その週の土曜日の四月十七日の午前、諏訪は千歳船橋駅行きのバスに乗り、世田谷区を南下していた。
世田谷区は東京都の山手線より西側の他の地域と同じように、南北の移動が面倒臭い。多くの人が都心を目指すので、東西の移動は発達している。しかし、縦への移動となるとバスくらいしかなく、諏訪はそのバス移動の中でも「便利」の部類に入ると宣伝されている千歳烏山と千歳船橋を結ぶ便の中で不規則に揺られていた。
終点の千歳船橋駅前はロータリーというものがなく、バス停を作るのも厄介だ。諏訪の地元である千歳烏山もそうで、バスターミナルは駅から徒歩数分離れたところにある。
ここ千歳船橋はその徒歩数分離れたターミナルもなく、バス停は小田急線とスラッシュに交差する直線道路上にあるので街のゴミゴミ感は否めない。
諏訪は駅前のバス停で降り、駅とは逆方向に歩いて数分で目指す介護付き老人ホームに到着した。エントランスで受付票に自分の名前とこれから会う人の名前を記入し、続柄欄には「成年後見人」と記入してエレベーターに乗り込んだ。
世田谷区は法律上の問題から低層の建物が多く、駅前であってもそれほど高い建物はない。この老人ホームも駅前でバス通りにも面している割には、それほど背は高くはなく、諏訪は三階でエレベーターを降りた。
すぐに施設の職員が諏訪に気が付いて「こんにちは」と言い、周囲を少し見回してから「リビングルームにいらっしゃいます」と言った。
諏訪はその職員には特に声を掛けず、右手を軽く挙げただけでリビングルームへと移動した。
リビングルームには正方形のダイニングテーブルが五つ並べられていて、各テーブルには四脚の椅子が置かれていた。そのうちの一つのテーブルに新聞を大きく広げて読んでいる老人がいたが、人の気配を感じた老人は軽く頭を上げ、老眼鏡をかけたまま上目使いで諏訪を認識すると諏訪と目を合わせてニッコリ微笑んだ。諏訪もニッコリ笑い、右手を上げた。
老人は立ち上がり新聞を畳んだ。諏訪はテーブルの老人に近寄った。
「おはようございます。いつもすみませんねえ。先生もお忙しいでしょうに」と老人。
「いえいえ。もちろん忙しくないと言ったら嘘になりますけど、これも仕事ですから」と諏訪。
「私のことなんか後回しでいいですよ。どうせ対した報酬をお支払いすることはできないんですから」
老人がそう言うと、諏訪は「いえいえ」と言いながら老人とは対角に座り、少し遅れて老人が座った。
「土曜日の午前は小宮さんのために時間を取っていますから」と諏訪。
「なんだか先生にはスッカリお世話になってしまって。先生がいなかったら、私の人生、最後は本当に孤独に終わっていたんだろうと思います」と小宮。
「何をおっしゃいます。このホームにはお仲間も職員の方もたくさんいらっしゃるじゃありませんか。ボランティアの方だって」
「それはそうですけど、やはり家族がいないのは寂しいものです。私みたいな年寄りがこれからもどんどん増えていくんでしょうね。無駄に長生きしました」
「まだまだ楽しいことはいっぱいあると思いますよ。…ところで今日は一つ相談というか、お願いというか、お話しさせていただきたいことがあります」
「相談はともかく、先生のお願いであれば、それが私にできることであればなんでもやりますよ。先生は私にとって恩人ですからな」
小宮はそう言って少し笑った。小宮の笑いが落ち着くのを少し待って、諏訪は続けた。
「ありがとうございます。そんなことおっしゃっていただいて。お話しさせていただきたいのは、残される財産の使い道です」
「ああ、何か有効な使い方が見つかりましたかな?」
小宮は少し前かがみになった。
「ご賛同いただけるとありがたいのですが。長年、教員を務めていらっしゃった、教育者らしい、小宮さんらしい財産の使い道が見つかりました。先日、私のところにある少年が相談にやって来ました。伊波龍一君という、都立M高校の三年生です」
「M高校というと下高井戸ですかな?」
