「時間だ。行くか」
ワタルは時間を確認してから、師匠のいる間に足を踏み入れた。
いつもは静かな場所だったが、今日は甲高い声がとどろいた。
「わー、本物のワタルさんだ!」
その声のほうに顔を向けると、少女が一人駆け足でワタルのもとに向かってきて、無邪気な笑顔で見上げてください。
「サイン下さい」
少女はそう言って両手で持った色紙を差し出した。
「……?」
ワタルは一応サインをした。すると、少女は色紙を受け取ると、嬉しそうにその場でグルグルと回った。
「おう、小僧。来たな」
「シャガ、どういうことだ? この子は誰だ?」
ワタルは目の前にいたたくましい老齢の男に尋ねた。
シャガはイッシュ地方を代表するドラゴン使いとして知られ、かつて最強のトレーナーと言われていたオーキドのライバルとして活躍した。
16度のチャンピオンに輝く名トレーナーであり、老齢になった今は第一線からは退いているが、まだ現役で活躍している。
シャガはワタルにとって恩師でもあり、ワタルがトレーナーとして大成するのに重要な役割を果たしてきた。
「アイリスだ。分け合って面倒を見ることになってな。まあ、事情はお前と似たようなもんだ」
「アイリスです。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
アイリスはそう言うと、ていねいに頭を下げた。どこか抜けたところがあったが、礼儀正しい少女だった。
「ワタル、ここに座りなさい」
奥でたたずんでいた師匠がワタルを呼んだ。
ワタルは師匠に向かい合うように座った。
「さっそくお前に裏試練を言い渡す」
「お願いします」
ワタルは力強い目で師匠を見つめた。どんな厳しい試練でも耐え抜く覚悟だった。
しかし、師匠から言い渡された試練の内容は意外なものだった。
「ここにいる子、アイリスはお前と同じようにあて知らぬ身じゃ」
ワタルは隣に座ってニコニコとほほ笑んでいたアイリスのほうに顔を向けた。
アイリスはワタルの真似をして正座をしていた。見る限り、あてがないことをコンプレックスに抱えているようには見えなかった。とても明るい少女だった。
「いまシャガと相談してな、裏試練の内容にふさわしいと考えた」
「……どういうことですか?」
「ズバリ、裏試練とはアイリスの面倒を見てあげなさいということだ」
ワタルは師匠の言ったことの意味を理解することができなかった。アイリスの面倒を見ることのどこが試練なのかという気分だった。
「師匠、話が見えません。それが試練だというのですか?」
「そのとおり。アイリスはワタルに足りない最後の要素を教えてくれる先生になるだろう。裏試練を突破した暁には、ワタルよ、お前は本当の強さを手にすることになる」
師匠はそう言ったが、ワタルにはどうしても理解できなかった。
ワタルにとって、試練とは厳しいものであり、過酷なものである。アイリスの世話をするというのは、まったく試練らしくなかった。
「師匠、私にはわかりません。それが何の試練だというのですか?」
「見えぬか? 見えぬなら、お前はまだ未熟ということ。見つけ出してみなさい。この試練の意味」
「……」
ワタルはうつむいた。どうしても意味を理解することができなかった。
「決まりだな、小僧」
シャガはいまも昔もワタルのことを小僧と呼んだ。ワタルはそれを嫌っていたが、シャガはそう呼び続けた。
「おれはしばらくヤマブキシティの仕事が入っていて、アイリスの面倒を見てやれない。小僧、頼んだぞ」
「待てよ、なぜおれなんだ。ドラセナに任せろよ、そういうことは」
「ご師匠様が先ほど言われただろう。これが試練だ」
シャガはこの試練の意味を少しばかり理解していたようだが、核心をワタルに話すことはなかった。
「アイリスはお前に憧れてポケモンの道を進み始めた。だから、小僧、てめえがアイリスの師匠だ。責任重大だぞ」
「……本気で言ってるのか?」
「2週間後に、ヤマブキシティでジュニアポケモンリーグの世界大会が開かれる。アイリスはイッシュ代表の一人に選ばれていてな、小僧、それまでにアイリスに優勝できるだけの実力を授けてやってくれ。それが試練だ」
