アストロツイン   作:山田甲八

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七 チンチン電車

 ゴールデンウィークが明けた五月十二日の水曜日の放課後、下高井戸の駅で龍一が一人ブラブラ人待ちしていると手を振っている百合花に気が付き、龍一も手を振った。二人が待ち合わせをする場合、先に気が付くのは大抵、視力のいい百合花の方だ。

「ご無沙汰。少し太った?」と百合花。

「そんなに久し振りでもないじゃん。せいぜい一週間ぶりくらいだろ?」と龍一。

「まあ、しょっちゅう連絡取り合ってるし、そんなにご無沙汰感はないけど、現物見るのは久し振りだからね。で、今日はどうするの?これから梅ヶ丘に移動?LINEじゃ会ってから話すってことだったけど」

「そう。一応、諏訪さんと会う約束は取り付けたんだけど、諏訪さんも忙しいようで、…なんでも七月に都議会議員選挙があるとかで、今、その準備で忙しいんだって」

「…諏訪さん選挙に出るの?」

「いや、本人は出ないんだけど、諏訪さん、都議会議員の選挙事務所の会計係みたいなことやってるんだって。お金の計算はあの人の専門だから色々な仕事が舞い込んでくんじゃないのかな。まあ、立ち話もなんだからとにかくチンチン電車に乗ろう」

「チンチン電車?」

 聞こえてはいたが龍一は答えず、手招きして、東急世田谷線のホームへと平行移動した。

 東急世田谷線は都電荒川線と並び、都内に現存する路面電車の二つのうちの一つだといわれている。ただ、都電と違い、専用軌道しか走ることのない世田谷線を路面電車扱いしない説もある。

 パスモを改札にタッチすると、二人はバスのような車両に乗り込み、龍一と百合花で縦に前後に座った。

「私、この電車乗るの初めてかもしれない」と百合花。

「へ~、下高井戸に二年以上も通ってるのに、三茶とか行ったことないの?」と龍一。

「この電車は、もちろん毎日、見てはいるんだけど、どこに行くんだろうって思ってた。国士舘の方とかに行くのかな?」

「まあ、方角的にはそうだけど」

「これで梅ヶ丘まで行くの?」

「残念ながら梅ヶ丘には停まらないんだ。小田急線とは交差するけど、梅ヶ丘より一つ小田原寄りの豪徳寺だよ。もっとも、この電車には豪徳寺という駅はなくて、豪徳寺で小田急線に連絡する駅名は山下っていうんだけど」

「言ってることがよく分からないけど、要は豪徳寺で小田急線に乗り換えるってこと?」

「まあ、クルマ移動が中心のゆっぴいには東京の電車事情はよく分からないのかもしれないけど、小田急線に乗り換えるつもりはない。豪徳寺から梅ヶ丘までは一駅だし、歩いて移動するつもりだよ。その方が早い」

「ああ、池ノ上と下北みたいなもんか」

「もっと近いかも。それに小田急はそんなに各駅停車走ってないしね」

 話をしているうちに二両編成は世田谷の住宅街へと滑り出した。

 住宅街をなめるように走る低層の電車の車景はなぜか百合花に懐かしさを感じさせた。

 数分で目指す山下駅に到着し、小田急線に乗り換える多くの乗客を吐き出した。二人はその流れに沿いながらも豪徳寺駅の改札には向かわず、小田急線の高架沿いに横に並んで東に向かった。

「私はすぐにでも諏訪さんに会いたい気分だったけど、随分、時間かかったね」と百合花。

「これでもマッハ五くらいは出したつもりだけど」と龍一。

 高架橋に初夏の太陽は遮られ、さわやかな陽気だ。

「でも二週間くらいかかったね。まあ、ゴールデンウィークは挟んだけど」

「諏訪さんも忙しいし、ゆっぴいも動けるのはバスケ定休日の水曜日くらいなもんでしょ?土日は塾、あるんだろうし」

「で、今日はその、梅ヶ丘のどこに行くの?」

「うん。梅ヶ丘に諏訪さんが会計係をしている都議会議員の事務所があって、そこに顔を出して声をかけることになってる。その事務所で話をするのか、別のところに移動するのかは分からないけど」

