目の前には、四角い黒い箱がある。上面には貯金箱のように細長い穴が開いており、下面にも同様の穴がある。大きさは自分の背丈よりも大きいようで、手のひらよりも小さい気もする。
否、この箱の大きさには意味がなく、また箱と評しているのも自分のイメージに過ぎない。
重要なのは中身であり、中身を直視したらきっと死ぬ。自分が自分ではなくなる。
それを防ぐため「箱」というフィルターをかけて中身を直視しないようにしているだけだ。
この
そう、今でなくとも一成は無意識にそれを行ってしまっていたのだ。
碓氷の地下室で、古びた箱と写真という入力から視えた「過去」。ホテルの廊下の景色という入力から視えた「過去」、そして先程アーチャーとその心象風景という入力から視えた「予測された未来」。
この「箱」の中身は何なのか。決して覗いてはならず、覗こうにも今の一成では決して敵わないもの。視えた「過去」「未来」は、全てこのブラックボックスから吐き出された欠片に過ぎない――ならば、この中身は、陰陽師の言葉で言えば。
全ての始まりであり終わりである、陰陽五行。
ならばそれは易々と一成ごときが触れていいものではない。アーチャーに殺される前に、その魔術を使えば、それに自滅するかもしれない。
だが、このアーチャーの世界において何もしなければそれでも死ぬ。
だとすれば、選ぶ方は決まっている。
自分が未だこの戦いに身を投じているのは、あの
*
「――何故、立っておる」
アーチャーは一成の遥か上空――寝殿造の母屋の屋根からつぶやく。宝具『
この世界で起きることは、並外れた幸運値による因果の逆転、さらに過程の省略。アーチャーがこの世界で「こうあれ」と言霊にした物事はまずその通りの結果をもたらす。そして単なる因果の逆転であるならば、その結果をもたらす「経過」をこなさねばならないが、ことアーチャーに限ってそれは不要である。つまり、アーチャーが口にした言葉はすなわち事実となる。
今のように「この矢、当たれ」と言えば、まず矢が当たる。因果の逆転なら「道長が弓を放つ動作」も必要とされるが、経過の省略によりそれは不要となる。
それに従えば――一成は、矢を受けて地面に倒れていなければならないのだ。
そして、今貴族の邸宅の広大な庭に立つ一成は見事に立っていた。その右腕に矢が刺さっていたが、腕ゆえに一成はまだ戦うことができる。
其の時、一成はやっと矢が刺さったことに気づいて呻いた。
「―――ッ!!」
「このくらいなら抜くぞ!我慢しろよ!」
「ぅああ!」
刺さった痛みと、それが引抜かれる痛みは同時。アサシンによって抜かれた矢は地面に転がり、一成は腕を抑えた。
「――――って、アサシン?何で生きてんだお前」
「気づくのが遅せえよ!!なんでってお前が令呪を使ったからだろうが」
一成の右の甲を見ると、確かに令呪が残り一画になっている。はっとアサシンが倒れていた場所をみると、そこには数十本の矢が刺さった丸太があるだけだ。忍者でもあるアサシンが、令呪の補佐で使用した変わり身の技だった。
「つーても令呪がなけりゃマジで死んでたと思うけどな。あの補助がなけりゃ、あんな高速で身代わりなんてできねーや」
「あいつの宝具……幸運EX……!」
「ここは私の世界。私の思い通りになるのは当然であろう――しかし、一成、そなた何をした」
すっかり様変わりしたこの世界。桜が咲き誇り、満月の浮かぶ黒い空。温かい夜の春風も、今や少しの慰めにもならない。屋根の上に立ったまま、アーチャーは優雅に扇を口に当てて隠しているが、その視線がこの上なく厳しい。
しかし、一成はアーチャーに答えない。彼にも説明できず、これからアーチャーを打ち破る打開策があるわけでもないのだ。
――唯一の望みは、固有結界なら持って数分。
固有結界は魔力の量が十分があろうと長持ちしない。現実は、ありえない幻想の世界を許容しない。現実を侵食する魔術は世界からの修正力を受けて崩壊する。
答えぬ一成を見て、アーチャーは時間が限られているもあり其れ以上問うことはなかった。
――このままでは再び「言挙」が来る。何か手は、何か手はないか――一成は必死で彼らの交戦に目を向け、凝らした。
「――――!!」
目の前を走る閃光。青光りのような光の後に、一成の知らない映像が目に映り脳へと伝わる。右から左、下から上に縦横無尽に襲い掛かる光景はどれもこれも――アサシンと自分の死を示していた。
体中を射抜かれて死ぬ。
刀でなます切りにされて死ぬ。
外傷はないが何かしらの傷を受けて死ぬ。
だが視界の端に、一成は妙なものをとらえた。
「……キリエ」
見てて気持ちのいい映像ではない。それどころか信じたくない未来の映像。――しかしこの映像が正しければ、この世界は思う以上に早く終焉を迎える。だがそれでも自分たちは危険にさらされる。
