バーネットは保護していたビードルを野生に返すために、保護団体のスタッフらとトキワの森を訪れていた。
保護中にビードルもそれなりにたくましくなった。野生に還っても、一人で生きていくだけの力は十分に備わっている。
しかし、いざトキワの森の焼けた地に戻って来ると、ビードルは逃げるようにモンスターボールに閉じこもってしまった。
「ダメだねえ。やっぱり山火事がよっぽど怖かったんだろうね。うちのダルマッカの前では全然怖がらなくなったんだけどねぇ」
保護団体のスタッフらはため息をついた。
保護されるポケモンたちにはそれぞれ特別な事情がある。
ビードルのように山火事に焼け出されたポケモンなどは、それぞれトラウマを抱えていた。
山火事に焼け出されたポケモンたちはまだマシかもしれない。
中には、主であるトレーナーを亡くして、保護されるポケモンもいる。主が亡くなったことをいつまでも自覚できず、主の帰還を待ち続けるポケモンも少なくない。
バーネットは怖がるビードルをもう一度山火事の跡地に解き放った。
しかし、やはりビードルは逃げるように跡地に背中を向けてバーネットのもとに戻ってきた。
バーネットは戻ってきたビードルを優しく迎え入れるのではなく、険しい顔つきで厳しく言い放った。
「逃げるな!」
バーネットの言葉を受けたビードルはその場で立ち止まった。
「これから先、もっとずっと険しい道が待ってる。こんなことで怖気づいてどうするんだ」
バーネットの言葉は厳しかったが、同時にとても大きな愛情が込められていた。
ビードルはしばらく戸惑っていたが、やがて勇気を振り絞って、山火事の跡地のほうに顔を向けた。
「そうだ、それでいい。そこがお前の向かう世界だよ。いずれ、立派なトレーナーと共にずっと大きな世界を旅するんだ」
ビードルはバーネットの言葉を受けて、目つきを変えた。
最後にちらりとバーネットのほうを振り返ると、それからは前を向き、そのまま地面を這って、森の中へと消えて行った。
それを見て、保護団体のスタッフらは拍手をした。無事、ビードルが野生へと戻ることができた。それは彼らの目的の達成。もっとも喜ばしいことだった。
しかし、バーネットはただ一人、涙を流した。ポケモンが野生へ還るということは、同時に別れでもあった。しかし、それが自分の選んだ道。ポケモンに勇気を与える仕事であるが、同時に悲しみを作る仕事でもあった。
◇◇◇
ビードルが還った後、バーネットはしばらくトキワの森の中をうろついていた。
午後からは、大学の講義に出る予定だったが、ビードルとの別れの余韻もあってその気にはなれなかった。
トキワの森には多様なポケモンが生息している。虫ポケのほか、稀にピカチュウを見ることもできた。
森を進むと、見晴らしの良い高地に出た。
今日は午前中から天気が良かったが、昼になると空は曇り始めていた。遠くでは、遠雷の音が響いていた。にわか雨が来るかもしれない。
しかし、バーネットはすぐには戻らず、しばらく遠くの雷雲を眺めていた。
自分が選んだ道を後悔しているわけではない。しかし、思っていたよりずっと心に悲しみをもたらす仕事だった。
ポケモンを思う気持ちの強さに比例して悲しみは大きかった。
しばらくして、バーネットはようやく複雑な思いを断ち切って立ち上がった。
「よし、戻ろう」
自分の選んだ道を貫き通す決心がついたので、その場を立ち去ろうとした。
そのとき、近くで物音がした。
そのほうに顔を向けると、そこに見知った顔の人物がいた。
「……」
そこにいたのはククイだった。
ククイとは同じアローラ出身で、見知った存在だ。
マーレインから行方不明になっていると聞いていたが、偶然にもそこにククイはいた。
バーネットはすぐに声をかけなかった。そこにいたククイは少なくともバーネットの知っているククイの顔ではなかった。
ククイは気が抜けたようにそこに立ち尽くしていた。
比較的大きな雷音が響いた。
しかし、ククイはその音にも無反応だった。
バーネットは表情を作り直して、穏やかな顔でククイのもとに向かった。
「おーい、ククイ」
バーネットはいつもの明るい様子で声をかけた。
しかし、ククイは反応しなかった。
「マーレインが心配してたぜ。こんなとこで何してんだ?」
バーネットはククイに近づいた。ある程度の距離まで来ると、ククイは突き刺すような声で言った。
「来るな!」
「……?」
バーネットは立ち止まって、明るい表情を消した。
ククイはそう言うと、一歩前に出た。
その先は切り立った崖になっている。見ると、その高さは10メートル以上はあった。足がすくむほどの高さであり、落ちたら、死んでもおかしくない。
しかし、ククイは恐れることなく、ギリギリのところまで歩み出た。
バーネットはその場に立ち止まったまま、沈んだ声で尋ねた。
「飛び降りるのか?」
バーネットが尋ねてしばらくしてからククイは答えた。
「お前には関係ないことだろ」
バーネットもしばらく間を置いてから答えた。
「そうだな。関係ないことだな」
「ならどっか行けよ」
「嫌だ」
バーネットは即答した。
「何が嫌だよ。お前には関係ないことだろ」
「ああ、お前がどうなっても私は知らん。でも、お前が懐に入れてるモンスターボールは回収しないといけないだろ?」
バーネットは真顔で淡々と言った。
