――黄金の女が立っている。女が立つのは螺旋の底。
土御門神社の地下深くに設置された大聖杯の魔法陣に繋がれたホムンクルスと陰陽師の女。アインツベルンの錬金術と陰陽道によって生まれた異形の聖杯。
陰陽道において四神相応の概念は霊地を見定める為の理論だが、その真髄は人為的に霊地を創り上げることにある。山川を動かすことは規模が大きすぎ、実際に行うのならば国家レベルの権力と金が要求されるが。
されども一度霊地として龍脈を固定した土地は、要石となる場所さえはずさなければ霊地でありつづける。今の平安京は南の池である巨椋池は干拓されてしまっているが、北に霊山をかかえ今でも一等の霊地でありつづけていることが証左だ。
本来であれば土御門一族は春日ではなく遥か格上の霊地である富士山周辺、もしくは京都において聖杯の製造を行いたかったのだろう。いや、土御門家としてはむしろ聖杯などではなく泰山府君祭の完成を目指したいのだろう――。
カーテンの隙間から差し込む光によって、一成は緩く目を開いた。眠って休んでいたはずなのに、体力が快復した感じがしない。当然ながら二日酔いは未経験だが、もしなるとしたらこうだと思うような、頭痛と倦怠感に覆われている。
否、二日酔いよりももっと適切なたとえがある。丁度一昨日、千里天眼通を発動させた後――瞼の裏に浮かぶ黒い箱。焼きついたそれから目を背けたくて、一成は倦怠を振り切り力を込めて目を開いた。
顔だけを動かして、近くの棚に乗っている時計を見ると時刻は十一時を回っていた。
「……っ!!」
上半身を起こそうとした一成は、傍らにあるものに目を奪われた。彼が横になっていた客用のベッドの脇のスツールに腰かけ、俯いている女性に。
碓氷明の理想の碓氷明が、座ったまま頭を傾けて眠っていた。鈍色の長い髪がさらさらと流れ、静かな呼吸と共に僅かに肩が上下していた。何か見てはいけないものを見ている気がしてきて、一成はおずおずと彼女に声をかけた。
「……おい、碓氷」
「……んっ……」
呼びかけに応じ、元々眠りが浅かったらしい明はうっすらと開けた。眼をこすって一成の覚醒を横目で確認すると、両手を上に伸ばして伸びをした。
「おはよう。とりあえず無事っぽくてなにより。起きなかったらどうしようかと」
「無事っぽくってそんな危ない事……!!」
そうだ、確か眠りにつく前、この明は自分を殺しにかかったのではなかったか。自分の体の中にナイフがめり込み、どうにもできずに死ぬ――そのはずだった。
それでも一成は生きている。混乱の極みにあったが、徐々に記憶が繋がっていく。
――これは、大西山でアーチャーと戦った時と同じだ。千里天眼通の発動で数秒先の未来を読み、普段では不可能な術を行使した時と同じ。
今回は碓氷明によって掛けられた幻覚を解呪し、その後。
碓氷明から伝えられたシグマという魔術師の情報をカギに、「」よりさらなる情報を引き出す。そうだ、碓氷明は一成を殺そうとしていたのではなく、疑似的に死を錯覚させるという意味で大西山のアーチャー戦を再現し、「眼」を起こそうとしていたのだ。
「……無茶すんなお前……」
「一成に言われたくないんだけどね。で、無茶をした甲斐はあったかな」
明は椅子ごと動かして、より一成のベッドににじり寄った。一成は躊躇ないながらも頷いた。確かにシグマの魔術の本質と、さらに土御門神社の奥深くまで「視えた」。
だから説明することはできる、しかし……。
(……あれにどうやって勝つんだ?)
