一週間後の北澤八幡神社前の公園のブランコで龍一と百合花は揺られていた。正式には区立北沢八幡児童遊園と呼称されるその公園では日が西に傾きかけている。
彼岸から一ヶ月以上が過ぎ、日もだいぶ長くなった。それでいて酷暑はまだまだ先のことで気持ちの良い季節を迎えている。
学校帰りの二人はまだ制服のままだ。
「で、どうするの?りゅうママ」と百合花。
「さあね」と龍一。
「あんまり話さないんだ?」
「ここのところあんまり顔合わせてないからね。忙しいのは確かにそのとおりなんだろうとは思う。今度の仕事、主役級っていうか、ほぼ主役だからね。でも何だか、仕事が忙しいことこれ幸いと、俺と距離取ってるような気もするんだよね」
「でもそんなことって前にもあったんじゃないの?」
「そうだけど、今回はなんか違うんだよね。俺に無断で諏訪さんに会いに行ったことに後ろめたさがあるようだし。後ろめたいなんてママにしちゃホント、珍しい現象だけどね」
「そうだね。珍しい」
「胡散臭いということで単身、諏訪さんの事務所に乗り込んでいったのはいいけど、でも、結果的には諏訪さんに説得されたというか、信じ込まされたというか、スッカリ諏訪さんのファンになっちゃったもんね」
「それはりゅうちゃんも同じでしょ?」
「そうかな。もし諏訪さんが本物の詐欺師ならすごいなあと思うよ。短時間であれだけ人を引き付けるんだから」
「で、本物の詐欺師っぽいの?」
「それはママもマジで心配してて、知り合いの人に頼んでFP協会とか、それと諏訪さんは税理士の免許も持っていて、登録もしてるから税理士会とか、知り合いの税理士とか、色んなツテで調べたんだけど、悪い話は一切出てこなかった。地元の烏山でも結構、有名な人で、自治会とか商店街とか色んなところの役員とか世話役とかやってる人だったよ」
「へー。じゃあやっぱり、いい話だったんだ」
「でも分からないのはゆっぴいとの距離だよね?」
「そうだね。結局、思い当ることは何もない」
「でも、一度会ったっていうのも案外、嘘ではないのかもしれないよ。ゆっぴいが覚えてないだけで」
「そうかなあ」
「そうだよ。美人のことは結構、覚えてるもんだよ」
「珍しいね。りゅうちゃんがそんなこと言うなんて」
百合花は少しはにかんだ。
「まあ、俺にとってはゆっぴいは目の前のあたり前の存在過ぎるけど、男の好みの世間相場ってそういうもんなんでしょ?うちのクラスでも、男子で、まあ女子もだけど、ゆっぴいのこと知らない人はいないよ」
「ありがとう。そんなこと言ってくれて。で、話戻すけど、私と諏訪さんの関係は、本当のところはりゅうママも知らないわけだから、りゅうママすっかり諏訪さんのファンになったっていうのならそのまんま諏訪さんの話に乗ればいいのに。私の話とはもはや別の話になったんだし。何か、いつになくりゅうママ分かりにくいよね?」
「ただ、一つ確実に言えるのは、ママがすごく悩んでいるということ。それは分かる。あんなの今まで見たことなかったからな。今まではさ、ゆっぴいはよく分かると思うけど、うちのママって行動してから考えるタイプでしょ?」
「行動するだけで考えもしてないかもね」
「そうかもね。とにかく感情のままにというか、場当たり的というのか、思いついたことを考えもしないで行動する。それなのに今回はさ、ただ、イエスかノーかだけなのに迷ってんだよね。初めて見るよ。あんな姿。いっつも一瞬の判断で行動して、それでいて後悔なんか絶対にしてこなかったのに。イエスといえば莫大、…とまではいかないのかもしれないけど、これまで見たこともなかったような億単位のお金が手に入る。ただ、イエスって言えばいいだけで、後は全部諏訪さんが手配してくれる。面倒臭いことは何もない。それなのに今回は悩んでる」