シャガはそう言ったが、ワタルは動揺した。
己の実力を高めることに夢中になってきたワタルにとって、誰かに教え諭す経験は皆無だった。
物心ついたときから、師匠が、ドラセナが、シャガが師匠であり、彼らと戦うことでワタルは実力をつけていった。それは今も現在進行形で続いていた。
「わかったな、ワタル。この裏試練、突破してみせよ。さすれば、もはやワシからお前に授けることはなくなる。免許皆伝じゃ」
「……」
ワタルはまだアイリスの世話が自分の実力を高めることにつながる気がしなかった。
難しい顔をしているワタルを裏腹に、アイリスは笑顔でワタルにあいさつした。
「ワタルさん、ふつつか者ですが、どうかよろしくお願いします」
「……」
ワタルの裏試練はこうして始まった。
◇◇◇
シャガはアイリスをワタルに預けると、仕事のためにヤマブキシティに向かった。
ワタルはアイリスを連れてしばらく行動することになった。
子供の扱いには慣れていない。だから、アイリスとどう接していいかよくわからなかった。
幸いなことがあるとすれば、アイリスは礼儀正しい性格だったということだ。わがままですぐ泣きだすような扱いにくい子供とは違い、幼くしてすでに人間ができていた。
「ワタルさん、ミニリュウがこのあたりにいると聞きました。どこにいるのですか?」
「ミニリュウ? ああ、明るくなったらそのあたりから顔を出す」
「それは楽しみです。私、ミニリュウを捕まえるのがすごく楽しみだったんです」
そう言うと、アイリスは川を覗き込んだ。
覗き込むのに夢中になってしまったのか、アイリスは転落しそうになった。
「おい、危ないぞ」
ワタルがとっさにアイリスの体を支えたので、転落をまぬがれた。
「はふー、落ちるかと思いました」
アイリスはそっと胸をなでおろした。
「申し訳ありません。私、おっちょこちょいなところがありまして。ご迷惑をおかけしないように気をつけます」
アイリスはそう言って笑った。扱いにくいのか扱いやすいのかよくわからない少女だった。
ひとまず、ワタルはドラセナの家に向かった。
ドラセナの家がワタルの実家である。ワタルの別荘は各地にいくつかあり、最近は実家で寝泊まりする機会は減っていた。
ワタルにとって、ドラセナは母親のようなものであり、いつまでも実家の世話になっているのが恥ずかしいという気持ちがあった。
しかし、ドラセナはワタルの別荘にたびたびやって来て世話を焼くので、ワタルはいまだに母親離れできない子供のような気分になることがあった。
実家にアイリスを連れて行って、ドラセナに事情を話した。
「まあ、かわいい子ね。アイリスちゃんと言うの?」
「はい、アイリスと言います。しばらくワタルさんのお世話になることになりました。ドラセナさんにもお世話になります。よろしくお願いいたします」
「すごく礼儀のいい子ね」
アイリスは子供とは思えないほど礼儀正しいところがあった。
「まあそういうわけで、なぜか試練がアイリスの面倒を見ろということに決まった」
「そうなんだ。不思議な試練ね」
「はっきり言って、おれはいまそれどころじゃない。ホウエンリーグが近くまで迫ってるんだ。ガキの面倒なんて見ている余裕がない。ドラセナ、悪いがアイリスを頼めるか?」
ワタルはまだ試練の意味を理解していなかったから、アイリスの面倒をドラセナに任せようとした。
「ワタル、だめよそれは。あなたがアイリスちゃんの面倒を見るのが試練なんだったら、あなたが見なきゃ」
「だが……」
「ご師匠様の試練を途中で投げ出すなんてそれでいいの?」
「……」
ワタルは踏みとどまった。しかし、アイリスの面倒を見ることが自分の実力を高めることとどう関係しているのかどうしてもわからなかった。
「アイリスちゃん、夕飯はまだ?」
「はい、おなかすきました」
「それじゃあ、みんなで食べましょう。お口に合うかわからないけれど、どうぞ」
「わはー、ありがとうございます」
ドラセナは子供の扱いに慣れていたから、アイリスとのやり取りも自然だった。ワタルはその光景を見て首を傾げた。