アストロツイン   作:山田甲八

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九 遺言執行人

 都議会議員選挙の世田谷選挙区は定数が八で大田区と並ぶ最大の選挙区だ。同一政党でも複数が参加し、結果、同士討ちのような形にもなって激戦となる。

 結果は僅差の勝負となり、諏訪が出納責任者を務め、龍一と百合花も投票したその候補者は当選者の中ではビリから二番目という、可もなく不可もない、どちらかといえば不可がある成績で再選を果たした。

 そんな出来事から二ヶ月が経とうとしている火曜日の午後、龍一は相変わらず勉強する気になれず、かといって遊ぶ気にもなれず、結果、コンビニでのアルバイトに精を出す、ある意味、充実した夏休みの最終日を迎えていた。

 受験生であるはずなのにレギュラーのバイト、でもそれは龍一と同じような経済的境遇にある高校生にはあたり前の日常だった。真夏の暑い日差しの下では、クーラーのガンガン効いたコンビニでの日中は快適ですらある。その快適な日中が終わり、代沢の都営に帰宅した龍一はダイニングチェアに腰掛け、明日から再開する現実を考えた。

 諏訪に言われていたこともあり、模擬試験は受けに行った。結果通知書は封緘されたまま、もう何日もダイニングテーブルの上に乗っかっている。一緒に受けに行った百合花とこの話題に触れたことはないから、百合花もきっと同じ気持ちなのだろうと龍一は思った。

 ここ数日の間、穂香もこの封筒の存在には気が付いていたはずである。穂香は無関心だった。あるいは知っていて気が付かない振りをしているだけなのか、龍一には分からない。「これなあに?」とか、一言、穂香が関心を示してくれれば、開封する気にもなるし、それをきっかけに自分の進路の問題、そして棚上げになっている穂香の結婚話も進展するのかもしれない。

 穂香は、さっき池ノ上の駅に着いたとのLINEを受け取ったから間もなく帰宅するだろう。まだ午後五時前で穂香にしてはかなり早い帰宅だ。それを予期して、今日はコンビニ弁当を二つ、その封筒の隣に配置してある。

 そのうち玄関の鉄のドアをトントントンと軽く叩く音がしてからドアが開き「ただいま~」というOLのボイスがしてソバージュの頭が現れた。

 穂香はそのままダイニングテーブルの龍一の対面に座ると、龍一よりもテーブルの上に置かれているコンビニ弁当に注意が向いたのが龍一にはハッキリと分かった。

「明日から二学期なんだけど」

 龍一は「おかえり」も言わず、ムッとした表情で事務的に言った。

「それより穂香ちゃんお腹ペコペコなの。朝から何も食べてないんだあ」

 穂香は、今度は自身が演じるアニメのピンク系妹キャラのボイスでそう言うと続いて「これ食べていいのかな?」と言った。

「ああ、いいよ。俺も食べるから」

「どっちにする?」

「どっちでもいいよ」

「じゃあ、あたしは焼肉弁当ね。穂香ちゃん、こう見えても肉食系だから」

 穂香は焼肉弁当を手に取ると、もう一つののり弁を龍一に渡し、傍に置いてある封筒には見向きもせず、ふたを開けて箸を割り、「いただきま~す」と再び妹系ボイスで言うと、弁当にパクついた。そんな穂香を龍一はしばらく黙って見ていた。

「ん~?どうしたの?りゅうちゃんは食べないのかな?」と相変わらず妹系ボイスの穂香。

「そこに置いてある封筒なんだけど」と相変わらずムッとした表情の龍一。

「うん」

「何だか気にならないの?」

「ああ。ずーっとおいてあるなあとは思ってたけど。あて先はりゅうちゃんだし、干渉したらまずいかなあとか思って」

「そんなわけないだろ。差出人は予備校だよ。それに結果通知書って書いてある」

「うん」

「妹系はもういいよ。一旦、キャラから出てきて」

「はい」

 穂香は地声で言った。

「じゃあ開けてみてよ」

 そう言われて穂香は箸を置き、つまらなさそうにビリビリと開封した。この汚い開封が龍一はいつも嫌いだ。「ペーパーナイフ持ってきて」と言われればすぐ手の届くところにそれはあるのだが、その言葉が穂香の口から発せられることはない。

