アストロツイン   作:山田甲八

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三 烏山区民センター

 翌週、四月十三日の火曜日の午後、龍一は下高井戸駅の下りホームで通過する高尾山口行きの準特急電車を少しイライラしながら見送った。

 準特急はこれから目指す、千歳烏山駅には停車するが、ここ下高井戸は無残にも通過してしまう。なぜ、東急世田谷線の連絡駅である下高井戸を通過し、特に何の変哲もない千歳烏山に停車するのかしばらくの間、龍一には理解できなかった。

 その疑問を解きたいがためにインターネットで調べたこともある。千歳烏山は明大前と調布の間で一番乗降客数が多いということが理由のようだった。

 そんな理由では納得できなかった龍一は下高井戸駅の駅員にも聞いてみた。駅員は準特急を下高井戸に停めると午前中の特定の時間帯に準特急が混雑し、それがダイヤの乱れにもつながるので下高井戸は通過するというような説明をしていて今度は龍一も納得した。下高井戸で世田谷線に乗り換えたいと思う客は多いだろうから、そんな客は各駅停車に乗ってもらって、明大前で井の頭線に乗り換える客だけを特急や準特急は運ぶという鉄道会社の考えは確かにロジカルではある。

 そんなことを考えていると各駅停車がやって来たので、これに乗ると桜上水や八幡山で後続の優等列車に抜かれ、そこでまたイライラさせられるのだろうなと思いながら、龍一はそれに乗り込んだ。

 実際、後続列車に抜かれはしたが、千歳烏山にはすぐに到着した。目的地の烏山区民センターは北口のほぼ駅前といってもいいところにある。他に背の高い建物は周りにはないから迷うこともない。

 龍一がこの区民センターに来るのはほぼ半年ぶりだった。

 ここの区民センターは一階が三百人くらいを収容できるシアターのようになっていて、半年前、とある納税協力団体が主催する、とある講演会が開催され、出かけて行ったことがある。講演者の名前は既に思い出せないが、日本に嫁いできたチベット出身の歌手で、話す内容は面白かった。

 日本に来て水道からお湯が出たのがビックリしたとか、停電しないのがビックリしたとか、何かカルチャーギャップのような話を面白おかしくしていた。家賃の安い都営に住んでいる母子家庭の龍一は、この国では貧困層に位置しているのだと認識している。しかし、各家庭に瞬間湯沸かし器が設置されていて、水道からお湯が出ることは、この国ではあたり前のことであり、停電はあの地震の時以来、経験していない。きっとあの地震がなかったならば産まれてこの方、一度も経験していないだろう。

 区民センターの建物を見た龍一には、半年前、そんなことを考えた記憶が蘇った。

 建物に入ると龍一は、この日、四階のフロアで区民相談会が開催されていることを掲示板で確認し、エレベーターに乗り込んだ。

 約束の午後四時まではまだ少し時間があったので五階の区立図書館で時間を潰そうと考えていたが、場所だけ確認しておこうと思い、エレベーターは四階で降りた。

 エレベーターを降りると正面にはイベントホールのような広い部屋があり、左側に細い廊下があって、ドアの前に「区民相談会場」という看板が出ていた。

 看板の出ている部屋の前に進んで中を覗くと、学校の教室の半分くらいの大きさの部屋に会議用の長机が一つ置かれていて、その向こう側に年恰好五十くらいの中年の男が座っていて覗き込んだ龍一と目が合った。

 男はサッと右手を挙げ、それにつられて龍一は軽く会釈をした。

「随分早いな。まあいいよ。今日の相談は君が最後だから。どうぞ。ああ、ドアは開けっ放しでいいからね」

 そう言われて龍一はその男が諏訪幸治本人であると認識し、「失礼します」言ってから数歩移動し、対面に座った。

「改めましてはじめまして。ファイナンシャルプランナーの諏訪幸治です」

 諏訪はそう言って龍一の目の前に何日か前に見たのと同じ名刺を置いた。

「よろしくお願い致します。電話しました伊波龍一です」

 龍一はそう言って頭を下げた。龍一はもっと何組もごった返している、雑多な光景を想像していたが、狭い空間に二人きりになってしまい、少し緊張した。入口の扉が開いていることでかろうじて閉塞感を感じずに済んでいる。

「今日は、後は君だけだから時間はたっぷりある。一応、相談終了時間は十七時ということになってはいるんだけど、相談を途中で打ち切ることがとても失礼なことであることはセンターも承知しているから、センターから出て行けと言われるまでここでしゃべっていて大丈夫だよ。だからまあ、のんびり話をしてもらって構わない」と諏訪。