「ご存知ですか?」
「そこでの勤務はありませんが、何度か行ったことはありますので場所は分かります」
「そうですか。それでその伊波君、もちろん私を訪ねてきたわけですから、当然、お金の相談に来たわけですが、大学に進学したいのだけれども、お金がないというのです。それも将来、医者になりたいと言いまして、医者になるにはもちろん医学部に行かなければならないわけですけど、国公立はともかく、私立の医学部ともなると、六年間で数千万円はかかってしまいますから、普通のサラリーマン家庭でも厳しいです」
「分かります」
「しかも、その伊波少年、母子家庭で、医学部はおろか、大学進学に必要な資金がそもそもなく、塾や予備校に通うお金もないというのです」
「その少年に同情したというわけですな?」
「そうですね。そうなのですが、小宮さんは私がなぜ、そんな初対面の少年のためにそこまでするのかを疑問に思われるかもしれませんが、実はまったくの他人というわけでもなく、私の妻の知人の娘さんの小さい頃からのお友達だそうで、その紹介で僕のところにやってきたみたいなんです」
「なるほど」
「だから、とても他人事とは思えませんで、それで、何か方法はないかなあと思っていたところ、小宮さんのことが頭に浮かんだんです。小宮さんも、自分の残していくものが誰かの役に立つというのであれば、願ったり叶ったりなのではないですか?」
諏訪がそこまで言うと小宮は黙った。そのうち施設の職員がお茶を持ってきて二人の目の前に置いた。諏訪は職員に礼を言って、お茶を一啜りすると、小宮の方を見た。
小宮はしばらく考えるようなそぶりを見せていたが、そのうち諏訪に鋭い目を向けた。
「一億もあれば足りますかな?」
小宮から笑顔が消え、その真剣なまなざしに諏訪はビクッとした。諏訪はビクッとした理由が一瞬、分からなかったが、普段、財産管理の全権を諏訪に任せていて、一体、いくら持っているのかすら興味がないように見える小宮が一億円以上の財産を持っていることを言い当てたからだと理解した。この老人は何にも関心がないような振りをしていて、実はすべてを理解しているのではないかと思った。諏訪は少し間を置き、気持ちを落ち着かせた。
「…学費と、もし、下宿するのであれば下宿費や生活費も必要になるかと思いますが、それだけあれば十分だと思います」
「私が、今、一体いくら持っているのか、正直、正確なところは分かりませんけど、基本的に財産の管理はすべて先生にお任せしているんですから、先生が、これがいいと思うやり方でいいですよ。どうせ私には使い道のないお金ですから」
「ありがとうございます。もし、よろしければ、例えば、養子縁組をするとかでもいいかと思いますがいかがでしょう?」
「それは相続税対策とかですか?」
「いいえ。結果的にはそうなりますけど、このままですと、小宮さんは私が看取るとしても、その先、何もなくなってしまうじゃないですか。養子縁組をしておけば、子どもということになるわけですから、お墓参りをしてもらうことだってできるんですよ。何もただで、一億円もの奨学金を与えることはありません。この際ですから、もし小宮さんが何か、この世に残しておきたいものがあるというのであれば、我ままを言ってもいいと思いますけど」
諏訪がそう言うと、小宮はまた少し考えた。
「……諏訪先生。お言葉はありがたいですけど、私はもうこの世に未練はありませんし、誰にも迷惑はかけたくない。お墓を建てたら誰かが管理しないといけないですからやはり誰かに迷惑をかけてしまう。立つ鳥跡を濁さずですよ。骨は散骨するか、宇宙にでも持って行ってください」
「…分かりました。そのうち、公証人の方も呼んで、正式に遺言状は作成しましょう」
諏訪が言うと小宮老人は静かにお茶を啜った。
同じ日の昼前、代沢のアパートのダイニングで龍一はゲームに夢中になっている。
