それからしばらくしての五月十八日の火曜日、アストロツインの誕生日がやって来た。
諏訪と会ってから二週間くらいの時間があったが、百合花も龍一も中間テストへの対応があったりして二人はそれぞれが直面しているはずの問題にまともに向き合えてはいなかった。
それでも誕生日となると当然、パーティーということになる。本当に小さい頃から双子のように育てられてきた百合花と龍一は、二人そろってパーティーを開くのがあたり前になってしまっていて、十八年も続けていると今さらその習慣を変えることはできない。
例年、主役の二人の意向はあまり重視されず、今年は百合花の家の広い庭でのバーベキューパーティーということに二人のママが勝手に決定していた。
臨機応変に対応できる者が一人でもいれば事情も変わってくるのかもしれないが、あいにく、当事者の誰も融通が利かないので、曜日をずらすという発想も十八年の間、一度も持たれたことがない。パーティーは予定どおり、バスケ部定休日の次の日ではなく、週末でもなく、当日に予定された。
それでも同じことを十八年も続けていると色々なことがスムーズだ。百合花のママは事前に休みを取っていて、穂香も例年、この日だけは何があっても仕事を入れない。
ママ二人は日頃の慢性的な睡眠不足を解消させるため昼過ぎまで眠ると、午後からは揃って買い出しに出かけ、多めに肉を買い込むと、広い庭でバーベキューのセットを始めた。二人の誕生日を祝うというよりも、本当に楽しみたいのはこのママ二人のようで、まだ子ども達が帰宅していないのに既に二人の体内には少なくないアルコールが注入されている。
パパは仕事を理由に不在だった。本当に仕事が欠席の理由だったのかは怪しくもあったが、誰も問題にしなかった。
しばらくしてから一度帰宅して私服に着替えた龍一が登場し、ガスバーナーで炭火コンロの火おこしを始めた。百合花も帰宅し、シャワーを浴びて私服に着替えてから庭に出てくる頃にはバーベキューの準備はすっかり整っていた。
「ゴメンゴメン。のんびりしちゃって」と百合花。
「全然平気。あたし達はもう始めちゃってるようなもんだからね」と穂香。百合花にプラスチックのコップを渡して炭酸飲料を注いだ。
「じゃあ、乾杯しよう。十八歳のお誕生日おめでと~」
穂香がハスキーなボイスでそう言うと、四人はプラスチックのコップを合わせ、口をつけた。それからコップをテーブルに置いてパチパチと手を叩くとママ二人と龍一は龍一を真ん中にしてテーブルの周囲に置かれた椅子に腰掛け、百合花は生肉の並べられた皿とトングを持ってバーベキューコンロの方に向かった。
「パパは来てないけどゆっぴいはいいの?」と穂香。
それを聞いて、百合花、そして龍一は少し緊張した。
二人の高校生は穂香が百合花のパパとママの冷えた関係をどの程度知っているのか承知していない。百合花はママがパパの不倫に気付いてはいないと思っている。いずれにせよ今、パパの話題は避けたいところだった。
「まあプレゼントはくれたからそれで許してあげようかなと」
まったく許す気のない百合花は肉を焼きながらしれっと言い、龍一に目配せした。龍一はそれを「話題を変えろ」のサインだと解釈した。
「それより小宮さんの話はどうなったんだよ?」
パパに話題が向かうのはまずいと判断した龍一は無理矢理、穂香に小宮老人の話題を振った。
「……」
「何の話?私も聞いていい話なのかな?」
穂香が黙ると百合花のママが介入してきた。
「もちろん聞いてもいい、ってか、ママはゆっぴいママにその話してないのかな?ゆっぴいママは聞いたことない?小宮さんの話」と龍一。
どう見ても歳相応には見えない穂香とどう見ても歳相応あるいはそれ以上にしか見えない百合花のママは十八年間厚い友情で結ばれてきていて、ツーカーのはずだった。
「だから何の話?」と百合花のママ。
「ママ、結婚しないかって言われてるんだ」
「ええっ!お見合いでもしたの?」
百合花のママは本当に初めて聞いたようでビックリした声を出した。