「りゅうちゃんはどうなの?」
「どうなのって?」
「りゅうちゃんの気持ち。りゅうママの結婚には賛成?…それとも反対?」
「賛成も反対もないよ。てか、そういうレベルの話じゃないと思うけど。だって、ただの紙の上での話でしょ。籍を入れるか入れないのかっていう。一緒に住むわけじゃないんだし、俺の父親になるわけでもない。…そりゃあ、ママとその小宮さんが本当に結婚するっていうのなら、つまりその、一緒に住んで、夫婦生活始めるっていうなら反対すると思うけど」
「反対?」
「うん」
「何で?」
「何でって、そう言われると気持ちの問題だから説明は難しいけど、…でも、きっとママを他の人に取られたくないんだと思う」
「おお、マザコンだねえ」
百合花は少し茶化した口調で言った。
「それは仕方ないよ。産まれてから今まで、ずっとママとやってきたんだから。ゆっぴいだって人のこと言えないだろ?ゆっぴいだって俺の立場だったら同じこと思うんじゃないの?そうでなくったって諏訪さんの奥さんにパパを取られて悔しい思いしてるんじゃないの?」
少し怒った口調で龍一に言われて百合花はハッとなった。龍一の問題と、他人事と思っていたが、きっかけは自分なのだ。百合花は黙った。
「…ゴメン。嫌なこと思い出させちゃったかな?」
そんな百合花を見て龍一が優しく言った。
「…ううん。私の方こそごめんなさい。…本当は私の問題だったのに、りゅうちゃんをトラブルに巻き込んじゃって」
「確かにトラブルではあるけど、…でもゆっぴいには感謝もしてるよ。絶対に無理だと思っていた夢が実現に向けて歩き出したんだからさ」
「夢が実現ねえ」
「そりゃそうだよ。ほんの一月前までは本当に夢だった。実際に、医学部に行って医者になる自分を夢想していたんだよ。夢想だけじゃない。漫画も描いてたかな。貧乏少年が医者になっていくサクセスストーリー。でも、それは所詮、フィクションだった。でも、それが急に現実味を帯びてきて…」
龍一がそう言うと百合花の携帯が鳴った。メールを着信したようで、百合花は地面に無造作に置かれた鞄から携帯を取り出し、操作して「パパからだ」と言った。
「どした?」と龍一。
「実は今日、これからパパとおデイトの約束なんだ」と携帯を操作しながら百合花。
「へ~、めずらしいね。パパとデートだなんて」
「随分といいお店に連れて行ってくれるみたいなんだけど、それはエサ。本当は色々と文句を言いたいんだと思う」
「文句って、受験生なのにまだバスケやってることとか?」
「こないだ受けた模試の結果が返ってきたの。それで、パパは私に断りもなく勝手にそれを開封したの」
「ああ、何か受けてたね。どうだった?」
百合花は携帯を持っていない方の手でもう一度鞄の中をまさぐり、一枚の紙を取り出して龍一に渡した。龍一がその紙を広げてみると模擬試験の成績表だった。
「とてもパパの満足する結果じゃない。偏差値はどれも五十に達しなかったよ。そりゃそうだよね。バスケしてるか、りゅうちゃんの家で遊んでるかのどっちかだったもんね。数学なんて偏差値三十台でさ、パパには三十台の偏差値なんて産まれて初めて見たって言われたよ」
成績表の第一志望の欄にはK大医学部が記載されていて、合格可能性の欄はアスタリスクで潰されていた。
「ゆっぴいはそのまま上の大学に上がるんじゃないの?」
百合花はそれには答えず、ブランコを降りた。
「パパ、もう帰宅してスタンバってるんだって。で、アンゴラ大使館の前で私をピックアップすることになった」
そう言うと百合花は地面に置いた鞄を持ち上げ、肩に担いで東に向かって歩き出し、龍一もブランコを降りて、模擬試験の成績表を手に持ったまま後を追った。
