Fate/beyond【日本史fate】   作:たたこ

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12月7日⑨ イマジナリ・ドライブ

 轟々と風が通り過ぎる音だけが世界だった。自分が寝そべっているのは、何か金属のようなものの上。

 いや、それにしては妙に暖かく、心地の良いところだ――しかし、突如激しいノイズが脳裏に奔り、明は意識を覚醒させた。真っ先に眼に入ってきたものは、月。

 それは地上から見上げるよりもずっと大きい。つまり、今明は何かに乗って空を飛んでいるのだ。

 

 

「……ッ!?」

 

 明は反射的に床を転がって今の場所から離れ、膝をついて起き上がった。月光の元に立っているのは、美しい金糸、白い肌。昼間よりもなお立ち姿に凄味を漂わせる――シグマ・アスガード。

 

「……弾かれちゃった?」

 

 船の全体は白く輝き、月明かりでさえ不要なほどの明るさを持っている。

 記憶が戻ってきて、シグマに操られているハルカにとらわれ、腹に一撃加えられて気絶していたことを思い出した。腹部の鈍痛はその名残であろう。

 

 ふらふらと立ち上がったはいいものの、その瞬間にここが地上から遥か高所であることに明は気づいた。この船――ライダーの宝具の形は鳥であり、戦艦や客船のように人が内部に入るカタチのものではない。つまり眼を他にやれば、暗闇ではっきりと視認できるわけではないが、ここが高所であると実感できてしまうのだ。

 

 

「そんなに嫌わなくてもいいじゃない、明ちゃん」

「シグマ・アスガード……あなた、何者なの?」

 

 明の声が震えているのは、目の前の魔術師に対する恐怖ではなく――この場所のせいだった。極力脇見をせず、シグマだけを見るようにする。同時にシグマの後方に控えて微動だにしないハルカ・エーデルフェルトに注意を払った。

 

「何者だなんてさびしいわ。私と貴方、赤の他人じゃないのに」

「……もしかして、くらいにしか思っていなかったけど……」

 

 明に確信があったわけではなかった。しかし、そのファミリーネームには聞き覚えがあった。

 

「……アスガード。アースガルド。かつて分裂する前は、北欧神代の遺物を遺し続ける大家」

 

 その言葉を聞いて、シグマは大仰に手を広げた。「ちゃんとわかっているじゃない。私とあなたの大本は同じなの。分裂した大家で、私の家、アスガードが北欧に残って、今は碓氷となったあなたの家は日本に来たのよ」

 

 私も聖杯戦争が始まるまでちゃんとあなたのことは知らなかったのだけど、とシグマは軽く言いながら立ち上がった。紺色のロングスカートを捌いて、あくまで華麗な所作である。

 

 

「殺すでもなく、なんで私を狙うの」

「私の魔術的な問題よ。生きていたほうがいいの――あら、戦う気かしら」

 

 シグマが手練れの魔術師であることは、明も察している。そして大本が自分と同じ魔術師なのだから、得意とする魔術も見当がつく。それは逆に、明の手の内も読まれやすいということだが。

 

「貴方自身が戦うの?そこの傀儡にしたハルカ・エーデルフェルトじゃなくて」

「ハルカちゃんを操ったことが私のすべてと思わない方がいいわよ。それだけなら、私は封印指定なんてされないで、わざわざ協会の眼を避けてここまでこなかったもの」

 

 封印指定とは魔術協会が判断した、希少能力を持つ魔術師に与えられる称号である。対象は一代限り」であり、「学問では習得できない」もの。つまり、その魔術師の死と共に失われ、他の手段では再現できないものである。

 

 その希少能力を永遠に保存するために、対象の魔術師を「貴重品」として優遇し、「保護」する。しかしそれは名目にすぎず、実際は一生涯幽閉し、その能力が維持された状態で保存する。言ってしまえば、ホルマリン漬けの標本にして飾るのと変わらない。

 

