでもその子がかわいそうか。あはは」
カラカラと笑うメイヤーの音声をバックにして、ボクの目の前に或る女の肖像が映し出された。
そいつは世の中のことなんかだいたい冷笑できるんだ、と言わんばかりのカッコウをした目と鼻と口元を白い卵型の輪郭で囲って、最後にジュベナイルな感性が描く夜明け前みたいな色をした長髪で飾り立てたツラのサンクタだった。光輪は黒ずんで──それで、ねぇ、そのキャプリニーの出来損ないみたいなツノは、あ、あ、アハハハ。一体何をしでかしたら生えてくるんだい。
教えてくれないかな。ダメだろうな。
コードネームの欄に踊るm─o─s─t─i─m─aの文字を確認したボクの口内では、今まで食べていた缶詰の肉がじゅるじゅるぶちぶちと腐敗を始めていた。さてはかの表面に蠕く黄白色の粒状感は蛆。
「知ってる人?」
「いいや、まったく」
ダメだ、いよいよ降りたくなってきたよ。
発作的な動きの演技でもってコートの内ポケットへ手を突っ込む。外ポケットに入っているモノたちと違って、ここに入っているものはそこそこ不変だ。冷たい円盤の感触を数秒間得て、今度はそっとポケットから手を抜く。
「どしたの? 忘れ物?」
「肋間神経痛」
「あー、あるよね」
「無いのにね」
「異常がないのに痛むの何なんだろうね……」
少なくとも、このメイヤーという女が場にいる限りはボクの言葉が投げっぱなしのまま消えていくことはない。同じくらい口がよく回って、しかも忍耐強いリーベリの女もいる。からかう分には申し分ない口うるささを持つ妖怪もどき(ブラッドルードを本気で怒らせたら何が起こるのかについては、墓碑銘に載らない情報なので警戒する必要はある)もいるし、麗しのウルサスガール、頑張り屋さんだって今もこっちを窺っている。
それなのに──青い髪のサンクタ、しかもペンギン急便の女だなんて!
よく知ってるとも。いいや、何も知らないね。ともかく今重要なのは彼女が何者なのかではない。
想像してみてほしい。背の高い、青い髪に碧い目のサンクタだ。白シャツにモッズコートみたいなのがよく似合う。口元にはいつも薄ら笑いが浮かんでいて、頭上の光輪はたぶん五年はお掃除していないヨゴれっぷり。おまけにゴツゴツした角がこめかみにとぐろを巻いている。
こんなヤツが面白い台詞を一つでも吐けると思うかい? 無理、無理、無理、無理に決まってるね。もう一度かのご尊顔を拝ませていただく。こんなツラに生まれついたら、きっとボクなら鏡を見るたびに吐き気を催してしまうだろう。水面を覗くたびに。水仙を。水洗を。おえ
おや、紙クズみたいに白い顔だね。目鼻のかたちに墨が走っている。
胃の上部あたりからとてつもなく熱いかたまりがボクを遡上して、ついには勢いよく口から飛び出して白い水面にまろび出た。この世で五番目くらいに下品な音と一緒に。
さざ波のごとく何度か寄せては返した熱狂的嘔吐感が過ぎ去ったのを確認し、黄ばんだ陶器の冷たい椅子から顔を上げる。ラップランド、これは口から出るものを受け止めるために作られた製品じゃないよ。
はて、ここはどこだろう。少なくとも厨房ではないのは確かだね。タイル。カーテン。洗面台。鏡。ハンガーラック。そして便座。三✕四✕二・五メートルの立方体の中にボクはいて、基調は白く照明は黄色い。
要は何の変哲もないユニットバスだ。強いて言うなら各所に水垢の跡が目立つくらいで、廃ホテルのわりには取り立てて荒廃した様子もない。シャワーカーテンをめくって中を覗いてみる。
【寝る前に
ワルファリン女史がそう言った。空っぽの浴槽の底を席巻する赤黒い汚れをしばし眺めているうちに、ボクは自分がそろそろ溺れるべきであることを思い出す。シャワーヘッドを掴んでノブを捻ると、これまた赤黒い水が浴槽の底めがけて噴き出した。三十秒もしないうちに水の色は水の色に戻り、ボクは自分がそもそも服を着ていないことに気づく。
【メイヤーちゃん、ラジオゾンデくん飛ばさないって選択肢ある?】
【んー、ない寄りのある】
【じゃあ二十分でいいから二号車の車載電源貸してよ。ここの電源、規格は合ってるけど給湯器と一緒に動かしたらたぶん落ちる。お風呂入れないよー】
「それを飛ばすところ、見せてくれない?」腿の内側で濡れて黒く光るイシをなぞりながらボクがそう訊くと、背後の洗面台の鏡からメイヤーの声で【明日は八時半に厨房で集合ね】と応えた。
降り注ぐ水の一筋一筋を素肌に知覚し、谷という谷に指を滑り込ませていく。ロドスに就いてから毎日繰り返してきた所作で髪を梳き、溝や窪みを浚う。今のところこれ、これがボクの新しい人生の象徴だ。昨日までと全く同じ。なぞる度にもっとすり減って心地良いものになる。鼻の孔から水を流し込んでも、ヒトはそう簡単には溺れられない。気絶していれば話は別かもしれないけどね。ちょっと失礼。
【咳き込む音】
「うるさいな」
洗面台の前に立つと、鏡の向こう側に無敵の女が佇んでいるのが見える。身体中に貼り付いた濡髪から肌の色まで白から黒へのグラデーションだ。
「けど、そんなに悪い一日じゃなかっただろう?」
ソイツが咳の余韻に息も絶え絶えといった様子で呟くと、バスルームのそこら中から、あらゆる登場人物の声で
【おやすみ!!】
【おやすみ!!】
【おやすみ!!】
その辺に放ってあった