「はい」と龍一は前を早足で歩く百合花に成績表を差し出した。
「りゅうちゃんにあげるよ。そんなの私はもう要らないから」と百合花。
「ゆっぴいも大変だね。親の期待に応えないといけないなんて。俺なんか最初っから期待されてないから」
「りゅうちゃんが今、置かれている状況に比べれば私の抱えている問題なんて大したことないんじゃないのかな。受験も不倫も、どこの家庭でもよくあることだからね。偽装結婚はさすがにどこの家庭でもある話じゃないよね。りゅうちゃん、貴重な経験できそうだね。漫画のネタにできるんじゃない?」
「受験はともかく不倫はそうそうないんじゃないの?」
「ああ、そうとも言えるか。でも、まあこれは自分の問題だからね。受験も不倫も。だから自分で解決するよ。まあ、本音を言えばりゅうちゃんにもっと頼りたいところだけど、そうもいかないよね?りゅうちゃん、自分のことでもっと大変そうだし」
「まあ、そうかもね」
二人が並んでそのままアンゴラ大使館の前まで行くと、大使館の前には、国産ではあるが最高級の部類に入るクルマがハザートをつけて停まっていた。
百合花は「じゃあ」と言って龍一に手を振り、百合花は最高級車の後部座席乗り込んだ。
龍一は手を振ってそのクルマが坂を登っていくのを見送った。
百合花は後部座席で黙っていた。
パパは運転に集中していた。
世田谷区内の路地は迷路の様であり、たとえカーナビゲーションシステムが搭載されていたとしても運転には神経の集中が求められる。パパは「ちーっ、一通か」とか叫びながら、左折や右折を繰り返した。
「やれやれ、やっと迷路を脱出したよ」
パパがそう言ってルームミラーに映る後部座席の百合花と目を合わせたのは環七に入ってからだった。クルマは世田谷区東部を北上した。
「どこに行くの?」と百合花。
「西新宿の超高層ホテルの最上階の夜景の綺麗なレストランだ」とパパ。
「その辺のファミレスで良かったのに」
「お前の大切な進路の話をするんだ。個室の方がいいだろ?」
「……」
昔はパパのことを格好いいと思っていた頃もあった。一緒に風呂に入ったり、一緒の布団で寝たりもした。今は金にモノを言わせるだけの嫌なおやじにしか見えない。今日の食事も気が進むものではない。ただ、より面倒にならないために付き合っているだけだ。
「相変わらずりゅうちゃんなんだな?」
「えっ?」
「お前も思春期で、少しは遊ぶ相手も変わるかと思ってたけど」
「付き合い長いしね。それに双子みたいに育てられたし」
「…昔、パパがまだ今のお前よりも少し若い頃、松本零士って漫画家が流行ってな。親からは漫画は禁止されてたんだけど、友達の家で読んだりした」
「松本零士なら知ってるよ。りゅうちゃんの家で読んだことがある」
「そうか。その、彼の作品には大抵、背の高い、髪の長い美女と背の低い、さえない少年がコンビで出てきてね、なんだか今のお前とりゅうちゃんがそんな感じかなって感じるときがある」
「……」
「…別にりゅうちゃんのことをバカにするつもりはないんだ。彼のお蔭で助かっている部分もあるからな。少なくともお前に変な虫がつかなくて済んでいるのは彼のお蔭なんだから。まあ、さしずめボディーガードってとこかな」
パパは自分が気の利いたことを言っていると思っているようで悦に入り、しばらく沈黙の時間があってから続けた。クルマは井の頭通りとクロスする大原二丁目の交差点を通過し、その先の甲州街道とクロスする大原交差点の手前の渋滞に差し掛かった。環七と甲州街道では国道である甲州街道の方が勝つのでオーバー立体はない。
「なあ百合花」
「ん?」
パパへの興味を失っているリアシートの百合花は気のない返事をした。
「部活はまだ引退しないのか?」