 封印指定されると、研究を続け次の段階を目指すこと(根源に至るための研鑽を積むこと)ができない。魔術師である以上、次の段階を目指せないのでは魔術師である意味がない。よって、封印指定を受けた魔術師は協会から失踪し、身を隠すことになる。

 逃亡しても、協会はその魔術師が神秘を一般に漏えいすることをしなければ放置する。対象がさらにその術を極めるのであれば、魔術のサンプルとして言うことはないからだ。

 

 だが、逃亡し研究を続ける魔術師が神秘を漏らさず研究しきることも少ない。よって聖堂教会による異端狩りが行われて貴重な研究が灰にならないよう、「神秘の秘匿」「魔術師による魔術犯罪の隠蔽」のために、最終的にはエージェントを派遣することになる。

 

 確かにここ日本は、時計塔から遠く離れた地であり協会の眼がとどきにくい。何かを画策するには適した地であるといえる。

 

 しかしシグマが封印指定であると知ったところで、状況をどうにかできるわけではない。明は腰を沈め、いつでも対応できるように構える。

 今時点ではシグマは明を殺す気はないのだろう。だが、この船はそのうちシグマたちの拠点へと向かうに違いなく、明は背筋を這いあがる悪寒を止めることができなかった。

 

 ただここから逃げるにしても――眼下に映るは、米粒のような微かな街の明かり。ここから飛び降りるには重力操作に頼ることなになるが、ここは余りにも高すぎて相当高度な技術を求められる。

 かつ、明は高さに竦む。夜ゆえに高さが分かりにくいのだが、夜ゆえに闇は奈落の底まで続いているようにも思えた。

 

 ――セイバーは?

 

 セイバーは間違いなく生きている。彼がマスターである自分を放っておくはずはない。明は視線だけそれとなく深い闇に投げかけてみたが、光も何も視えはしなかった。

 

「セイバーなら、今頃ライダーと戦っているはずよ。だから、あんまり助けを期待しない方がいいわ」

「……っ」

 

 明はセイバーの力を良く知っている。彼は戦闘力にかけては無二の強さを誇るが、決して無敵ではない。

 

 重い緊迫感が船の上に漂っている――そう感じているのは明だけだが、彼女はあることに気づいた。鳥船はシグマらの拠点へ向かっているのだろうと思っていたのだが、様子がおかしい。どこに進んでいるわけでもなく、同じ場所を旋回しているように思えるのだ。

 

 思えば、この宝具の持ち主であるライダーは不在である。流石にこれをシグマが操縦しているとは思えない。とすれば、この船はライダーが戻ってくるのを待っているのだろうか。

 

 シグマやハルカから距離を取ったまま、明は念話でセイバーに状況を聞こうとした。だが彼も必死の戦闘を重ねているのか、明の呼びかけに大丈夫としか返してくれなかった。

 

「そんなに警戒しないで。殺さないって言ってるじゃない。私、明ちゃんのことは結構気に入っているの」

 

 全くうれしくない言葉を吐きながら、シグマは変わらずに笑っていた。

 

「ハルカちゃんや神父から聞いているのよ、あなたのこと。折角魔術師として優れた素質を持っているのに、中身が追い付いていない、合っていないの。その軋轢に苦しみながら、それでも全てを捨てきれない中途半端な女の子。ま、その不安定さは、虚数使いとしての力を育む上では最も優れているかもしれないけどね」

 

 明はしかとシグマを見つめつつ、自らの記憶を掘って思い出そうとしていた。碓氷は日本という遠く離れた土地に馴染み、元本家のスウェーデンに絡むことはもうほとんどない。

 

 しかし大本の家が、神代から何の魔術をもっぱらにしてきたかを知っている。

 

 北欧の降霊術セイド。ヴォルヴァと呼ばれる巫女によって成される神落とし。けれど、この業そのものは歴代に伝授されるもので、一代限りで再現不可能の業ではない。ならばシグマが封印指定たる理由は、他にあることになる。

 

 今のところ、シグマに敵意は見えない――否、今まで彼女は一度も明に対してそのようなものを見せたことはないのだが。

 

