アストロツイン   作:山田甲八

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二 幼馴染

 同じ日の夕方の代沢の都営アパートの一室。

 龍一はダイニングキッチンでテレビゲームに熱中していた。

 龍一の住む鉄筋のアパートは二DKという間取りだ。リビングがない間取りというのも今では珍しいのかもしれないが、このアパートが建てられた当時は画期的だったはずだ。

 このアパートではその二つの部屋を穂香と龍一で分け合っている。しかし、穂香はこのアパートには寝に帰るような生活なのでいつの間にか共有エリアのはずのダイニングは龍一の部屋と化し、龍一の部屋は倉庫のように龍一のモノで埋め尽くされるようになってしまった。

 時計の針は午後五時半頃を指している。

 不意に玄関がノックされ、ドアを解錠する音がして玄関が開き、百合花が入ってきた。両手でテフロン加工の鍋を抱えている。その小さなお尻でドアを閉め、「バタン」という鈍い音がした。

「やっほ~」

 ゲームに集中していた龍一はゲームの画面を見たまま声をかけた。

 約束は明大前のはずだったが、中途半端な時間に龍一は帰宅してしまい、改めて出かけていくのも面倒になったので待ち合わせ場所を代沢の自宅アパートに変更していた。

 百合花の自宅は龍一の住む都営に隣接している高級住宅街にあり、百合花も一度帰宅して、着替えてからママが作った晩のおかずの入った鍋をかかえ、龍一のところに移動した。

「お待たせ~」

 ダイニングに侵入した百合花はそう言って、両手鍋を龍一の前に突き出した。

「カレー?」と龍一。

「ノンノン。ビーフストロガノフ。お腹空いてる?」と百合花。

「そうでもないなあ。ゆっぴいは?」

「あたしはペコペコ。十時頃に朝マックしたっきりだからね。ご飯ある?」

 百合花はそう言いながらキッチンに移動し、両手鍋をガス台の上に置いた。

「四合くらいお釜にあるんじゃないかな?もう冷めてるだろうけど」

「じゃあ温めればいいね」

 百合花がそう言って炊飯器の中を確認すると、ゲームの局面が一段落し、龍一はコントローラーを脇に寄せ、二脚しかないダイニングテーブルの椅子の一つに腰掛けた。百合花は炊飯器の保温ボタンを押してから、龍一の対面に座った。

「どっちから先に話す?」と龍一。

「じゃあ、私から」と百合花。

 百合花は首にぶら下げたポーチから二枚の名刺を取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。

 二人は年齢とほぼ同じ期間、このように過ごしてきた。

 二人の出会いは保育園のゼロ歳児クラスだった。そして二人のママが保育園の保護者会で同じ役職を引き受けたことから二人は必然的にお互いの家を行き来するほど親しくなっていった。

 二人のママは医師と声優で、経済力の差は歴然としていたが、時間という万人に平等に与えられている資源の配分を巡っては共生関係にあった。都立病院に勤務する百合花のママは平日の勤務時間が長く、徹夜になることも稀ではなかった。一方、声優である龍一のママは勤務時間の時間的・場所的拘束が少ない一方、休日にはイベントなどに駆り出され、不在となることが多かった。

 二人のママはお互いにフォローしあった。龍一が百合花の家にお泊りすることは滅多になかったが、百合花は頻繁に龍一の家にお泊りした。その結果、二人は双子のように育ってきた。

 百合花は随分前からこの部屋の鍵も持っていて出入り自由であり、龍一も穂香もそれを当たり前のことと思っていた。

「刑事が来たの?」

 北沢警察署の名刺を見た龍一が言った。

「そう」

「ご本人さんと二人で?」

「いや、そうじゃなくて、…来た男の人は一人だった。そして最初に諏訪さんの名刺を出したもんだから、私はその人がてっきり諏訪さんご本人かと騙されちゃったってわけ」

「その人、刑事だったんだ?」

「援助交際じゃないかって疑った諏訪さんが警察に相談したんだって。それでこのお巡りさんがやってきたの。諏訪さんの名刺持って。私服だったんで最初は分かんなくて、『奥様が浮気してます。うちのパパと』って言っちゃったけどね」