不意に壁の向こうから携帯電話の着信音が鳴り響く。龍一は画面に集中しようとするが着信音は中々鳴りやまない。穂香の携帯の着信音は穂香が自ら歌っているアニメの主題歌で、その歌は龍一も大好きなため気が散らされる。龍一はイライラした。
そのうちに着信音が鳴りやんだかと思うと、今度は引き戸が開いて穂香が現れ「おはよう」と地声で言った。手にはスマホが握られている。すっぴんで髪の毛はボサボサだったが、それでもなお実年齢よりもかなり若く見える。これでメイクを施せば、制服だって無理なく着られてしまうだろう。時計はそろそろ正午を迎える。
「おはよう。まだ寝てればいいのに。昨日も夜、遅かったんだろ?俺が起きてるうちには帰ってこなかったし」と画面から視線を動かさずに龍一。
「でも起きなきゃ。アキバでイベントがあるの。起きられないとは思ってたので、今、頼んでたモーニングコールが来た」と穂香。
「モーニングコールか。それにしてもよく起きられたね」
「好きでやってることだからね。何か食べるものあるかな?」
「さあ?食パンがまだあると思うけど、でもつけるものはないんじゃないかな。ママの口には合わないかもね」
龍一がそう言うと今度は龍一のスマホが鳴った。ゲームのコントローラーを持ったまま液晶を見ると「諏訪幸治」と表示されている。ビックリした龍一はゲームがいい局面だったがコントローラーを放り出し、慌てて携帯に出た。
「もしもし」
「諏訪です。伊波君の携帯だね?」
電話の向こうから諏訪の落ち着いた声が聞こえた。
「はい。先日はありがとうございました」
「今、いいかな?」
「はい。自宅ですので、大丈夫です」
「こないだ言ってたあしながおじさんの話なんだけど、今日、会って話をしてきたよ。まあ、僕は彼の成年後見人をやっていて、基本、彼は自分の財産の管理を完全に僕に任せているから僕の提案は否定しないと思っていたけど、二つ返事でオーケーをもらったよ」
「どっ、どういうことですか?」
「つまり、彼は君のあしながおじさんになるということさ。まあ、話がうま過ぎるからにわかには信じられないだろうけど、これで君は来春からどこかの大学の医学生になるということがほぼ決定したということだ。詳しい話は電話じゃなんだから今度、会ったときに直接話そう。君もそのあしながおじさんに会っておいた方がいいかもしれないし。それで、このことはもうお母さんには話しているよね?」
「えっ、母にですか?」
「こないだ、帰り際に報告するとか言ってたと思うけど」
「はあ」
「ではミッションが成功したとお母さんにも伝えといてね。君は未成年だからこれから色々と書類を作ったりしないといけないけど、お母さんにサインしてもらう場面も少なくないはずだ。もし、君に説明が難しい部分があるなら僕が説明してもいいから。とにかく、お母さんの耳にも入れといてね。じゃあ、また連絡します」
そう言って電話は一方的に切れた。龍一はしばらく呆然とした。もちろんこの話を穂香にはまだしていない。
そのうち誰かの視線を感じたので視線の方向を見ると穂香と目が合った。
「誰?」
穂香は引き戸の脇に立ったまま地声で言った。
「ああ。…その、諏訪さんっていうファイナンシャルプランナーの人だよ」
龍一はそう言って財布を引き寄せ、中から諏訪の名刺を取り出して穂香に渡した。
「誰なの?この人」
「だから、その名刺に書いてあるとおり、ファイナンシャルプランナーだよ」
「さっきの電話、あたしの話も出てたみたいだけど」
「ああ。お母さんにも話しておくようにって言われたよ」
「何の話?」
「まあ、隠すことでもないし、隠せることでもないから。その代わり、真剣に聴いてね」
龍一は「真剣に」のところに力を入れて、眼差しにも力を入れて言った。
「う、うん」
穂香は一瞬、たじろいだ。
「じゃあ、座ってよ」
龍一がそう言うと穂香はダイニングテーブルに座り、龍一もゲーム機をシャットダウンさせて対面に座った。
「こないだ、三者面談の時、学費のことを先生に言われたよね?」
「うん」