「私のことは話してないんでしょ?」

「ああ。だから、諏訪さんがゆっぴいの姿を見てどういう反応をするかっていうことは計算に入ってない。そこは仕方ないけど出たとこ勝負だね」

 そんな話をするうちに梅ヶ丘の駅前に到着し、二人は駅のコンコースをくぐって南側に出た。

 梅ヶ丘駅の北側は住宅街と官庁街が合体したような様相で、駅周辺は南側の方が断然栄えている。商店街の一角に目指す選挙事務所はあり、龍一がガラス戸越しに中を覗くと何人かの大人がいたものの、諏訪の姿は見えなかった。

 そのうち、制服姿の龍一に気が付いた中年の女性がガラス戸を開け、「何?」とぶっきらぼうに聞いた。

「あっ、すみません。伊波といいます。諏訪幸治さんにこちらの事務所に来るように言われて来たのですが…」

 龍一がそう言うと、中年女性は「ああ、諏訪さんね」と言って奥の方に消え、すぐに戻ってきた。

「ごめんなさいね。諏訪さん、今、取り込み中で、駅前のマックで待っててって。二十分くらいしたら行くからって」

 そう言われ、龍一は「はい」と言って傍にいる百合花に目配せし、「失礼します」と言って二人は駅の方に引き返した。

「どうする?」と龍一。

「どうするって?」と百合花。

「不意を突こうと思ったけど、マックで待機じゃ諏訪さんに先に気が付かれちゃうかもしれないね。ゆっぴいの存在」

「じゃあ、私はあそこで待ってるね。だから諏訪さんが来たらLINEして」

 百合花は自家焙煎という表示のある近くのカフェを指さして言った。

「了解。じゃあ、また後で」

 龍一は手を振って百合花と別れ、マックのカウンターでストロベリーシェイクのSサイズを注文し、階段を昇った。二階の一番奥の席に階段が見えるように座り、スマホをいじりながら諏訪の到着を待った。

 

 ちょうど二十分が経過した頃、階段を昇ってくる諏訪の姿が見えた。龍一はすかさず百合花に「到着」とだけ打ち、スマホをワイシャツのポケットにしまった。諏訪は龍一に軽く右手を挙げ、対面に座った。

「奇遇だな、君もストロベリーシェイクか」

 そう言って諏訪は手にしていた紙コップに刺さったストローを一啜りして続けた。

「ゴメンね。呼び出しといてこんなところで待たせてしまって」

「いいえ。僕の方こそスミマセン。お時間を作っていただいて」

「まず、最初に種明かしをしてしまうけど、どうして僕が今日、君をここ梅ヶ丘まで呼び出したか分かるかな?」

「…いいえ。お仕事の都合じゃないんですか?」

「君はまだ若いな。まだまだ甘い。ヒントは、さっき君が顔を出したところなんだけど」

 相変わらずの珍問に龍一は首をひねった。

「スミマセン。降参です」

「もう降参か?もうちょっと粘ってほしいんだけどな」

「はあ」

「これから君は入試本番を迎えるわけだけれども、あまり早く降参する癖はつけない方がいいと思うよ」

「とおっしゃいますと?」

「つまり、入試というのはきっと僅差の勝負になるだろうということだよ。一点でも多く得点してやろうと思う者が最終的には勝つ。それに入試の問題は、入試でなくても学校の定期テストでもそうだと思うけど、間違っていたから減点ということにはならないはずだ。白紙でもバツでも等しく零点なはずで、それなら分かりませんということで答案用紙に何も書かないよりも、とりあえずあてずっぽうでも何でも、何かを書いておいておいた方がいいということだ」

「はあ。…何か選挙に関係あるということですか?」

「そう。そのとおり。さっきの選挙事務所の都議会議員、僕は後援会の出納責任者を務めているんだけど、出納責任者を務めているくらいだから当然、彼の支持者だし、今度の七月四日の選挙には当選してもらいたいと思っている」

「分かります」

「そこで君の登場だ。君は今月、誕生日を迎えて選挙権を獲得するね?選挙権を獲得して初めての選挙だ。そして、ぜひ、初めて書く投票用紙には彼の名前を書いてもらいたいということだよ」