「そうじゃなくって、…なんて言ったらいいのかなあ…」と地声の穂香。
「やっぱりゆっぴいママには話してないんだ」と龍一。
「初耳だよ。なんで黙ってたの?」と百合花のママ。
「別に内緒にすることでもなかったけど沙織ちゃんとはご無沙汰というか、ここんところあいさつ程度でじっくりお話しできてなかったじゃない?とにかく急な上に複雑怪奇な話でさ。まあ、電波少女のあたしもびっくりって感じなのよ」と穂香。
「では、詳しく聞かせてもらいましょうか」
沙織は自分だけ仲間外れにされているのが面白くないといった表情で座っている椅子の方向を龍一の先にいる穂香に向けた。
「りゅうちゃん話してよ」
穂香は面倒臭いのか照れ臭いのか、微妙な表情で龍一に振った。
「自分で話せよ」と龍一。
「どっちでもいいよ。とにかく聞かせてよ」と沙織。
穂香と龍一が黙っていると、しばらくして「じゃあ、私が話すよ」と言って肉を焼いていた百合花が割り込んできて、龍一を立たせ、生肉ののっている皿とトングを渡して龍一の座っていた椅子に腰かけた。
「その代わり真剣に聴いてね。随分、面倒臭い話なんだから」と百合花。
「真剣に聴くのはいいけど、なんでゆっぴいが知ってるの?」と沙織。百合花は一瞬、言葉に詰まった。
「…それはね、…それは、私とりゅうちゃんの間には隠し事なんかないからだよ。昔から双子みたいに育てられたし」
「そりゃそうだ。それで?」
「四月になってすぐ、りゅうちゃんは個人面談を受けたのね。個人面談というか、三者面談というか」
「学校で?」
「そう」
「早くない?」
「まあ、りゅうちゃんのところは母子家庭だし、早めにフォローしなきゃいけないと学校も思ったんじゃない」
「うん」
「それで、りゅうちゃんは四大への進学希望を表明したんだけど、学費のことをどうするか聞かれて、それでりゅうちゃんは悩んじゃったわけ」
「ふん」
「それで、たまたま私がFPの名刺を持ってて…」
「FP?」
「ファイナンシャルプランナー。お金の相談に乗ったりする人。ママはそういう職業の人知らないのかな?」
「税理士みたいなもんかな?」
「さあ。とにかくファイナンシャルプランナーの人の名刺をたまたま持っていたのね」
「なんでまたゆっぴいが?」
「…さあ。私もよく分からないけど、家の中にあったからパパのところに営業にでも来たんじゃないの」
「ああ、だからたまたまなのか」
沙織はパパと百合花の微妙な距離感を知っているかのように言った。
「それで、その人、ホームページとかでも相談受け付けたりしていて、随分と敷居は低いようだったから、この人に相談したらってりゅうちゃんにお勧めしてみたの」
「それでりゅうちゃんは相談に行ったってわけか」
「そう。そうしたらホントに劇的に、ドラマみたいに話が進んで、何でもその人、相続人のいないお金持ちの財産相談とかにものってるみたいで、りゅうちゃんの学費を出してくれるっていう人がいるっていうの。まあ、分かりやすく言えばあしながおじさんみたいなもの。分かるかな?あしながおじさん」
「うん。分かる。…そうか、それはいい話じゃない。私も実はりゅうちゃんの進路のことは気になってはいたけど、大学に行くんだね?」
沙織はそう言って肉を焼いている龍一の方を見た。
「うん。できれば医学部に行きたいと思ってる。ゆっぴいと一緒にね」と龍一。
「え~っ」
沙織は驚きと喜びの混じった声で叫んだ。
「まあ、ゆっぴいと一緒って言っても、俺はゆっぴいほどレベルは高くはないから医学部という意味においてだけどね」
「なるほど。そんないい話、ちっとも知らなかった。それで穂香ちゃんの結婚話とはどう結びつくの?」
沙織は再び百合花の方を見た。
「それで、そのあしながおじさんがりゅうちゃんの学費を贈与することは話がついたみたいなんだけど、そうすると贈与税っていうのかな?莫大な税金がかかっちゃうそうなんだよね。それももったいないってそのファイナンシャルプランナーの人は言っていて、税金を安くする方法としてそのあしながおじさんとりゅうママとの結婚話を持ち出して来たってわけ。夫婦になりさえすれば税金が随分と節約できるみたい」