「それで、どうしようかなって思ってたら、ちょうどゆっぴいにこの人を紹介されたんだよ」
龍一は穂香が手に持っている名刺を指さして言った。
「ゆっぴいに?」
「そう。なんでもゆっぴいのパパのお知り合いの旦那さんなんだって。この人」
「うん」
「で、その名刺にも書いてあるけど、この人、ファイナンシャルプランナーで、辛口財産診断所って屋号にもあるとおり、お金の相談に乗ってくれるんで、学費をどうしたらいいのか相談しに行ったんだよ。医学部に行きたいんだけどって」
「随分、無茶な相談したね」
「ダメ元だったからね。そしたら、その諏訪さんが言うには、世の中うまくできていて、お金の使い道がなくて困っている人もいるから、あしながおじさんを探してくるって言うんだよ」
「あしながおじさんって『キャンディキャンディ』みたいな?」
「まあ、そんなもんだね。貧乏学生のスポンサーってとこかな」
「じゃあ、りゅうちゃん、養子に行っちゃうの?」
「さあ、そこはまだ分からないけど。とにかく、スポンサーは見つかったらしいんだよ。今の電話はその連絡で、俺はまだ未成年だから親が書かなきゃいけない書類とかも出てくるだろうから、それでママのことも出てきたのさ」
「……話、うま過ぎない?」
しばらく沈黙の後、穂香が相変わらずの地声で言った。
「…うま過ぎるとは思うけど、ゆっぴいの紹介だし、それに、他に方法はないじゃん。ママはあてにならないし」
龍一が言うと、穂香は少しシュンとなった。
「そうだよね。あたしじゃ全然、頼りにならないもんね」
そう言うわれてしまうと龍一はもう何も言えない。本当は言い返してほしいのだ。そして喧嘩して、本気でぶつかり合いたい。
「…でもりゅうちゃんのことは心配だから、…この人のこと、ちょっと調べさせてね」
穂香は、今度は母親キャラのボイスでそう言うと右手で持ったスマホで、左手で持った名刺を撮影した。シャッター音が鳴り響いた。何をどう調べるのか、龍一には分からなかった。
週が明けた月曜日の午前九時前の千歳烏山駅前の雑居ビルの中。諏訪は自分の事務所に現れ、毎朝、必ずそうするようにコーヒーメーカーでコーヒーを沸かした。
事務所といってもそれは狭く、ワンルーム程度の大きさしかない。他に従業員はおらず、諏訪が一人で切り回している。別にここの事務所がなくてもパソコンと携帯を持ち出せばどこででも仕事はできる。この事務所はある意味、倉庫のようになっていた。
椅子に腰掛け、新聞を読み始めると呼び鈴が鳴った。インターフォンのモニターを覗くと、液晶には年齢不詳のソバージュが立っていた。強盗ではなさそうなのでインターフォンには出ないで、直接、入り口のガラスドアを少し開け、顔だけを覗かせた。
「はい」
諏訪がそう言うと、目の前のソバージュは深々と頭を下げた。
「おはようございます。いきなり、何のアポもとらずにやってきて申し訳ありません。あたし、伊波龍一の母親の伊波穂香と申します。息子がお世話になっています」
穂香は地声ではなく、母親キャラの声色でそう言うともう一度、深々と頭を下げた。諏訪は母親と名乗るその人物のあまりの若作りにしばらく固まった。
「…ああ、お母さんでしたか。あまりにもお若いんでビックリしました。まあ、アポくらいは取ってほしかったけど、まあ、いいですよ。今朝は特に予定は入ってませんで、身辺整理をしようと思っていたくらいですから。どうぞ」
諏訪はそう言うと穂香を事務所の中に招き入れ、応接セット代わりに使っているダイニングテーブルの四つある椅子の一脚に座らせて、自分はその対面に座った。
「随分と早いですね?まだ九時前なのに」と諏訪。
「実は、外でこの部屋の電気がつくのを見張ってました」と穂香。
「そうでしたか。龍一君から話をお聞きになったんですね?」
「はい」
「それで話があまりにもうま過ぎるんで心配になった。事前にアポを取ると準備されてしまうのでいきなり来た。そんなところですか?」
諏訪は穂香の緊張をときほぐすように、少しいたずらっぽく言った。