「引退って、三年生になったばっかりだよ。これからインターハイだっていうのに」
「でも、受験勉強を優先するために引退する子もいるだろ?」
「都立ならいるかもしれないけど、うちは上にエスカレーターで上がる子がほとんどだし。それにキャプテンが今、辞めちゃうわけにはいかないよ」
「そうか。受験勉強はしばらくお預けってわけだな?」
「その代わり、授業はちゃんと聴いてるし、居眠りとかしてないし、ノートもちゃんと取ってるし、定期テストではいい点取る自信はあるよ」
「どんなに定期テストを頑張っても受験には役には立たないよ。内部推薦で上の大学に行くというのなら話は別だろうけど。むしろお前には高校での勉強は卒業するための必要悪で、授業中は居眠りしててもいいから、塾でもっと偏差値を上げることを考えてほしいね」
「……」
パパと百合花は見ている風景が違う。話は最初からかみ合わない。
「…別に浪人してもいいんだぞ。今の実力じゃK大は無理だろうし、来年の受験には間に合わないだろうけど、一年じっくり、専門の予備校でも通って勉強すれば可能性は出て来るんじゃないかな?」
「浪人する気はないよ。そこまでしてK大に入りたいとは思わないし、浪人して入れるとも思ってない」
「パパはそこまでして入ってほしいと思ってるんだけどね」
「どうして?って、その理由はさんざん聞いたよね」
「自分の果たせなかった夢を子どもに託すのは親の特権だ」
「それってただのエゴだと思うけど」
「……お前も反抗期に入ったってことか」
パパは怒鳴りもせず、冷静に対処した。娘というよりも患者と接している医者のようだ。
「反抗期ならとっくに入ってるよ。私、医者にはなりたくない」
「じゃあどうするっていうんだ。医者の子どもが医者にならなくてどうする?」
「私声優になりたい。りゅうママみたいに」
「何言ってるんだ。…食うに困るだけだろ。誰かに食わせてもらうのか?」
「確かにりゅうちゃんの家はうちよりも裕福ではないかもしれない。でもとっても幸せに見える」
「それはただの隣の芝生じゃないのかな?よく考えろ。いや、よく考えるまでもない。りゅうちゃんのママは業界でもトップクラスだ。それはお前だって理解しているだろう。それでもあのレベルの生活なんだ。それに引き換えうちはどこにでもある医者の家庭だ。パパの精神科医としてのレベルは世間の平均以下かもしれない。それでこのレベルの生活だ。もっと現実を直視しろよ」
「少しは夢を見させてよ。まだ高校生なんだよ。私」
「もちろん夢を見るのは構わないけど、見るならノーベル賞受賞とか、もっと現実的な夢を見ろよ」
「私、医者にはならない。声優になる。いつまでもパパの敷いたレールの上は走らない」
「医学部には行かないっていうのか?」
「医学部には行ってもいいよ。ママもそれを望むだろうしね。でも医者にはならない。別に医学部出たからって医者にならなきゃいけない義務はないよね。格好いいだろうなあ。医学部出身の医師免許を持つ声優」
「そんなのただの宝の持ち腐れじゃないか」
「……ママとは何か話しているの?私の進路について」
「ママもお前が医学部に行くことは承知している。ただ、ママはそのままN大でもいいと思っているようだ」
「ママもそんなこと言ってる。それは分かってるの。私が知りたいのはパパとママが私の進路についてどう話し合ってるのかってこと」
「特に話し合っていることはない」
「ねえ、どうしてもっと夫婦で話さないの?昔はそんなんじゃなかったじゃない」
「お前には関係ない。ってか、お前ももうその歳なんだから分かるだろ?」
それを聞いて百合花の中の何かが壊れた。
「ゴメン。パパとはご飯食べる気にならない。私降りるね」
「無理だ。もうキャンセルはできないよ」