「……財産目当ての結婚、…てわけ?」
「別に財産目当ての結婚ってわけじゃないと思うよ。財産目当ての結婚ていうのは最初から財産が目的であって、結婚はそのための手段で、結婚詐欺みたいなもんでしょ?」
「うん」
「でも、今回のりゅうママの結婚話は、りゅうママはそのあしながおじさんと会ってすらいない。なんでも会う必要すらないみたいで、戸籍上、夫婦ということになりさえすれば良くて、それで相当の節税になるみたいだよ」
沙織はそこまで聴いて少し黙り、考え事をするような素振りを見せてから穂香と目を合わせた。
「いい話じゃない。シンデレラだね」と沙織。
「……」
穂香は黙ったままだったので百合花が続けた。
「そう。いい話でしょ?私もそう思うんだけど、りゅうママは悩んでるんだよね」
「…そういうことか」
沙織はそんな穂香の表情を見て、かつて知ったるように言った。
「そういうことかって、ママの心理分析でもできるの?俺も初めてなんだよね。そんな悩んでるママを見るのって。いっつも悩みなんかせずに、行動してから考えるパターンだったのに」と龍一。
「まあ、私も精神医学が専門じゃないからハッキリしたことは言えないけど、分かる部分もある。穂香ちゃんは何か十字架を背負っちゃうと思ってるんじゃないかな?」と沙織。
「…十字架って?」と穂香。
「まあ、分かってもらえるとは思うけど、穂香ちゃん、今までずっと好き勝手に生きてきたわけじゃない?そんな生き方を私はとてもうらやましいと思ったりするんだけど、形だけとはいえ、結婚して、財産をもらった瞬間に何か、その、小宮さんだっけ?その人に気を使いながらの人生になっちゃうと思ってるんじゃないかな」
「…案外図星かも」
穂香はそう言って、少し遠くの夕暮れの空を見上げた。
「でも、諏訪さんはあくまでも税金対策。結婚は形だけのモノって言ってたよ」と遠くから肉を焼きながら龍一。
「りゅうちゃんはまだ小さいから分かんないよね。でも、私から一言アドバイスするとしたら自分の気持ちに正直な方が後悔しないと思うよ。今までりゅうちゃんには迷惑かけてきただろうからそれを償って余りあるだけのチャンスには違いないと思う。でもそれがために穂香ちゃんが穂香ちゃんでなくなってしまうのには私は反対だな」
「……」
沙織がそう言ったが、穂香は相変わらず黙っている。天真爛漫なはずの穂香が静かだとせっかくのバースディーパーティーも盛り上がらない。空気を察した沙織が続けた。
「ゴメンゴメン。せっかくの十八歳のお祝いの席なのになんだか暗くなっちゃったね。じゃあ話題を変えよう。ゆっぴいにインターハイ予選の報告でもしてもらいましょうか」
沙織が話題を変え、仕方なく百合花もそれに従った。
龍一は悩んでいた。正確に表現すると迷っていた。
諏訪に連絡を取った方が良いのか、取るべきではないのか。
龍一は頭の中でそれぞれの理由を並べてみる。
まず取った方が良いと思う理由。
最後に接触をしたのはもう一ヵ月以上も前のゴールデンウィーク明けの水曜日だ。それ以来、諏訪との接触はない。SNSでつながっているわけでもない。とても親しければSNSつながりでいつでも接触できるのかもしれないが、そこまで親しくはないし、相手は親の世代でアドレスをゲットするのも簡単ではない。
まさかとは思うが、諏訪にとって自分のことはすべて冗談だったのではないかという心配もなくはない。百合花のパパのことを快く思ってもいないのだ。
一方、連絡を取らない方が良いと思う理由。
諏訪は穂香も気になって調べていたがどうやら信頼できる男のようだ。そして最後に会ったとき、都議会議員選挙の対応でとても忙しいと言っていた。忙しいと言われていて、夏休み明けでも良いとまで言われている以上、ここは諏訪のペースを乱すべきではないし、真剣に悩んでいるママを急かしたくもない。
