あれから10年経ちました。あの日の事、その後のことを書きました。


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 あの日のこと、覚えている限りのことは書きました。
 殴り書きのような感じなので、文は汚いし読みづらいです。自分でも覚えておくために書いたようなものです。


あの日のキオク

 2011年3月11日金曜日。当時私は小学一年生。あの日、あの瞬間までは何ら変わりのない一日だった。

 授業は既に終わり、ちょうど帰りの支度をしていた。次の日が休みということもあって他のクラスの友達のところへ行き予定を立てている人が多く、教室内の人数は普段より少なかった。

 始めは低い地鳴りの音だけだった。それを察知して、教室内にいた私はとっさに自分の机の下に潜った。それは私だけではなく、もちろん教室内にいた人全員が身を隠した。廊下にいた人も教室に戻り、同様に机の下に隠れた。

 大きな地鳴りだけだと思っていた。けれど音は止むこともなく次には横揺れも伴い、その揺れは体験したことのない怪物に変貌を遂げた。地鳴りから揺れに変わるその間五秒ほど。

 小学生の時、「地震が来たら机の下に隠れて、机の脚を押さえろ」と教わらなかっただろうか? あれすらできないほどの揺れだった。どれだけ床に机の脚を押さえつけても机はガタガタ動いた。本当に学校が崩壊してしまうのではないかと思った。これは比喩表現ではない。それくらい、強く大きなものだった。

 担任は怒号のような声で何かを叫んでいた。はっきりとは覚えていないが、ちゃんと隠れろとか頭は隠せとかそんな内容だったはずだ。

 揺れがますます大きくなってきた頃、トイレに集団で行っていた女子が泣きながら帰ってきて机の下に隠れた。私は泣いている子に根拠もなく「大丈夫だよ」と声をかけていた。後に聞いた話だが、トイレのドアが開かなくなり、事務員さんが助けに来てくれたそうだ。

 揺れは二、三分続いた。机の下から出て教室を見渡せば、酷い有様だった。教科書も筆箱の中身も何もかもが散乱していた。けど、そんなこと気にしている時間もなく、担任の指示に従って避難を始めた。幸い、避難階段は私のクラスの一つ教室を挟んだところにあり、教室は二階にあったため校庭に出たのはすぐだった。

 普段の避難訓練のように事は進んでいき、親の迎えを待つことになった。すでに迎えに来ていた親もいて、少なくなっていくのにはそう時間はかからなかった。三十分もすればクラスの半数が帰宅していた。

 空は気味の悪い灰色をしていて、三月中旬だというのに雪まで降ってきた。しばらくは寒空の下にさらされていたが、先生と高学年でブルーシートを広げ、屋根を作ってくれた。喋る友達もいなくなってしまった私は当時五年生の兄のところに行き、ブルーシートを広げながら友達と話しているのを確認してからまた元の場所に帰るという行動を繰り返していた。

 この時、特に印象に残っていたのが上履きを履いていなかったクラスメイトの男子。金曜日は上履きを持って帰るので予め教室で脱いでおく男子がいた。その時は彼だけだったが、とても寒かったと思う。後に担任が外靴を持ってきていた。

 十七時の放送が鳴ると一階の空き教室に避難することになった。教室に入ってすぐくらいに母親が迎えに来た。心配や不安の入り混じった顔をしていた。

 帰宅する前、近くのスーパーに寄ろうとしたが駐車場に車はいっぱいで、少し離れた駐車場の広いスーパーに行った。そのスーパー内で再び地震が来た。多少の揺れがあったものの店員や客なんて関係なく声を掛け合っていたのを覚えている。

 帰宅した家の中は、家電が倒れているわけでも衣服が散乱しているわけでもなく、強いて言うなら冷蔵庫が数センチ前に出ている程度でこれといった被害はなかった。ただ、電気を付けようとしても付かづ、蛇口をひねっても水は出なかった。電気も水道もガスも、今まで日常にあったものがなくなった。

 しばらくしてから父は大量のカップラーメンなどの食料を手にして、同僚と友達を連れて帰ってきた。一時的に避難させる形になった。顔なじみでもあったし人が多い方が安心する。