セイバーに先んじてシグマを倒してもらうか。ただ、ライダーが黙っていないだろう。とすれば、自分がまたしても眼を使えばと考えたところで、明が口を挿んだ。
「細かい話は後で聞くけど、シグマは私がやるよ。こっちだって秘密兵器の一つや二つあるんだから。それに一成にはあまりやらせたくないというか……どーせ死にかけたら眼使えるし、とか思ってるんでしょ」
「うっ」
「ほらやっぱり。それに見てて気づいたけど、君は起動できても検索を自在に操れているわけじゃない」
現状、この眼は一成にとって「暴れ馬」そのものである。起動――なんとか馬に乗ることはできるがつかまっていることに精いっぱい。検索――馬は走るが向かいたい場所にまっすぐ向かわない。あちらこちらを走って結果的にやっと目的地へいける。眼の停止――馬から降りるのにも一苦労で、間違えれば凶悪な蹄で踏みつけられるか振り落とされるか。
「一人でコントロールができてないんだから。私やキリエが傍にいればまだしも、最後の戦いではあなたのサポートをする余裕はない。だからだめ。使ったら「」からの情報の渦に呑み込まれて脳がいかれるって覚えといて」
本当は二回も無理に接続を切っていること自体危ないんだけど、と明はぶつぶつと呟いていた。そこで一成はふと考えたが、多分明がシグマと戦いセイバーがライダーと戦い、自分が神父と戦うことになる。それは全く構わないのだが、神父の魔術の問題だ。元々は神道魔術をもっぱらにしていたというが、昨日は神父自身の魔術を殆ど見れていない。
「碓氷、神父って強いのか」
「……ん~……神父としては一.五流、魔術師としてはど三流。大した使い手じゃあないよ」
だからなんとかなる、と言いたげな明の口調であったが、一成はあえてそれに反駁した。
「……じゃあ、呪術師としてはどうだ?」
盲点だったのか、明の口は返答に迷っていた。明も、神父が元は神道の家の出とは知ってはいた。しかし明が神父を知ったのは、既に御雄が神父になったあとのことだ。
埋葬機関や代行者でもない……という程度で、戦闘派でないと思っていた。
「……わからない。でも多分、西洋魔術よりは使えると思う」
「そうか」
一成は困る素振りもなく頷いた。仮に神父が神道においても大した使い手ではなくても、一成自身も練度の高い呪術師ではない。どちらにしろ、楽に勝てるとは考えていない。
明はああは言ったが、自分が危機に陥ったらきっと一成は眼を使うだろう。自分の危機だけでなくとも、キリエや明の危機であったもきっと。
止め方はわからなくても、死を近く感じることがトリガーならば使うことはできる。先程、明の幻覚による覚醒で二回目――眼を開く感覚自体は掴めてきた。何をインプットとして何を引き出すかについても宛はある――何しろ決戦は「土御門」神社である。
「ところでお腹空いてない?一成朝ごはん食べてないでしょ……時間的にはもう昼だけど」
どうやら悟が作った朝ごはんがあるようで、ご丁寧に一成の分はラップをかけてとっておいてあるらしい。そういわれて初めて一成は己の空腹を自覚し、腹が鳴るのを感じた。まだ言う事を聞かない体をリハビリがてら無理に動かして、彼は立ち上がった。
「食う。……そういや、もう一人の碓氷とセイバーは?」
「あの二人?デートするとかしないとかでゴチャゴチャしてたから、もうここにはいないんじゃない?」
「……デ、デェトォ!!??」
さらっと言い捨てられた言葉に動揺し、一成はいきなり滑りそうになった。いや、明とセイバーは確かにホテルでも平気で同じ部屋にしようとしていたし、そもそも以前からこの家で二人だし、わりとナチュラルにベタベタはしている、でも甘い雰囲気とは無縁だし、と一成は無意味に頭を高速空回りさせていた。
あからさまな動揺をみせる彼に対し、想像明は薄ら笑いを浮かべた。
「まあ落ち着きなよ思春期。あなたが想像しているようなことは絶対にないと断言してもいい。言葉のアヤってやつだよ」
「人で遊ぶな!」