バースディーパーティーから一ヶ月以上が経過し、高校生活は一学期の期末テストの時期を迎えている。部活も休みで帰宅時間は必然的に早くなる。しかし勉強する気はなかなか起こらず、かといってゲームや漫画を楽しむ気分にもなれない。
落ち着かない龍一はしばらくダイニングテーブルを前に腰掛け、自身、穂香そして諏訪のことを考えた。
不意にダイニングテーブルの上に置かれたスマホが鳴った。ディスプレイを見ると〇九〇から始まる知らない番号が表示されている。龍一はスマホを操作し電話に出た。
「もしもし」
「龍一君だね?諏訪です」
「ご無沙汰しております。スミマセン、母の方はまだ結論が出ていません」
ちょうど諏訪のことを考えていた龍一は、督促の電話かと思い、とっさにそうあいさつした。
「お母さん?」
「小宮さんと籍を入れる話です」
龍一がそう言うと諏訪は少し考え事をしたようだった。一瞬、間があった。
「…ああ、あれね。そんなことはどうでもいいよ」
「どうでもいい?」
龍一はビックリして聞き返した。今の今まで、それを悩んでいたのにどうでもいいと言われてしまったからだ。
「ゴメン。どうでも良くはないけど急ぎではないということだ。今すぐでなくていいから必然的に後回しになる。それより今日、君の所に郵便物が送られて来ただろ?」
「郵便物?」
諏訪にそう言われて、確かに帰宅の際、郵便ポストから郵便物を取り出したことを思い出した。モノは目の前のダイニングテーブルの上に置かれてある。
「ええ、確かに来ましたが」
そう言って龍一はダイニングテーブルの上に置かれている封筒を手に取り、宛名を確認した。
「でも、僕あてではなく、母あてですよ。このことでいいですかね?」
「差出人は誰になってる?」
「世田谷区選挙管理委員会ですけど」
「そう。それでいいよ。それが何か分かるかな?」
「開けてみたいところですけど、母あてですし、僕が勝手に開けるわけにはいきませんが」
「じゃあ、中身を教えてあげよう。今日、告示された都議会議員選挙の投票整理券だよ。世帯の人数分入っているはずだから、君と穂香さんの分が入っているということだ」
「投票整理券?」
「君は初めてだから分からないかもしれないけど、いってみれば投票所に入場するためのチケットだよ。それを持って行けば投票所に行って投票できるということだ」
「はあ」
諏訪の言っていることは一々理解できるのだが、たかだか投票整理券程度でなぜそれほどまで熱くなるのか、龍一には分からない。
「明日は暇かな?」
「まあ、期末テスト直前ですから暇か?と尋ねられたら試験前で忙しいという回答になってしまいますけど」
「そうか。期末テストか。相変わらず学校の勉強はしっかりやっているね?」
「頑張ってはいます」
「よし。では忙しいところ申し訳ないのだけど、明日、少し僕に付き合ってもらいたい。期末テストが迫っているということは特に遊ぶ予定とかは入れていないね?」
「ええ」
「じゃあ、明日。そうだなあ、早い方がいいからちょうどお昼時にしよう。正午、十二時に経堂駅の改札にその整理券を持って来てくれないか?土曜日だし、大丈夫だよね?」
「経堂ですか?」
「場所分かるよね?分からなければ君の幼馴染に聞けばいい。僕は彼女と経堂駅前のマックで一度会ったことがあるから」
「はあ」
「いや、それだけじゃ不十分だ。聞くだけではなくて、明日の正午、その幼馴染も連れてきてくれないかなあ。幼馴染にも投票整理券を持たせてね。どうせ、君が期末テスト前で忙しいということは彼女の方もテスト前で部活とかもないんだろ?」
「ええ、そうですが」
「穂香さんもできれば連れてきてもらいたいのだけど」
「母はイベントがあって無理だと思います。土日は大概そうですから」
「そうか。まあ穂香さんは後でもいいや。それと幼馴染に限らず、君の友達で選挙権を持っている人は連れてきてもらいたい。もちろん投票整理券を持たせてね」
「何をするんですか?」
