―――あたしには、エヴァしかないのよ。
それはきっと呪いの言葉。
でも、もう一人のあたしを大切にしてくれた彼が教えてくれた。
幸福も不幸も心の持ちよう。
ならば、呪いと祝福は表裏一体。
だから確信をもって、あたしはこう宣言しよう。
―――
虚空へと手を伸ばす。
「お願い、力を貸して…!!」
今あるべき場所へ向かうため。
行かなければならないアイツの元へ赴くため。
「お願い…ママ!!」
途端に、あたしの全身はコックピットに包まれた。
それをさらに包み込むように、骨格、血管、筋肉と、エヴァ弐号機は再構成されているはずだ。
ドン、と赤い巨人が大地へ突き立つ。
遥か下に、幼いあたしを抱えた相田の姿。
少しだけ未練だけど、別れはさっき済ませている。
思い切り膝を曲げて、あたしは弐号機を跳躍させた。
赤い空ごと物理領域を突き抜ける。
立ち塞がるは不可視の壁。あのバカのいるだろう別宇宙へ至るまでの時空障壁。
時間律さえ盾にしたその障壁を、しかしあたしの弐号機は易々と食い破って見せた。
無論、そんな壁は一枚切りじゃない。むしろ数えることさえ不可能なほど膨大な量。
けれど、そんなもん知ったこっちゃないとばかりに、あたしは盛大に笑い飛ばしてやる。
「ふんッ!
「…姫。どうしてここに?」
コックピット内で茫然とするコネ眼鏡がいた。
そりゃあいきなりあたしが現れたら、びっくりするしかないと思う。
けれど、驚かせている暇もない。あたしは早口で説明。
「アンタ、エヴァを喰っていたでしょ? その最後の機体が喰われる寸前に、あたしが弐号機でインターセプトしてすり替わったの」
「はあ~、一番最後に感じた違和感はそれかあ」
コネ眼鏡はバリバリと頭を掻く。
「ったく無茶するなあ、アダムスの器に割り込むなんて。下手をすれば因果地平の彼方にすっとんじゃうのに」
「時間がないから単刀直入に言うわ。―――アンタ、あたしと替わってちょうだい」
すると、やおら真剣な表情になってジッとあたしを見てくるコネ眼鏡。
「にゃるほど。今の姫は、姫であって姫じゃないんだね?」
「………」
「うーん。ワンコくんを絶対に迎えに行くって言った手前、ちょっとカッコつかないかも」
「お願い」
「わかった、いいよ」
あっさりとした返事に面食らうあたし。
「わたしは
そう言い切った姿は、なんか大人の女って感じでカッコいい。
「ま、考えてみたら、人の王の座を引き継いだワンコくんに必要なのは“娼婦”じゃないか。
若い王子様の隣にいるのはやっぱり“姫”の方が相応しい」
「…ありがとう、マリ」
「おっ、やーっとデレてくれたね、姫。ううん―――アスカ」
どちらともなしに差し出した拳と拳。
それをゴツンとぶつけ合う。
「それじゃ、
あっさりと、本当にあっさりと眼鏡姿が消えていく。
なのに、明るい歌声だけが、無人のコックピットの中に響いていた。
それはきっと、温かく地平に没していく太陽の残照にも似ていたと思う。
愛 あなたと二人
花 あなたと二人
恋 あなたと二人
夢 あなたと二人
二人のため 世界はあるの
二人のため 世界はあるの…
「うおっしゃあっ!」
弐号機から飛び降りるあたし。
ざぱーんとあがる水飛沫。
海水で濡れた前髪をかき上げていると、浜辺で膝を抱えていたシンジが驚いている。
「あ、アスカぁっ!?」
じろりと声がした方を睨む。
なぜか腰を浮かしかけるシンジ。
「逃げんなゴラァ!」
じゃばじゃばと浅瀬を疾走。
逃げようとするシンジの背後から腰あたり目掛けて全力のタックル。
勢いそのままにゴロゴロと砂地を転がったあたしたちは、唐突に砂浜を模したホリゾントにぶつかって止まった。
ったく、やすっぽいセットだこと。
「な、なんでアスカがここに…!?」
砂まみれでひーひーいうシンジを波打ち際まで連行。組み伏せて、馬乗りになる。