明はくつくつと笑いながら、客用寝室の扉を開いて一成を誘った。掃除機でもかけているのか、階下からモーター音がする。階段を降りホールに出ると、案の定悟が掃除機をかけていた。
「あれ、よく見つけましたねそんなの」
家主の割に知らなかった、とばかりに明は呑気に言った。悟は掃除機のスイッチを切ると頭を下げた。
「そこの物置にあったので……あ、まずかったですか?」
「助かるんですけど、でも御飯も作ってもらってますし、無理にやってもらわなくても」
昨夜の碓氷邸襲撃で、悟も傷を負っている。ワイシャツの下には包帯を巻いている箇所が多々あるはずだ。しかし彼は顔色もよく、掃除機を持ち上げた。
「いや、体力も戻ってきたのでむしろ体を動かしたい感じで」
明はその返事に頷くと、後を任せて一成と共に食堂に入った。サランラップを掛けられたコンソメスープにポテトサラダ、ハムエッグが並んでいて、焼かれる前の食パンが置いてあった。
一成はパンを焼くのが面倒くさかったのか、そのまま齧り始めた。窓から差し込む日差しは明るく、空には雲一つない。良い冬晴れだが、木々の揺れ具合からして少し風が強そうだ。
もさもさと食事をしながら、一成は成り行きで正面に坐っている想像明に話しかけた。
「……夜作戦会議して、深夜に戦いに行くことになるんだよな」
「そうだよ」
「……ちゃんと勝てたら、お前どうすんだ?」
一成も、こちらの明の存在の不安定さについては知っている。想像上の明は、虚数の製造物であるがゆえに、虚数使いである本体の明からの魔力なしには存在できない。
そして明と全く同じ見た目であるゆえに、聖杯戦争後の生活もいろいろと面倒そうではあるが、生きていてほしいというのは当然の心理だった。
明は一成の問いを受け、しばらく考え込んだ。
「そうだね、
今夜の戦闘において本体の明が無事であっても、魔力を使い過ぎて想像明の身体を維持できなくなったら彼女は消えてしまう。本体明よりも厳しい立場にいる。
だが、それはどうでもいいのだ。想像明は、聖杯戦争が終われば消える。本体の明と決めて彼女自身もそうするつもりだった。しかし、その事実を一成に伝えるつもりはない。言えば絶対彼はやめろ、というだろう。
実現可能か不可能かはともかく、そういうに違いない。
「本体が無事でも私が残ってるかわからないからさ。もしもの時のために」
正直、決めたのに一成に騒がれたくないという気持ちもある。
やめろ、と言われたら嬉しいから未練が生じることを畏れてもいる。死にたくはない。
しかし、明の理想として生まれたこの明の土台は姉でもあり――
だから明は、真実を彼には言わない。ただ生まれたモノとして願うことはひとつ。
「私のことは、覚えておいてよ」
*
「マスター!朝だ!」
日が昇りきった午前九時、明は毛布を引きはがされて強制的に起床した。暖房をつけているものの、冬の朝はどうしても寒い。ベッドの上でダンゴ虫のようにまるくなりつつ目を開けば、そこには毛布を片手に仁王立ちするサーヴァントの姿が在った。
その姿はいつもの衣袴ではない。現界して次の日に、明が買ったライダースジャケットだ。
「……毛布を返してください……」
「もう朝の九時だ。今日は出かけるのだからそろそろ起きてほしい」
「……そうだっけ。ごめん、ちょっと待って……」
明は寝ぼけ眼をこすりながら緩慢な動きで箪笥に向かう。セイバーと同じ部屋で寝起きしていた明は、彼が居ることにも構わず着替えを始めた。
明にはデリカシーという言葉は残っていたが、セイバー相手には働かないのか躊躇いはなかった。セイバーもセイバーで退出しなかった。
いつものブラウスを着てタイツまで履いたところでようやく頭がまともに動きだし、明は首を傾げた。
「……どっかでかける用なんてあったっけ」
今日は自宅で体力と魔力を回復し、ライダー戦に備えて魔術礼装を整備し、一成と想像明で作戦会議を行うはずであった。
(一成は想像明が見てくれるって言ってたけど)
