アストロツイン   作:山田甲八

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十一 東京試験

 翌日の午後二時過ぎ、面接を終えた諏訪と龍一はS大学の校舎から出て冬の陽ざしを浴びたところだった。

 諏訪の作戦どおり、保護者同伴面接のインタビューでは面接官というよりも諏訪が主導権を握り、龍一は「僕は毎朝六時半に起きてラジオ体操をやっています」という決め台詞を言うことができた。面接官にウケたことはその場ですぐに分かり、その瞬間、龍一は合格を確信していた。医学部を希望した理由もお金持ちになりたいからではなく、以前、国境なき医師団をテーマにした漫画を読み、とても感銘を受けたからだと答えた。すべては諏訪のシナリオどおりだった。

 S大のキャンパスを正門に向かって歩いていると、遠くから見覚えのある背の高い制服の少女ときれいに着飾った熟年マダムがこちらに向かって歩いてくるのが視界に入った。

 百合花がニッコリ笑って龍一に手を振ると、龍一は隣を歩く諏訪の耳元に顔を寄せ「ゆっぴいママです」とささやいた。

「やあ、この時間だったんだね。こっちは今終わったところ」と立ち止まって龍一。沙織も立ち止まり、同じく立ち止まった諏訪をしげしげと見つめた。

「りゅうちゃん、…この人は?」と沙織。

「ああ、この人は…」と龍一が言うのを遮って、「初めまして。百合花さんのお母さんですね?諏訪と申します。龍一君の実の父親です。いつも龍一…」と諏訪が話し始めた途端、沙織がスルスルと諏訪に近付き、右の平手で諏訪の左の頬を思いっきり叩いた。

「パチン!」という乾いた音がキャンパスに響いた。幸い、他の誰にも見られてはいなかったが、龍一と百合花は声が出せないほど驚いた。

「穂香ちゃんがあなたのために今までどれだけ苦労してきたのかあなたには分かって?」

 沙織は言って諏訪を睨み付けた。いきなり平手で吹っ飛ばされた諏訪は前かがみになって頬を両手で抑え、身体をすぐには起こすことができなかった。

 そんな二人を前に龍一と百合花は口を開け、目を大きく開いた状態のまま固まっていた。

「…ゆっぴいママ違うんだよ」

 ようやく我に返った龍一が言った。

「何が違うっていうの。りゅうちゃん。あなたこの男のことが許せるの?私は許せない。あなただって穂香ちゃんの傍にずっといたんだから分かるでしょ?穂香ちゃんがどれだけ苦労して、どんな気持ちで今まで過ごしてきたのか」と興奮したままの沙織。

「許せるよ。ってか諏訪さんにはとても感謝してる。諏訪さんに会わせてくれたゆっぴいにも、…いや、俺、何言ってんだろう。違うんだよ。誤解だよ。それは、…ゆっぴいママの誤解だってば!」

「ゆっぴい?…何でゆっぴいが出てくるの?」

 沙織がそう言うと、ようやく諏訪は身体を起こし、沙織の方を向いた。

「蓬田さん、あなたのおっしゃるとおりです」と冷静に諏訪。

「……」

「僕には龍一君の父親を名乗る資格なんかない」

 諏訪がそう言うのを聞いて龍一と百合花はハッとしたが言葉は出てこなかった。諏訪が続けた。

「穂香さんにも大変な苦労をかけてしまいました。そのこともとても申し訳なく思っています。でもうれしかったですよ。蓬田さんにひっぱたかれて。龍一君がそんなにもみんなから気に掛けられて、大切にされていたのかって分かって…」

「…穂香ちゃんには会ったんですか?」と引き続き喧嘩口調の沙織。

「ええ。昨日、代沢のアパートで、三人でトンカツ弁当をつつきましたよ。今日のゲンを担いでトンカツでね。三人で食事をしたのは初めてです」

 それを聞いて沙織は少し冷静になった。

「穂香ちゃんのこと、大切にしてあげてください。色んな事情があるのかもしれませんけど」

「はい。スミマセン、面接前の大切な時間に突然現れまして」

 言って諏訪は百合花の方を向き

「百合花さんも面接頑張ってね。まあ、君は学力試験で相当のアドバンテージがあるだろうから、面接なんてただ座っていればいいだけなのかもしれないけど。どのみち、ここは滑り止めだろうし」