手は、あるのかもしれない。黒い箱が視える。だがあれを使うには、ふさわしい入力がなければ手が付けられない。
今一成の視覚や聴覚等の五感を入力として、「黒い箱」から最も可能性の高い未来をはじき出している。自分の望む未来を測定しているわけではなく、それはやり方だってわからない。
このままではやられる。だがどうすればいい。アーチャーを倒しうるだけの力を「眼」で「箱」にアクセスして引き出すためには、引き出す為のキーが必要だ。
こんな力、これまでつゆほども知らなかった一成がするにはわかりやすく直接的な入力でなければ、アーチャーに能う出力は得られない。
しかし、その思考をすっとばして一成はすでに実行してしまっていることに気付かない。絶対に死ぬわけにはいかないと強く思う彼は、複雑な思考を置いてその神秘に手をかけていたのだ。
ゆえに、一成は思考によって、今やっと気づくことができた。土御門家。千年を数える魔導を紡ぐ一族、その血脈の末が
この体は遠く落ちたとはいえ千年の昔、魑魅魍魎が跋扈する魔の都において、名を馳せた稀代の陰陽師の血肉。
――出来損ないが、千年前の陰陽の術理を使うのだ。
迷う時間はない。一成は、この戦いで負けるわけにはいかないのだ。次の瞬間、彼は顔を上げてアサシンの腕を掴んでいた。それと同時に、アーチャーの口が動いた。
「アサシン!とにかく俺の言うとおりにしてくれ!!」
「ハ?」
「――この矢、中れ!!」
「アサシン右に五歩!急急、如律令!!」
一成は勢い任せにアサシンを連れたまま、前方斜め左へと跳んだ。それと同時にいつもの詠唱を唱え切る。防壁を張るのかと思いきや、何も展開されない。普通の防壁を張ろうと、あの宝具は結果を呼び寄せるモノであり、避けることは不可能なのだが。
一成とアーチャーの言葉は同時、もしくは一成がやや早いか。全く意味がわかっていないアサシンは、とにかく一成の言うがままに身を護る。
ガラスが砕けるような甲高い音が響き渡った。十数本の矢はアサシンの体に突き刺さり、彼は苦悶の声を上げ――なかった。
「……?どういうこった??」
アサシンの体に矢は刺さっている。だが、心臓を貫くわけではなく一成に刺さったのと同じように腕や足で致命傷ではない。アサシンは一成とアーチャーを交互に見た。
しかし、動揺はアーチャーも同じであった。
「――二度あることは、偶然ではない――」
結果を先取る矢がしくじることはありえない。この世界でアーチャーをから逃れうる者がいるとすれば、相手もアーチャー同様の強力な幸運値を持っているか、固有世界を斬る力を持つか、もしくは。
「――それはあるまい!もう一度――この矢、」
「アサシン、もう十歩後ろに下がれ!急急、如律令――――!!」
再び叫びが交錯し、アサシンはわけのわからないまま一成のいうがままに行動する。一成は斜め後方という全くわけのわからない場所に目を向け、詠唱を成す。そして再び同様に、アーチャーの矢によって砕かれる。そしてやはり矢が刺さるとはいえ、急所ではない。
アーチャーの疑念は確信へと変わる。
「そなたが莫大な幸運を持つのはあり得ぬ。この世界はあるのだから世界を斬るわけでもない――ならば、同じく因果を操作しておるのか―――!?」
「方違えは、お前にも馴染み深いだろ――!!」
陰陽道において、方忌みという概念がある。向かう方角の吉凶を占い、その方角に大将軍・太白神・天一神・金神の蟠踞する方角を凶方とみなすことである。その凶方に進むことを方位を犯すというが、例えば金神の方角は方位を犯せば七人の死者が出るとされる。
方違えとは、方忌みの方向へ向かわねばならないときに、一度余所へ移動・滞在してから目的地が凶方にならないような位置から出発することを言う。
さらに陰陽道の術技においては、『幸運な方位』を利用して結界を構築する・あえて凶方の力を用いて呪詛となす用法がある。
一成が今行っているのは前者の結界構築である。ただ通常の結界とは異なるため、目に見える形をとっていない。わずか数歩の異動で方角を変えたとみなさせ『幸運な方位』へと変換し、短期的に因果律へと干渉する結界。
それにより、一成とアサシンはアーチャーの死の言霊をぎりぎりで回避しえている。一成は攻撃する気はない。とにかく時間を稼ぎ、この固有結界をしのぎ切ることだけを考えている。
「あり得ぬ」
アーチャーの驚愕は道理である。因果律に干渉する魔術・呪術は存在し使い手も存在する。だが、未熟である一成の相手は人間を超えたサーヴァントであり、かつその必殺の武器と言える宝具による因果干渉である。
それが因果を捻じ曲げる強さと、現代の未熟な魔術師が因果を曲げる強さ。どちらが押し勝つかなど、火を見るより明らかであるのに――未熟な陰陽師の結界は確かにアーチャーの言霊と渡り合って防御の体を成していたのだ。