「そっか。本人には会えなかったんだ」

 龍一が言うと百合花は頷いた。

「パパの浮気の話はしたんでしょ?」と龍一。

「でも、警察は民事不介入だからって言われちゃった」と百合花。

「で、これからどうするの?」

「そこでりゅうちゃんに相談なんだなあ」

「相談?」

「りゅうちゃんも相談したいって言ってたよね?学費のことで悩みが出たって」

「うん」

「どうしたの?」

「まあ、予定どおりだよ。三者面談。まずは学費をどうにかしろってことになった」

「先生にはなんて言ったの?」

「これも予定どおり。医学部志望だって言った」

「予定どおり自爆したんだ?」

「そう。自爆した」

「でっ?」

「それでどうしようかって思ってるんだ。偏差値はともかく、学費は自分の力じゃどうしようもないからなあ。奨学金の話もしたけど、それだけじゃ難しいと言われたよ。事実そうなんだろうけど」

「じゃあプロに相談してみたら?」

 百合花は少し微笑みながらそう言ってテーブルの上に置いたFPの名刺を手に取り、龍一に渡した。龍一は名刺をしげしげと見つめる。

「この人に電話するの」と百合花。

「…それで?」と龍一。

「学費がないんだけどどうしたらいいですか?って相談するの。私はそれで釣ろうと思ってたんだけど、りゅうちゃんは釣りじゃなくてホントに相談するの」

「うん」

「要は、この人に実際に会ってみてほしいの」

「それで?」

「それで、……その先はまだ分かんないんだけど、きっかけをつかみたい」

 龍一は少し考えた。目の前の名刺には「辛口財産診断所」と書いてある。

 龍一はお金についてはしっかりしている方だと思っている。別にそれを目指していたわけではなかったが、結果的にそうなった。ママの穂香は宵越しの金は持たない性格で、貯金もしていない。借金もしてはいないから分相応の生活をしているといえなくもないが、家計が苦しいのに家計簿すらつけていない。

 あんまりひどいので仕方なく龍一が家計簿をつけ始めたのは中学に入ってすぐ、給食費の納入が滞るようになってからだ。

 穂香は必要最小限のお金しか家計に入れない、というか金銭感覚が通常ではないので、龍一は中学生にして家計を管理することとなった。

 穂香は仕事第一だが、酒を飲んだり、ギャンブルにつぎ込んだり、龍一を殴ったりすることはない。しかし、本当のプロなので仕事に対する取り組みが尋常ではない。それが収入に対して経費が掛かり過ぎる→貧困から脱せない元凶になっている。

 結果として龍一にはしっかりとした金銭感覚が身に付いた。今の状況で医学部に進学することが難しいことも理解している。ただ、十七歳の今、夢を諦めてしまうのは早すぎるとも感じている。

「……分かった。いいよ。普通に相談してみるね」

 龍一は少し考えてからそう言い、続けた。

「で、どうすればいいのかな?」

「そうだね、いきなりその事務所、場所は千歳烏山かな?…そこの事務所に行くのも不躾だし、アポは取った方がいいとは思うから、取り敢えず電話することかな。学費のことで相談したいんですけどって。私みたいに」

「警戒されないかな?」

「警戒はされるだろうね。『どうしてここの電話番号知ってるんだ?』って話にはなるかもしれない。だから、それは私に紹介されたでいいよ」

「パパの不倫のことも言っていいの?」

「そこまでは言わなくてもいいよ。言ってもいいけど、そうすると警戒してくるだろうから。だからさ、私からその話は聞いていないことにして、あくまでも、学費のことで悩んでたら、私のパパの知人の夫ということで私に紹介されたってことにすればいいよ。事実そうなんだし」

「……分かった。今日はもう遅いから、明日にでも電話してみるね。…ゆっぴいも大変だと思うけど、そういうことなら俺の方もゆっぴいの話は抜きで、ガチで相談してみるからさ」