 言って今度は龍一の方を向き

「じゃあ、今日はこの辺で。お疲れ様でした。これで全部終了だね。もう身辺整理に入ってもいいかも。捨てるものは捨てて。また連絡します。穂香さんにもよろしくね」

 言って諏訪は三人に背中を向け、ずんずんと井の頭線の駅の方に早足で歩いて行った。

 そんな諏訪を見送る沙織の後ろで龍一と百合花は呆然と立ち尽くした。あまりにも予想外の展開で言葉が思いつかない。

「…りゅうちゃん。どういうことなの?ゆっぴいも。私、全然話聞いていないんだけど。何で突然、お父さんが現れたの?それに随分と親しそうだったけど」

 諏訪の背中が見えなくなってから振り向いた沙織がそう言い、龍一と百合花はお互いに顔を合わせた。

「…後で話すよ。それよりこれから面接なんでしょ?」と龍一。

「そりゃそうだけど」と沙織。

「終わってから話そう。とてもじゃないけど、一言二言で話せるレベルじゃない。複雑な話なんだ。俺ここで待ってるから」

「分かった。じゃあ、また後で」

 そう言うと沙織は百合花を促し、龍一は校舎の中に消えていく二人の後ろ姿を見送った。

 

 四十分くらいが経過し、再び沙織と百合花はS大正門前に現れた。二人を認識した龍一はそのまま二人が近付くのを待ち、百合花と沙織は龍一の前で立ち止まった。三人に笑顔はない。

「どうする?お茶でもする」と疲れた表情の沙織。

「とにかくここじゃ迷惑だから移動しよう」と龍一。

 三人はS大を出て東京大学駒場リサーチキャンパス沿いを無言で移動し、しばらく歩いて区立北沢一丁目児童公園という表示のある敷地の中に入っていった。

 土曜日の午後ということもあり、園内では父親と幼い子どもが遊んでいた。龍一は邪魔にならないような場所で立ち止まり、振り返って沙織を見た。

「あの人、俺の父親じゃないんだよ」とため息交じりに龍一。

「えっ?」と沙織。百合花は沙織の背後に控えている。

「諏訪さんっていう、俺が学費のことで相談してたファイナンシャルプランナーの人。ママに小宮さんとの結婚を勧めてた人だよ」

「えっ、あそうだったの。…でも、なんでまた?」

「Y医大の面接は保護者同伴でしょ?保護者同伴っていっても、分かると思うけどママじゃ絶対に役不足だし、…そりゃ、ママは声優でどんな役でもこなせるけど、それはホンがあるからで。…台本ね。それがなきゃ、入学試験の面接みたいな臨機応変な対応はママには絶対に無理だから。それで、あの人に俺の父親役をやってもらったんだよ」

 龍一がそう言うと、沙織は恥ずかしそうな表情を見せた。

「ああ、そうだったんだ。それならそうと言ってくれれば良かったのに」

「それは無理だよ。本物の父親のフリをしないといけないから。ばれたらとんでもないことになるからね。だから、とにかく試験会場では何が何でも父親でいるって諏訪さん言ってた。だからひっぱたかれても父親として対応したんだと思う。俺もビックリした」

「…どうしよう、私。早とちりしちゃった…でも、なんでゆっぴいが出てくるの?あの人、ゆっぴいのことよく知ってるみたいだったけど」

 沙織は振り返って百合花を見た。

「……」

「どうしたの?何かあったの?」

黙っている娘に沙織は優しく声をかけた。

「ゆっぴいは関係ないよ。ゆっぴいは俺に付き合ってもらって…」

「いいよもう」

ごまかそうとする龍一を少し大きな声で百合花が制した。

「もういいよ。もういい。いずれこういうときが来ることは分かっていたから。せっかくの機会だから、本当のことを話すよ」と百合花。百合花は龍一、そして沙織に強い視線を送った。