元は同一人物であり、かつ本体明から想像明へと魔力供給のパスがつながれているために念話も可能となっている。しかし魔術的には想像明の方が先を行っているため、明には思いつかないこともしているかもしれない。一成の眼についてはそちらに任せたが、明としてはすることがあまりない。
だから出かけることにはやぶさかではないのだが、セイバーには何か目論見があるのだろうか。
「……なんかしなきゃいけないことある?夜の戦闘に備えてさ」
セイバーは端的に、あっさりと告げた。「ない」
「はい?」
「お前は放ってくと起きないからああ言ったまでだ」
セイバーは基本的に素直だと思うが、たまに小癪である。「……セイバーのくせに生意気」
「む。俺がアーチャーやランサーで現界したなら生意気ではないのか」
まだ眠くて答えるのが億劫だったため、明はその文句に返事をしなかった。しかし出かけるのか。当然ながらここ数日は戦うか家に籠るかの二択で、大学にも行っていない。ちなみに大学についてはノートと代返を日向たちによろしく頼んでいる。つまり、殆ど昼間に出かけていない。
「出かけるってどこか行きたいの?」
「結果がどうあれ、俺は明日にはもう現世にはいない。だから最後に現世を見ておきたい。だから案内してくれると助かる」
「それはいいけど、お店とかに行くなら九時じゃまだどこも開いてないよ。せめて十時くらいにならないと」
「……」
セイバー沈黙。そこのところは考えていなかったらしい。わりと古代時間、要するに日が落ちれば眠り昇れば起きる健康的生活(サーヴァントだから睡眠はいらないが)をするセイバーにしてみれば、むしろ開店十時が遅いの感覚なのだろう。
分かっていたことだが、セイバーはこと戦闘以外に関しては本当に抜けている。バツの悪い顔をしているセイバーを見て、明はそれとなく付け足した。
「じゃ、十時……いや、十一時になったら出かけようか。――うーん、それまでは……」
「山内悟が食事をこしらえている。とりあえずそれを食べてはどうだ」
「ほんと?」
僅か数日の話だが、悟が台所に立つのが固定となってきている。明としてはありがたいが、少々申し訳ない気もする。とりあえずセイバーに従って階下に降りたが、予想通り朝食の匂いは鼻をくすぐった。
メニューは洋食のようで、コンソメの匂いが漂っている。
「碓氷さん、おはようございます」
「あ、おはようございます」
エプロン姿が板につきはじめた悟は、明の姿を見てそそくさと朝食をセットしはじめた丁度今トーストを焼いてくれているようで、台所からバターかジャムかを問う声が聞こえた。明はバターと返答すると食卓につき、テレビのスイッチを入れた。
ニュースは相変わらず春日市について取り上げており、連続殺人とテロの捜査状況と禿げ上がった大西山の状況を解説していた。
その時、悟が果物のスムージーとトーストを明の前に置いた。
「お待たせしてすいません」
「あ、いえ。すごく助かってます……一成ともう一人の私は?」
「朝早く二人で何かしてたみたいですけど、今は土御門くんが倒れているみたいで」
おそらく想像明とのやりとりによる結果だろう。想像明のことだから本当の無茶はしていないとは思うし、彼女も一成のそばにいるのだろう。明は頷くだけ頷いてスムージーを手に取った。
「明、出かけると言ってしまったが、体や戦いの準備は平気か」
セイバーが今思い出したとばかりに問うたことに、明は口にスムージーを含みながら答える。身体は一成の治癒を受けたおかげで八割方回復している。烈しい運動は控えたいが、散歩位ならばむしろちょうどいい。
キリエは敵の手に落ちたが、彼らが再び碓氷邸を襲撃する可能性はある。今度は明を奪うため、セイバーを屠るために来る。
ただあちらも神秘の秘匿は気にする魔術師がいるため、昼間は心配ない。しかし夜は危険である。とすれば明たちは今宵、土御門神社で彼らを倒さなければならない。
また、碓氷の結界が破壊されている状態を長々と放置することは、有象無象の魔術師がさらにこの土地を狙って余計にややこしいことになる。