「ありがとう。そう言ってくれると思ってた。じゃあ、ご飯にするね」

 百合花はそう言ってキッチンに向かい、テフロン加工の両手鍋が乗っかっているガス台に火をつけた。

 

 龍一の通う都立M高等学校は桜の季節を終えようとしていた。

 翌四月七日は入学式でM高校だけでなく、百合花の通う目と鼻の先のN大学付属高等学校でもそれは挙行されていた。

 下高井戸の街はフレッシュマン達であふれていた。

 そんな、街の喧騒をよそに、龍一はM高校の図書室の、入口から一番遠い席に座り、机の上にスマホ、メモ帳、シャーペン、百合花から預かった諏訪幸治の名刺を並べていた。

 図書室には他に誰もいない。静かな時間が流れている。龍一はスマホの電波時計が十三時ちょうどをキャッチするのを待った。

 スマホの時計が十三時を示すと、龍一はゆっくりとスマホを手に取り、電話機能を起動させ、名刺に書いてある〇三から始まる電話番号を押した。

 スマホを耳に近付けると、回線がつながるタイミングが少しあり、コール音が鳴り響いた。三コール半で先方が出た。

「はい、辛口財産診断所です」

 鈍い男の声がした。昨日、何度も百合花と練習したので龍一の声は滑らかにスタートした。

「もしもし。伊波と申します。初めてお電話を差し上げます。お忙しいところ恐縮です。今、お時間よろしいですか?」

「どんなことでしょう?」

 男の声が少しふてぶてしくなった。

「実は僕、高校三年生なんですけど、大学進学を希望してまして、でも家が貧乏で、学費が準備できなくて、それでどうしたらいいかと思って相談させていただきたいんです。そちらはお金の悩みを聴いてくださると聞いているのですが…」

「……どうしてここを?」

 スマホの向こうで怪訝そうな声が聞こえた。

「…友達に紹介されたんです。失礼ですが諏訪幸治さんでいらっしゃいますか?」

「ええ」

「蓬田百合花をご存知でしょうか?僕の、昔からの友達なんですけど、学費のことで悩んでいましたら、彼女の父親の知人でファイナンシャルプランナーがいるから相談してみたら?って言われまして、それでホームページなんかも見せていただいたんですけど、ホームページにも『お気軽にお電話を』って書いてあったりしたもんですから。ですからいきなりで失礼かとは思ったのですが、お電話させていただきました」

「…なるほどね。…君は、…蓬田百合花さんのお友達?」

「はい」

「高校生と言ったね?」

「高校三年生です」

「確かに僕はここでマネーの相談を受け付けてはいるけど、でもボランティアでやっているわけじゃないんだ。一応、商売なんでね。だから、相談に来てくれるのはもちろん構わないのだけど、ただというわけにもいかない。相談料は払えるのかな?」

「相談料…ですか?」

 龍一が予想していない展開だった。確かに弁護士や税理士でもそうなのかもしれないが、相談料を払えと言われれば理解できないことではない。

「難しいよね?学費も払えないくらいなのだろうから」

「ええ、それはまあ」

「じゃあ、こうしよう。ここに来るとなると君は僕に相談料を払わなければならなくなる。でも、僕は世田谷区民向けに区民相談というのを不定期にやっている。たまたま次の火曜日の午後に烏山区民センターでやるからそこに来るといいよ」

「それは…無料…なんですか?」

「無料かと言われれば無料なんだけど、ボランティアというわけじゃない。区から日当が出るんだ。区報に案内が出ていると思うから確認して予約を取るといいよ」

「予約ですか?」

「区役所に電話するんだ。まあ、区報を見てみてよ」

「分かりました。区報、確認してみます」

「じゃあ、火曜日の午後に烏山区民センターで」

「何か持っていくものとかありますか?」

「特には必要ないけど、学費の相談というからには進学希望なんだよね?」

「はい」

「大学かな?」

「そうですね」

「では、その青写真は聞かせてもらうからそのつもりでね。それと、これが大事なんだけど、遠慮はしないでほしい。まだ遠慮する場面じゃないからね。だから、例えば留学したいとかいうのであれば、それはそれで夢を語ってほしい」

