魔槍の姫   作:旅のマテリア売り

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17話 暴君は牙を剥き、姫は夢の海にたゆたう

 彼は退屈していた。

 ただ漠然と生きているだけと言っても良い彼の現状に、非常なまでに退屈を感じていた。

 これが普通の人間だったなら、適当に興味を抱ける物を探し、無聊を慰める為に行動しただろう。或いは生存の為に必要な三大欲求――食欲、性欲、睡眠欲のいずれかに走り、退屈を感じない様に動いたかもしれない。

 だが、彼は普通の人間ではない。

 彼は王である。それも、世界に8人しか存在しない王の一人であり、そして同時に、勇猛にして強壮な戦士である戦いの王だ。睡眠欲も、性欲も有るが、それらは普通の人間に比べて非常に弱い。

 唯一、食欲だけが人間並みと言っても良いが、それで彼の退屈を慰める事など出来はしない。寧ろ、余計に退屈を助長させるだけだ。

 彼の退屈を慰める物はただ一つだけ。それは――――戦闘だ。それも唯の戦闘ではなく、強大な力を持つ神々や同族との死闘であり、同時に一方的に嬲るだけの狩りでもある。

 いや、どちらかと言えば狩りの方が彼の好みに合うか。獲物を追い立て、嬲り、じわじわと追い詰めてから甚振る様に喰らう。それだけが、唯一彼の渇いた心を、欲求を潤してくれるのだ。

 だが、三大欲求を超える程の有り余る『戦闘欲』を持ち合わせていながら彼は、望んでやまない神々との戦いをここ十数年の間、出来ていなかった。

 理由は簡単だ。彼は強く、そして有名になり過ぎ、神々ですら宿敵である筈の彼との戦いを恐れ、避ける様になってしまったからだ。別に神が地上に顕現しないと言う訳ではない。何度か顕現した事もある。だが、それらの神は彼が行く頃には皆、他の同族に討ち取られているか、彼の気配を察して逃げていた。

 これが数ヶ月や、数年程度ならまだ何とか我慢は出来た。彼自身、逃げる様な惰弱な神と戦うつもり等ないのだ。彼が戦うのは、彼に刃を向け、彼が戦うに値すると認めた敵(えもの)だけなのだ。

 しかしその選り好みの所為か、十数年もの長い間彼は満足のいく戦いをする事が出来ないでいた。余りに退屈なので欧州中に触れを出し、巫女や魔女を集めて神を招来すると言う危険極まりない儀式を行った程だったのだ。

 儀式の名は『まつろわぬ神招来の儀』。呪力に優れた大勢の巫女と、狂的なまでに神の降臨を望み、願う祭司。そして神に血肉と自我を与える伝説・神話の三つの要素を必要とする大魔術だ。

 叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を触媒にし、彼自身が祭司を務めた儀式は成功し、『鋼』の属性を持つ軍神である『まつろわぬジークフリート』が召喚された。その時、彼は喜んだ。これで一時とはいえ、無聊を慰める事が出来る。渇きを潤す事が出来る、と。

 だが、その願いは叶う事はなかった。邪魔されたのだ、呼んでもいない、来る事すら予想していなかった――――存在すら知らなかったイレギュラーによって。

 6人目の同族、現在は『剣の王』と呼ばれるようになったイタリアのあの小僧――――サルバトーレ・ドニは、招集した大勢の魔女や巫女の、実に3分の2を使い潰して呼び出した(えもの)を、横から掻っ攫って行ったのだ。それも、彼の目の前で。

 当然、彼は激怒した。苦心して呼び出した自分の獲物を、目の前で奪われて激昂しない輩が居ようか。いや、居まい。

 あの時の屈辱は忘れもしない。目の前で獲物を奪われた彼は、獲物を奪った新たな同族を殺そうとし、しかし出来なかった。小癪にも奪い取ったばかりの権能を使い、彼と渡り合ったのだ。

 かなりの時間戦ったが、決着はつかず、小僧は彼の前から逃げ去って行った。激闘によって無聊は幾分か慰める事は出来たが、それは彼が望んだ形の物ではなかった。

 あれから4年。新たな同族が生まれたとか、大いなる女神が現れたとか、様々な話しを耳にした。最近では、隠れていた同族が表舞台に出て来た、と言うのも有った。

 だが、それらを聞いても心は躍らず、寧ろ渇きはますます強くなって行くだけだった。アテナの事を聞いて多少は心が湧き立った事も有ったが、すぐに女神が敗北したと聞いて戦闘欲は増すだけだった。

 退屈――――そう、退屈だ。余りに退屈過ぎて、どうにかなってしまいそうな程に。獲物たる神を求めて世界中を渡り歩く彼の渇きは、飢えは、既に限界近くに達していた。

 そんな渇きの中で――――ふと、彼は思った。

 