「だってそれは」と龍一。

「また諏訪さんとママは顔を合わせるかもしれないし、そんな時に諏訪さんだけが本当のことを知っているっていうのは良くないと思う」と百合花。

「本当のこと?」と沙織。

「そう。本当のこと……本当のこと、全部話すね。ママには隠しておこうと思っていたけど、いずれはママにも話さないといけないことだから」

 百合花は悲しい口調で沙織の方を見た。

「何?何か隠してるの?」

 百合花は頷いた。

「パパのことだよ」

「パパ?」

「そう。パパ。ビックリしないで聞いてね。パパ、…浮気してるの」

「浮気?」

「そう。その、パパの浮気の相手が、今の諏訪さんの奥様。諏訪さんの奥様が病気になってしまって、パパが奥様の主治医になって、それでパパは自分の患者に手を出したんだって。まったく最低だよね」

 沙織が青ざめていくのが百合花にもハッキリと分かった。百合花は続けた。

「それで、ママに知らせるとママはショックに耐えられないだろうと思ったから、私が何とかしようと思って、諏訪さんに会いに行ったの。でも諏訪さんは相手にしてくれなくて、それで、諏訪さんはファイナンシャルプランナーでお金の相談を受け付けているということだったんで、りゅうちゃんに理由つけて会いに行ってもらったの。諏訪さんとのきっかけを作るために。りゅうちゃんも学費のことで悩んでいたからちょうど良かったし。それで、りゅうちゃんのお蔭できっかけができて、私も諏訪さんに会って、パパのことも話した。諏訪さん、全部知ってたよ。奥様から聞いてたんだって。全部」

「全部って?」

「パパの不倫のことも。全部。それで奥様とパパの仲をぶち壊してくれって頼んだのね。奥様がうちを、蓬田家を滅茶苦茶にしているんだって言って。でも諏訪さんはパパとママの関係が冷めたのが先で、奥様が出てきたのはその後からだって、因果関係が逆だって言ってた。だから奥様をパパから引き離してもパパとママの仲を修復させることはできないって。それでも私はパパが憎かったから、だったら一緒にパパに復讐しようって言った。でも、諏訪さんはそれもできないって。パパのことは恨んでいるけど、今は何もできないって。奥様が病気だからって」

 沙織はしばらく呆然としていた。そのうち涙も流れてきた。そんな沙織を見ながら龍一も百合花も動けずにいた。

「ごめんなさい。急にこんなこと言ってしまって。でも、いつまでも隠せないし、今がちょうどいいタイミングだと思って…」と百合花がしゃべるのを遮って

「ゆっぴい、それは違うの…」と沙織。

「えっ?」

「…パパのことを悪く言わないで。パパは何も悪くないの。悪いのは、…悪いのは全部この私なの?」

「……どういうこと?」

 百合花は沙織の言っていることが理解できなかった。今まで興奮していた自分が嘘のように冷静になって、沙織と向き合った。龍一はその沙織の後ろで黙っている。

「私が全部いけないの。私が、…パパのことを裏切ってしまったの」

「えっ?」

「もう何年も前の話なの。私が…、どうしても我慢できなくなってパパのことを裏切ってしまった」

「ママ…」

「パパからは離婚を切り出された。私もそれは仕方ないと思ったけど、ゆっぴいのことが可哀想で。ゆっぴい、まだ小さかったし。…だからゆっぴいが大人になるまでは仮面夫婦でいたいって我がまま言って、パパはそれを受け入れてくれた」

「そんな…」

「だから、パパがたとえよその奥様と何かあったとしても、そのことをママは咎めることはできないの。…あなたが大人になったら、…あなたが大学に行って、卒業して、医者になったら家族は解散するつもりでいた…」

「…なにそれ、…じゃあ、今までのは、…全部お芝居だったっていうの?私だけでなく、りゅうちゃんやりゅうママも騙してたっていうの?」

 百合花が大声を出した。遠くで遊んでいる父子が百合花の方を見た。

「穂香ちゃんには全部話してある。穂香ちゃんにも随分怒られた。でも私の話は真剣に聴いてくれたよ。穂香ちゃんは。穂香ちゃんだけが、私のただ一人の心を許せる友達だった。じじやばばにも言ってない。じじやばばも私は円満な家庭を築いていると思ってる」