「なるほど。そう言われればそうですね。選挙権のことなんて考えていませんでした」

「こういうことは口で説明してもよく理解してもらえないだろうけど、選挙事務所に連れてきてしまえば一目瞭然だ。まあ、これが種明かし。では、本題に入ろう」

 諏訪はもう一度ストロベリーシェイクを啜り、続けた。

「学校に何か言われてるって聞いたけど、具体的にはどういうことなのかな?電話では説明しづらいって言ってたけど」

「はい。まあ、その、…あしながおじさんの話ですけど、話があまりにもうま過ぎるんで先生に信じてもらえないというか、そういうことです。先生にもうまく説明できませんし、……それに…」

「…それに?」

「その~…」

「要は君自身がまだ信じられないので先生にもうまく説明できないということかな」

「…そっ、そのとおりです」

「僕も一つ聞いていいかな?」

「はあ?」

「穂香さんのことだけど、穂香さんに小宮老人との結婚をお勧めしたのは君も知っているだろう?」

「はい。母から聞きました」

「どうかな、穂香さんの反応は。あんまりその話はしていないのかな?確かにこれは穂香さんの問題であって、君の問題ではないとも言えるけど」

「悩んでいます」

「穂香さんが?」

「ええ」

「あの電波少女が?へ~、君はどう思う。そんなお母さんを見て」

「珍しいなあと思います」

「珍しい?」

「はい。母は悩むようなタイプじゃないですから」

「確かに悩むようなタイプには見えなかったね」

「それが、今回はとても悩んでいるんです」

「それでなかなか結論が出ないというわけか。で、何をそんなに悩んでいるんだと君は思う?」

「分かりません」

「分からないか。本人にも何がそんなに悩ましいのか、聞いていないんだね?」

「聞いたこともあるんですけど、本人もよく分からないようです」

「そうか。まあ、人が悩むというのは恋もお金も同じで目の前の現実と自分の中の哲学との間で葛藤があるということなんだろうね」

「急かした方がいいですか?」

「まあ、何年も先延ばしにはしてほしくはないけどね。で、話を戻すけど、君が望むのであれば小宮老人との間で贈与契約を締結することは明日にでも可能だ。契約書を作成することもできるし、公正証書にすることも可能だ」

「契約書?ですか?スミマセン。よく分からないんですけど」

「高校生には少し難しいかな。贈与は単独行為のように思われているかもしれないけど、実は契約だ。あげます、もらいますという双方の意思が合致しないと成立しない。所有権の放棄のような単独行為とは違うよ」

「はあ」

「そして贈与のように、ただ単に君が権利を得るというものであれば未成年者の君でも契約の当事者になることができる。しかし、残念ながら今回の贈与契約は完全な贈与、お年玉のようなものではない。君にも一定の義務を求める贈与だ。負担付贈与と呼ばれるタイプのものだ」

「僕が何かしないといけないんですか?」

「贈与のお金は医学部に進学するための学費にしか使えないという条件を付ける。つまり、君が医学部で六年間一生懸命に勉強して、医師国家試験にも合格して医者になるという条件をつけるんだ。だから負担付贈与ということになる。負担付贈与ということになると、未成年者の君が単独で完全に有効な意思表示はできないから、親権者である穂香さんが代理人として契約することになる。少しややこしい。だから、僕が提示したアイデアを受け入れるかどうかの答えは早めにほしいというのは正直なところだ」

「分かりました。ありがとうございます。母のことは急かしてみます」

「別に今日、明日中に回答をもらわなくてもいいよ。さっきも見ただろうけど、僕はしばらく都議選のことで忙しくなる。六月二十五日告示で七月四日投開票だ。それから締めとかもあるし、その後はなし崩し的に夏休みにも入ってしまうだろうから、回答は九月に入ってからでもいいくらいだ」