 求めても神に出会い、戦う事が出来ないのならば、儀式によって今一度、戦うに値する神を呼び出してしまえば良い――――と。

 

 それに思い至った彼は、すぐさま自身の配下の一体に必要な条件を満たす場所、時を調べさせた。

 元が優秀な魔術師である配下の手により、その条件を満たす時期と場所はすぐに見つける事が出来た。報告を聞いた彼は、その内容にほくそ笑んだ。イタリアの小僧は現在療養中で動けないと聞く。ならば、場所から見ても小僧に獲物を横取りされることもあるまい。

 その場所にも同族が居るらしいが、神殺しと化して僅かな時しか経っていない若輩者だ。どうと言う程度でもないだろう。

 場所と時期は決まった。祭司役は以前と同じく自身が務めるとして、あと神の招来に必要なのは優れた巫女だ。実に3分の2もの巫女を使い潰してしまった以前の経験から、呪力に優れた巫女だけでは駄目だと理解した。勿論それは必要だが、それに加えて才能も必要だ。それも、そこらに転がっている様な物ではなく、人並外れた才能が。

 優れた呪力と、並外れた才能。この2つを併せ持つ巫女こそが必要だ。

 だが、それを満たす巫女は非常に少ない。4年前でさえ、それを併せ持つ者は集めた中に数人程度しか居なかったと記憶している。

 しかし神の招来に最も適した時期まで、あと僅かしかない。このままでは神を呼ぶ事が出来ない可能性もある。

 配下には巫女の素質を持っている者もいる。4年前に召集した巫女・魔女の一人でもあり、現在は何処かの組織の大騎士となっている魔女だった筈だ。

 最悪、あれを使うかとも思ったが、少し考えて思い止まった。あの騎士も優秀と言えば優秀だが、それは騎士としての力量であって、巫女としての能力はそこまででは無かったように思う。

 だが、だからと言って必要無いと言う訳ではない。あの騎士の気性はそれなりに気に入ってはいるので使おうとは現状思っていないが、強く、才ある巫女が手に入らなかった時の予備として使えば良い。あまり期待はできないが、それなりには使えるだろう。

 あれよりももっと強い力を持った巫女が居た筈だ。まずはそれを手に入れる事から始めねば。

 そう思ったからこそ、彼は彼に仕える形を取っている騎士を数日前にミラノより呼んだのだ。

 暫くして、騎士は来た。

 

「青銅黒十字が大騎士、リリアナ・クラニチャール、只今参上いたしました。どのような御用向きでしょうか、候」

「ああ、クラニチャールの孫娘だったか。確か四年前にも会っていたと思うが……ふむ、記憶に無いな。呼び寄せた事は覚えているのだが……」

「当時の私はまだ幼く、候とお会いした時間も短いものでした。それを考えれば、仕方なき事かと」

 

 やって来た騎士は少女だった。すらりとした肢体を黒の衣服に覆い、さらにその上から『青と黒』の二色で染め上げられたケープを羽織った銀褐色の髪の少女。

 彼の言葉に、リリアナと名乗った彼女は礼を取りながらそう返答する。片膝を着き、胸に手を当てる騎士の礼だ。

 

「ふむ、まあそれは別にいい。自分で言うのもなんだが、私は気短でな。早速本題に入らせて貰うとしよう。四年前の儀式を覚えているかね。君達魔女や巫女に協力して貰った『まつろわぬ神』を呼ぶ為の、あの大呪だ」

「……覚えています。あの時の事を、忘れる筈がありません」

「結構。実はだ、あの儀式をもう一度試みてみようと思うのだよ」

 

 彼の言葉に、リリアナは騎士の礼を取ったまま顔を強張らせた。当然であろう。彼女自身も参加させられた、大勢の巫女や魔女を犠牲にし、生き残った者の心と体にも多大な傷を刻み込んだあの儀式を、もう一度行おうと言うのだから。

 何故、とも思ったが、すぐにその疑問が愚問と気付いた。目の前の彼は王である。それも戦士である魔王、実に300年もの永き時を生きるカンピオーネだ。

 カンピオーネが神を呼ぶ理由など、戦う為以外に有ろうはずがない。

 

「で、だ。一つ聞きたい事がある。4年前の儀式の時に、私は量よりも質こそが重要だと理解した。あの時に最も優れた力を見せたのが誰だったか、覚えていないかね? 確か、東洋人だとは覚えているのだが、どうも素性が思い出せなくてな」

 

 彼がそう言うと、リリアナは身を震わせた。

 王が問いかけて来た人物を、リリアナは覚えている。知り合いを訪ねて来ていて、不幸にも彼の強制招集に巻き込まれた日本の少女だ。彼が素性を訪ねて来た彼女もリリアナと同じ様に、四年前の儀式を運良く生き残った一人だ。