「期日前投票だよ。まあ来てもらえれば分かる。というより、今この電話で説明しても君には理解できないだろう。詳しいことは明日の正午の経堂で。くれぐれも投票整理券を忘れないでね」
そう言うと電話は諏訪の方から一方的に切れた。
龍一は状況を即座に飲み込むことができなかったが、取り敢えず、諏訪が自分のことを忘れていなかったことには安堵した。
言われた封筒を開けてみると、自分の分の投票整理券も入っていた。初めて見るチケットだが特に感慨は湧かない。
スマホを手に取ると百合花あてにLINEメッセージを打った。
次の日、小田急線を経堂で降りた龍一と百合花は改札を出る手前で周囲をキョロキョロし、諏訪の姿を探したが見つけることはできなかった。時計は十二時十分前くらいをさしている。
しばらくして各駅停車が到着するタイミングがあり、下りホームの階段から諏訪が下りてくるのが見えた。百合花が先に発見し、龍一の肩を叩き、指でさして教えた。
そのうち諏訪の方も二人に気が付き、笑顔で右手を挙げた。
「あれ~、君たち二人だけ?」
それが諏訪の第一声だった。
「ええ」と龍一。
「お友達を連れて来るように言ったはずだったけど」と諏訪。
「もちろん、声はかけましたよ。マン研はもちろん、クラスの中でもできる限りは。LINEでつながっている連中には全員連絡しました。ゆっぴいも。でも、みんな、その~、投票整理券を持っていなかったんです」
「持っていない?」
「ええ。つまり、みんなまだ十八歳に達していないということです。僕達二人は五月生まれだからたまたま選挙権がありますけど、普通の高校三年生はまだ選挙権年齢には達していないということです」
龍一がそう言うと諏訪は絶句した。少し沈黙の時間が流れた。
「……そうだったか。そう言われればその通りだ。…残念ながら僕の負けだ。そこまでは考えていなかったよ。僕は二人がたくさんのお友達を連れてきてくれることしか考えてなかった」
「もちろん、何人かはいて、私も声はかけましたけど、さすがに今日は…。今、期末テストの真っ最中なんです」と百合花。
「それは承知している。そこを何とかと思ったんだけど」
「それより誰に入れるんですか?僕は候補者とかよく知らないんですけど」と龍一。
「そうか。その話もしていなかったね。まあ、それはこれから経堂出張所に向かうまでの道すがらに掲示板が出ているだろうからそのときに教えるよ。君達にとっては思い出に残る人物になるはずだ。選挙権を獲得して一番最初に書く人物なのだからね」
「諏訪さんは覚えているんですか?一番最初に書いた政治家の名前」と再び龍一。
「残念ながら僕は、選挙権を得て初めての選挙では白票を投じているよ。その頃の僕は極度の政治不信に陥っていたからね。とにかく君達も試験前で忙しいし、僕も選挙中で、…って僕の選挙じゃないけど、忙しいからさっさと移動しよう」
そう言って諏訪は二人を手招きし、三人は改札を出た。
「どこに行くんですか?」と龍一。
「経堂出張所とか言ってましたけど」と百合花。
「そのとおり。経堂出張所だよ。歩いてすぐだ。経堂出張所では期日前投票を受け付けているからね。それで…」
そう言いながら諏訪は近くにある候補者のポスターをすれ違いざまに指さした。
「あの男だ。あの男の名前を書いてもらいたい」
「でもどうして今日なんです?投票日は、…確か七月四日では?」と再び龍一。
「せっかちだと思うかな?しかし、今や期日前投票を呼び掛けるのは選挙の常識だよ」
「七月四日じゃダメなんですか?」
「ダメとは言わないけど好ましくはない。君は朝三暮四という中国故事を知っているかな?」
「ええ、まあ」
「どんな話だ?」
「スミマセン。細かいことは知りませんけど、昔、中国で猿を飼っている男がいて、餌代に事欠くようになってきたので猿に、どんぐり、…だったかな?…それを餌として毎日、朝三つ、夜四つ与えると言ったら猿が怒り出して、では、朝四つ、夜三つ与えると言い直したら今度は手を叩いて喜んだという話だったと思います」