「アスガード……あなた、ハルカ・エーデルフェルトとの関係は?」

「?関係なんてないわよ?封印指定が鬱陶しくてこっちに来ちゃったけど、元は北欧で魔導の実家もそこだから、時計塔にツテがあるの。そこから聖杯戦争の話も聞いたし、ハルカ・エーデルフェルトが派遣されることを知ってそれだけ」

 

 日本の英霊しか呼ばれないという聖杯戦争ならば、召喚に使う触媒も日本で調達すべきであり、そもそも召喚自体は大聖杯のある土地でしかできないのだから――来日した時のハルカ・エーデルフェルトは身一つで、血縁はない。持っていたものは戦争用の礼装以外は令呪だけ。

 

 ハルカを襲撃してその身を奪ったシグマは、ハルカを意のままにあやつりランサーを召喚させ影から聖杯戦争に加わっていた。ハルカの体そのものは死んでいない――死んでいれば令呪が大聖杯に回収されてしまう――ため、傍から見てハルカ・エーデルフェルトは正しくマスターにしか見えなかったのだ。

 

 

「記憶を読んで、かつてのハルカちゃんそのものみたいに振舞わせてたつもりだったのだけれど――神父とハルカちゃんが古い知り合いだったことからぼろが出てしまったわね」

 

 笑うシグマだが、明は全く笑えない。明は彼女が呑気に語る内容から、シグマの魔術の程を考察しているが納得がいかない。

 結局本物のハルカ・エーデルフェルトがどのような人物であるのか明にはわからずじまいであったのだが、彼とて戦争に相応しいとして送られてきた人物である。腕の立つ魔術師であることは想像に難くない。

 元々魔力を帯びたモノへの干渉は難しいというのに、一流の魔術師を生かしたまま操れるということは、高位の洗脳か催眠の使い手か。しかし碓氷の大本となった大家は、そういった魔術を得意としていたことはない。神落としも関係がないように思える。

 

「……っ!」

 

 そこまで考えて、明の思考は止まった。シグマが何かを仕掛けるという外側の問題ではない、明の内側の問題だ。魔力が吸い出されていく感覚は、セイバーが宝具を使用していることを如実に教える。ライダーとの戦いはどうなっているのか。

 明の回復を優先させるためまだ魔力が回復しきっていないセイバーがこれ以上宝具開帳すると、現界自体にも関わってくる。

 

「あら、セイバーとライダーたちに動きがあったのかしら。明ちゃんけっこうわかりやすいんだから」

 

 先程も述べたが、この鳥船はライダーを待つかのように美玖川上空を旋回している。そしてセイバーの状態を気に掛ける明は、自分とセイバーの距離がそう遠くない場所にあることを理解した。

 おそらく、彼らもこの美玖川周辺で戦っている。明はシグマとの距離を取ろうとするが、退いた分だけ相手も足を進めている。

 

「聖杯戦争については最初は本当に願いを叶える、根源に至れるほどの代物なのか見定めて食べれるなら食べるつもりだったけれど――碓氷を見つけるとは思っていなかったし、虚数なんて珍しい属性は回収しておくにしくはないし」

「……もしかして、今碓氷の屋敷を襲っているのは」

 

 先程、ライダー襲来直前に感じた衝撃。あれは、明やセイバー自身の不調ではない。

 春日の管理者碓氷は、この土地の霊脈を押さえて管理している。そしてその霊脈の結節点があの碓氷邸であり、その屋敷には碓氷がここに移り住んで以来の結界が張られている。

 明が魔術回路に受けた衝撃は、その結界が破壊されたことによるフィードバックである。そこいらの魔術師に破られるほど、この土地に根付いた碓氷の結界は柔ではない。しかしライダーのあの断絶剣をもってすれば話は違う。あの剣は自律宝具の側面もあり、その上ライダーは最初空手で姿を現したではないか。

 

 狙いは何か――聖杯の娘、キリエスフィールか。大西山で彼女を捉えたはいいが、事故で逃がしてしまったのだろうか。

 