「じゃあ、諏訪栞さんでも誘ったらいいでしょ。ついでにそのままそのホテルにお泊りしてくれば。私が何にも知らないとでも思ってるの?バカにしないで」
百合花はそう言うとリアドアのロックを外し、センター寄りのレーンを走っていたにも関わらず、渋滞で止まっていたことをいいことにドアを開けて外に出た。歩道寄りのクルマの間をすり抜け、後ろは振り返らなかった。
百合花は環七を来た方向に向かって走り、京王線のガードをくぐったところで右に曲がった。
そのまま道なりに進み、踏切を渡り、随分と遠回りして代田橋の駅の中に入った。下り線のホームに着くと鞄からスマホを取り出した。
カバーを開いて龍一にメールしようとして少しためらった。自分の問題は自分で解決するとさっき言ったばかりであることを思い出したのだ。
どうしようかと逡巡していると、いきなりスマホがメールを受信した。
パパからだった。
「何を知っているっていうんだ?」
それだけだった。百合花は「諏訪栞さんとの肉体関係」とだけ打ち返し、スマホの電源を切った。
電源を切るとスマホと携帯カバーの間に一枚の小さな紙切れが挟まれていることに気が付いた。引っ張り出してみると先日会った生活安全課の刑事の名刺だった。
百合花はその刑事が相談に乗ると言っていたことを思い出し、何本か通過電車を見送った後に来た各駅停車に乗り、一つ先の明大前で井の頭線に乗り換えて、さらに一駅乗って東松原で降りた。
目指す北沢警察署がどこにあるのか、百合花は正確には知らない。ただ、梅丘中学校の隣だったと記憶している。梅丘中学校はバスケットボールの名門であり、百合花も中学時代、何度か足を運んだことがある。
東松原の駅を出ると坂を下り、やはり迷路の様な路地を左に行ったり右に行ったりしながら税務署のような建物の前を過ぎると梅丘中学校が見えてきた。校舎にはバスケットボールで全国ベストエイトになったことを自慢する垂れ幕が掲げてあった。
そしてその隣に目指す北沢警察署の立派な建物が見えた。上の階はレジデンスのようであり、きっと警察署と独身寮が合体しているのだろうと百合花は思った。
正面玄関から中に入り、キョロキョロしていると若い婦人警官に「何かご用ですか?」と丁寧に聞かれた。
「スミマセン。このお巡りさんに会いたいんですけど。…その、…以前、補導されそうになったことがありまして」
百合花は婦人警官に名刺を差し出しながら言った。
「鈴木警部補ですね。ちょっとお待ちください」
婦人警官はすべてを理解したようにそう言うと百合花を一人玄関ロビーに残し、階段を昇っていった。
百合花がしばらく待っているとその階段から頭の薄くなった、スーツ姿に眼鏡の男が降りてきて少しキョロキョロし、百合花と目を合わせると百合花に近付いてきて「私のことを呼びましたか?」と言った。胸には「鈴木」という名札が張り付いている。
「いいえ。私は生活安全課の鈴木さんっていうお巡りさんをお呼びしたんですけど」
百合花は硬い表情で首を振りそう言った。
「生活安全課の鈴木は私しかいませんけど。ああ、これこれ。これ私の名刺です」
初老の刑事が百合花の右手の名刺を見てそう言った瞬間、百合花はすべてを理解した。
「ごめんなさい。人違いでした。失礼します」
百合花は初老の刑事に深々と頭を下げてそう言うと慌てて警察署を飛び出し、元来た道を走った。
五分くらいで東松原の駅に到着すると、息を切らしながらスマホを取り出し、再び電源を入れてからLINEを起動させメッセージを打った。目の前を渋谷行きの急行電車が通過する。
ゆっぴい【今おうちだよね?】
既読が中々つかなくて百合花はイライラした。そのうち各駅停車がやって来たので乗り込むとやっと既読がつき、すぐに返信が来た。