「…そうですね。でも、それは母親としてはあたり前だと思います。それはどうか理解してください。もっともあたしは、…こんなんで、母親を名乗る資格なんてないのかもしれませんけど。母親らしいことは何もしてやれていませんから。それでもやはり一人息子。心配ですから」
「何が心配ですか?…まあ、全部が心配なのかもしれませんけど、僕はその一つ一つを解決していきたいので、ご質問いただければ説明しますよ」
「その、…うまい話には裏があるわけでして、詐欺か何かに巻き込まれていないかと…」
穂香が言うのを聞いて諏訪は少し笑った。
「詐欺ですか?何かだまし取られると困るような財産でもあるんですか?学費も払えないって聞いてますけど」
「そうですけど、その…臓器とか…。学費は出すけど、その見返りに臓器を提供しろとか言われたりするかもしれないのかと…」
「なるほどね。でも、これは本当にたまたまなのです。たまたま龍一君が学費のことで僕のところに相談に来た。僕はお金の使い道がなくて困っている老人を知っていた。その二人が結びついただけです」
「色々と教えていただきたいんですけど」
「どうぞ」
「その、お金を出して下さる資産家の方。その方はどうしてそんなにも諏訪さんのことを信頼しているんですか?普通、本人にも会わないでオーケーってあり得ないと思いますけど」
「なるほどね。資産家かどうかはともかくとして、その人、…小宮雄二さんっていうんですけど、別に大金持ちってわけではなく、元々は教員でした。だから、億単位の財産は持っているけれども、上場会社の創業社長とかいうわけじゃない。言ってみれば小金持ちといった程度の方です。で、小宮老人と知り合ったのは、僕の母親、…もう故人となってしまって、この世にはいないんですけど、その僕の母親が今、小宮老人が住んでいる介護付き老人ホームにいたんですね。そういう関係で知り合いにはなったけれども、小宮老人が僕を成年後見人に指名するくらい、僕のことを信頼するようになったのはちょっとした事件があったからです」
「事件?」
「まあ、事件というのも大袈裟ですが、ちょっとした出来事です。小宮老人と僕の母はフロアが一緒で、僕は毎週、母のところに顔を出していましたから、必然的に小宮老人とは顔見知りになりました。まあ、あいさつを交わす程度です。事件というのは、何年前か正確には忘れましたが、小宮老人のところに営業の人が二人来ていて、投資話をしていたんですね。それを偶然、僕が立ち聞きしてしまったんです。内容はとてもリスクの高いものでした。それで、営業の人が帰ってから、名刺を渡して、小宮老人に助言したんです。小宮老人はすっかり投資話に騙されていましたから僕の言うことなんか聞く耳を持ちません。それで僕はこれとこれの二つを営業の人に質問してみるように勧めたんです。その日のうちに紙にまとめて渡しました。それから一週間後、また小宮老人に会ったのですが、僕の質問を営業の人にぶつけたそうで、営業の人は何も言えなくなってしまって、青くなって帰ってしまい、連絡も寄こさなくなったって言ってました。それで、僕は彼の財産を守ったヒーロー、恩人ということになり、それから色々とマネーの相談を受けるようになり、僕も真摯にアドバイスしました。そういう時間が流れていって、僕は小宮老人の信頼を得ることになり、成年後見人にも指名されたってわけです」
「それにしたって、見たこともない一少年に億単位のお金をいきなり出すなんて信じられません」
「小宮老人は認知症が進んできているんです。だから、まあ、普通の人のような意思決定はできないと思ってください。それで、僕が彼の代わりに意思決定するんですけど、別に彼の意思に背く決定をするわけじゃない。彼は、残していくお金はあの世まで持っては行かれないし、世の中の役に立つように使いたいと言っていますから。彼が小金持ちになれたのもいわば偶然が重なった結果です。子どもはいなかった。奥さんも同業者だったけど、退職してすぐに亡くなられて、退職金とかそれまでの貯金がそのまま彼のものになった。昭和四十八年、狂乱物価の始まる前に買った北沢の一等地をバブル崩壊の直前に売りに出した。お金のかかる趣味を持たなかった。そういうことの積み重ねです」