戦闘としては明と想像明がシグマと戦い、一成が神父と戦い、セイバーがライダーと戦うことになる。
(……大聖杯そのものを壊せるかどうか)
聖杯戦争に勝てたとしても、大聖杯を残したままでは再び聖杯戦争は再開される。結局この問題は終わったとしても後々まで尾を引くが、今は生き残ることを最優先にするべきだ。
「私個人の準備としては大丈夫。あとは一成頼み」
「む……あいつか……」
セイバーは若干不服そうな顔をしたが、すぐにその表情をひっこめた。
明はとりあえず朝食を食べ終わり、眼も完全に冴えてしまった。二度寝をするのも不毛であり、地下室へ行くことにした。
地下室はいつでも寒い。電燈に明かりをつけたが、例によって薄暗い。昨日セイバーとのパス再構築に使用した黄金の柄の剣が鞘に収まっている。
魔剣『
セイバーはリビングのソファに座って、適当な推理小説を読んでいた。明の気配に気づくと、セイバーは本を置いて立ち上がった。
「少し早いがでるか?」
壁にかけた時計を見れば、十時四十五分を差していた。明として異存はないがそれにしても、セイバーはノリノリである。
前から観光にはやぶさかではないようだが、それでも自分から戦闘以外の事柄で明を連れて出かけようなどということはかつてなかった。悪いものでも食べたのだろうか。
「というかセイバー、行きたいとことかあるの」
「特にはない。ただ春日の景色を見ておきたいだけだ」
今日も良く晴れた冬の空の下、セイバーと明は連れだって春日の街に足を踏み出した。セイバー自体に明確なプランはあったわけではないようで、散歩で沿岸部の倉庫街に向かうことにした。
冬の海風は寒いが、澄み渡った空気のためにいっそ清々しさがあった。そこはバーサーカーとの戦いの舞台になった場所であり、いまだに破壊された倉庫の周辺には立ち入り禁止のテープが張り巡らされていた。
未だにその傷跡生々しく残す倉庫街に物々しい雰囲気はない。バーサーカー戦後のここは警察や野次馬でごったがえしていたのだが、野次馬の姿はない。
バーサーカーとの決戦は十二月一日だった。それからすでに一週間が経過している――いや、一週間しか経っていないというべきか。
「お前が俺を召喚したのが十一月二十一日だったか。それから二週間と少し……早いものだな」
「そうだね」
話の接ぎ穂を見つけられず、明はただ頷いた。最初から知っていた、どうせサーヴァントとは別れることになると。
ただ正味な話、明の魔力量をもってすればセイバーを現界させつづけることは可能である。
しかし、流石に彼女も解っている。セイバーをこのまま現界させつづけてはいけない。彼はちゃんと――自分の時間に戻って死ななければならないのだ。
明は碓氷明として、鮮やかにはできなくとも、自分の価値を自分で見極めるまで生き続けることを決めた。たとえ最後まで己の為に戦えない、壊れた人間として終わるとしても。
けれどセイバーはどうするのか。世界との契約はやめるにしても、彼は本当に無念の中にはいないのか?何を言うべきか困って、結局明は無関係な事を口に出した。
「そうだ、ここから南にちょっといったところに海浜公園があるんだ。行ってみる?」
特に反対する理由のないセイバーは提案に頷き、二人は倉庫街からほど近い場所にある海浜公園に二人は足を運んだ。
そこは一応春日ベイパークという名前もあり、それなりに大きな公園ではある。公園の中央にはベイタワーなる建物があり、春日が一望できる。ただ、高さは春日駅周辺にある高級ホテルのほうがあるため、いまひとつの知名度と迫力である。
公園の多くは木が植えられて茂っているが、最近は葉が落ちてしまった木が多く少々寂しい。カップルの憩いの場にしては多少殺風景だが、芝生の広場でバーベキューを行う者達が、暖かい時期には見られる。
天気のいい今日のような日には、ランニングや散歩をする人々の姿が散見される。海浜公園とだけあって夏には春日海岸として海開きがされるが、当然今の季節は遊泳禁止だ。