 シグマは美しい顔に蕩けた笑みを浮かべたまま、続けた。「それに碓氷は三百年前の大お家騒動で分裂した際に、こっそりと礼装を持ち出したんでしょう――?」

 

 ――セイバーを召喚してから数日後、明は父から鍵を送られた。それはある礼装を保管している箱の鍵である。暗に父から使っても構わないと言われているのだが、反面厄介な事柄が多いものだ。それでも魔術師一般から見れば、その礼装は飛びぬけて価値のある遺物――それを知っているということは、実に認めたくないことに本当に明と遠縁であることを物語っていた。

 

「……あなた、神父と組んでるみたいだけど、叶える願いはどうするの。神父だって願いがあるのに――それとも、魔術の力量では神父よりあなたが圧倒的に上だから、神父も殺すつもり?」

「最初はそれでいこうと思ったけれど、今はわからないわ。殺すかもしれないし、あの願いに尽力するかも。どっちでもおいしいことに気づいたから」

 

 にこやかに笑うシグマ。今のところ、神父と聖杯を巡って不和を起こしていることはなさそう――神父より優れた魔術師であるが故の余裕か――である。明はセイバーに呼びかけてみたが、返事がない。一体どんな戦闘状態にあるのか気にかかる。

 

 大人しくしていれば、シグマは何もしないかと言われれば否だろう。明が目覚める直前に感じたノイズは、魔術干渉によるものに違いない。碓氷の体質は他家の洗脳・催眠の魔術に対し強い抵抗力を持つ――もしそれがなければ、今頃明はどうなっているかあまり考えたくない。

 

 しかし戦うにしても、ここは明にとってかなり不利な立地である。そもそも高所が苦手な上に、戦うにしては手狭で落下防止の策もない。

 

 ならば飛び降りて逃げることを考えるが、もっと無理だ。明は思う通りの魔術行使ができず失敗し、コンクリート同然の水面に叩きつけられるのがオチである。

 

 

「殺さない」という言葉は、殺さないだけでそれ以外の全てはする、と言っているも同義である。

 

 

 高所の強風にあおられたシグマのロングスカートが翻る。「大丈夫、落ちそうになっても助けてあげるから――」

 

 その言葉と同時に現れたのは、刃渡り八十センチから九十センチほどの細長い剣。聖堂教会代行者の武器、黒鍵に酷似している。

 柄だけ実体で持っていて、刀身は魔力で練り上げているようだが――「ハッ!」

 

 広くはない船の上にもかからわず、シグマは躊躇することなく黒鍵もどきを掲げて床を蹴った。爆発的な推進力を持っていたが、決して防御できない速さではなかった。

 黒鍵の剣は魔力で生成されているから、影の盾で分解し崩すことができると頭では理解していた。しかし明はそれを実行に移すことができなかった。

 

 空を裂いた細い剣は、何一つ障害に阻まれることなく――やや上方から明の左肩を貫き、そのまま勢いと重力に任せて船の床に明を叩きつけた。

 

「ぐ、っ―――!!」

 

 叩きつけられた衝撃で、一瞬明の身体は跳ね上がった。貫通して床深くまで突きささった剣で、明は標本の虫のごとくに縫い付けられる。急きょ右手に魔力を集め、影を纏わせて剣を掴む。剣の魔力は分解されて霧散したが、立ち上がるよりも早く二本目の黒鍵が右肩を貫き、再度床に明を縫いとめていた。

 

 剣を手に、明を跨いで仁王立ちしているシグマ・アスガード。背後に月光を受け白い光の輪郭を纏う女の姿はあまりにも美しかったが、明の頭の中はそれどころではなかった。爆発的な――セイバーの魔力放出にも似た推進力を使用し、黒鍵を叩きつけてくる戦闘スタイルはあまりにも見覚えがありすぎた。

 

 

「あ、なた、それ」

 