『ふふーん、眼鏡をかけたいい女だと思った? 残念、アスカちゃんでした!』
そう言ってやりたかったけれど、他にもっと言うべきことがある。
「…アンタ、なんか好き勝手に決着を付けようとしているみたいだけどさ。その前に、あたしに対する落とし前を付けて貰わなきゃねえ…!!」
「お、落とし前…?」
オドオドするバカに、浜辺の光景がオーバーラップ。
だからあたしはその胸倉を掴み上げて怒鳴りつけてやる。
「何が『僕もアスカのことが好きだったよ』よ!? なんであたしがフラれたみたいになっているわけ!?」
「………え? え、えーと、それはね? これから僕は一人で世界をどうにかしなきゃいけなかったわけで…って! アスカも僕のこと『好きだった』って言ってたじゃないか!」
「は~、アンタ本当に分かってないわね! 女の子が好きだったって過去形で語ったら、せめて一回くらいは追いすがって訊ね直すのが礼儀でしょうが!」
「…そんな理不尽だよ…!!」
涙目になるシンジだったが、むしろこれからが本番だ。
身動ぎするシンジを逃さず、あたしはプラグスーツの襟元を外す。
晒した首に、シンジが目を見張る気配。
「そ、それってDSSチョーカー!? なんでまだアスカに!?」
「ふーん、アンタにはそう見えてるってわけね」
あたしは喉元を撫でる。
「だったら、思い出させてあげるわ」
空の色が変わる。海の色も変わった。
ニア・サードを思わせる赤色に。
「………!」
同時にシンジの顔色も変わる。
震える両手が砂を掴んでいた。
その手をそっと取って、あたしは首へと触れさせる。
もはやシンジの全身が震えていた。その顔は真っ青だ。
「…思い出したでしょ? あの時、アンタの手で、あたしは呪いを付けられたの」
「う、うわああああああああああッ!?」
あたしの首から手を外すシンジ。
「逃げるなッ!」
馬乗りになったまま、あくまであたしはシンジを逃がさない。
ふー、ふー、と荒い呼吸。
シンジの目がきょろきょろと心のままに揺れ動いているのを眺める。
どれくらいそうしていただろう?
シンジは目を閉じた。
呼吸を整えて、ゆっくりと目を開いてくるシンジの顔には血色が戻っている。
「…それが僕の罪、か」
「そういうことよ。そして、この呪いを外さない限り、あたしもアンタもどこへも行けない」
「そう、だね。落とし前は付けなきゃいけないんだよね…」
シンジが微笑む。無理をしているのが丸わかりだったけれど、瞳に浮かぶ色にあたしは気づかざるを得ない。
ああ、そうか。大人になったんだね、こいつ…。
「アスカ、ごめん。僕が悪かった。本当に悪かった」
「………」
「どうか、許して下さい。お願いします」
「……分かった。うん、わかったわ」
あたしも笑う。精々、こっちも大人らしく笑ったつもり。
「でもぉ…」
「でも?」
「うーん、もう一声!」
「はあっ!?」
素っ頓狂な声を上げるシンジに、あたしにも言い分がある。
「だって、この首輪、消えてないでしょ?」
「本当だ…」
呪いが解けてないということは、贖罪が果たされていないということ。
「けれど、僕はいま心の底から謝ったつもりなんだけど…?」
困惑した表情でシンジが見上げてくる。
馬乗りになったまま、寛大なあたしはここでヒントを提示。
「じゃ、さ。今のアンタ、あたしのこと『好きだった』ままなわけ?」
「…………え? …そういうことなの!?」
相変わらずのニブチンさを発揮した後、シンジも気づいたようだ。
「ええ。そういうことよ、きっと」
「…分かったよ」
苦笑するシンジに、彼の上から身体を退かすあたし。
さすがにこんな格好で聞くほど野暮じゃない。
手を取ってシンジを立たせた。
それから波打ち際に向かい合わせで立ち、あたしは答えを待ちわびる。
おそらく、昔からずっと聞きたかった言葉を。
「え、と。アスカ」
「うん」
「僕は…その…アスカ、君のことが…」