「…最低!…じゃあ、私は何だったの?りゅうちゃんまで巻き込んでバッカみたい」

 百合花はそう言うと突然走り出し、あっという間に龍一と沙織の視界から見えなくなった。公園に二人が取り残された。

「…ゆっぴいママ」

 少し沈黙が流れてから龍一が沙織の後ろ姿に声をかけた。

「ごめんなさいね。私がこんなだったばっかりに」と龍一の方は振り返らずに沙織。

「どういうことなの?よく分かんないよ」

「今言ったとおりだよ。私とパパはもうとっくに終わってるの。本当はもうとっくに離婚もしてるのよ」

「マジかよ?」

「百合花のために蓬田は名乗ってる。同じ屋根の下に住んではいるけど、それは単に同居しているだけ。戸籍とか見ればいずれゆっぴいにも気付かれる話ではあった。だからパパがどの女の人と付き合おうとそれは私が干渉できることじゃないの」

「…それで、…どうするつもりなの?」

「もう家族は解散するね。ちょうどいいタイミングだったかも。ごめんなさい。りゅうちゃんに押し付けちゃうけど。ゆっぴいのこと」

「どういうこと?」

「ゆっぴいがY医大を受けるって聞いて、Y医大が四国にあることに気が付かない振りしていたけど、そんなことは最初から分かってた。私は医者を何年もやってるし、Y医大出身の先生も何人も知ってる。気が付かないわけがない。それで、このままゆっぴいがY医大に行ってくれたら、あの家を出て行ってくれたらどんなにいいだろうかなんて考えてた。そんな本心、おくびにも出さないでね」

「……」

「ごめんなさい。私って本当にズルい女」

 沙織はそう言うと、百合花を追いかけるように小走りで公園から離れて行った。

 真冬の寒い児童公園に龍一は一人、ポツンと取り残された。

 

 合格発表の二日後の二月五日の土曜日の午後、龍一は千歳烏山駅近くの雑居ビルの中にある諏訪の事務所を訪れていた。

 笑顔で諏訪に迎えられた龍一はDバッグを開けて大学から送られてきた合格通知書の入っている大きな封筒を取り出し、諏訪に渡した。

「中身は見たのかな?」と諏訪。

「ええ、手続き関係のものばかりです。生協の案内とかも入ってますけど、取り敢えず、そのまま全部持って来ました」と龍一。

 諏訪は立ったまま事務所に置かれたダイニングテーブルの上に書類を広げ、一番手前に入っていた合格通知書をしげしげと見つめた。

「まあ、何はともあれ合格できて良かったよ。最初からこうなるとは思ってはいたけど、万が一補欠合格だったらこれからまた持久戦になるところだったからね」

「それと…」龍一はそう言ってもう一度Dバッグの中を探り、クリアファイルを取り出し「写真です。取り敢えず、学校で撮ったやつをそのまま全部持って来ました」と言って証明写真の入っているファイルを諏訪に渡した。

「願書に貼ったのと同じやつだね。じゃあ、後の手続きは僕の方でやっておくよ。とにもかくにも九日までに入学金を払い込まなければいけないからね。その後の書類提出はじりじりとやるよ。君の確定申告もやらないといけないしね」

「僕の確定申告ですか?」

「そう。君も不動産所得を申告しないといけない身分になってしまったからね。産まれて初めての確定申告だ。まあ、これはまだ期限が先だし、のんびりやるよ。また、申告書出す時にはこの事務所に来てもらおうかな。君の個人番号カードが必要になるし」