「はあ。もっと混雑しているのかと思ってました」と龍一。

「まあ、こんなもんだよ。法律相談とか税金相談とかも区は受け付けてはいるんだろうけど、今日は予約が入らなかったってことかな。それだけ悩んでいる世田谷区民は少ないということさ。この国はうまくまわっているってことだ」

 諏訪はそう言って一枚の紙を龍一に向け差し出し、その上にボールペンを置き、続けた。

「まず最初に受付票に記入してよ。まあ整理票のようなものだから気楽に書いてね。でも、嘘は書いてほしくはないかな」

「嘘を書く人なんかいるんですか?」

 龍一は何か試されているような気がした。ボールペンを手に取り、差し出された整理票に記入していく。

「今日は学費の相談のようだから嘘を書く必然性はないのかもしれないけど、女の人とかだと年齢をさばよんだりすることがあるんだ。マネーの相談だと年齢によってできることやできないことがあるからそういうことされるとこっちも困っちゃうんだよね。保険とか、税制上の優遇措置とかね。でも君は高校三年生だってもう白状しているからそんなことは関係ないけどね。…んんっ?」

 ちょうど生年月日を書き終えたところで諏訪がうなった。

「どうかしましたか?」

「いや、蓬田百合花さんのお友達って聞いたけど、生年月日一緒なんだなあって思って」

 諏訪がそう言ったので龍一は少し混乱した。諏訪と百合花はまだ面識すらないはずだ。それなのに諏訪は百合花のことをよく知っているように言った。龍一としては百合花の紹介ということで諏訪と面会しているので諏訪と百合花に面識がないことを知りながらも、二人には既に面識があるかのように振る舞わなければならない。

「……ええ。アストロツインと言われています」

 少し間があってようやくごまかしの一言が龍一の口をついて出た。

「アストロツイン?」

「ええ、アストロツインです。日本語に訳すと占星術上の双子とでも言うんですかね。生年月日が同じ二人ってことですけど、生年月日が同じってことは星占いでは同じ星の下、同じ運命をたどるってことになるはずですから」

「……なるほどアストロツインか。それで君達は同じ運命をたどっているのかな?」

「いいえ、そんなことはありません。彼女は……ご存知だと思いますけど、大金持ちで…」

 龍一は「医者の娘」と言おうとしたところをぐっと飲み込んだ。諏訪が百合花のことをどの程度知っているのか分からないのだ。不必要な情報を提供するべきではない場面であることを龍一は強く意識した。

「…それで、君は貧乏だと言うのだな?」

 言葉を飲み込んだ龍一の後を諏訪が続けた。

「そのとおりです」

「そうか。それで、この前も電話で言ったけど、君の忌憚のない希望はどういったことなのかな?とにかく今は現実を考えないで夢を語ってもらいたい。宇宙飛行士でもプロ野球選手でもなんでもいいよ」

「実は、……医学部に行きたいと思っています」

 整理票を書き終えた龍一は、紙を諏訪の方向に向けてから素直に言ったつもりだった。諏訪は少し間を置き、言葉を選ぶようなそぶりを見せた。

「……随分と現実的な夢だね。しかし、それは君が本当に望んでいることじゃないんじゃないのかな?」

「……」

 諏訪があっさりと否定したので龍一は何と言い返したらいいのか分からなくなった。諏訪が続けた。

「ゴメンゴメン。ちょっといきなりだったかな。初めに言っておくけど、そこの名刺にも書いてあるけど、僕の事務所の屋号は辛口財産診断所だ。だから口が悪いことは覚悟しておいてもらいたい。多少なりともMっ気がないと僕のクライアントは務まらないということだ。まあそこが僕の売りでもあるんだけどね。世の中にはMっ気のある人、結構、多いから。君がそうかどうかは知らないけど」

「はあ」

「医学部に行きたいと言ったけど、それは君が最終的に望んでいることではないよね?」

「どういうことですか?」

「確かに医学部には行きたいのかもしれない。きっとそうだろう。しかし、医学部に行かれれば、それで満足というわけではないだろう。例えば、中退してもいいのかって聞かれたら答えはノーだろう?」

「それは、…もちろん卒業したいに決まってます」

「卒業だけでは足りないだろう?医学部というからには医師になりたいと思っているのだろうし、医師国家試験に合格して、免許の交付を受け、医業を開始しないとゴールには達しない。しかも、それは君の最終ゴールではないんだろうね、きっと。そこに立ってようやくそこがゴールではなく、スタート地点で、今までやってきたことはこのスタートラインに立つための準備に過ぎなかったんだってことに気が付くんだろうね」

