猜疑心   作:relet

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 春の匂いなんて感じたことはなかった。

代わりに、文庫本の古い香りを感じながら、活字に目を落とすだけで、その行為すらも他人と何か違う価値観のもとの行動なんだと考えていた。

時の流れなんて所詮、人間が決めたものだと言う理論を見かけ、一人きりで首肯をした。

ただの一度も過去に縋らず、悠然と、明日を…否、今を感じるだけだった。

 

 既に色褪せてしまった学生時代を整理した部屋で、一人息をする。

昨夜に買っておいたドーナツを右手に持ち、頬張り。買い溜めしてあるお気に入りの缶コーヒーを飲む。

日常的な行為ですら何か特別になった気がして、時間の流れが少し遅く感じる。

 ふと右腕に痒みを覚えて咄嗟に手を伸ばすが、先程爪を切ったことを思い出し、深爪された指を見つめる。

この間は、何故か痒みを感じない。

 

「……いづい」

 

 昔の知人が使っていた方言が出てしまったことに気が付き、思わず眉間を掻く。

 掻いた気がしなかった。

 

 仕方がないので、掌で擦るようにして右腕の疼きを収めようとする。

しかし、完全に収まることは無さそうだった。

気を紛らわすためにおもむろに四角い板を見据える。

 

「関西圏では、明日に桜が満開になるところが多いみたいです。明日に満開にならない所でも……」

 

 なんて簡易なニュースを見ているとふと、目にリモコンが止まった。

咄嗟に、電源ボタンを押す。

自分でも何故押したのかはわからなかった。

それについて少しの硬直が入る。

 だが、これで再び徒らに今を消化することになった。

溜息をつき、気紛れで先程少し思い出した相手のことを考える。

名前は何だったか、確か、『朝陽』とでも言ったはずだ。

1年か2年前の…大学に入って1年くらい経ったときの、丁度4人目くらいの交際相手だったろうか。

まあ、今となっては心底どうでもいいが。

趣味などすらも思い出せない。

 

 少し頭をひねって思い出そうとする。

 

「私達はあくまで景色の1つ」

 

 あぁ、そうか。

自ら望んで景色の一部となった彼女のことは、その時に俺の記憶の中でも明らかな背景となってしまった。

所詮その程度の人間だったというわけで、もうこれ以上考える価値のない人間ということだった。

 

 景色の一部になることで自分を肯定したのに、自分が景色に入ることは譲れなかった。

傲慢で、勘違いも甚だしいような………

 

 

 

「今日も、自分を偽って生きていくのかねえ」

 

 そんな、わけのわからないような声を発し、切り替え席を立つ。

ドーナツが入っていた袋をゴミ箱に捨て、足音を立てながらと洗面台へと向かう。

顔を洗って歯を磨く。

チラリと鏡に映る自分を一瞥し、動きが止まる。

しけた面してんなあ……と乱雑に考えた。

そこで、「にっ」と笑顔を作ってみる。

ああ、なんだ、上々じゃないか。

 

 身支度を終えたあと、ショルダーバッグを背負い、マンションの一室を出た。

エレベーターは確か修理中だったはずなので、いつも向かっている方向と反対に歩みを始める。

階段を使うならこっちの方が早い。

コンクリートで作られた階段を一段飛ばしで降りていく。

鉄性の、ハラハラするような階段だったら。

もう少しワクワクできるのにな。なんて。

 今日は少し駄目な日だ。

どうでもいいようなことに意識が向いてしまう。

新しい出会いはあるだろうか。

やはりどうでもいいことを考えながら、惰性で、動き続ける。

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