 最後に彼女の姿を見たのは、もう十日以上の前の話。神父が教会で、聖杯戦争の開催を告げた時。いつもきびきびと働く、シスターというよりはキャリアウーマン然とした女性。

 

 神内美琴。九州は示現流の使い手たる彼女の戦闘スタイルではないか。

 

 

 ……実を言えば、考えないわけではなかった。神父が明らかな背信を示したということは、彼女も養父やシグマとともに何かを画策していたのではないかと。

 ただ明は人を見る力を養えていないなりに、神父よりも美琴に信を置いていた。魔導の徒と教会の信者ということもあり、それに気が合うとは少々言い難かったが――彼女自身は善良で、明になにくれと良くしてくれていた。

 

 自分がずっと欺かれていただけならまだいい。しかしもし彼女が真面目に監督役補佐の役目を全うしようとしていたのにも拘らず、神父とシグマの企みに巻きこまれていたのだとしたら。

 

 

 明の顔色を察したシグマは、笑っただけだった。さらに増やした黒鍵を、勢いよく明の足にも突き刺そうとしたが、それよりも我に返った明が影で右肩の刃を破壊して上半身を跳ね起こす方が早かった。

 起き上がった勢いのまま、シグマの股を潜りぬける形で床を転がり体を反転させて、シグマへ振り返った。すかさず飛んできた豪速の黒鍵を避ける暇はなかったが、魔術なら分解して消し去ればよい。

 

Varjokilpi(影は盾)!!」

 

 魔術回路を高速で回し、虚数の影を盾に展開する。刀身はあっという間に虚数の平面世界へと引きずり込まれて消失する。何故シグマが美琴の魔術だけではなく示現流まで使用できているのか、それが彼女の起源もしくは封印指定の所以なのか。

 正直美琴の術だけを使ってくるのであれば、どうにかできるだろうがそれだけとは思えない。弾幕のように投擲され続ける黒鍵を消し続け、その影の壁を盾にして今のうちに刺す――!明が意を決して地面を蹴った時、全く意図しない声音と衝撃が走った。

 

 

「急急如律令――」

「!?」

 

 この戦争で聞きなれた詠唱。しかし決して、明と大本を同じくするシグマが口にするはずはない過程。明は反射的に急停止して横に跳ぼうとしたが、それよりも黒鍵が飛ぶ方が圧倒的に速かった。陰陽術の工程を経た黒鍵が、易々と影の壁を突き破る!

 

 端からシグマは明を殺す気はないのだから首や心臓は狙っていないが、それでも爆速の黒鍵は、明の鎖骨下に激突してその体を易々と吹き飛ばした。息がとまるほどの激痛に苛まれながらも、明は今までの投擲がすべて今の一撃のための布石だと理解した。

 

 呪術に近い性質を持つ陰陽術は、自分の身体を組み替えて実行する物理現象。魔力を分解する影は、陰陽術の加護をえた黒鍵を素通しさせていた。

 

「ぐぅ……!」

 

 右肩に激突した黒鍵は、そのまま明の身体を吹き飛ばした。ここが地上であれば、明は痛みに耐えてどうにか受け身を取れればいい。しかし――

 

 

「っ、うぁあああああ!!」

 

 減速することなく、明の身体は光り輝く船から大きく飛び出した。眼下には闇と、月光を反射する水面の漣。遠くに春日駅前周辺の都市の明かりがちらつく。

 

 今の明を襲うものは、既に両肩を貫く激痛でもなく、落下して死亡する恐怖でもなかった。

 

 かつて見逃して喪ってしまったもの。二度と戻らない過去の幻影。泣き叫んで手を伸ばす姉の姿。「明、ごめん、」

 

 思考が漂白されていく。目を開けたら、また大事な何かが失われている恐怖。

 大事な人が、己のせいでどこにもいない。

 

 ……ああ、でも、もう私のせいで死ぬ人などいない。

 聖杯戦争で戦って死ぬのなら、言い訳にもなる――だけど。

 

 ――今、自分から流れ出ている魔力はどこに行っているのだ?