 穂香はあらゆる面でいい加減であり、龍一はあらゆる面で几帳面だ。だから龍一はいつもイライラしている。

「米印みたいなのがたくさんあるね」と成績表を広げての穂香。

「米印じゃなくてアスタリスクね」と怒った口調の龍一。

「どうしてそんなに怒ってるの?」

「どうしてって、ママが俺に何にも関心持ってないからだよ」

「ゴメンゴメン。別に無関心なわけじゃないの。ただ、分からないのよ。受験とか言ったって、大学受験なんてあたし、やったことないし…」

「そこに偏差値が書いてある」

 龍一は成績表の左上の辺りを指さして言った。成績表のフォームは何ヶ月か前に百合花からもらったものがまだ手元にあるので見なくても分かる。

「ハハハ。バカじゃん」

 穂香は軽く笑って言った。

「ふざけるなよ!」

「ゴメンね~、気の利いた一言が言えなくて。でもこれを誉めろっていうのは難しいなあ」

「別に誉めてくれって言ってないよ。その成績を誉めるなんて無理だよ。誉めたら嫌味だよ」

「じゃあどうしろっていうの?」

「だから、もっと俺に関心を持ってほしい」

 龍一がそう言うと穂香は少し悲しそうな表情を見せた。

「だからあたしは何もできないんだって。それはりゅうちゃんもさんざん分かってくれてるでしょ。それに大学は大丈夫だって諏訪さんも言ってたじゃない。あたしよりよっぽど頼りになる」

 穂香は、今度は失恋した女の子のボイスで言った。

「それもある。諏訪さんの話もね。今日がタイムリミットだよ。夏休み中って言ってたよね?結論出してね。小宮さんとの結婚話。どうするのか」

「もちろん気にはなってるけど、…りゅうちゃんはどう思う?」

「どう思うって?」

「あたしはどうすべきかってこと」

「自分で決めろよ」

「自分じゃ決められない」

「…じゃあ、断ろう」

 一瞬の沈黙の後、龍一がキッパリ言った。

「断っちゃうの?」

「じゃあ、オーケーしろよ」

「それは…」

「だろ?じゃあ、断るよ。この前、ゆっぴいママが言ってたけど、やっぱりママは何か重いものを背負っちゃうんじゃないかって思ってるんだと思う。そんなに悩んでるママを見るのは初めてだから。だから。もうママを悩ませたくないから断ろう。それで、俺の医学部進学の話がなくなるわけじゃないと思うし」