「よく分かりませんがどうぞよろしくお願いします」

 龍一はそう言って諏訪に一礼した。

「まだ、学校はあるのかな?」

「来週の水曜日まで学年末試験です。その後は、週一で登校日があるくらいです」

「いよいよ卒業だね」

「諏訪さんのお蔭でここまでくることができました」

「まあ、身辺整理でもしといてよ。引っ越しの荷物、こないだ君の家にはお邪魔したけど、膨大な量になりそうだね」

「それなんですけど、向こうでの僕の住むところなんですが…」

「何か希望はあるのかな?」

「いいえ。諏訪さんにお任せしたいんですけど、部屋の大きさとかはあらかじめ知っておきたいかなと。持って行くものを早めに決めたいので」

「まあ、プランはあるけど、それはまたもう少し具体化したらお話ししよう。少しヒントを与えておくと、持って行きたいものは全部持って行くことができると思うよ。漫画もDVDもゲームも全部ね」

「そんなに広いところなんですか?」

「まあ、東京では学生の身分じゃワンルームがせいぜいのところかもしれないけど、向こうでは同じ家賃でも一軒家が借りられるということだ。無駄に広いのも迷惑かもしれないけど、君の漫画コレクションくらいは所蔵できる大きさのところを物色しているよ」

「ありがとうございます。では入学手続きの件はそんなところでいいですか?」

「うん。それでまだ何かあるのかな?」

「会ってもらいたい人がいるんです」

 龍一はそう言って事務所のドアを開け、外で待っている待ち人を手招きするタイミングがあり、事務所の中に先日よりは幾分ラフな格好の熟年マダムとその娘が入ってきた。

 二人の入室を見届けると龍一は「じゃあ、僕は、今日はこれで」といい、事務所から出て行った。

 沙織はそのまま諏訪の前に進み、深々と一礼した。

「先日は、知らなかったこととはいえ、大変失礼なことをしました。申し訳ありませんでした。それと蓬田のことも。本当にお詫びの言葉もありません」

 沙織は諏訪と目を合わせることなく、もう一度頭を下げた。

「そうですね。龍一君のお父さんと穂香さんの間にどんな事情があるにせよ、彼をひっぱたく権利はあなたにはなかった」と諏訪。

「そのとおりです。私がいけないんです。私はダメ女です」と沙織。

「僕は同情しませんよ」

「とにかく一言お詫びを申し上げたくてりゅうちゃんに無理を言ってこういう機会を作ってもらいました。本当に申し訳ございませんでした」

 沙織はそう言いながらもう一度深く頭を下げると、最後まで諏訪と目を合わせることはなく、「失礼します」と言って足早に事務所から出て行った。

 百合花は開けっ放しのドアを閉めると諏訪の方に振り返った。狭い空間で諏訪と百合花が向き合った。諏訪が私服姿の百合花を見るのは都議選以来だ。

「諏訪さん」と立ったままの百合花。

「うん」と諏訪。

「諏訪さんは知っていたんですね?ママのことも」

「だから最初からそう言ってるじゃないか。…最初からではないか。随分と前から。僕は妻に聞かされていて蓬田家のことは全部知っているって」

「ママのことも知っていたんですね?」

「そういうこと」

「どうして教えてくれなかったんですか?」

「僕がわざわざ君を傷つける必然性はない」

「私も全部知っているなんて生意気なことを言ってましたけど、肝心なことは全然何も知らなかったんですね」

「そう。だから僕は一番最初に大人の事情に首を突っ込まない方がいいと君に警告したはずだ。北沢警察署の生活安全課のお巡りさんとしてね」

「…教えてください。これから私、どうしたらいいのか」

「自分で一番いいと思った道を選べばいいと思うよ」

「それが分からないから聞いてるんです」

 百合花は少し大きな声で、怒った口調で言った。

「じゃあ、君の幼馴染にでも相談してみれば?」

「りゅうちゃんも分からないって言ってます。諏訪さんに相談してみろと。そう言われて今日、やってきたんです」