公園の南側には池があり、普通のボートやアヒルボートを貸し出している。明とセイバーはその池の周りに置かれたベンチの一つに腰かけて、ぼんやりと池に浮かぶボートを見ていた。
大学生と思われるカップルが二組と、母子が一組きゃっきゃと騒ぎながら漕いでいる。
「ん?」
何やらセイバーが怪訝な顔をして池――否、池の上を行くボートを見ていた。明もつられてセイバーの視線の先を追うと、そこにはもう一艘、数え損ねたボートがあった。
若い女性に見える乗り手は、明たちから見て右手の淵にボートを止めていた。距離は三十メートルくらいだ。
「あれって日向?」
「だろうな」
特に声をかける理由はない。ボートに乗る青森日向は何やら熱心に空を見たり森を見たりしているが、ついに二人の視線に気づいたのか振り返った。そしてがたがたとボートから岸に飛び移ると、そのまま明とセイバーの所へやってきた。
コートとブーツ、ショルダーバッグの身軽な姿である。
「明にセイバーじゃん!さっきから見てたなら声かけてよ恥ずかしい!」
「なんか熱心そうだったから」
「というかあんたは街で見かけた知り合いに声かけるタイプじゃないか」
日向は勝手に納得して頷いている。それからセイバーの方に目を向けた。
「セイバーまだ春日にいたんだ。いつまでいるか未定っていってたけど」
「……そうだったが、明日にはここを発つ」
「マジで?すごいタイミングで会ったなぁ。じゃあこれからごはんでも食べに行く?」
何かしら用でもあるのかと思いきや、日向は結構暇らしい。一週間のうち三日は授業なしにしたと言っていたため、今日もないのかもしれない。誘いを受けたセイバーは、ゆるゆると首を振った。
「悪いが、今日は明に用がある。気持ちだけ受け取っておく」
「ははぁ」
何を勘違いしたのか、日向は思わせぶりな笑みを浮かべて明とセイバーを代わる代わる見比べている。セイバーはセイバーでその意味に全く気付いていないし、明もいちいち相手にすることはしなかった。日向が案外恋バナに食いつきがいいのは知っている。
だがその時、セイバーはいきなり彼女に対して頭を下げた。
「俺はいなくなるが、見ての通りこんなマ……いや、人間だが、これからも明をよろしく頼む。麻貴にもそう伝えてくれ」
「……セイバーのことはあんまり気にしないで」
明はお前は私の保護者かとつっこみたくなったが、面倒くさかったので受け流すだけにした。言われた日向も面食らっており、何故か神妙に頷いている。
「明がけっこう……うん、なのは知っているよ。大丈夫。任せて」など、真顔でセイバーに向かって言っている。それほど自分は頼りなさそうに見えるのかと思うと、明はなんとなく忸怩たる気分になる。
「というか日向はなんでここにいるのさ」
「ああ、私まだ写真部やってるし。ここけっこう鳥が飛んでくるから、バードウォッチング的な企画でもやろうかと下見にね」
「なるほどね」
「二人はまだやることがあるみたいだし、私は下見に戻るわ。じゃ、明、さっさと学校出てくるんだよ!代返の貸はでかいからね!」
テンション高く去っていく日向に手を振りながら、セイバーと明は彼女を見送った。流れで公園に立ち寄ったが、のんびりしていた為既に時刻は二時近かった。
「これからどうする?」
「……ひとつ、行きたいところがある」
今まで特に行きたいところはないと言っていたくせに、今に至りセイバーぼそりとそう告げた。もしかして最初から今から言おうとしている場所に行きたかったのか、それとも最後にそこへ行きたかったのか。
そうしてセイバーが提示した場所は、ごく変哲もない、あのショッピングモールであった。
明の朝食が遅かったとはいえ、時間が時間だったために二人はショッピングモールの二階で食事をとることにした。セイバーはうなぎを所望したため、丼幸という丼もの専門店に入った。
ただ初日に案内した駅ナカのような専門店ではないために、セイバーは当然の如く初日の店の方がうまいと言っていた。