「諏訪さん気を悪くしないといいけど。さんざん待たせちゃったしね」

「じゃあ、電話とかじゃなくて、諏訪さんに直接会って断るでいいね?」

「へ~っ。まあ、仕方ないか」と再び妹系ボイスの穂香。龍一は軽くため息をついた。

「じゃあ、諏訪さんに電話して予定聞くけど、駄目な日とか教えてね」

 龍一はそう言ってスマホを手に取り、諏訪へ電話を掛けた。諏訪からは選挙の時に携帯電話から電話をもらっているので携帯の番号も今では分かる。

「もしもーし」

 数コールで諏訪の声が聞こえた。

「伊波です。ご無沙汰しています。今、電話よろしいですか?」

「龍一君だね?実は僕も君に電話しようと思っていたところなんだ」

「母のことですね?」

「それもある。ちょっと状況が変わってね。一度、会って話をしたいと思っていたんだ」

「スミマセン。お待たせしてしまって」

「それはいいよ。それよりなるべく早く会いたいんだけど、ご都合はいかがかな?」

「僕は、それこそいつでも。諏訪さんに合わせますよ。お待たせしてしまいましたし。母も連れていきたいので、母の都合さえ合えばいつでもいいですよ」

「それはありがたい。で、今、どこだ?」

「代沢の自宅ですけど」

「穂香さんもいるかな?」

「はい」

「じゃあ、今からでもいいかな?」

「…今から、ですか?」

 龍一はそう言って穂香に目配せした。穂香は笑顔で頷いた。龍一は続けた。

「ええ、構いませんし、母も大丈夫です」

「じゃあ、どうしよう。じっくり話がしたいから…この前のカラオケボックスにしようか。あそこならゆっくり話ができる。いいかな?」

「はあ。僕は構いませんけど」

「じゃあ、先に行って場所取っといて。どうせ火曜日のまだ早い時間だし、大丈夫だよね?僕は、一時間くらいで到着できると思うから」

「はい。分かりました」

「じゃあ、後程」

 言うと電話は諏訪の方から切れた。龍一はスマホを操作してから正面の穂香を見た。

「電話、聞いてたかな?」と龍一。

「まあ、何となく」と地声の穂香。

「今から来いって」

「どこに?」

「下北にゆっぴいと行きつけのカラオケボックスがあるんだけどそこを指定されたよ」

「カラオケ?歌でも歌うの?」

「この前も一度、カラオケボックスの中で話したことがあるんだけど、カラオケボックスってある意味、密室でしょ。じっくり話ができるってわけだよ」

「なるほどね。いいよ。穂香ちゃん、お弁当食べて元気が出たからリクエストがあればじゃんじゃん歌っちゃうよ。スーパーアリーナ終わったばっかりだし」

 穂香はもう一度妹系ボイスに戻って脳天気に言い、弁当の残りをかき込んだ。

 

 弁当を片付けると、穂香と龍一はまだ残暑の厳しい、日の長い夕暮れの街を徒歩で下北沢に向かった。

 カラオケボックスに到着し、部屋に案内されると穂香はマイクを握り、リモコンを引き寄せ、冊子を見ることもなくその延髄の中に組み込まれている曲コードを入力、送信し、自分の持ち歌を歌い始めた。そんな穂香の行動を龍一は自然現象のように見つめた。

 何曲か歌っているうちにドアがノックされる音が聞こえ、ドアが開いて諏訪が現れた。後ろにアラサーの男性を従えている。

「ハロ~!諏訪さん!元気してましたか~!」

 諏訪を認識した穂香は自分の歌声に酔ったのか、今までの悩みが嘘のようにその曲を主題歌とするアニメの主人公のボイスで叫んだ。

「やあ、お待たせ。早速歌ってるね」

 諏訪は冷静に、それでも少し苦笑いしながら言った。

 穂香は諏訪にマイクを持っていない方の手を振り、ウインクすると構わず歌い続けたので龍一が慌てて「演奏中止」のボタンを押した。演奏は止まり、静寂が訪れた。

「なんだ、別に最後まで歌ってもらっていいのに」

 諏訪はそう言うと同伴者に手のひらを向け「こちら、弁護士の斉藤先生。今日はこの席に同席してもらいます」と言って穂香と龍一に紹介した。

 諏訪に紹介され、弁護士は「斉藤です」と言いながら穂香と龍一に名刺を渡した。名刺には「弁護士 斉藤啓」と記載されている。

「じゃあ、まあ座りましょう」

 諏訪は三人を促し、自らも座り、四人はテーブルを挟んで向き合った。

「スミマセン。返事が遅くなりまして」と龍一。

「いやいや。僕の方こそ急に呼び出してすまなかったね。それで、龍一君の方から電話をもらった話だし、君の方から先に話すでいいよ」と諏訪。

「僕の方からと言いますと?」

「用があったから電話かけてきたんだろ?」

「ああ、はい。この前の小宮さんの話なんですけど、時間がかかってしまってスミマセンでした。では、…それは本人の口から」

 龍一はそう言って穂香を見た。穂香は、さっきまでの歌唱が嘘のように静かになり、諏訪と弁護士の前で少しかしこまり、一礼した。

「スミマセン。いいお話をいただいたんですけど、やっぱりあたしには荷が重いような気がして、…申し訳ないですけど、お断りさせていただきます。…ホントはもっと早くにお返事すればよかったんですけど、ホントに悩んじゃって…」と仕事に失敗したOLのボイスで穂香。

「ああ、あの話ですか。実は僕もそのことで今日、お二人にはお越しいただいたんですよ。色々と悩ませてしまって申し訳なかったんですけど、実はあの話、本当にもうどうでもいい話になってしまいました」と諏訪。

「はあ?」

 穂香と龍一は声をそろえた。

「実は、小宮さんお亡くなりになったんです。五日前に。ホームで倒れられましてね。ホームっていっても駅のホームじゃないですよ。お住いの老人ホームで。心臓だったんですけど、まあ、苦しまずに旅立って行かれたわけでそれはそれで小宮さんのためにも良かったのかなと今では思っています」