「なるほど。それで何が言いたいのかな?その故事は」
「確か、学校では目先のことに囚われていて肝心なことに気が付かないたとえということで習ったと記憶しています」
「まあ、そんなところだろう。実はこの故事には続きがある。男がそんな猿達をバカにした目で見ていると、年老いた猿が現れるんだ。そしてこう言う。朝四つ、夜三つにした場合、昼間死んでしまう猿はその生涯において一つ余計にとちの実を食べられることになる。肝心なことに気が付いていないのは人間の方だとね」
「はあ」
「言いたいことは分かるだろう?七月四日が投票日かもしれないが、その間に何が起こるか分からない。投票に行くつもりの人が急に行かれなくなることだってあり得るわけだ。あるいは順風と思っていた風が突然、逆風になるってことだってあり得ない話じゃない。だから期日前投票という制度を利用して、獲得できる票は獲得しておこうということを選対としては考えるということだよ」
そんなことを話しているうちに三人は経堂出張所に到着した。まだ選挙戦も序盤ということもあり期日前投票会場もガラガラで、三人はスムーズに投票を済ませ、会場を出た。
「すまなかったね。お忙しいところ呼び出したりして」と少し腰が低めの諏訪。
「いえいえ」と龍一。
「本当はこれからランチでもご馳走したいところだけど、そんなことしたら確実に選挙違反になっちゃうからね。だからランチはおろかここでは缶ジュースの一本もご馳走することはできない。ケチな親父と思うかもしれないけど、そういうことだ。ともかく、君達二人も期日前投票のやり方は分かっただろうから、試験が終わってからでいいので選挙権のあるお友達をここに連れてきて、僕がやったのと同じように期日前投票を呼び掛けてほしい」
諏訪がそう言うと龍一と百合花は顔を合わせて頷き、「はい」と言った。
「じゃあ、僕は世田谷線下高井戸経由で烏山に戻るからこれで」
そう言って右手を挙げ、二人の前を去ろうとする諏訪を龍一が呼び止めた。
「スミマセン。母の回答がまだなんですけど、…大丈夫ですか?」
「大丈夫かっていうと?」
「随分、遅れてしまっているようで申し訳なく思っているんですけど」
「ああ、それなら気にすることはないよ。この前も言ったけど、夏休み明けでも十分間に合うから」
「周りはそろそろ模擬テストとか受け始めているんですけど、相変わらず、学校の勉強を一生懸命やるということで大丈夫ですか?」
「そうだね。でも一つ確認しておきたいんだけど、穂香さんは何をそんなに悩んでいると君は思っている?真実はどうでもいい。君がどう思っているかを聞きたい」
「この前、っていっても一月くらい前になるんですけど、僕とゆっぴいと僕の母とゆっぴいのお母さんの四人でしゃべる機会があったんですけど、ゆっぴいのお母さんは、ご存知の通りお医者さんですけど、今回の小宮さんの話、母は、何か十字架を背負わされると思っているんじゃないかと、だから悩んでいるんじゃないかと、そう分析していました。僕もなるほどなと思いました」
「そうか。十字架か。それならそれでさっさとノーと言えばいいんじゃないのかな?」
「でも僕に今まで苦労をかけてきたことも事実なんで、だから悩んでいるのかと」
「君もそう思う?」
「はい」
「百合花さんはどう思ってるかな?そのおしゃべりの場には君もいたんだろ?」
諏訪が百合花に振った。
「私もそう思いました。りゅうちゃんの力にはなりたいけど、自分自身を見失いたくない。だから悩んでいるのかと」と百合花。
「そうか。分かった。別に急ぐことじゃないからじっくり考えるように穂香さんには伝えてね。ああ、それと、これは必須じゃないけど、夏休み中に一度、模擬試験は受けておいた方がいいかもしれない。客観的に自分と向き合うためにね。どうせ百合花さんも受けるだろうから、一緒に受けに行くのもいいかも。じゃあ」
言うと諏訪は経堂駅とは逆方向の世田谷小学校の方に向かって歩いていった。