「分かりました」

「君は初めてだろうから色々と心配事があるだろうし、緊張もするかもしれないけど、僕の方は別に君が初めてというわけじゃないし、今までに何件もこなしているから気楽に構えてもらって構わないからね。では火曜日に」

 そう言って電話は事務的に切れた。想像していたよりも普通の人というのが龍一の印象だった。すぐに百合花にLINEでメッセージを打った。

 

               りゅうちゃん【電話したよ】

               りゅうちゃん【会うのは次の火曜日の午後になりそう】

 

 ほどなく、百合花から返信が来た。

 

ゆっぴい【お疲れ様】

ゆっぴい【ありがとう】

ゆっぴい【今どこ?】

 

               りゅうちゃん【学校だけど】

 

ゆっぴい【私も学校】

ゆっぴい【もう帰れるのかな?】

 

               りゅうちゃん【うん】

 

ゆっぴい【じゃあ一緒に帰ろう】

ゆっぴい【ご飯は?】

 

               りゅうちゃん【まだ】

               りゅうちゃん【ゆっぴいは?】

 

ゆっぴい【私もまだ】

ゆっぴい【ガストでも行く?】

 

               りゅうちゃん【昨日ママと行ったばっかりなんだよ】

               りゅうちゃん【じゃあ駅の吉牛で食ってるね】

               りゅうちゃん【帰りながらしゃべろう】

 

ゆっぴい【ほいほ~い】

 

 龍一はすぐに区役所のウェブサイトで区民相談を確認し、区役所に電話をして相談の予約を取ってから下高井戸駅へ移動した。

 

 しばらくの後、下高井戸駅橋上駅舎改札外の吉野家で牛丼特盛をつついていると百合花が入ってきてカウンターの龍一の隣に座った。店の中にいた客が男女を問わず、五月雨式に百合花を二度見した。

 ただのどこにでもいる高校三年生に過ぎないはずの百合花は自宅のある代沢、あるいは下北沢、あるいは下高井戸では割と有名人だ。それはひとえにその高校生らしからぬ容姿にある。

 身長は百七十センチを越える八頭身。大きな瞳。つやのあるサラサラストレート。すれ違えば振り返らない男の方が少数派だろう。

 百合花の目の前に温かい緑茶が置かれ、百合花はすかさず「牛丼並と卵」と言い、留学生と思われる店員が復唱した。

「こないだ香港に行ったじゃん。香港にも吉野家あるんだけど、生卵はないんだよね~」と百合花。

「卵の生食は日本独自の食文化だからね」と龍一。

 それから二人はすぐに本題には入らず、今日から始まった新学期の情報を交換した。

 そのうちに百合花の前に牛丼並と生卵が差し出され、百合花は並の上に紅しょうがをのせ、卵を割って醤油を少し入れてからはしで溶き、どんぶりの上に注いでさらにその上に唐辛子をかけてからはしでつついた。

 龍一の通う都立高校と百合花の通う付属高校は目と鼻の先だ。両校とも付属高校の上にある大学のキャンパスと隣接しているので隣同士といってもあながち的外れではない。

本当は百合花も龍一と同じ都立高校に通いたかった。高校でも同じときを刻みたかったのだ。

 しかし、百合花のパパはこれに反対した。パパは自分が果たせなかったK大医学部進学の夢を一人娘に託したかった。

 中学受験からパパは自分の書いたシナリオに娘を乗せようとしていた。しかし、百合花は、小学校で続けていたバスケットボールを中学でも、同じ仲間と続けたいと強く主張し、区立中学に進学した。

 高校受験では同じ仲間とバスケットを続けるという言い訳を使うことはできなかった。それでもなるべく龍一の近くにいたい百合花は龍一の受験する本命の都立高校と目と鼻の先で、上の大学には医学部もあるN大付属高校に進学することでパパと妥協した。

 K大医学部にこだわりのあるパパはもちろんK大付属高校への進学を望み、それについては百合花も大きな抵抗はしなかった。「ハイハイ」と従っていた。K大付属は八十近い偏差値が必要であり、どんなにガリ勉してもそう入れるものではない。第一志望としてK大付属に願書を出し、受けにも行ったが、合格することはなかった。