冬の夕暮れは早い。特に十二月は冬至になるまでは一日一分ずつ日が短くなるという。既に夕方に差し掛かりつつあるために、買い物に来た主婦が多く見える。
遅い昼ご飯を終えると、セイバーは、観たい景色があるとエスカレータへと足を進めた。二階建てのショッピングモールの上は屋上駐車場だ。
明はしばしばこのショッピングモールに訪れるが、屋上には行かない。明は免許を持っているが、車は運転しないからだ。
屋上は傾いた日を浴びて、駐車されている車の影が濃く長く伸びていた。高く張り巡らされた落下防止用のフェンスが格子状の影を作っていた。
まだ明が幼かった頃、屋上は全面駐車場ではなく一画が子供向けの遊具が置かれている遊び場であった。明が覚えている屋上の姿はそれのままで、現在の屋上はまるで別の場所のようだった。
セイバーは屋上一帯を眺めまわすと、何かを発見したようにまっすぐに一画へ足を進めた。明もそれに倣いついていくが、あまり気は進まない。すでに面影はないが、その場所は十年以上前に、明が落下していった場所なのだ。
セイバーはフェンスを掴んで下を眺めている。今も昔も下には樹木が植えられ、さらに植込みがある。
「マスターが落ちたのはここか」
「……そうだけど、ここに何かあるの」
「何もない。見たかっただけだ。お前の見た景色を」
碓氷明という女の始まり。碓氷明という業の始まり。姉、友、家政婦を、もしかしたら母さえも己の生まれ故に殺してしまった始まりの景色がこの夕暮れだった。
「明、昨夜お前の覚悟は聞き届けた。本当に自分のために生きられるかわからなくても、己の価値を信じるために生きると」
西日を背に受けたセイバーの姿は、逆光になって暗く見える。少しだけ明を見上げたセイバーの目は、射抜かんばかりの真摯さで見つめてくる。
「俺の最強の夢はいまや無為になった。ならば俺は何のために戦うのかと、考えた。マスターであるお前の為か?それもある」
しかし、セイバーがいくら明の為に戦おうとセイバー自身の人生は変わらない。無念に終わった人生を改変できるわけではない。ただ、やっと死という安息が訪れるだけ。
「俺は人の願いを叶えてみたくて戦ってきたのではなく――人の願いを叶えることができれば、人として生きることを認めてもらえると思っていたのかもしれない」
邪悪を排斥するのも、神を崇拝するのも、恐れているという意味では同じだとかつてキャスターは嘯いた。
その通り、日本武尊は最後まで人になる事は出来ない運命だった。
「お前も普通の人としての人生は送れない。しかし、それでもなお生きようとする。なお己の価値を信じようとする。それは、かつての俺にはできなかったことだ」
――生きる、という選択肢が明にただ苦しみを強いるだけになるかもしれない。
それでもセイバーは、明の生を願っている。
「鮮やかさなど不要。はいつくばり涙を吞むそれでも――お前の選択は間違っていない。やはり俺が戦うわけはお前がそうやって生きていくことこそが、俺の希望だからだ」
自分ができなかったことを、今を生きる人間に託す。たとえ己の人生が変わらなくても、誰かを同じ道に踏み入らせない。
人の歴史は、只管に失敗を繰り返す。しかしそれは無意味な失敗ではない。ただひたすらによりよい生を求めて試行錯誤する苦闘の軌跡である。
「ゆえに今の俺にできることは、俺の人生がいくらどうしようもないものだったとしても、それでも俺の人生だと受け入れて死ぬことだ」
ただ願いの叶わなかった生涯を受け入れる。明の未来がたとえ、セイバーと同じ末路を迎えることになっても、それでも自分の人生だと受け止めて死ねるようにと。
――しかし、セイバーの予想に反して明は妙な顔をして言った。
「ばか」
「は?」
「死ねてはいないけど、セイバーはもう自分の人生は受け入れているよ、とっくに」
今度はセイバーが妙な顔をした。薄々感付いてはいたものの、やっぱり自覚がなかったとわかり明は苦笑した。
やはりセイバーの一番の難点は人の気持ちが分からないことよりも、自分で自分をわかっていないことである。