 そこまで言うと諏訪は力強い視線を龍一に投げかけた。龍一の言葉を求めているようだった。

「おっしゃる通りです。医者になる、それすらも諏訪さんの理屈では最終ゴールではありません。むしろスタートラインなのかもしれません」

「じゃあどうなりたいんだ?」

「貧乏から脱したいんです」

「なるほど、貧乏ねえ。君は今の生活が貧乏だと思っているんだね?」

「はい。だから、貧乏から脱出するために、医者になりたいんです。おっしゃる通りです。医者になることも、医学部に進学したいこともすべては手段に過ぎません」

「彼女の、…蓬田百合花さんのご両親みたいになりたいのかな?」

 諏訪にそう言われて龍一はまた軽い衝撃を受けた。この人は一体、百合花のことをどこまで知っているのだろうと思った。実はこの人は百合花のすべてを知っていて、百合花はこの人のことをほとんど何も知らないのではないかと心配になった。

 龍一は少し気持ちを落ち着け、冷静になろうとした。原点に戻ろうとした。龍一は百合花から父親の知人の夫を紹介されただけだ。妻の知人の娘なのだから諏訪が百合花のことを相当程度知っていても不自然ではない。むしろ、龍一が、諏訪が百合花のことを何も知らないはずだと思っている方が不自然だ。

 龍一は諏訪に気付かれないように軽く深呼吸した。

「そうです。というか、貧乏からは脱したいので」

 龍一はかろうじてそう言った。

「君の親御さんは何をしているのかな?差支えがあってもありのまま教えてほしいのだけど。そうでなければ僕は君に的確なアドバイスをすることができない」

「母は声優をやっています。まともに働いているとは言えません」

「…なるほど、声優ね。で、お父さんは?」

「父は、…いません」

「どうしていなくなったのかな?」

「最初からいません。物心つく前からいませんでした。もちろん、世の中に父親というものがいるということは知っていましたけど、でもなんで僕のところに父親がいないのかは分かりませんでした。今でも分かりません」

「お母さんからは聞いていないんだね?」

「はい。何回かチャレンジしましたが、教えてはくれません」

「お母さんのご両親とかにも教えてもらえないのかな?」

「母の両親は、結構、いい生活をしているようなんですけど、声優になるという段階で母は家出をして、勘当されてますから、きっと両親にも母は僕の父親のことを話してはいないと思います」

「今、おじいさんとおばあさんがいい生活をしていると言ったけど、じゃあおじいさんとおばあさんに学費は出してもらえないのかな?お母さんは勘当してしまったかもしれないけど、子どもと孫は別だよね。子どもがどうあれ、孫はかわいいもんだよ。無条件にね」

「いい生活というのは僕に比べてという意味です。祖父も祖母も公務員でした。だから私立の医学部の学費を出すのは無理だと思います。それに、僕は祖父母には会ったことはありますが、いい思い出はありません。いとこは大事にされているみたいですけど」

「頼りにはできないってわけか。それでお父さんのことはどうしても分からないんだね?」

「はい」

「じゃあ、お父さんに学費を出してもらうということもできないね」

「そうですね」

「お母さんが唯一、頼りになる肉親ってわけだ」

「母は声優業に忙しくてまるで頼りになりません。一度、母に会っていただければどのくらい頼りにならないかは一瞬で分かると思います」

「ありがとう。言いにくいことまで言ってもらって。で、希望は医学部に進学したいということだね。特に医学部に希望はあるのかな?国立とか、私立ならK大とか」

「そんなの、…あるわけありません。医学部に進学すること自体、無茶なこと言ってると思ってるんですから」

「医学部ならどこでもいいのかな?」

「進学することすら奇跡だと思ってます」

「やる気はあるんだね?もし仮に進学できたら一生懸命勉強しようという」

「もちろんです」

「なるほど。よく、医者の子どもが、本当はダンサーとか好きなことをやりたいのに無理やり医学部に行かされるエピソードを聞くことがあるけど、それよりはずっといいよね。片や行く気はないけど金はある。片や行く気はあるけど金がない。人生は皮肉だね」

「まあ、僕の場合には偏差値もありませんけど」

「やる気があるだけ立派だよ。さて、偏差値の話が出たところで少し真面目に話をしよう。君の目の前のハードルは高いが数はそんなに多くない。言ってしまえば二つだけだ。学費と偏差値。普通ならこの他に親の反対とかあって、それが結構、一番高いハードルだったりするんだけど、君の場合はそれがない。親御さんは君の考えに賛成だね?」