「なるほどね。龍一君が、話したいことがあるから一時間くらい時間をくれと言っていたけどこのことだったんだね。分かったよ。いいよ。じゃあ、真剣に答えてやろう。分かりやすいように三択で答えてあげるよ。君がこれから進む道は次の三つのうちのどれかだ。まず最初にプランA。君は嫌なことをすべて忘れるんだ。パパのこともママのことも、嫌なことは全部忘れてしまう。パパの不倫に気が付かなかった頃に戻るんだ。そうすれば周りから見れば誰もが羨むような幸せ三人家族にしか見えない。それでその幸せ家族の幸せな一人娘を演じながらN大医学部で六年間を過ごす。少し肩は凝るかもしれないけど、今までの生活の延長だよ。そんなにひどい話じゃない。今の君ならミスN大くらいにはなれるかもしれないね。次にプランB。君は大人が信じられなくなって自暴自棄になる。そして家出して、夜の仕事でも始めるんだ。君くらいの器量と気立ての良さがあれば夜の世界でもきっと人気者になるだろうね。十分食べて行かれるだろうし、医者よりも稼ぎが良かったりして。でもそれはある意味、若さを売っているだけだから長続きはしない。さっさと玉の輿に乗ることでも考えるんだな。玉の輿に乗ってしまえば、それから先は収容所生活になってしまうかもしれないし、パラダイスかもしれない。それは運次第だし、君次第だ。そして最後にプランC。今までの人生を完全にリセットする。そして四国に旅立ってまったく新しい人生をスタートさせるんだ。まあ、傍には相変わらず同じ星の下の幼馴染がいてくれるだろうからまったく新しい人生ってわけでもないと思うけど。さあどれを選ぶ?」

「……」

 百合花は黙ったまま真剣な眼差しで諏訪を見た。そんな百合花を見て諏訪はニッコリと微笑んだ。

「選択の余地はないかな?」と百合花を試すように諏訪。

「そうですね」としっかりした口調の百合花。

「一択ってことだね?」

 諏訪が言うと百合花は力強く頷いた。

「りゅうちゃんはどうするんですか?」

「どうするって?」

「向こうでの生活。大学の寮に入るのか、それとも大学の近くに下宿するのかとか」

「本人にはまだ話してはいないけど、プランはある」

「お願いがあるんですけど」

「龍一君と一緒に住みたいとか?」

「そこまでは言いませんけど、近くに住めたらいいなって。今までみたいに」

「いいんじゃない。同棲しちゃうのも。これまでも半同棲みたいな生活だったんじゃないの?」

「そんなことありませんよ。もちろん、りゅうちゃんの家には頻繁に泊まってましたけど。それにりゅうちゃんは…私には興味はありませんから」

「何言ってんだ。二人は大の仲良しだろ」

「仲良しですけど、それは兄弟姉妹的な意味合いで、りゅうちゃんは私を女としては見てくれてません」

「どうしてだろう?」

「りゅうちゃん、背の高い女は駄目なんだそうです」

「ホントにそうかなあ?」

「そうですよ」

「君の方が龍一君よりも背は高いよね?」

「ええ。五センチくらい私の方が高いと思います。もっと小さく、かわいく産まれてくれば良かった」

「そんなこと言ってると世界中の女子を敵にするよ」

「…皮肉なもんですよね。声かける男はいくらでもいるのに」

「…なるほどね。君くらいになるともう、男を外見では選ばなくなるってことか?」

「そこまでは言ってません」

「まあ、君のリクエストは理解できた。分かったよ。君にとっても、龍一君にとってもベストなプランを何か考えよう。それと穂香さんにとってもね」

「りゅうママも?」

「だって穂香さん、今度は一人ぼっちになっちゃうからね」

「そういうことですね。でもうちのママとはくっついたまんまだと思います。二人は厚い友情で結ばれてますから」

「戦友みたいなものかな。でも人生って不思議だね。あの時、君のママが変な正義感振りかざして僕をひっぱたかなかったら、今でも彼女は君の優しいママで、君は優しいママのところからN大に通うという六年間を選んでいたんだろうね」

「それを言うなら私がりゅうちゃんを煽って諏訪さんのところに行かせなければ、りゅうちゃんも私も全然違った人生を歩んだんでしょうね」

「そりゃそうだね」

「…でも、これで良かったんだと思います。どこかで膿は出さなきゃいけなかった」

 諏訪は百合花に席を勧め、食器棚からコーヒーカップを二つ取り出してテーブルに並べると、コーヒーメーカーのコーヒーを注いだ。

 

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