りゅうちゃん【そうだけど】
ゆっぴい【今からそっちに行く】
ゆっぴい【スケッチブック出しといて】
ゆっぴい【あと鉛筆も】
ゆっぴい【描いてもらいたい絵があるの】
りゅうちゃん【パパとのデートは?】
ゆっぴい【喧嘩した】
りゅうちゃん【今どこ?】
ゆっぴい【イノヘッドで新代田通過】
りゅうちゃん【りょ】
スマホをしまい、百合花はその大きな目を閉じた。自分のバカさ加減に腹が立った。
約十分後、百合花は龍一の家のダイニングに駆け込んだ。息を切らしている。龍一はダイニングテーブルに一人腰掛け、膝にスケッチブックを抱えて百合花の到着を待っていた。テーブルの上には缶コーヒーが二つ置いてある。
「随分と慌ててるようだね。まあ座って落ち着いてよ」と龍一。
百合花は黙ったまま龍一の対面に座った。龍一が続けた。
「この缶コーヒーはジョージアという名前なんだけど、何でジョージアって名前なのか知ってる?」
「…何で今、そんなこと聞くの?」
息を切らしながら百合花が言うと、龍一は真面目な顔になった。
「ゆっぴいに落ち着いてほしいんだよ。何かあったんだよね?それは分かる。だからこそ落ち着いて」
「…そうだね。落ち着こう」
百合花はそう言って缶コーヒーを手に取り、少し振ってプルタブを起こし、一口飲んで続けた。
「この缶コーヒーをなんでジョージアっていうかっていうと、これを作っているのがコカ・コーラでコカ・コーラの本社がジョージア州にあるからだよ」
百合花は言ってもう一口飲んだ。
「そう、そのとおり。それで、…何を描けばいいのかな?」
龍一は鉛筆を持ち、スケッチブックを構えて言った。
「諏訪さんを描いて」
「諏訪さん?」
「そう、諏訪さんの顔。今日、ってか今、パパと喧嘩して、マジギレしちゃって、不倫のことも言ったの。初めてね。パパはビックリしたようだった。それでクルマから降りて、誰かに話を聞いてもらいたくて、でもりゅうちゃんは、さっき自分で解決するって言ったばかりだから諦めて、そうしたらこの前、経堂のマックで会った生活安全課のお巡りさんの名刺が出てきたの。あのとき、そのお巡りさん、相談に乗るって言ってたから、じゃああのお巡りさんに聞いてもらおうと思って、それで北沢警察に行ったのね。そしてあの名刺を見せて、そのお巡りさんを呼び出してもらったら全然知らない人が出てきたの。それで、私分かっちゃったの。あれは、あの時のあの人は諏訪さんだったんだって」
「本当に諏訪さんなの?」
「だから描いてほしいの。マン研のキャプテンに」
「なるほど、そういうことね。了解」
そう言って龍一は対面の百合花には見えないようにスケッチブックを抱え、六Bの鉛筆を動かし始めた。
「私はバカだ。最初からこうすれば良かったのに。マン研キャプテンのりゅうちゃんの実力を過少評価していたよ」
「過少評価っていうより、気が付かなかったってことでしょ?そういう事情じゃ、写実主義だね?」
「もちろん。一切ディフォルメしないで、リアルに描いて。写真みたいに」
「はいはい。まあ、仕方ないね。ゆっぴいもスッカリ騙されたってわけだ」
「そうみたいだね。でもどうして諏訪さんは嘘ついたんだろう?」
「さあ。それを言うならゆっぴいも嘘ついてたんだろ?お互いに騙し合いで諏訪さんの方が、役者が一枚上だったっていうだけじゃないのかな?」
龍一はそう言い、しばらく集中して鉛筆を動かすと「できた」と言ってスケッチブックを百合花に向けた。
「いかが?」と龍一。
「そう、この人。さすがはりゅうちゃん。…写真みたい。…満足した」と頷きながら百合花。
「で、これからどうするつもりなの?」
「諏訪さんに会わせて」
百合花はそう言うと缶コーヒーを握り、残りを一気に飲み干して大きく息を吐いた。