そしてアーチャーは、かつてのマスターの手並に別人を幻視する。己が表の朝廷を統べる貴族の頂点であったとすれば、裏から京の都を守護する陰陽の守護者。
「おい、よくわかんねーけど、お前それ大丈夫なのかよ!?」
奇しくもアサシンの懸念と、アーチャーの疑念は同時であり内容も同じだった。詳細はわからないまでも、一成が通常以上の力を発揮していることくらいはアサシンにもわかる。無茶は後で絶対につけがくる。
「ああ!平気だ!今なら世界だってひっくり返せそうな気がするぜ――!!」
魔術師は回路を回して回して、回し続ければ奇跡にも手が届く。たとえ術者の体がどうなろうとも。
一成の既に体は悲鳴を上げ始めている。肉は確かに千年の魔導を受け継ぐモノであっても、その術技のレベルは常に使うものとは天と地ほどの開きがあり、魔力の消費も尋常ではなかった。体を巡る高レベルの術技は血液を沸騰させ正常な思考を失っていく。それでも術の冴えだけは鈍らず、一成は笑った。
と、その時、ほとんど意識を刈り取ろうとするかのような一撃が首に落ちた。回避の指示に従うだけで余裕のあったアサシンの一撃だった。
「何が世界をひっくり返すだ!アホか!しっかりしやがれ!」
「……っつ!」
我に返った一成は、勢いよくアーチャーの向こう側、中天にかかる月を見上げた。体は燃えるように熱く、すでに手足の末端がしびれていることにようやく気付いた。それでも一成は、術の行使をやめず、かつ小さくつぶやいた。
「っつてーな……けど、多分、あと少しなんだ」
「お前、いったいどういうこった」
再度アサシンが問いただそうとした、その時――このアーチャーの世界に変化が起きた。
月の照り輝く美しい夜に亀裂が入る。桜が舞い散り、芳醇な香りが人を酔わせていた夜が歪む。怪訝な顔をしていたものの、まだ余裕を持っていたアーチャーの顔が、初めて焦燥に染まる。言霊は途切れた。
「なっ、まさか姫……!!」
満月の夜が崩壊する。浩々と輝く白い月が天から落ちて、馥郁たる香りは雪崩れ込む瘴気でかき消されていく。肌を刺すような風が吹きすさび、ガラスが砕けるのに似た音と共に、どういうわけかはわからないまま、この世の春は終わりを告げた。
あまりにも急な世界の終わりは、ある状況の変化を示唆する。単独行動のスキルを持つアーチャーと言えど、宝具の行使にはマスターのバックアップが必要になる。そのうえ固有結界と言う大魔術は、それそのものが魔力を大幅に使う。
つまり、――マスターであるキリエの身に、何がしかの異変が起きている。
「隙ありィ!!」
アーチャーの動揺をよそに、固有結界から解放されたアサシンは褞袍から十丁の火縄銃を引き出す。
一瞬にて発砲準備を整えた其れを一斉にアーチャーに向け、放つ。虚をつかれたアーチャーは避けきれずにそれを食らった。耳を聾するごとくの爆音を響かせ、火薬の匂いが漂う。アサシンは鉈を取り出して、一成を抱えたままアーチャーに迫る――!
だが、一成は何かの異変を感じた。地面が揺れている。今の視界を入力として少しだけ先を覗き見るやいなや、彼はアサシンを止めるべく叫んだ。
「アサシン、アーチャーはいい!できるだけ高いところへ、」
しかし、その声はアサシンの耳へ入り、その通りの行動をさせるには少しだけ遅かった。
アーチャーの宝具が破れ、キャスターの作り上げた禍々しい魔力が満ち満ちるはずだが、それとはまた違うもの。みしみしと地面が唸っている。なにか山そのものが蠕動しているような感じ。
キャスターのクラススキル、陣地作成により生前の根城――大江山と化したこの山は豊かな霊脈を吸い上げ、山が回路となり魔力を生み出しキャスターに供給している。今や山自体が魔術回路と化していることを、アーチャーは知って居る。
しかし、一成のいう意味を彼は知らなかった。
「アサシン、逃げるんだ!!早く!!これセイバーの宝具だ!!」
その時、山の上から爆発音が轟いた。同時に地が跳ねた。それに顔を上げたサーヴァントたちが見たものは―――圧倒的神威とともに迫りくる荒れ狂う龍の如き、熱湯の激流だった。
山に津波。月光を覆い隠すほど黒々とした壁のごとき龍が雪崩を打つ。一成もこの激流に捲き込まれたら命はない。
ありえない光景と、そのあまりの突然さに、アーチャーも回避行動をとれずにその激流に捲き込まれる。両者を巻き込み水でありながら、あらゆるものを干上がらせうる熱量を持った濁流が山を破壊しつくしていく。
どれだけ押し流されたか、どれだけの神威に焼かれたか。アサシンの意識も、アーチャーの意識も、そして一成の意識も激流に飲まれていく。
一成の先視(未来視)のレベルは使い方がそもそもわかってないので、イメージ的にはサーヴァントの直感:Aに毛が生えたくらい