アタシは、ちょっぴりの照れを感じ…それから、涙が止まらなかった。
あのバカが、最期にあんなことを言うからだ。
『僕も…アスカのこと好きだったよ』
『ケンスケによろしく』
アイツはそう言って…そう、アイツはそう言って、アタシをあの忌まわしき赤い海の世界から送り出したんだ。
「あのバカ…、急に大人になっちゃって…悲しい別れ方してんじゃないわよ………」
赤い海のほとり、薄れゆく意識のなかで、アタシはそう考えていた。
ニアサーから14年、これまでアタシは、NERV壊滅を目的とするヴィレの一員として戦ってきた。
第9の使徒になったアタシはリリンの域を外れ、食事も、睡眠さえも不要な身体になってしまった。
リリンでなくなってしまったアタシは、第三村でヒカリたちと生活を送ることなんて、できっこなかったんだ。
ただ毎日をエヴァに搭乗して過ごし、ヴンダーではコネメガネとともに爆薬付きの小部屋に押し込められる日々。
もともとアタシにはエヴァしかない、私はヒカリたちを守るべき存在だなんて強がっていたとはいえ、ヒトの温もりを求めるようになったのは、ある意味必然だったのかもしれない。
そんなアタシの心の隙間を埋めてくれたのは、自分でも意外だったけれど、ケンケン…相田ケンスケだった。
14歳のアタシは、なんとも思っていなかったヤツ。ミリタリーオタクで、盗撮魔で、騒々しくて。でも、久しぶりに出会ったケンケンは、見違えるような「大人」になっていた。
もちろんアタシだって、中身は人並みに、いや、誰よりも大人になってるつもりだった。
それでも、第三村の住民たちから頼りにされる、メカニックにもサバイバルにも長けたケンケンに、それに驕ることなく、他人を思いやることができる大人のケンケンに、私は特別な感情を持ち始めていることが分かった。
いつかどこかの遠い世界で、「式波シリーズ」ではないアタシが、加持さんに恋焦がれていたように。誰かに父性を感じ、安らぎを覚えたたことがないアタシが、ケンケンのそばに居場所を見つけるのには、そう時間はかからなかった。
「…ケンケンはさ、誰かと一緒になろうとは思わないの?」
「なんだよ式波、急にどうしたんだ?」
「質問を質問で返すなっちゅーの。ほら、ヒカリと鈴原に先を越されちゃったじゃない、ケンケンもいい歳なんだから、何かないの?」
中学からの腐れ縁であるヒカリと鈴原が結婚したと、鈴原の妹のサクラから聞いたときがあった。アタシは、身体の成長以外にも置いていかれたような気がして、親しかったケンケンにそう尋ねたのだ。
「ふふっ、俺はいいかな。俺はこの第三村で、みんなの役に立てるようにするだけで精一杯だ」
「まーた、かっこつけちゃってさ…」
ケンケンはただ、アタシを一人の人間として、エヴァパイロットではない式波・アスカ・ラングレーとして向き合ってくれた。アタシにたくさんの安らぎを与えてくれた。
気を引こうと裸で過ごしてみたり、ちょっかいをかけてみたりしたのに、ケンケンには梨のつぶてだったのは癪だったけど。
ある日、アタシは尋ねた。
「ねえケンケン、キスしようか?」
「ん、なんだ?」
「キスよ、キス。したことないでしょ?」
あのとき、珍しくうろたえたケンケン。
「し、式波、急にどうしたんだよ。もっと自分を大切にしたほうがいいと思うぞ」
返ってきた言葉は、私が望んだものではなかった。
「うるさいっ!!何が分かるのよ、そうやって、ケンケンもアタシを見てくれないの?どうせ早くヴンダーに帰れって思ってるんでしょ!」
アタシの居場所が、アタシ自身が否定されてしまったような気がして。
「式波、俺は所詮、エヴァには乗れない一般人だ。式波の身体に起こっていることも、正直俺には想像がつかない」
「でもな、俺は、式波は式波のままでいればいいし、式波のいたい場所にいればいいと思う。嫌なことから逃げ出したって、この村にいたっていいんだぞ」