 

 

 まだ、戦っている。

 共に戦うと誓った人が戦っている。

 今自分が目を瞑って諦めてしまえば、彼が死ぬ。

 

 

 ――今、セイバーをこのまま死なせるわけにはいかない。この瞬間目を瞑って諦めたら、再び目を開けられたとしても、二度と立ち上がれない気がする。

 

 しかし、明が水面へと落下することはなかった。無重力状態から落下へと移り変わる刹那に、その右手を何者かにつかまれていた。もちろん、シグマにだが。

 

 底なしの闇を眼下に宙ぶらりんの状態で、明は下をみないようにしてシグマを見据えた。

 

 

「……何をする気。私に、それに聖杯に」

「明ちゃんは私の糧に。聖杯は新たな私の糧を集めるために。聖杯が穢れていても、願いが叶うことに変わりはないし」

「聖杯が、穢れている……?」

 

 

 シグマは予想外、という顔をした。「あら、それも知らなかったの?そっちに聖杯の娘がいるのに……聖杯の娘(アインツベルン)にとっては第三魔法さえ成就すれば、穢れていようがいなかろうが関係ないものね」

 

 明が彼女の言葉を考察する暇はなかった。シグマは空いた左手で明の頭に触れる。何をしようとしているのかは、直感的に察した。

 シグマは今ここで明を殺す気はない――だが、逃がす気もさらさらないとくれば。

 

 強風に髪を煽られたシグマの顔は笑っている。

 

Die enge, der Wille(閉じよ、その意志)

 

 明の脳裏に閃光が走った。洗脳の魔術だが、碓氷の体質は血縁以外の魔術を強力にレジストする。しかしこれは先程明が寝そべっていた時よりも遥かに強力に、魔力を込めた干渉――!

 

「……ッ!!」

 

 明は急きょ身体強化を上半身にかけ、シグマの両腕を振り払おうとした。しかし振り払えばこの体は真っ逆さまに落ちていくことを思い出す。

 それはとても恐ろしく、想像するだけで思考が乱れ魔術にも影響を及ぼす。

 

 魔術とは行う事そのものが死に触れることであり、一瞬の油断が回路の暴走を招く。

 

「……っ、う、あ……!」

 

 明は呻いた。思考の混線、自分が誰で、何処にいて、何のために戦っているのか――激しい痛みとともに、理由の全てが虚ろになっていく。

 

 このまま、高所への恐怖感すら忘れ――しかし忘れてしまえば、碓氷明は碓氷明ではなくなる。それは駄目だ。

 けれど碓氷明である限り、こんな状態でまっとうな魔術行使ができるはずもない。

 

 

「殺さないって言ったでしょ?おとなしく傀儡になっておきなさい」

 

 シグマの声が、脳内で何度も何度も反響する。意識が奪われるのは時間の問題、己が己でなくなるのは時間の問題。

 

「……!」

 

 ……そうだ、どうせこのまま、己が己で無くなってしまうのならば。

 このままシグマの意のままになり、セイバーも助けられないまま消えてしまうなら。

 

 ならば、セイバーを助けられる己になりたい。

 

 大事な人々を殺し、未来を奪い、それでもただただ魔導を繋ぐという役目だけは残っていたから魔導を続けていただけ。魔術など義務で楽しくはない。己に未来など、ない。

 

 だから未来の想像など、したことがなかった。

 しかし、今先を望むなら想像しなければならない。

 

 

 虚数とは物質界にありえない数。

 しかしあると仮定することで如何なる不可能をも可能とする業。

 人が想像できる全ての出来事は、起こりうる現実である――そして想像力という形なきものは、形なき虚数において力を得る。

 

 

 ――想像(イメージ)するのは、常に最高の自分だ。

 

 

Kuvitteellinen numerot、Tehdä sielu!(虚数よ、魂を成せ!)

 

 

 私が生きるために、私を殺すことになるとも――。

 

 

kuvitteellinen hyökkäys(イマジナリ・ドライブ)!!」


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