 結局、高校に進学しても二人の距離は離れることはなく、百合花は放課後や休日の暇な時間を龍一の住む都営で過ごした。思春期をとうに迎えてはいたが、二人の関係が別の形態に進化することもなく、双子のように育てられた二人は引き続き双子のように、アニメを見たり、漫画を描いたり、ゲームをしたり、秋葉原に遊んだりしていた。

 そんな二人を彼氏と彼女のように見ている人もいた。二人は肯定も否定もしなかった。二人の関係は二人が承知していたから。

 おせっかいな百合花の友達は「あんな男と付き合うのはやめろ」と言い、龍一の友達は「お前とは不釣り合いだ」と言った。二人は気にしなかった。

 百合花にとっての龍一は、繁華街を歩けば声をかけてくる無数の男達から守ってくれるボディーガードであり、龍一にとっての百合花はファッションアイテムの一つであるようにも見えた。

「じゃあ、ここは私が払うから」

 牛丼を片付けた百合花は自分の分と龍一の目の前にあるもう一枚の伝票を握ると大きくそれを振って店員を呼んだ。

「いいよ、俺の分は俺が払うよ~」と龍一は一応、言ってはみたものの、「まあまあまあ」と百合花に言われるとそれ以上の抵抗はしなかった。というより、最初から龍一には支払いの意思はなかったという方が正しい。だから特盛を頼んだし、卵もつけたのだ。そもそも百合花が来ないのであれば吉野家が選ばれることもない。

 二人が飲食を共にする時、支払うのは大抵、百合花だ。その対価として百合花は龍一の住む都営の鍵を持ち、龍一の所有する漫画を読み、ゲームソフトで遊び、DVDを見る権利が与えられている。百合花も龍一もそう解釈している。

 お金を持っている百合花とお金以外ならなんでも持っている龍一はお互いのママのように十八年近くの間共生関係にあった。

 勘定を済ませると二人は牛丼屋を出て、向かいの本屋を少し冷やかしてからホームに向かった。

 

「で、どうだった?」

 京王線の上りホームに降りた百合花はようやく本題を切り出した。ちょうど反対側の下りホームで高尾山口行きの準特急電車が通過しているところだった。

「結構、紳士的な人だったよ。それで、今度の火曜日に烏山区民センターで無料相談会をやるからそれに来いって言われたよ」

「無料相談会?」

「法律相談とか税金相談とか、区役所がその道の専門家を用意して、区民からの相談を受け付けるんだって。ゆっぴいにLINEした後、すぐに区役所に電話して聞いたら、火曜日の午後の予約がすぐにとれたよ」

「へ~、なんでまた無料相談会なんだろう?」

「俺が直接、諏訪さんの事務所に行くと諏訪さんとしても相談料を取らなきゃいけなくなるんだって。あくまでも商売だからって。そう言ってた。だから相談料を払わなくてもいい区役所の相談会を勧めてくれたのさ」

「なるほど、そう言われてみると紳士的だね。で、私のことは何か言った?」

「友達の父親の知人が諏訪さんだって説明はした。蓬田百合花っていう名前も出したよ。それについては特に突っ込みはなかった」

 龍一がそう言うと上りホームに新宿行きの各駅停車が入線してきて停まり、ドアが開いて二人は乗り込んだ。

「話、変わるんだけどさ」と龍一。

「ん?」と百合花。

「俺の進路の相談ってことになったけど、ゆっぴいの方はどうなの?進路」

「どうなのって?」

「まあ、医学部に行くんだろうとは思ってはいるよ。だから今まで、俺のことはともかく、ゆっぴいの進路のことは全然話題になって来なかったもんね」

「うん」

「俺は、ゆっぴいも、ゆっぴいのパパもママも同じ考えかもしれないけど、ゆっぴいは内部推薦でN大の医学部に行くと思ってて、それがあまりにもあたり前のことだと思ってきたから今まで、その話題もしてこなかったんだけど、実際にはどうなんだろう?」