「諏訪さんはどうして龍一のためにそこまでやってくださるんですか?別に龍一でなくても使い道はいくらでもあるでしょうに」
「それは、龍一君から聞いていませんか?蓬田百合花さんの紹介だからですよ」
「それは聞いてますけど」
「まあ、別に僕に百合花さんに思い入れがあるわけではなくて、思い入れがあるのは百合花さんのお父さんの方なんですけどね。これで少しはご納得いただけましたか?息子さんはシンデレラボーイになったということです」
「なんだかキツネにつままれたような感じですけど。実感がないです」
「実は、僕もお母さんとはお話ししたいと思っていたので来ていただいてちょうど良かったです」
「穂香です」
「えっ?」
「あたしの名前。それにあたし、諏訪さんのお母さんじゃありません」
「……そうですか。失礼しました。随分と面倒臭く生きているんですね?」
「そうかもしれません。でも、いいじゃないですか」
「分かりました。じゃあ穂香さん」
「呼び捨てでいいですよ。あるいは『ちゃん』づけでも」
諏訪の話に少し安心した穂香は声色を癒し系にチェンジし、いたずらっぽく言った。
「いきなり電波ですか?」
「お~、諏訪さん。電波だなんて。結構、話が分かる人かもしれませんね」
「クライアントに合わせているだけです。クライアントに合わせるのが僕の仕事ですから。それで、穂香さん。母子家庭と聞いているんですけど、今は独身ですね?」
「ええ」
「龍一君のお父さんはどういう人なんですか?」
「父親はいません。無精生殖です。無精生殖で龍一は産まれたんです」
「また電波ですか?もしお父さんがいるなら、お父さんに龍一君の学費を出させるということも考えたんですけどね」
「父親のことは考えないでください。それで?」
「スミマセン。余計なことを言いました。それで、話を元に戻しますと、穂香さん、今、独身ということは戸籍の配偶者の欄は空いているということですよね?」
「ええ、もちろん」
「では、小宮老人と結婚なさるというのはいかがでしょうか?」
「はあ!」
ビックリした穂香は思わず地声で叫んだ。
「まあ、難しく考えなくて結構です。結婚という言葉を使いましたけど、つまるところ戸籍を使うという認識で結構です。別に小宮老人と契りを結ぶ必要はないし、一緒に住む必要もない。彼は介護付き老人ホームに住んでいますから。会う必要すらないかもしれない。必要なのは戸籍上、小宮老人と穂香さんが配偶者という関係になるということです」
「なんでまたそんなことを。それこそ電波ですね」
「要は税金対策です。龍一君に一億円くらいが贈与されるとして、贈与税は半端ないものになってしまいます。これを和らげる方法、それがまさに小宮老人と穂香さんの結婚なんです。小宮老人には推定相続人がいません。ですからあなたが今、配偶者になればあなただけが唯一の相続人になります。それで相当の節税になる」
「……」
「どうしました?」
「そんなこと、…無理です…」
「さっき、穂香さんは、母親らしいことは何もしてやれていないっておっしゃいましたよね?龍一君も同じようなことを言っていました。声優業に忙しくてまるで頼りにならないって。もう、彼も十八歳でそろそろあなたの手を離れていく。最後に逆転ですよ。彼のためだと思って」
「でも、…」
「ですから、そんなに難しく考えることはありません。電波少女らしくないですよ。もっと気楽に考えてください。所詮、戸籍が汚れるだけです。戸籍なんて電波少女のあなたからしてみれば何の意味もないじゃありませんか。…ちょっと話が急展開過ぎましたか?コーヒーでも飲みます?」
そう言って諏訪はコーヒーを入れるために立ち上がった。