「というと…」

 そこまで言って龍一は言葉を飲み込んだ。色々な考えが頭の中を駆け巡った。そんな龍一の頭の中を諏訪はその表情から嗅ぎ取った。

「これまでの話がなかったことになるんじゃないかって心配を、今、君はしているかもしれないけど、それは大丈夫だよ」

「はあ…」

「まあ、別に遠慮することはない。こういうことが起こることは想定の範囲内ではあったからそれなりの準備はもうしている」

「準備?」

「小宮さんは公正証書遺言を作成している。遺言では、残していく財産はすべて伊波龍一君に遺贈することになっている。もちろん、使い道は大学の医学部に進学して医者になることに限定されている負担付遺贈だけどね。負担付遺贈は言葉が難しいけど、意味は分かるよね?」

「はあ。何となく分かります」

「まあ、君は専門家ではないし、詳しく分かる必要はない。それで、これからその遺言書を執行することになる。まずは君がその遺贈を受けるかどうかということだ。負担付遺贈はいつでも断ることができるから気楽に受けてもらいたいのだけど、君が小宮老人の遺贈を受けるかどうかの意思を確認することからしたい」

「はい」

「細かいことは後回しでいいでの、まず概略を説明しよう。小宮老人はお亡くなりになった。小宮老人は公正証書遺言を残していた。公正証書は分からないかもしれないけど、それ自身が公に認められた書類だということだ。まず、小宮老人は僕を遺言執行人に指名している。僕はそれを引き受けてるから僕にはこの遺言の内容を執行する義務がある。それともう一つ、遺言執行人の僕が小宮老人の意思を犠牲にして自分の利益のために行動しないように、僕の行動を監視する監督人も指名している。その監督人が今日、連れてきた弁護士の斉藤先生だ。だから、小宮老人の生前の意思は、客観的に正確に現実のものとなる仕組みはできているということだ」

「分かります」

「よし。では次に相続財産の内容。細かいところは後でリストを渡すから大まかなところを説明するね」

「はい」

「遺産は大まかに二つある。一つは東京郊外のK市にあるアパートだ。そしてもう一つが現預金。アパートは全室ワンルームなんだけど、K駅の近くにあるなかなかの物件で、近くに大学がたくさんあることもあって常に満室の状態だ。家賃は各部屋ほぼ月十万円で八部屋あるから月に八十万円、年に九百六十万円のキャッシュインフローを生んでいる。小宮さんは個人でアパート経営をしていたんだよね。バブルのはじける寸前に北沢の一等地を売り抜けて、それで東京郊外にアパートを建てて、老後の生活資金にしていたんだ。もちろんこれとは別に年金ももらっていたから、預金は増える一方という生活になった」

「そうだったんですか」

「で、僕の作戦ではこの家賃収入を君の大学の学費と生活費に充てようと考えている。そしてもう一つの現預金。これもン千万単位であるんだけど、これは基本的には君にこれから課される莫大な相続税の支払いに充てて、残りは大学生活の始まる際に必要な諸経費に充てたいと考えている」

「よく分かりませんが、よろしくお願いします」

 龍一はそう言って頭を下げたが、穂香はキョトンとしていた。

「まだ、実感は湧かないだろうから、とにかく公正証書のコピーを君に渡しておくよ。君の名前が書いてあるし、公証人の認証もあるから実感してもらえると思う。君は晴れてシンデレラボーイだ」

 そう言って諏訪はスタプラーで綴じられた紙を龍一に渡した。龍一はそれを広げてみて自分の名前が書かれているところにラインマーカーが引かれていることを確認した。

「ありがとうございます」と龍一。

「それで、プロジェクトが具体的になってきたところで君の志望校なのだけれども」と諏訪。

「はい」

「こないだは百合花さんが突然、乱入してきたので聞きそびれてしまったけれども、希望はあるのかな?」

「行きたいところということですか?」

「うん」

「いいえ。特にはというより正直、分かりませんので。諏訪さんの方が情報をたくさんお持ちで、僕にふさわしいところを見つけてくれそうな気がしますけど」

「こないだも言ったけど、秋葉原にキャンパスがあるところとかそんな感じの希望もないのかな?」

「できれば、…今の生活をあまり変えたくないという希望はあります」

「今の生活?」

「ええ」

「なるほど、百合花さんと離れたくないということかな?」

「……」

 龍一が答えなかったので諏訪は隣の穂香に振った。

「穂香さんはいかがです?龍一君の進学先に希望はありますか?」

「いえいえ、希望だなんてそんな。今さっき、りゅうちゃんの成績見たんですけど、あんな成績で入れてくれる大学があるんだったらどこでも結構です」

 穂香は安心したのか、妹系ボイスでそう言った。

 