「バカね…………アタシは、エヴァに乗るしかないのよ」
「そんな悲しいこと言うなよ、式波。俺はこうやって式波がいてくれて嬉しいし、それだけで幸せだ」
どうして、ケンケンはアタシにこんなに優しいのだろう。
父親、というものがいたら、きっとこんな感じなのかなとさえ思った。
「………ありがとう、ケンケン。」
あの頃のアタシは、ケンケンのそばにいるだけで幸せだった。
そんなアタシがあのとき、まだまだガキに見えたアイツに、「お弁当美味しかった」「好きだった」「先に大人になっちゃった」と伝え、現実に向き合うように仕向けようとしたのは、きっとアタシなりの感謝と贖罪の気持ちがあったんだろう。
「14歳の頃はありがとう、でも、アタシはもう一人で歩き始めたんだ。バカシンジもきっと大丈夫、これからは、アンタも一歩ずつ歩いていけるはずだから。」って。
最後の戦いで第13号機に喰われたアタシは、赤い海の世界で、アイツと時間をともにした。
「式波シリーズ」ではない「アタシ」とアイツの記憶の中の世界。
そこでは、アイツがアダムで、アタシがイブだった。二人だけの世界だった。
あのバカはきっと、アタシのケンケンへの眼差しに気付いてあんなふうに言い残したんだろう。
あのバカがいなくなる世界で、もう、アタシが過去に囚われることのないように。
バカなのはアタシだったんだ。アンタはもう、大人になってたんだ。
あのバカは、14年の眠りから醒めてそう日も経っていないのに。
あんなセリフを吐くだなんて「ほんとにバカね」以外の感想が浮かばない。
いくらケンケンやミサト、綾波タイプの初期ロットとの交流で成長したとはいえ、ただの14歳のガキなのに。
ケンケンの家から家出して泣き止むまでは、本当に何もできない、どうしようもないガキだったのに、ね。
世界をも越えるヒトの好きという気持ちは、そう簡単に変えられるものではないはずなのに。
あのバカは、惣流の「アタシ」にも、式波の「アタシ」にも、ぎこちないにせよあんなに想いを寄せてくれているのに。
あのバカ、せっかく自分の想いを伝える最期のチャンスだったのに。
それなのに、どうしようもないバカのバカシンジは、自分の想いじゃなく、アタシのことを第一に考えてくれたんだ。だから「好きだよ」じゃなくて「好きだったよ」なのね。
バカシンジのあの優しさは、まるで14歳の、あの頃のアタシが受け止めたかのように、心の隅々に染み渡っていった。
あぁ、アタシはバカシンジのことが今でも好きなんだ。アタシの初恋の人、バカシンジ。
「式波シリーズ」の初期設定としてではなく、「アタシ」の魂にそう刻み込まれているんだ。
アタシは「好きだった」なんて強がってみたけど、あのバカシンジの優しさには、敵わなかった。
それから、バカシンジの心に触れたあの瞬間、アタシは、どうしようもないほど悲しくなった。
幸せを塗りつぶしていくほどの悲しみ。それは、バカシンジの言葉が、今生の別れの言葉に聞こえたからかもしれない。
アタシにとって、バカシンジのいない世界での居場所はケンケンのところになるんだろう。
バカシンジは、内に秘めた好きという気持ちを直接伝えることなく、それどころか「ケンスケによろしく」とまで言ってみせた。果たしてどこまでお人好しなんだろう。
それでこそ、このアタシが好きになったバカシンジなのだけれど…その思いやりは、今はただただ悲しかった。
不意に、アタシは目を醒ました。この世界でも、アタシは涙を流していた。
「知らないエントリープラグね…」
ヴィレでも、遠い昔のネルフでも見た覚えがないかたちのエントリープラグだった。
一体アタシはどこにいるんだろうかと考えていると、外からなんだか物音と声がする。
「………おい、誰かいるのか!?」
プラグの開放にあわせて、そう声がかけられた。ケンケンだった。
「本当によかった…おかえり、式波。」
「……………ただいま。」
この14年間、繰り返してきたやり取り。