ククイは言われて右手で懐に触れた。そこには、長い間を共にしたポケモンを入れたモンスターボールが入っていた。初めてポケモンを手に入れてからかれこれ10年になる。十分に長い付き合いだった。
「可哀想なもんだよ。バカが勝手に死んだら、残されたやつが尻拭いしなきゃならないんだから」
「……」
「でも良かったよ。前回のポケモンリーグでお前が負けてくれて」
バーネットはそう言って朗らかに笑った。
「なに?」
「お前みたいなポケモントレーナーの風上にも置けないやつが勝っていたら、この世はおしまいだろ。お前みたいなクズに憧れてトレーナーを目指す子供たちがいなくなったんだから、世界は実に救われた。本当に良かった」
「……」
ククイは先ほどまでここから飛び降りる気でいたが、バーネットの言葉を聞いて突然死に対する恐怖を覚えた。
突然、足がすくんで、ククイはバランスを崩した。
追い打ちをかけるように、大きな雷が近くに落下した。
ククイの体は崖の外に投げ出された。
ククイがそのときに感じたことは、自分が死んでしまうことに対する恐怖ではなく、自分がいなくなって取り残されてしまうポケモンたちのことだった。
ワタルをライバル視して、誰よりも強くなろうとポケモントレーナー道を歩んできたが、ククイはいつしか忘れていた。
ポケモントレーナーとしての責任。ポケモンに対して責任を持つこと。
たとえ、栄光を掴めなくても、共に戦ってくれたポケモンたちへの愛情と感謝を忘れてはならないこと。
オーキドが言ったポケモンへの信頼と愛情。大切にしていたつもりでも本当のことは何もわかっていなかった。
「すまない」
ククイは最期のこの瞬間になって、ようやくポケモントレーナーの意義を悟った。
やり直せることなら、その意義を決して忘れないトレーナーになりたいと思った。
「びょーたん!」
雷音よりも力強いビードルの声が鳴り響いた。
その瞬間、ククイはビードルのとっしんを受けて崖の上へと押し戻された。ビードルとは思えないほど力強いとっしんだった。
ククイは崖の上に転倒した。強い衝撃だったので、立ち上がることができなかった。
「うぅ……」
体に受けた衝撃よりも、心に受けた衝撃で、ククイは嗚咽をもらした。涙がとめどなく流れた。
瞬間、降り始めた雨がその涙をかき消した。
ククイを突き飛ばしたのは、バーネットが保護を担当していて、つい先ほど野生に還したばかりのビードルだった。
ビードルには怯える顔はなく、力強い表情をしていた。普通のビードルでは繰り出せない強さはバーネットと共に戦ってきた歴戦のたまものだった。
「びょーたん!」
「お前」
バーネットは戻ってきたビードルを抱きしめた。
ビードルは自らの意思でバーネットのもとで戦う決意を固めていた。
バーネットはうなずいてビードルを迎え入れた。
「いいのか? 私は厳しい女だぞ」
「びょーたん!」
ビードルは力強くうなずいた。
それから、バーネットはビードルを肩に乗せて、うずくまったククイのもとにやってきた。
「ククイ、立てよ。ポケモンバトルだ」
「……」
ククイはゆっくりと顔を上げた。
「ポケモントレーナーなんだろ? だったら、勝負は断れないぜ?」
ククイはバーネットの顔をしばらく見ていた。そこには、本物のポケモントレーナーがいた。本物のポケモントレーナーはとても愛おしい顔をしていた。強さと優しさを兼ねそろえた世界一美しい顔立ちだった。
ククイはゆっくりと立ち上がった。
「バカ野郎……お前がおれに勝てるわけないだろ」
「言うじゃないか。それはこっちのセリフだよ」
二人は雨の中、一戦交えた。
ビードルはククイのガオガエンに積極果敢に立ち向かっていった。もう火を恐れるところはなかった。
もっとも、ククイは手加減をしたが、ビードルの無我夢中に向かってくる姿には、ワタルと戦うときに負けないぐらいのプレッシャーを感じた。
ククイはビードルとの戦い、バーネットの戦いからポケモントレーナーとして一番大切なことを学んだ。
その学びが正しいかどうか、ククイにとっての審判の時は間近に迫っていた。
◇◇◇
少しの間、ククイは過去の思い出を振り返っていた。
いや、それはずいぶんと長い間に感じられた。そうした思い出が今のククイを作り上げていた。
ククイは目の前のワタルに尋ねた。
「ワタル、ホウエンリーグの戦いが終わったら、おれと戦ってくれないか?」
「なに?」
「お前のさっきの質問の答えだ。おれの見つけ出した理想のポケモントレーナーに近づけたかどうか、その戦いですべてがはっきりする」
「……」
ワタルは目を細めた。
ワタルがカントーリーグの頂点に立ったとき、ククイはポケモントレーナーの道を去った。
その間、ククイは理想のポケモントレーナーを目指していたという。
ククイの実力はワタルも良く知っている。ポケモントレーナーの道を去ったとはいえ、今でもプロのトレーナーの中堅ぐらいの力は持っているはずだ。
「わかったよ」
「ありがとう。楽しみにしてるぜ」
ククイは席を立った。
「さて、お前が育てたアイリスという子、どれぐらいの実力か見物させてもらうぜ」
「……」
気が付けば、まもなくアイリスの大会が始まろうとしていた。
ワタルが育てたというと語弊はあるが、アイリスはしばらくワタルのもとで指導を受けていた身。
マスコミもそのうたい文句でアイリスに注目していた。