「賛成というより無関心なだけです」

「まあ、反対されないだけいいと思ってよ。むしろ賛成されるより無関心の方がいいかもしれないよ。下手に賛成されると、介入してきて自分のペースじゃ動けなくなるからね。で、どっちから話そうか。偏差値と学費。まあ、今の君にとっては偏差値より学費の方が、ハードルが高そうだけど」

「そうかもしれません」

「どっちから話す?」

「じゃあ、偏差値の方からお願いします。偏差値だって僕にとっては相当高いハードルですけど」

「本当にそうかな?君、高校はどこだ?」

「M高校です」

「…都立だね?」

「はい」

「偏差値は、五十は超えてるよね?」

「僕は推薦で入ったので、高校受験の時はコンスタントに五十は超えていましたけど、六十には届いた記憶はありません。学校全体では多分、五十に満たないんだと思います。大学受験となると、一応、うちは進学校とは言ってますけど、偏差値五十を超える方が確実に少数派になってしまうのだと思います」

「なるほど。大学受験は高校受験と違って同年代のほとんどすべてが参加してくるわけではないからね。まあ、結論から言うと偏差値はそれほど気にすることはないよ。もちろん君は高校生なんだし、教養は社会で生きていくために必要だから勉強は一生懸命してほしいけど、でも偏差値が低いから医学部を諦めましょうということは考えなくていいし、考えるべきではないし、考えないでほしい」

「しかし、……」

 龍一は持ってきたDバッグのチャックをあけ、中をガサゴソといじり、一枚の紙を取り出し、続けた。

「先週、三者面談があったんですけど、進路指導の先生からこの紙を見せられました」

 龍一はそう言って、先週、渡された私立大学医学部合格者平均偏差値のランキング表を諏訪の前に広げてみせた。

 諏訪は一瞬、ランキング表の方に目をやったが、興味は示さなかった。

「もう三者面談か?随分早いな。担任が決まったばっかりじゃないのかな?」

「いいえ。面談は春休み中です。ですから担任ではなく、進路指導の先生です」

「それにしても早いよね?」

「希望者は春休み中に三者面談を受けられるんです。それと、希望者じゃなくても、学校が、これは、と思った生徒には早め早めに接触するんです。うちは母子家庭で、学校も進路が危ないと思ってるんじゃないんですか。春休み中に三者面談受けることを半強制されました」

「なるほどね。それで、何か言われたのかな?」

「医学部は諦めろというようなことを言われました。もちろんそんな直接的な表現じゃなく、もっと遠まわしですけど」

「君はどう思った?」

「やはり、無理なんだなあと思いました。予定どおり自爆したと。だって、どこの大学も偏差値六十を超えてるじゃないですか。僕はまだ模擬試験を受けていませんけど、きっと五十には達しないでしょう。これからガリ勉するにしても、塾や予備校に行くお金もありませんし」

 龍一は諦め顔でとつとつと語った。

「…なるほど、この表は確かにその先生の考えを裏付けているかもしれない。でも、こんな表に踊らされていては、夢は実現できないよ。ハッキリ言ってこの表に出ている数字はマジックさ。数字のマジックだ。騙されているだけだよ」

「数字のマジック、ですか?」

「まあ、この偏差値表を見てやる気を削がれるのは仕方ないけど、そこは少し冷静になってほしい。よくこの表を見るんだ。合格者の平均偏差値と書いてある。そう。だからあくまでもこれは合格者の平均なのであって、この数字が出せなければ、合格できないということではない。つまり偏差値四十台でも合格している輩が必ずいるはずだということだ」

 それを聞いて龍一は大きなため息をついた。

「確かにそうかもしれません。しかし、そんな人ってそんなに多くはないですよね。たまたま知っている問題が多く出て合格するという奇跡はあるのかもしれませんけど、そんな確率の低い賭けには参加できませんよ」

「そう考えるか。では発想を変えよう。例えば定員百人の医学部で合格者が二百人出るとしよう。それはいいよね?あり得る話だよね?」

「ええ。もちろん、第二志望とか滑り止めで受ける人もいるでしょうから、大学が定員よりも多くの合格者を発表するということはあり得る話だと思います」

「よし。では、その二百人の平均偏差値が例えば六十二としよう。合格者の平均偏差値だ。あくまでも六十二は合格者の平均偏差値だから合格者の中には偏差値七十五の人もいるし、四十五の人もいる。そういう理解でいいね?」

「はい」

「では次のステップ。ここから少し理解が難しくなるかもしれない。今、二百人の合格者がいて、合格者の平均偏差値は六十二と仮定したけど、この二百人が全員、その医学部に入学しなかったとしたらどうなると思う?」