 二学期が始まって六日が過ぎた月曜日の夜、龍一は自宅のダイニングチェアに腰掛け、「赤本」と呼ばれる類の書物をじっくり読んでいた。「赤本」の表紙には「Y医科大学」と書いてある。

 「赤本」は今日、諏訪から手渡された。志望校をここに決めたと言われたのだ。そして、できれば今学期中に過去問をすべて暗記するように言われた。

 時計はそろそろ次の日を迎える。もう寝る時間だが、龍一は穂香の帰りを待っていた。穂香は龍一の受験にはさして関心を示していないのかもしれないが、それでも志望校決定の報告を、できればLINEとかではなくて口頭でしておきたかった。

 龍一がふと人の気配を感じると、息子がもう眠ってしまっていると気を使ってか、玄関の扉が静かに開き、派手なソバージュが姿を現した。そんなママを見て龍一は静かに「おかえり」と言った。

「あれ~、まだ起きてたんだ?明日も学校でしょ?寝なくていいの?」と久し振りに母親ボイスの穂香。

「うん。ちょっとママに話したいことがあって起きてた。まあ座ってよ」

 龍一にそう言われて、靴を脱いだ穂香はそのままダイニングテーブルの龍一の対面に腰掛けた。

「この本、分かるかな?」

「ああ、何か本屋さんにずらっと並んでるよね。大学の過去問集かな?」

「そう。今日、諏訪さんに会って、この本を渡された。ここの大学を受けることに決まったよ」

「へ~、横浜の大学に行くんだ?」

 表紙に書かれたY医科大学の文字を見て穂香が言った。

「俺も最初はそう思ったんだけど、ここの大学、横浜じゃなくて四国にあるんだって。四国で唯一の私立の医科大学」

「四国?でもYが頭についてるよね?」

「Yは地名じゃなくて創立者の苗字みたいだよ」

「あそう。でも、四国の大学じゃ、ここから通えないんじゃないの?」

「そりゃあたり前だよ。だから当然、下宿ということになるね」

「ええっ、ここから出てっちゃうの?」

 穂香は軽い衝撃を受けたように少しビックリした声で言った。

「どのみち俺はここの家を出て行かなきゃならなくなるんだって」

「なんでまた?まあ、シンデレラにはなったのかもしれないけど、お城があるわけじゃないよね?」

「俺は小宮さんの後を継いでアパート経営をしていることになっているんだ。だから当然、収入があって、それは今のママの稼ぎを凌駕してしまう」

「ふん」

「そういう状況でこのままここに住み続けると、都営の家賃は上がっちゃうし、最悪、ここを追い出されるかもって諏訪さんは言ってた」

「それは困るう。でも家賃の話だったらりゅうちゃんにも負担してもらえばいいんじゃない?お金持ちになるんだし」

 穂香は突然、母親ボイスから妹系ボイスにチェンジして言った。

「それは俺も諏訪さんに言ったんだけど、それはできないんだって。小宮さんの遺産の使い道は俺の進学に限定されてるからそれ以外の使い方はできないんだってさ」

「そっか。しょうがないのかあ。まありゅうちゃんの幸せのためなら我慢するしかないのかもね。寂しくなるけど、そのくらいしか今のあたしにはできないからなあ。でもなんで四国なの?」

「うん。この大学が選ばれたのにもそれなりの理由があるんだ。この大学、偏差値では全国でもビリの方なんだよね。でもすごい田舎にあるから周りには遊ぶ場所とかがない。結果として学生は勉強するしかなくなるから偏差値の割には医師国家試験の合格率が高くて、OB医師の評判もいいんだって」

「へ~」

「それと、偏差値が低いから学科試験よりも小論文と面接の方に重点が置かれているから俺にとっては楽だろうって諏訪さん言ってた」

「小論文なんて書けるの?漫画ばっかり読んでるのに」

「それはこれから諏訪さんが訓練してくれるって。それよりポイントは面接だよ」

「面接?」

「そう。この大学が第一志望、…第一志望っていってもここしか受けないんだけど、ここの大学が選ばれた最大の理由はそれさ。ここ、大学受験では珍しく面接が保護者同伴面接なんだよね。まあ、対象は未成年の受験生なんだけど」