 夜は両親の結婚式の時に使ったロウソクに火を灯し、石油ストーブを炊いた。私はストーブの上で沸かしたお湯を使い某うどんのカップ麺を食べ、その後すぐに寝た。今考えれば現実逃避だったのだろう。

 

 目を覚ませば日は登っていた。相変わらず昨日のままだった。夢であってほしかった。

 住んでいるアパートの近くに給水トラックが来た。母と兄と一緒にポリタンクをもって列に並んだ。水の入ったポリタンクは重く、運ぶのには苦労した。けど、生活用水はたくさん必要だったからやらなければならなかった。中には子供一人で並んでいたりしているのも目にした。その子は兄の友達で、両親が役所勤めで一人で全てやっていたという。

 お風呂もしばらく入れなかった。沸かしたお湯でタオルを濡らし体を拭くくらいしかできなかった。

 度々余震は起きた。その度に不安に駆られた。

 

 地震が起きてから三日後、電気も水もガスも復旧した。また同じことが起きてもいいようにやっておけることは全部やった。

 私はテレビを見た。他の場所はどうなっているのか、何が起きていたのか。

 そして、津波の映像を目にした。車も家も何もかもが流されていた。黒く濁った水が飲みこんでいっていた。その中で、飲み込まれ流されていく人の姿も目にした。濁流の中、必死に顔を出そうとしていたのだろうか。人の手だけが水面に出ていた。私は唖然と、呆然としていた。何も声が出なかった。けれど、ずっとその映像を見続けていた。

 テレビを見るまではこんなことになっているなんて知りもしなかった。亡くなった方も行方不明になった方も実感のない数字だった。この時、事の大きさ、凄惨さを知った。

 

 

 これが震災当時の記憶。あの時のことは忘れようとしたって一生忘れられないと思う。

 後日談。私の父と母は当時、2人とも海の近くにいました。父は市場関係の仕事で、母は建築関係の学校にいました。父の会社の方には津波は来ませんでした。母は私たちのことが心配だったらしく、危険性がありながら学校に迎えに来てくれました。その時、津波を見たそうです。もしかしたら、2人とも死んでいたかもしれない。とても怖かった。

 私は特に被害を受けることはなかった。けれど、震災の影響で海に行けなくなり、プールにも入れなくなった。津波の映像も未だに見ることができない。2月13日の地震の時は二時間ほど手の震えが止まらなかった。

 あの日、多くの人が多くのモノを失った。もちろん、自分以外の全てを失った人もいる。直接的な被害が少なかった私でさえも、いくつか失ったモノがある。あの地震は人々から何もかも奪っていったのだ。

 震災を経験して、残った景色を自分の目で見てきた。だからこそ分かったことがある。

 この日常が当たり前ではないこと。友達と会って話したり笑ったり、家族と食卓を囲んだり談笑したり。そんな日常が普通だと思った。けど十年前、それを一瞬で失った人がいる。その様子を目の当たりにした。そして普通の生活の尊さを私は知った。だからこそ、今できることは何でもやりたい。生きていて、自分からやろうと思えば何でも挑戦できる恵まれた環境に私はいる。

 もしかしたら、今後東日本大震災と同じような、もしくは上回る災害が起きるかもしれない。その時は冷静に行動してほしい。私自身、あの時は冷静でいたから友達を励ましたりすることができたと思う。誰か一人が冷静でいるだけで場も少しは変わる。それと、準備はあらかじめしておいてほしい。これも私の話だが、最低限、避難経路を把握しているだけで安心度は変わる。これにプラスして防災グッズの確認などもしていればもっと良いだろう。

 

 あの日の記憶は私の中にも残り続ける。忘れたいと思う人だっている。それでまた前に進めるのなら私はそれでもいいと思う。けど、私は忘れないでいたい。また同じようなことがあってもその経験で救える命があるはずだから。




 2年前、中学の国語の先生が言ってました。「もう8年って思う人もいれば、まだ8年しか経ってないって思う人もいるんだ」って。今日だって、まだ10年しか経ってないって、そう思っている人もいるはず。
 書きながら泣いていました。でも、書き切りました。何か、形として残しておきたかったんです。
 あれから10年。小学1年生だった私は高校2年生になりました。小1の頃にはなかった夢もあります。それに、もう少しで受験生なわけで。
 悔いのないように1日1日を過ごしていきたいです。

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