 龍一は質問の意味が分からず黙った。諏訪も黙ったまま、龍一の回答を待っている。仕方なく、龍一の方から口を開いた。

「……スミマセン。質問の意味がよく分からないのですが」

「分からないことはないだろう。思ったままを答えてくれればいい。ある定員百人の私立大学医学部がある。二百人の合格者を出したが一人も入学しなかった。君がその学園の理事長ならどうする?このままだと学園の経営は成り立たないよ」

「……二次募集するとかですか?」

「そんな感じで答えてくれればいいのだけど、答えはブブーだ。正解は補欠合格者を入学させる、だよ」

「補欠合格ですか?」

「そう。その、君の学校の進路指導の先生も見落としているのか、知っていて言わないだけなのかは分からないけれども、どこの私立大学も合格者とは別に大量の補欠合格者を出す。そして、これが案外肝なんだけど、補欠合格者の数は公表されない。受験予備校も補欠合格者の平均偏差値までは計算しない」

「はあ」

「ここからは僕の仮説が多分に入り込むので話半分に聴いておいてもらいたいのだけど、僕は、大学にもよるけど、下位の大学は大量の補欠合格者を出していて、それでも定員割れになっているんじゃないかと思っている」

「大量の、…ですか?」

「そう。本当に、それこそ、受験者全員を補欠合格者にしても定員が埋まらない大学があるんじゃないかと思うくらいだ。大学が多過ぎるのか、少子化が行き過ぎたのか、どちらかなのかは分からないけどね。僕が受験生の頃は浪人なんかあたり前だったけど、今はそうでもなくなってきている」

「確かに浪人は減っているとは思います」

「そうすると、合格できなくても補欠合格できればいいという理屈になる。補欠合格するためには名前くらいは書かなければならないかもしれないけど、合格点を取る必要はない。補欠なんだから。ひょっとすると名前すら書く必要もないのかもしれない。受験票に書かれている、受験番号という何桁かのアラビア数字を答案用紙に書き写すだけでその大学の学生にはなれるかもしれないね」

「それはいくら何でも……」

「言い過ぎだね。今の発言は撤回しよう。大学も学生には一定の質を要求するだろうから、白紙はもちろん、一桁の答案用紙があるだけでも補欠合格者にすらなれないかもしれない。しかし、ある程度やる気があって受験すれば一桁なんてことはない。あるはずがない。大学だって、下位校になれば落とす試験ではなく、拾う試験になる。そんなに難しい問題は出せないよ」

「偏差値はそんなに高いハードルじゃないということでいいんでしょうか?」

「だから最初からそう言ってるじゃないか。もちろん君がT大とかK大とか人気校をめざすなら別だよ。でもとにかく医学部に入れさえすればいいというのであれば偏差値は高いハードルにはならない。学校での勉強を一生懸命やって、その大学の過去問を一生懸命解けば補欠合格者くらいにはなれるということだ」

「過去問ですか?」

「そう。過去問は大事だよ。もっと言うとその大学の過去問と模範解答は過去十年分くらいを完全暗記してしまうといいと思う。そうすると、傾向は分かるから、学校で一生懸命勉強した知識が試験会場で自動的に働いて、補欠合格でなく、正規合格者になれると思うよ。もちろん上位校はそんなに甘くはないけど。まあ、塾や予備校には行く必要はないということだ」

 そこまで言うと諏訪は不意に席を立った。

「ゴメン。しゃべり過ぎで喉が渇いた。何か飲み物を買ってきてもいいかな?」と諏訪。

「ええ、僕は構いませんけど」と龍一。

「何かリクエストあるかな?君の分も買ってこよう」

「いいえ。僕は結構です」

 龍一は普通に遠慮した。

「じゃあ、適当に買ってくるよ。今日は暖かいし、冷たい方がいいよね」

 諏訪は特に龍一に同意を求めることもなく、龍一の視界から消えていった。

 一人残された龍一はスマホを取り出し、百合花にLINEしようとして画面を開き、そしてためらった。

 諏訪が百合花のことを知り過ぎている。そう百合花に伝えたかったのだが、諏訪にはすべてを見透かされていそうで何か気味の悪さを感じた。

 とにかくここは百合花のことは置いておいて、自分のことに集中しよう。そう思った龍一はスマホをしまい、机の上に置かれているランキング表をもう一度見た。

 これが数字のマジックであるならば少なくとも偏差値というハードルは思ったよりもはるかに低いかもしれない。しかし、その次に構えている学費というハードルはとてつもなく高いだろうし、その高さはたとえ諏訪でもどうにもならないだろう。龍一はそんなことを考え、また憂鬱な気分になった。

 

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