 そう言って龍一は言葉を止め、穂香の表情を観察した。穂香は目が泳いでいた。

「…保護者同伴ってどういうこと?」

 穂香はかつて一度だけやったことがある、容疑者を追及する女刑事のボイスにチェンジして言った。

「読んで字のごとくだよ。受験生と保護者が一緒に面接を受けるんだ」

「りゅうちゃんの保護者って誰?」

「そりゃママに決まってるだろ。父親はいないっていう話なんだから」

「ムリムリムリムリ。あたしにそんな役、務まるわけないじゃない。諏訪さん頭おかしいんじゃないの?」

「俺もそう思ったけど、諏訪さんは、ママはどんな役でもこなせるだろ?って言ってたよ」

「それはホンがあるからでしょ?ホンがないのに役なんてこなせないよ…」

「それは俺も言ったけど、諏訪さんは最初から分かってたよ。ママが登場するのは冗談だった」

「冗談?」

「そう。冗談。諏訪さんは別のシナリオを考えているんだ」

「別のシナリオ?」

「そう。こういうシナリオだよ。俺は医学部を希望しているけど、母子家庭で金がない。ママはあてにならない。それで実の父親を探すんだ。それでようやく見つけた実の父親は、別に家庭を持っている人なんだけど、それなりに成功している人で、今まで何もしてやれなかったことを俺に詫び、学費を出し、面接に同伴することも約束するってシナリオだ」

「実の父親を探すっていうの?」

「そんなことはしないよ。それはシナリオ。それで諏訪さんが俺の父親役を引き受けて面接に登場するってこと」

「ええっ、嘘つくっていうの?」

「まあ、そういうことになるけど、その辺は諏訪さんにお任せだね。どうせDNA鑑定なんかしないんだしって諏訪さんは言ってた」

「すごい話になってきたね。まあいいや。それならうまくいきそうだ」

「俺もその話聞いてなんか行けるような気がしてきてる」

「でも四国に行っちゃうのは寂しいね。ゆっぴいとも別れちゃうんだ?」

「ゆっぴいねえ。まあそういうことになるのかな」

「それはあんまり寂しくないんだ?」

「まあ、寂しくはあるかもしれないけど」

「そっか。ねえ、りゅうちゃん。この前、ゆっぴいじゃなくて別に好きな子がいるとか言ってたよね?」と再び妹系ボイスの穂香。

「そんなこと言ってないけど」

「言ってたよ。その子とも別れちゃうね。その子には告ったの?」

「仮に好きな子がいたとしても今、ちょうど受験勉強最盛期だよ。そんな時期に告るなんてどうかしてると思うけど」

「そうでした。それより穂香ちゃんお腹空いちゃってるんですけど、ご飯ないの?」

「あったけど、全部食べちゃったね。済ませて来るのかと思ってた」

「何か食べるものない?」

「カップラーメンくらいしかないよ」

「またカップラーメン?」

「じゃあ食うなよ」

「分かったよ。修行だと思って食べるよ」

 穂香が言うと龍一はキッチンに回り、やかんに水を入れてガス台にかけた。

「四国の大学受けに行くってことは四国に行くんでしょ?初めてじゃない。飛行機で行くのかなあ?」と相変わらず妹系ボイスの穂香。

「俺もそう思ったんだけどそうではないんだって」と龍一。

「じゃあ夜行バス?まあシンデレラになったからってまだ学生の身分だからね」

「いや、歩いて行くんだ」

 龍一はそう言って三種類のカップラーメンを抱えたまま再び穂香の対面に座り、それを穂香の面前にならべた。

「はあ?歩く?江戸時代じゃないんだよ」

「東京試験っていうのがあるんだって。それがここから目と鼻の先のS大であるんだって。S大知ってるよね?線路の反対側の」

「ああ、なんか聞いたことはある。行ったことはないけど」

「だから、四国の大学は受けに行くけど、試験会場は徒歩十分さ」

 龍一がそう言うと、穂香は頬杖をつきながら目の前に並べられたチキン、シーフード、カレーの三種類のカップラーメンを見渡し、右の人差し指でカレーをつついた。

 

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