「伝えます」

「それより勉強はしているかな?」

「勉強…ですか?」

「ああ。学校の勉強をしっかりするように指示を出しておいたと思うけど」

「はあ。まずまずです」

「まずまずでは困るよ。まあ、そんなに焦ることもないけど。高校での成績はどのくらいかな?」

「まあまあです」

「そうか。では今度の中間テストでは最低でもクラス一位になってね」

「はあ?それはいくらなんでも…」

「本当は学年一位を目指してもらいたいくらいなんだけど、さすがにM高校でも君より努力家で頭のいい生徒は一人くらいはいるだろうからそこまでは求めない」

「無茶ですよ。こないだ諏訪さんはそんなに勉強しなくてもいいと言っていたと思いますけど」

「確かにそうは言ったよ。別にガリ勉して偏差値七十五を出せとは言ってない。せいぜいM高校のクラスナンバーワンだ。偏差値に換算すればせいぜい五十五くらいじゃないのかな?」

「…そうかもしれません」

「僕は別に塾に行けとも言ってない。ただ学校の勉強を一生懸命やってねって言ってるだけだ。君は就学支援金を受け取っているよね?それは税金だ。どうか税金を無駄にしないでもらいたいということだ。それと希望の大学はあるかな?」

「はあ?」

「ここに行ってみたいという。もちろん、学費は気にしなくてもいいけど、偏差値は、少しは気にした方がいいだろう」

「…今のところ、…特にはありませんけど…、というか、よく分かりませんし…」

「なるほど。では質問を変えよう。こういう大学に行ってみたいという希望はあるかな?」

「どういうことです?」

「例えば、君は二次元の世界の住人のようだから、秋葉原にキャンパスのある大学に行きたいとか、そういうことだ。もっとも秋葉原にキャンパスのある大学はないけどね」

 諏訪はそう言うとストローを啜った。龍一は何と言ったらいいか分からないでいたところ、階段を昇ってくる百合花が視界に入った。

 肩に鞄を下げた百合花は静かに二人に接近し、諏訪の背後に立った。龍一が座ったまま百合花を見上げると、諏訪も龍一の視線に気が付き、後ろを振り向き、そして見上げた。

「やあ。またマックで会うとは、何かの縁かな」と百合花と目を合わせた諏訪。

「お話したいことがあります」と静かに百合花。

「今日は最初からこういう展開の予定だったのかな?」

 諏訪はそう言って首を元に戻し、龍一と視線を合わせた。

「別に彼女のことがメインだったわけじゃありません。学校の先生に言われていたのは事実ですし、母のこともあり、僕がお話ししたかったのは間違いありませんから」

「それに百合花さんも乗っかってきたってことかな?」

「最初は僕がゆっぴいに乗っかったのかもしれません」

「でも今ではどっちがメインでどっちがついでだか分からなくなってきたってことか」

「はい」

「正直に言います」と百合花。

 諏訪はもう一度後ろを振り向いて百合花を見上げた。百合花が続けた。

「りゅうちゃんに出てきてもらったのはたまたまです。本当は自分で全部解決しなければならない問題でした。たまたまあの日、経堂のマックでお会いした日の夜、りゅうちゃんに学費のことで相談されたんです。そのとき、私、諏訪さんの名刺持ってましたから。それでりゅうちゃんに諏訪さんに相談するようにお勧めというか、お願いしたんです」

「なるほどね。それで、…君達はお互いにどれだけのことを知り合っているのかな」と龍一と百合花を交互に見ながら諏訪。

「僕達、お互いに隠し事は一切していません。前にも話したかと思いますけど、ゆっぴいと僕は小さい頃から双子のように育てられてきましたから」と龍一。

「なるほど、アストロツインか」

 諏訪がそう言うと二人は頷いた。

「諏訪さん、申し訳ありませんけど、ゆっぴいの話も聞いてあげてくれませんか。僕からもお願いします」と龍一。

 諏訪はストローを啜ってからしばらく考える素振りを見せた。

「…分かった。次の用事があるにはあるけど、まだ時間はあるからそれまではいいよ。君達に付き合おう。その代わり、話す内容が内容になってしまうから場所は変えよう。行きつけのカラオケボックスとかはあるかな?」

「カラオケボックスですか?」

 百合花は龍一と顔を合わせて言った。

「そう。こんな開放的なところではなくて、密閉した空間が必要だということさ。これから僕達のする話をするにはね」

「…下北でもいいですか?」と百合花。

「行きつけがあるんだね?別にいいよ。どうせここからだと下北経由で帰ることになるしね。じゃあ移動しようか」

 諏訪はそう言うとシェイクを持ったまま立ち上がった。

 