「ちょっと待ってろ、人を呼んでくる」
ケンケンはそう言うと、プラグの中からは見えないところに行ってしまった。
「ケンケンがいるってことは、第三村の近くなのかな………」
「身体は動かない、か…あれだけ派手にやったものね。アタシには当然の報いよ…」
「ねぇバカシンジ…アタシね……、バカシンジにちゃんと向き合えていなかった…。バカシンジがアタシを救ってくれたのに、アタシの背中を押してくれたのに…なのに、何もしてあげられなかった………」
「ごめんね、それからありがとう、バカシンジ…」
そんなとき、この14年間で嫌というほど聞き馴染みのある声が聞こえてきた。
「姫〜っ、生きてる〜?!」
ふいに、コネメガネが顔を覗かせてきた。
「お〜っ元気そうね〜、さすがは姫!!!!」
「ちょ、ちょっとコネメガネ、耳がキンキンするんだけどっ」
「こいつは失礼。それはさておき、姫には、大切なことを伝えないといけません。真剣に聞いて?」
打って変わっていつになく真面目な声に、アタシは固唾を呑んで続く言葉を待つ。
アタシが生きてるってことは最終的に負けたわけではないんだろうけど、それだけでしかないんだ。
アタシは、バカシンジがいなくなった現実を突きつけられたらどうしよう、と身構えていた。
「ワンコ君は無事帰還しましたっ!!姫、おめでと〜!!」
アタシは、目の前の胸の大きい女が何を言ってるのか、理解できなかった。
続けて何かを喋っていたが、それさえも耳に入ってこなかったほど。
バカシンジはあのとき、最期の言葉を残してアタシを送り出したじゃない、とさえ思った。
「ふっふっふー、この私にかかれば、ワンコ君の救出くらいお茶の子さいさいってわけよ!」
「それよりも姫、あの裏宇宙でワンコ君との距離は縮まったのかい?」
我慢の限界だった、涙が溢れてきた。今度は嬉し涙だった。
コネメガネはこんな冗談を言うやつでもないし、やっぱりバカシンジも帰ってきたんだろう。
「…な、なに言ってんのよコネメガネ、そんな急にあるわけないじゃないっ……」
「ほほーう、どうやら姫はまんざらではなさそうだよ〜、ワンコ君?」
「それは嬉しいや、ありがとうアスカ」
ああ、バカシンジの声が聴こえる。
アタシの好きな人の声。
今のアタシが惣流なのか式波なのかさえ関係なく、「アタシ」の好きな人の声。
「コネメガネうるさい!」
「そしてバカシンジっ!!もうっ…もう二度と、アタシを離したら許さないんだからねっ……!!」
そして、待ちに待った顔が見えた。
「ただいまアスカ…もう離さない、ずっとそばにいるから。」
「おかえりっ、バカシンジ!!」
このときのアタシの顔、嬉し涙でぐちゃぐちゃになっていたとコネメガネから聞いて、顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えてる。
最後の戦いから3年経った今、アタシの身体は、ちゃんと3年分成長していた。赤い海の世界から戻ってきたとき、左目の傷がなくなっていたから、まさかとは思っていたけどさ。
今は完全にリリンの身体に戻っていて、ごはんが美味しいし、毎日ちゃんと眠れている。
今日は電車に乗って、第二村まで出かけることにしていた。
「だーれだっ」
ホームのベンチに腰掛けているアタシの好きな人に、後ろから目隠しをして尋ねてみた。これは、より仲良しになるためのおまじない。
「蒼い瞳の、いい女」
あの頃からだいぶ声変わりした、落ち着きのある声が返ってきた。
「バカシンジがこんなに立派になるなんてねぇ」
「アスカは昔からかわいいね」
バカシンジにかわいいと言われると、どうしても頬を赤らめてしまうのが最近の悩みだ。アタシの扱い方が、どんどん上手くなっている気がする。
「ふふっ…行こう、バカシンジ!」
「うんっ、アスカ!」
アタシとバカシンジは、手を取り合って歩き始めた。
今日も、いい日になる予感がした。