「うん」
「す、好き…です…?」
「なんで疑問形!?」
すかさずシンジを海に向かって背負い投げ。
浅瀬でガボガボいうシンジに覆いかぶさるように、海中でその唇にキスをする。
「……ぷはッ!」
ようやく解放され、海面に顔を出したシンジの顔は真っ赤だ。
かくいうあたしだって照れくさくなって視線を逸らしていると、シンジの驚き方が尋常じゃない。
「ああ、アスカ! そ、その格好!!」
「え…!?」
あたしは全裸だった。
プラグスーツはいうに及ばず、包帯やヘッドセット、チョーカーも何もなくなって、一糸まとわぬ完全無欠のすっぽんぽん。
「み、見るなぁッ!」
シンジの頬に紅葉を作り、返す手でシャツを強奪。
素っ裸に濡れたシャツは透け透けだったけれど、何もないよりはマシ。
その格好で、二人並んで波打ち際で海を眺める。
「…こっちみんなスケベッ!」
「はいはい」
上半身裸で苦笑するシンジに、なぜかドギマギしてしまう。
その横顔が急に大人びて見えて、思わず目を細めるあたし。
すると、シンジがおそるおそる言ってきた。
「…それで、アスカも僕のことを…?」
ここで「うん、あたしもよ」と返すのも芸がない。
「好きよ」と今さら口に出すのも、これはこれで恥ずかしいものだ。
いっそドイツ語で何か言ってやろうかしら、と迷うあたしの胸の奥から、とある言葉が浮かんできた。
それは、不思議と懐かしい感じがする。
そして、根拠もなく今こそ言ってやらなきゃと思った。
だからあたしはニッコリとして、優しく胸に秘められていた言葉を告げることにする。
「アンタが全部あたしのものにならないなら、あたし何もいらない」
シンジは一瞬驚いたように目を見開いて―――笑顔でこう返してくれた。
「うん。ありがとう、アスカ」
お互いに笑顔のまま、あたしたちは一緒に海の方を眺める。
抱きしめるわけでもない。キスするわけでもない。
ただ並んで立っているだけで、不思議と心は満ち足りていた。
このままずっとこうしていたいとさえ思う。
でも、楽しい時間には必ず終わりが来るもの。
ゆらゆらと水平線に没していく太陽に、終末を悟る。
この世界を、いや、この宇宙の終焉を。
今、この瞬間とこの場所は、終わりのステージを控えた待合室みたいなものだ。
「…ねえ、アスカ。死んだらどうなると思う?」
頬を橙色に染めてシンジは言う。
シンジは、エヴァの存在しない世界を願った。
あたしたちの魂は、エヴァも、それに紐づく何もかもがなかった世界へと生まれ変わるのだろう。
けれど、今ここにある記憶を持ち越せないとすれば、それは死を迎えるのと一緒。
きっとシンジが訊きたいのはそういうことで。
だからあたしは答える。
「アンタ、生まれてきたときのこと、覚えている? 怖かった?」
「え? いや、覚えてないけど」
「じゃあ、死ぬときもそれと同じよ、きっと」
「…そうか。ありがとう、アスカ」
そっと手と手をつなぎ合う。
人は、一人で生まれてきて一人で死ぬ。
満足して、幸福のままに死ねる人なんて、本当にきっと一握りで。
避けえない最期を迎えるとわかっていても、手をつなげてその温もりを感じあえる。
最後の最後までその温もりを確かめあいながら逝けたとしたら、それはきっと満足のある死と言えるんじゃないの?
少なくとも、一人である寂しさを感じることはないはずだ。
ふと、シンジが言ってきた。
「アスカ…。俺、エヴァに乗って良かったよ」
あたしは答える。
「奇遇ね。あたしもそう思っていたところ」
さあ、最後の時を粛々と受け入れよう。
たとえどんな結末を迎えようとも、繋ぎ直したこの絆だけは絶対に離してやるもんか―――。
プルルルルーっと電車の発着音。
その音に、ベンチでこくりこくりと舟を漕いでいたスーツ姿の背中がビクリと震える。
確かあれってジャーキング現象とかいうんだっけ?