 三人は梅ヶ丘の駅から小田急線の各駅停車に乗ったが、諏訪は終始無言で二人とは少し距離を置き、百合花と龍一もお互いにしゃべることはなかった。

 小田急を下北沢で降りると、地下深くからの長いエスカレーターを上り、改札を出て東口から少し坂を下った。

 目指す行きつけのカラオケボックスは徒歩数分の所にあった。一階にカレーとステーキのチェーン店が入っている。

 百合花は慣れた手つきで手続きを済ませると二階の一室に案内された。

 狭い部屋に諏訪を一番奥に腰掛け、その対角に百合花が座って龍一がドアに近い端っこに座り、ワンドリンクを選んだ。

「最初に確認しておくけど、二人の間には本当に隠し事はないということでいいね?」

 まず諏訪がそう言うと二人は顔を合わせて頷きあい、龍一が「はい」と言い、諏訪が続けた。

「なるほど。では百合花さん、この前も言ったと思うけど、君は何がお望みなのかな?」

「その前に一つお聞きしていいですか?」

「うん」

「こないだは、どうして嘘を言ったんですか?」

「それをいうなら君だって嘘をついてたんじゃないか。まあいいよ。ちゃんと答えてあげよう。こないだは君のペースに持って行かれたくなかったからさ。やっぱり嘘には嘘で対抗しないとね」

「私のこと知ってましたね?」

「そうだね。知っていた」

「奥様の不倫のことも」

「ああ。だからこないだ経堂のマックに呼び出された時もその話なんじゃないかと思ってはいた」

「パパとは会ったことはあるんですか?」

「いや。君のパパは僕の存在はもちろん知ってはいるだろうけど、僕が君のパパと僕の妻との関係を知っているとは思ってはいないだろうな」

「どうして私のことを知っているんですか?」

「それはこれからの会話の中で明らかになるよ。もういいだろう?それで君の望みは何なのかな?」

「…私はパパと諏訪さんの奥様の関係を終わらせたいと思っています。そして、元の鞘に戻したい」

「君のパパは君がパパのその不適切な関係について気が付いていることを知っているのかな?」

「ええ。一年くらい黙ってましたけど、ついこないだ、…二週間前くらいですけど、喧嘩してブチ切れましたから」

「そう。それで、元の鞘に戻せると本気で考えてるの?」

「それは…、でもパパとママの中が悪くなったのは諏訪さんの奥様の責任です。諏訪さんの奥様の責任ということは、諏訪さんにもその責任の一端はあるんじゃないんですか?」

「だから僕には君に協力する義務があると、そう言いたいのかな?」

「はい」

「それは違うよ。残念だが因果関係が逆だ」

「因果関係?」

「君は僕の妻のせいで君のパパとママの関係が悪くなったと思いたいみたいだけど逆だ。パパとママの関係が冷え切ったのが先で、それから僕の妻がパパの前に現れたんだよ」

「何をご存じなんですか?」

「全部だよ。君はこないだ全部知っているって言ってたよね?君が知っている全部ってなんだ?何を知っているっていうんだ?」

「パパのメールやLINE。奥様との、パパの栞さんとのやりとりは全部読みました」

「なるほど、彼も脇が甘かったってことか」

「そうですね。ビックリするくらい簡単でした。それで、諏訪さんは何をご存知なんです。諏訪さんの言う、全部って一体何ですか?」

「パパと妻が、…栞がどういう関係かってこと全部だよ。君はせいぜいパパのメールを盗み見した程度だろう。でも僕は君のパパとの関係について栞から全部報告を受けているんだ。それだけじゃない。君の家が、蓬田家がどういう状況にあるかということも全部だ」

「ええっ?」

「だから君のパパが精神科のお医者さんだってことも聞いているし、ママが都立病院にお勤めだってことも、君がN大付属高校の三年生だってことも知ってる。栞がいつどこで君のパパと会い、何をしているのかってことも知ってるよ。もちろんメールの内容もね」

