ワタルはおかしな世界に立ち尽くしていた。
虚無という言葉がよく似合う世界。
建物もある。
空には月も浮かんでいる。
近くを人が歩いている。
ところが、無よりもずっと無を感じさせる世界に見えた。
ワタルは人々が道を行き交うのをただ見ていた。
ワタルは思った。
もし、達観した存在があれば、その存在はこのように世界を見ているのかもしれないと。
愚かであり、無能であり、ちっぽけであるからこそ、すべてを有色の概念として見ることができるのかもしれないと。
ワタルは自分がいま疑似的に達観した立場にあることを理解した。
最強のポケモントレーナーを目指してひたむきにここまで生きてきたが、真の王座についた身は世界をこのように無色の概念として見ることになるだろうか。
自分が目指した高みがこの世界なのだとしたら、ワタルはそれを望みたいと思わなくなった。
ふと、ワタルは別のほうに目を向けた。
視線の先には幼いころの自分がいた。
幼いころのワタルは少し大きな上級生たちにいじめられていた。
4人の少年たちに踏みにじられ、頭を抱えて涙しているだけだった。
弱くて情けない姿だった。
そこへ一人の少女が割って入った。幼馴染のナツメだった。
ナツメは上級生の少年を吹き飛ばしていた。エスパー少女の力なのかはわからないが、ナツメは上級生たちを圧倒し、追い返してしまった。
ワタルはナツメに介抱されるのを嫌がり、ナツメの手を払いのけ言った。
「あんなやつら、おれ一人で倒せたのに余計なことをしやがって」
幼いワタルは強がってそう言うと、走り去っていった。
やがて、ワタルは森の中をさまよい始めた。
傍観者のワタルは幼いワタルが迷い込むさまをどこからともなく見ている立場だった。
ただ見ているだけで、干渉はできないそういう不思議な立場だった。
ワタルはしばらく強がっていたが、やがて途方に暮れてその場に崩れ落ちて、静かに泣き始めた。
昔の自分はいつも泣いてばかりの弱虫だった。
今でも覚えている。あのとき、涙しながら願ったことがある。
強くなりたいと。
やがて、ワタルのもとに一人の女性がやってきた。ドラセナだった。
ドラセナはワタルに優しく手を差し伸べた。
ワタルはその手を振り払って立ち上がった。そして、ドラセナに背を向けて歩き始めた。子供とはいえ、傍観者として見ていると、昔の自分がどこまでも大人気ない態度を取るのに腹が立った。
しかし、ドラセナはワタルが歩むのを背中からいつまでも見守っていた。
やがて、ワタルは疲れ果て、その場で座り込んで眠ってしまった。
ドラセナはそんなワタルを優しく背中に負ぶると、そのまま森の外に向けて歩き出した。
傍観者のワタルはそんなドラセナの背中を見ていてあることを直感的に感じた。
ドラセナの背中はかつて自分の目指した「最強」を超越した「真の最強」だったと。
「これが本当の強さか……」
ワタルがそう言うと、虚無に満ちた世界は徐々に消えて行き、遠くへ消えてしまった。
◇◇◇
ワタルは目を覚ました。
部屋が必要以上に明るかった。いつもより長い間眠っていたようだった。
「ワタル、早く起きてよ。間に合わなくなるわよ」
声のほうを見ると、ドラセナが荷物をまとめていた。
今日はホウエン地方のサイユウシティに渡る日である。早朝から出発する予定だったが、寝過ごしてしまったようだった。
「寝坊するなよって言ったのワタルなのに本人が寝坊してどうするのよ」
「いま何時だ……?」
「もう7時過ぎてるよ」
「そんなに寝ていたか、どうかしてるな」
ワタルは頭を押さえた。
ホウエンリーグの開幕が近づくに連れ、戦いのボルテージが上がっていたのは事実だったが、基本的に朝早いワタルがここまで寝過ごしてしまうのはとても珍しいことだった。
ワタルは起きると、速やかに準備を整えた。
部屋を降りてくると、とっくに準備を整えていたアイリスが出迎えた。
「おはようございます、ワタルさん」
「おう」