「さあ、そうやって改めて聞かれるとよく分からないね。りゅうちゃんの言うとおり、私も、パパもママも、そういう進路があたり前だと思っているのかもしれない。だから、それ以外の希望を私が口にしたりしたら、周りはビックリするかもしれないね」

「実際はどうなの?本当に医学部に行きたいの?ってか医者になりたいの?」

「それ以外の選択肢は考えていなかったからなあ。でも、何になりたいのか?って聞かれると、今、パッと頭にひらめいたんだけど、声優になりたいかな」

「声優?」

「そう、りゅうママだね」

「なんでまた?」

「そりゃ、好きだからに決まってるでしょ」

「こんなに貧乏なのに?」

「だって、りゅうママ、すごく楽しそうじゃない?仕事が。うちのママは、確かにお金は稼いでいるし、ビジネスクラスで海外旅行にも行けるのかもしれないけど、仕事は基本、つまらないよ。そりゃ、時には人の命を助けて感謝されることもあって、やりがいを感じる瞬間もあるのかもしれない。しかし、そんなのは一瞬で、基本は患者やナース、薬屋さんとかなんかの人間関係に忙殺される毎日だと思うよ」

 百合花がそう言うと隣の明大前の駅に到着し、二人は電車から降りた。二人は井の頭線のホームを目指して歩き、エスカレーターを降りた。

 ちょうど渋谷行きの電車が待っていて、二人は、最後は少し小走りに飛び乗り、電車はすぐに走り出した。

「あれ、急行に乗っちゃったね」と龍一。

「いいじゃん。下北で降りれば。それに今はなんか、ちょっと街の空気吸いたい気分だし。ちょっと歩こうよ」と百合花。

 二人の最寄り駅は下北沢より一つ渋谷寄りの池ノ上だ。だから下北沢で各駅停車に乗り換えてしまえばいい話だ。しかし下北沢と池ノ上はあまり離れておらず、歩いて移動できる距離だ。池ノ上は住宅街。それに比べて下北沢は賑やかな街だ。

 心が落ち着かない百合花は、暇な平日の午後、気の合う龍一と少し下北の街をブラブラ歩きたい気分だった。

「さっきの話の続きだけど、医者の仕事が大変だっていうのは俺もゆっぴいママを結構、近くで見てるから分かるんだけど、だからって声優になりたいってのは行き過ぎなんじゃない?」と龍一。

「そうかなあ。あたしはりゅうママに憧れるけど」と百合花。

「憧れねえ。うちのママみたいになりたいの?」

「だって、うちのママはどう見ても年相応。あれでも結構、お金かけてるんだよ。りゅうママはとても年齢どおりには見えないもんね。もちろんりゅうちゃんの妹には見えないけど、ママには絶対見えないよね?」

「でも、それが幸せかどうかは分からないよ」

「幸せだよ。だって、自分の好きなことに打ち込んでいられるんだもん。あの年齢でまだ青春時代。素敵だよね。うちのママはおじいちゃんの敷いたレールの上を走って来ただけ。そして自分もレールを敷いて、娘に走らせようとしている」

 二人の会話はそれだけだったが急行電車は下北沢駅のホームに滑り込み、電車から降りた百合花と龍一は小田急線に乗り換える乗客たちの波に流されながら進んで改札の外に出た。まだ午後二時前だった。

「どうする?まだ時間早いけど。家帰ってゲームかな?」

 下北沢のダラダラ坂を下りながら龍一はそう言って百合花を見た。

「久し振りにカラオケでも行こうかな~。なんか大声出したい気分」

 カラオケボックスの看板が視界に入った百合花がそう言った。

「ヒトカラ?」

「なわけないでしょ?ヒトカラのどこが楽しいの?カラオケってのは自分の下手な歌を他の人に無理やり聴かせるのが楽しいんでしょうが。りゅうちゃん、今日、これからもちろん予定はないよね?」

 百合花はそう言うと強引に龍一の手を掴み、二人はその看板のある雑居ビルの中へと消えていった。

 

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