「…どうして?どうして諏訪さんは平気なんですか?もう栞さんのことは愛してないんですか?」

「愛してはいるよ。それは昔も今も変わらないと思う。むしろ強くなっているのかも。僕は栞のことをとても大切にしているし、それは彼女も分かっているはずだ」

「じゃあどうして平気なんですか?」

「平気だなんて一言も言ってないと思うけど」

「じゃあ言葉を変えます。なんで何もしないんですか?」

「僕はどうすべきだと君は思っている?」

「少なくても咎めるべきでは?…それからパパを殴ったりとか、…暴力が嫌なら法的手段に訴えるとか…」

「…栞は病気なんだよ」

「えっ?」

「栞は病気なんだ。だから何を言っても、僕がどう行動しても無駄なんだよ」

「病気?」

「そう。昔、栞は仕事をしていたんだけど心を病んでしまってね。それで、君のパパの前に現れた。君のパパは自分の患者に手を出したんだ」

「……」

 百合花はそれを聞いて気持ち悪くなり黙った。初めてパパの不倫に気付いた時のうつ状態が戻ってきたようだった。

「……パパが栞に手を出したのは、もう君のママとの関係が終わってしまった後だ。だから、栞が君の家族を崩壊させたわけじゃないし、僕にもその責任はない」

「…諏訪さんはパパに復讐したいとは思わないんですか?」

「もちろん思うさ。もっと言ってしまえば、僕が君のパパの存在に気付いてから君のパパのことを考えなかった日は一日たりともないよ」

「……諏訪さん、一緒に手を組んでパパに復讐しませんか?」

「…なるほどね。確かに僕は君のパパのことを恨んでいるかもしれないけど、二つ返事でうんとは言えないなあ。君は僕の妻の不倫相手の娘だし僕は君のパパの不倫相手の夫だ。本来なら利害は対立するはずで、手は組んでみたけど二重スパイだったてなことになったらつまらないからね」

「私、裏切るつもりはありませんけど」

「僕が裏切るかもしれないよ。まあ、君の希望はよく理解できたよ。君は幸せな家庭を崩壊させたパパに復讐をしたいということで、できれば僕にも協力してほしいということだね?」

「はい」

「パパに辛辣な復讐をするとしても、高校三年生の君の力では限界があるだろうから同志であるはずの僕の力を利用したいという話は分からないでもない。でも、すぐに結論は出せないし、出すべきものでもないと思う。少し、というか相当長い時間をくれないかな?」

「相当長いって、どのくらいですか?」

「少なくとも都議選が終わるまでは無理だ。都議選が終わったら僕の方から龍一君に連絡するよ。まあ、僕が連絡する前に龍一君が僕に連絡をくれるかもしれないけどね」

 そう言って諏訪は龍一を見た。二人の会話を静かに聴いていた龍一は我に返り、慌てて「はい」と言って頷いた。

「もっと二人に話したいことはあるけど、今日のところはこの辺にしておこう。特に百合花さんはもうこれ以上消化できないだろうしね。じゃあ、僕はこの辺で。ここの会計は僕が済ませておくから、君達はせいぜい元気が出る歌でも歌うんだな」

 諏訪は言って百合花を見たが、百合花はただ呆然としていた。諏訪が部屋を出て行こうとすると「諏訪さん!」と言う百合花の声がして諏訪は振り返った。

「最後にもう一つだけ教えてください。…どうして私の生年月日まで知っているんですか?」

「ああ、龍一君に聞いたのかな?それは簡単なトリックだよ。君はフェイスブックをやっているね?」

「はい」

「そこに君は不必要な個人情報まで載せている。それを見ただけさ。僕はもちろん君のパパには強い興味を持っているから君や君のママのこともインターネット検索ぐらいはしているんだ」

「そうだったんですか」

「まあ、汚いおじさんから一言アドバイスさせてもらうとネット上には無駄に個人情報を並べない方がいいと思うよ。でも君の一番大切な個人情報であるその容姿を載せていないことは賢明だと言えるかな」

 諏訪はそう言うとドアの取っ手を持ったまま龍一を見た。

「最後にもう一度言うけど、龍一君。くれぐれも学校の勉強を怠けないでね。じゃあ」

 諏訪はドアを開け二人の視界から消えていき、同じタイミングでドリンクが運ばれてきた。

 

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