転生ベビーと森の魔女 作:縫畑
なんか転生した。
それが一番最初に俺が抱いた感想である。
目を開けば視界がやけに眩しくぼんやりとしている。上には天井らしきものが広がってるのだろうが色しかわからず、材質ははっきりしない。鼻に意識を集中させれば微かに茶葉の香りがする。嫌いな匂いではない。耳をそばだてるが何も聞こえない。静かな空間だ。
ここまで至って俺はようやく自分が仰向けになっていることに気づいた。何か柔らかいクッションの上のようなものに寝かされているらしい。
周囲の状況をもっと知ろうと体を動かそうとするが、首を僅かに動く程度だった。
体が動かない。
その事実から俺は電撃的に気付く。
転生したんだから赤子になってるのは当たり前のことなのだ、と。
「……」
赤子には一体何ができるのだろう。
立ち上がることすらできない身で一体何をすればいいのだろう。
仮に赤子が満足に歩き回れるようになるのを一歳だとして、自分はベッドの上で無為に時間を潰し続けなくてはいけないのか。
こんなもの、下手な拷問よりつらい状況なのではないだろうか。
俺は口を大きく開けた。
俺は叫びだしそうになった。
早く成長させてくれ、ベッドで飼い殺しにされるのは嫌だと訴えようとして。
「あいぅ……」
そのあたりで猛烈な空腹感を自覚した。
圧倒的な空腹感を前にすべてがどうでもよくなった。一年なんか適当に寝てればすぐだろう。そんなものより飯である。
さてこの身は大人の庇護なしでは生きられないのだから必ずどこかに親がいるはずだ。すぐ近くにいるのならいいが、そうでない場合は大きな声でアピールしなくてはいけない。
泣けばいいのだろうか。
この俺が泣かなくてはいけないのだろうか。
享年33歳。いい年した男メンタルで大泣きしろというのか。
「うぇ……」
いや、待ってほしい。これはハードルが高すぎる。
仮に親がすぐそばにいて、泣き声ですぐに駆けつけてくれたとしよう。親が来てすぐに泣き止んではあまりにも不自然だろうから俺は泣き続けなくてはいけない。例え不自然でなくとも泣き声が空腹のアピールと気付いてもらえるまで続ける必要があるだろう。
要するに享年33歳の男が人前で泣き続けなくてはいけないのだ。
きつい。
きつすぎる。
赤ちゃんプレイが性癖などという人間ならば喜々としてやれるかもしれないがあいにく俺はそうじゃない。
ぐるるるる、と腹が鳴る。
空きっ腹はもう限界だった。はやくなにか食わせてもらわないと死ぬぞと訴えかけてきていた。
俺はいま、命とプライドを天秤に掛けられている。
33歳の男のプライドだ。決して安いものじゃない。前世では結婚こそしていないが職場でそれなりの仕事を任せられていたし部下もいた。顧客のために下げたくない頭を下げたことはある。苦悩する同期を励ましたこともある。上司と美味くない酒を飲んだことだってある。
俺は大人だ。大人なんだ。決して赤子なんかじゃない。
およそ体感で5分。
俺は横たわったまましばらく葛藤し、やがて飢えに負け、ついに赤ちゃんプレイを敢行した。
プライドがさらさらと砂に還ってゆく音を聞きながら、俺はひとりの人間を見上げる。
目の前で揺れる長い髪。そして絹のような女の声。つまり母親である。
こいつが今生の俺を産んだのかと感慨深くなるが、しばらく声を聞いてるうちにあることに気付いて気が気じゃなくなった。
若い。
驚くほど若いのだ。
すべすべでほっそりした腕。あどけなさの残る顔立ち。高く柔らかい声。どれをとっても十代後半の少女のそれである。
未成年の女子が母親になっている。その事実は俺の精神に凄まじい衝撃をもたらし、空腹感をどこかに吹き飛ばしてしまった。
こんなまだまだ遊びたい盛りの女の子に子供産ませるなと、まだ見ぬ父親への義憤が腹のなかで膨れ上がる。
この母親には優しくしてやろう。
孝行息子になってやろう。
「□□□、□□□□」
俺は未知の言語を話しながら食べ物の準備をする母親に誓いを立て、そして差し出されたスプーンへ顔を向ける。
母乳じゃないのかと疑問を抱いたがむしろそのほうがいい。自分の半分の年しかない女子の胸に吸い付くのは抵抗感がある。こう、なんというか倫理的にすごくまずい気がする。
だから俺は安心してスプーンへ首を伸ばす。伸ばした。
そしてその上にあるものを見てビンタした。
からんからんとスプーンが床に転がる。
肉だった。
母親が俺に食べさせようとしてきたのは肉だった。
ちょっと待ってほしい。俺まだ歯が生えてないんだが。どう考えても肉なんて食べられるわけがないんだが。
「□□、□□□□……」
不満げな声を漏らしながら母親は次の食べ物を新しいスプーンに載せる。
もう一度ビンタした。
野菜ならいいってわけじゃないんだ母よ。
いかにもほかほかでいい匂いのするものでもブロッコリーっぽい物体は赤子には無理なのだ。
どうかわかってほしい。
さらにまたビンタした。
ごめんね、そのエビっぽいのも無理なんだ。決して好き嫌いの問題じゃないのをわかってほしい。
口に入れることだけは可能でも噛めないし、噛まずに飲み込んだとしても消化できない。
せめてミルクと言えればいいのだが赤子の口からは「うーうー」しか言えず碌に発音できやしない。ましてや母親が呟いているのは未知の言語だ。ミルクをなんと言えばいいかわからないのでそもそも詰んでいる。
結局俺と母親の攻防は10分近くも続き、多大なる疲労感と引き換えにしてようやく液状の食べ物を勝ち取れたのだった。
無事に食事が決まって翌々日の夜。俺はもうひとつの事実に気付いた。
短い入眠と覚醒のサイクルにより、俺は深夜や早朝でも起きることがある。腹が減ったときは遠慮なくギャン泣きさせてもらうのだが、駆けつけてくれるのはいつだって母親で、それ以外の人間を見たことがない。そして母親以外の声も聞こえない。
どうやら俺の母親はシングルマザーらしかった。
三日間。一切他人の気配がなければもう断定していいだろう。
俺は前世で結婚しておらず、ゆえに子育ても経験したことがない。だがそれでもわかる。子育てというのはとても大変なものだ。何の因果か転生して子供になったからなおのことわかる。
赤子が泣けば夜中でも駆けつけなければならず、泣いた理由を考え、空腹なら食事を出し、排泄ならおむつを替える。体を充分に動かせない俺ではたとえ食べさせられるだけであっても毎回服を汚してしまう。そうなれば着替えが必要で口も拭かなきゃいけない。入浴はまだ経験してないがいずれ必要になるだろう。
子育ては重労働だ。
とんでもない重労働なのだ。
これと並行して自分の食事や入浴、洗濯なども行わなくてはいけない。
今生の俺の母親は高校生ほどの年齢なのに、俺が充分に育つまで、毎日24時間誰にも頼らずこれを続ける運命になった。
ならば。
それならばせめて俺は精一杯育てやすい子供になってやろう。好き嫌いせず行儀をよくし、何も壊さず汚さない。健康に気を使い病気や怪我をしないようにしよう。
そして一刻も早く成長して彼女に楽をさせてやるのだ。
真っ暗な空間で俺はひととおり誓いを立てて、やがて押し寄せてきた眠気の波に誘われるまま眠りについた。