「もし本当に自分を人々にとって害でしかない、迷惑ばかりかけたと思っているだけなら、あなたは最強を願わない。願うのは自己の消滅による歴史の改竄だよ」
仲間や妻を死なせるような情けない自分など日本最強に相応しくないと否定して、彼らを生かせる本当の日本最強を生み出すこと。
自分の価値を根本から無に帰す願い。死の間際のセイバーには、それを条件に世界と契約する方法もあったのだ。
しかしセイバーが願ったのは、「他ならぬこの自分」が日本最強となるということ。
セイバーは意識こそしてなくとも、わかっていたのだ。
自分の存在を抹消するということは、彼とともに戦った仲間や妻の意思や行動をも抹消することになると。
最後に自分が戦う機械となるのはよくても、それだけは絶対に許されない。
自分が消えることで、大事な人たちが平穏に生きられることになっても、日本武尊は絶対にその選択肢を選ばない。
何故なら、
――その選択が尊く。
――その過去が尊く。
――その記憶が尊く。
自分に意味と価値失っても、自分以外の人々は違う。
共に旅をすることを選び、戦い続けた彼らの人生が貴くないはずがない。
それを、己の一存で抹消していいはずながない。
愛したその記憶が、己を苛む呪いになろうとも。
たとえ己の平穏を投げ捨てる結末になろうとも。
あの記憶/記録だけは絶対に消させはしない。
それは、人ならざる神の剣として生まれたモノが唯一残しえた――小碓命という人間の
「己の人生を呪うほどに、愛すべき人々がいた。己の魂を犠牲にしても、幸福を願いたい誰かがいた。たとえ人生の終わりに、その願いが叶わなかったとしても――それは、ろくでもない人生なのかな」
セイバーに問いかけながら、同時に己に問いかけるように明は言葉を口にした。
きっとそれは激しく痛みを伴いながらも、これ以上なく幸福な生だと信じて。
橙色に染まる日が、風になびいている二人の髪を照らし――
「……あっはっはっはっはっはっは!!」
「!?えっ!?」
セイバーが爆笑していた。フェンスの金網を掴んで俯きながらひぃひぃ笑っている。今まで不敵な笑み、馬鹿にしたような笑み、微笑みレベルの笑いなら何度かあったが、このような哄笑はなかった。明は一瞬セイバーの姿を凝視してから、一歩引いた。
「え……なんか急に笑い出した怖っ。私変なこと言った?」
セイバーはまだふるふると体を震わせながら、目じりに滲んだ涙を拭きながら言った。
「いや、申し訳ない……お前の言うことは間違っていない。本当にものは考えようというか……しかし、安心した」
「え?何が」
「そんなことをいえるなら、明、お前は大丈夫だよ。俺よりもずっと頑丈にできている」
明はセイバーが明のことを信じるほどに、自分のことを信じられていない。しかし彼がそう信じるなら、自分はそうありたいと思うのだ。
「まあ、生きてみるよ」
「ああ」
夕日の色を帯びてきた太陽が、西から差す。長く伸びた二つの影は、確かに笑っていた。話は途切れ、静かなときが流れた。そのとき、明が不意に口を開いた。
「……ところで、話変わるんだけどさ。泣いても笑っても今日で戦争は終わる。セイバーは消えるつもりだろうけど」
「そうだが、どうした」
「ちゃんと勝てれば、私の魔力でセイバーを現界させつづけることはできるんだよね」
言わなくてよいことだと、明自身は承知していた。セイバーの決意を試そうとしているわけでも、セイバーに本当に現世に残ってほしいわけでも、事実として知らせておこうと思ったわけでもなかった。
ただ、彼が消えてしまうことがさびしかったから、なんとなく口をついで出てしまったのだ。セイバーが明の心境を察するわけもなく、純粋に驚いたようにつぶやいた。
「……そうか、その気になれば俺は現世に残れるのか。そうすれば、お前の行く先も見届けられるな」
何を考えているのか、セイバーはしばし黙り込んだ。
しかし不意に、いつも朝の挨拶をするような気軽さで言った。
「それでも俺は帰るさ。だって――」