そんなことを考えつつ、あたしは背後から彼に目隠し。
「だ~れだ!?」
「…えーと、人一倍負けず嫌いで気が強くてワガママにも見えるけど根は優しくて慈悲深く、義理人情に厚くて美人で可憐な僕の奥さん?」
「ぶー、はずれー」
あたしが目隠しを取ってやると、シンジは不満そうな顔になる。
「はずれって、なんでさ?」
「今日のランチはアンタの奢りね」
「ええ…」
ブチブチいうシンジの手を引いて、プラットホームを降りる。
もうお昼も近くて、太陽が高い。
思わず太陽に手を翳していると、そこに見つけた。
あたしの左手の薬指。シンジからもらった新たな呪い、もとい祝福の証。
「…アスカ?」
無意識でニンマリとしてしまっていたらしい。シンジの声で我に返る。
「それで、病院の結果はどうだったの?」
「んー、全然。なんの病気でもなかったわ。けれど…」
「けれど…?」
たちまち心配そうな顔つきになるシンジは、やっぱりニブチンのまま。
だったら夜にゆっくりと発表してやるかと思ったけれど、まっ、いいか。
「さっき、アンタ、あたしの『だ~れだ?』クイズ外したでしょ?」
「話が飛ぶなあ。…それで? あれ、何が間違っていたの?」
「ヒント。訂正箇所は、『美人で可憐な僕の奥さん』ってトコ」
「うーん、と。…じゃあ、『世界で何よりも大切な僕の奥さん』?」
「アンタバカァ!?」
遠慮なく怒鳴りつけてしまう。きっとあたしの顔は真っ赤だ。
背後から来た通行人にクスクスと笑われてしまい、益々恥ずかしくなってしまうあたしだったけれど、どっこいシンジは涼しい顔のまま。
「アンタってば、図太くなったわね…」
「そう? 別に僕がそう思っているのは本当だし」
「…あう」
口をパクパクさせるあたしを、穏やかな笑みで見返してくるシンジがいる。
なーんか手玉に取られている感じがするけど、悪くない。
うん。
むしろ嬉しいのだろう、あたしは。
「ふん! バカシンジのくせに生意気よッ!」
シンジの腕を抱え込む。
勘弁してよ、という風に眉を寄せるシンジは、きっと昔みたいな呼び方が照れ臭いのだろう。
あれから14年。
あの灼熱の季節にあたしたちは出会って、お互いを傷つけあった。
誰もが傷を負っていた時間は、とてもとても長かったと思う。
その果てに、呪いを解いて全てがなくなることをシンジは選択した。
自分の存在を犠牲にし、円環の世界へと終わりを告げるさよならの儀式。
けれど、シンジのおかあさんが、シンジの替わりに依り代になってくれた。
ずっと初号機の中で、シンジのおかあさんはシンジのことを護っていたのだ。
そしてあたしのママもエヴァ弐号機にいた。
あたしの最後のお願いに応えて、0宇宙の壁さえ越えて、シンジの元へと導いてくれた。
もはや繰り返されることはないこの新しい世界で、そのことを覚えているのはシンジとあたしの二人だけ。
これも、エヴァの呪い?
ううん、これはきっと祝福だ。
そもそものエヴァンゲリオンという言葉が『福音』を意味する以上、エヴァの呪いって言葉が矛盾している。
呪いと祝福は表裏一体。
あの時間を、あの経験を、あの思いを、どう受け取るかはあたしたちの手に委ねられている。
積み重ねられてきた膨大なモノを振り返り、無駄だった、とだけは断じたくない。
どんな辛いことだって、全てがいまこの場へと至るための掛け替えのない道標。
そしてその道程には、必ず小さな幸せが散りばめられていたはずだから―――。
「アスカ。それで答えはなんなの?」
シンジが顔を寄せて訊いてきた。
せっかちねえ、などと思いつつ、あたしは辿り着いた世界に、福音をそっと上乗せしてみる。
「正解は、『キュートで可愛い新米ママ』が抜けてるのよ」
一瞬、怪訝そうに眉を寄せるシンジ。
けれど、見る見るその顔が驚きに明るくなったのは、いっそ見ものだった。
「ほほほ本当に!?」
「ええ、本当よ。三か月だってさ」
「~~~ッ!!」
シンジが快哉を上げようとして、大通りであることに自重。
そのままあたしを抱きしめようとして、これまた人目があるので中止。
ならばとあたしに色々と気遣いの言葉をかけようとして、なんと言っていいのか分からないらしい。
顔を真っ赤にして悶絶している。
その姿があまりに面白過ぎて、そしてこんな喜んでくれているシンジに、あたしの目尻には涙が浮かぶ。
「ったく、少しは落ち着きなさいよ、パパ」
「そんなこと言ったって…!! …よし、今から買い物に行こう!」
「買い物って何よ?」
「子供が産まれるんでしょ? 色々と揃えなきゃ…!」
「気が早いっ。っていうか、仕事はどうするのよ?」
「そんなの有給を使うよ。むしろ、こんなときのための有給だろッ!?」
わたわたとスマホを取り出すシンジを横目に、あたしはもう一度太陽へ向かって手を翳す。
あたしたちは、エヴァのない世界で生きていく。
エヴァを覚えているあたしたちは、過去に苦しめられるかも知れない。
逆に、過去のせいで立ち直れるかも知れない。
けどそれは、きっと誰にも分からないこと。
でも、ただ一つ確かなことは、そこにエヴァは存在したのだ。間違いなく。
始めから存在しなかったことを、忘れることなんて出来やしない。
なかったことに、さよならなんて言えやしないのだから。
だから今、遍く散った新しい世界へと、万感の想いを込めて告げようと思う。
さよなら、みんな。
さよなら、あたし。
さよなら、ママ。
そして。
さよなら、あたしのエヴァンゲリオン。
完