アイリスはホウエンリーグが終わるまでの間預かることに決まっていた。
長く同居しているので、アイリスがいる光景も慣れたものになっていた。
アイリスは少し引っ込み気味に両手を差し出した。
その手にはドラセナの葉で作られたお守りのようなものがあった。
おそらく、ドラセナの入れ知恵だろう。ワタルは大きな大会の前にはいつもドラセナからこの手のお守りを受け取っていた。アイリスもその真似事をしたのだろう。
最近は、この手のお守りを邪魔に感じていたところだった。
「私の応援が届くようにとお守りを作ったのですが、余計なおせっかいだったでしょうか?」
「……」
ワタルはこの手のお守りに依存することもなくなっていたが、受け取るのを拒絶するのも悪いと思ったので、受け取ることにした。
「きっと百人力になると思います。頑張ってください」
ワタルは受け取ったお守りを見つめた。気のせいか、不思議な力が込められているように感じた。
◇◇◇
フスベシティのはずれの空港に、ワタルの後援会が用意してくれたプライベートジェットが配備されていた。
ワタルを応援するためと地元の人がたくさん集まっていた。
ワタルの人気は世界的であったが、地元の応援の熱量も相当強かった。
ワタルはこういう応援をあまりうれしく思うタイプではなかった。
旗を掲げて熱烈に応援する者も少なくなかったので、どちらかというと恥ずかしい思いがした。
「ワタル、頑張れよ」
「ミクリなんてぶっ飛ばして、世界一のイケメンはおれだと見せつけてやれ」
「カイリューオブザゴッドを見せろ!」
ワタルがやって来ると、野次馬が大きな声で騒ぎ始めた。
ワタルは手を振るようなこともせず、さっさと飛行機に乗り込んだ。代わりにドラセナがその声援を受けた。
ドラセナの応援をする者も少なくなかったので、声援はさらに大きくなった。
「ワタル、すごい人気ねー。うらやましいわ」
すでに飛行機に乗り込んでいたイブキは窓から野次馬を見ていた。
イブキも将来は一流のトレーナーになりたいと夢見ていた。
イブキのほか、ナツメとヒガナも乗り込んでいた。
タケシは3日前から先にホウエン地方入りして、まぼろし島のツアーを満喫していたようであった。昨日はまぼろし島が見えたとワタルに何度もメールを送っていた。
ほか、ワタルのスコアラーや関係者9人が乗り込んでいた。チームワタルは大きく力によって支えられていた。
「アイリスちゃん、どこ座る?」
「私はわき役ですから空いているところでいいですよ」
「何言ってんの。チームのお姫様なんだからファーストクラスじゃないと。はい、ここ」
ドラセナはアイリスを特等席に案内した。
「ワタルはどこ座る?」
「一番後ろでいいよ」
ワタルは一人で集中していたかったから、後ろに向かった。
誰もいない席に座ろうとしたが、一番後ろには先客があった。
「なんだよ、なんでこんなとこに座ってんだよ」
一番後ろの席は荷物が雑然と置かれていたが、その隣にナツメが一人で座っていた。
「荷物番してあげてるのよ」
「具合は大丈夫なのか?」
「絶好調。油断してると主役を奪うわよ」
ナツメは元気そうだった。
少し前の練習中に倒れてしばらく入院していたが、いまは調子がいいようだった。
「何ぼさっと立ってんのよ。座ったら」
「あ、ああ」
ワタルはナツメの隣に座るのをためらっていたが、言われたらそこに座るしかなくなった。
ワタルはもともと群れるタイプではなかったし、異性との関わりも得意ではなかった。
異性に対して初心であるという以上に、ワタルはずっと母子家庭で育ち、物心ついたときから、女が強い環境だった。
ワタルが物心ついたときに見たドラセナはカロスリーグのチャンピオンだったし、同級生のナツメも長らくずっと自分より優秀だった。
ワタルにとって異性へのイメージは「守ってあげたいかよわい子」ではなく「肝の据わった王座の存在」だった。
だから、ワタルにとって、異性との関わりとは常に自分より高みの存在との関わりと同じだった。