 リリアナは躊躇った。彼女は騎士だ。騎士は力なき者を守る義務が、責務がある。目の前の王が求める彼の少女は、戦闘技能等欠片も持ち合わせていない巫女だ。無力な者は、守らなければならない。

 しかし、リリアナが庇った所で無意味だろうとは彼女自身、心のどこかで思っていた。彼女が庇っても、王は別の者から聞き出すだろう。そうなれば、被害が広がる可能性がある。

 ほんの僅かでも接点のある巫女を守る為に見ず知らずの誰かを犠牲にするか、それとも見ず知らずの誰かを守る為に巫女を犠牲にするか。短く、しかし深く悩み――――リリアナは結論を下した。

 

「巫女の名はマリヤ。日本の、東京の出身と申しておりました。……御命じいただけるなら、私が彼女を御前に連れ出して見せましょう」

「……いや、その必要はない」

「は?」

 

 あえて関わり、無用な被害を最小限に食い止める。それがリリアナの出した結論だった。その意思を心の奥に秘め、彼女はそう言ったが、王の言葉に間の抜けた声を漏らす。それを聞いていながら、彼女の前の王は気を悪くした風は見られない。

 

「少々面白い趣向を思い付いた。私自身が赴くのだよ。待ってばかりと言うのも、つまらんものがあるからな。ふむ、考えてみれば、海を越えるのは何年振りだろうな」

「候御自ら向かわれると?」

「たまには私とて、異国の空気を吸いたくなる。それとも、何か不都合でもあるかね?」

「いえ、その様な……しかし候、かの国には候の同胞たる御方が二人、おられます。話を先にお通しになられた方がよろしいのでは……」

 

 言って、思い浮かべるのは軍神ウルスラグナを斃し神殺しと化した草薙護堂と、最近新しく情報が出て来たアテナを退けた姫王、和泉咲月。しかし王の言葉は傲慢な物だった。

 

「必要無かろう。先達たる王が態々参るのだ、話がしたければ向こうの方から来ればよい。……一時間以内に準備をすませたまえ。これからすぐに向かうのでな」

 

 向かうは、彼の根城より遠く、遠く離れた異国の地。その場所は――――日本。

 そして彼の名は最古の王の、その一角。世界中を流浪し、数多の神々を殺し、幾多もの権能を簒奪した魔王。とある貴族から侯爵の位をも簒奪し、しかし気まぐれでそれを捨て去った強壮な戦士。

 『暴君』サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。

 

 ●

 

 賢人議会により、本来の7人目のカンピオーネである和泉咲月の名が新たに魔術界に公表された事で、世界中の魔術結社は一時騒然とした。何せ、7人目とされていた神殺しが実は8人目であり、7人目は既に誕生していたと言うのだから。それも、6人目の王であるサルバトーレ・ドニがカンピオーネとなった時と同じ、4年前に。

 しかし、分かっているのは彼女が護堂以前に『鋼』の神格を殺しカンピオーネとなった事と、所有する権能が魔槍、狼の神獣、神託の三つだと言う事のみである。年齢や性別、名前、出身国等を除いて、他は全てが謎の王だ。

 彼女の事を調べようとする者も居ない訳ではない。だが、もし調べている事を知られて彼女の怒りを買ったらどうなるか。それを恐れて魔術師たちは尻込みしてしまっている為、どうしても情報は集まらないのだ。

 一応、少ないながらも集められた情報によって和泉咲月についての調査書、報告書は作られている。内容は次の様な物だ。

 

【新たに確認されたカンピオーネ、和泉咲月について】

 

 新たに確認されたと銘打ってはいますが、和泉咲月は草薙護堂以前にカンピオーネと化した少女であると言えます。その情報源は、最近ギリシアで惨殺された、とある老魔術師の手記です。血の汚れや手記自体の損傷具合が激しく、全てを復元する事は出来ませんでしたが、彼女は現在より見て約4年前に西の島の『鋼』を殺し、神殺しとなったとされる魔王です。これは奇しくも、6人目の王であるイタリアの『剣の王』サルバトーレ・ドニがカンピオーネとなった時期と同じ年になります。同じ年に複数のカンピオーネが誕生すると言うのは、カンピオーネの誕生条件から考えても非常に珍しいと言えるでしょう。

 彼女が所有する権能は、確認されただけで3つあります。それぞれの名称は不明ですが、『魔槍』『狼の神獣』『神託』です。

 しかし、この西の島が一体何処であるのか、それは不明です。『魔槍』の権能を『鋼』の英雄より簒奪したと有るので、有力なのはギリシア以西の何処かの島国ではありましょうが、明確な場所は記されていませんでした。

 『魔槍』と呼ばれる権能だけでも多く有ります。『鋼』の神格より簒奪したと言う情報で、ある程度の推測を立てる事は出来ますが、それでも中々に多いので断定する事は非常に難しいでしょう。狼の神獣もまた、大地に関する神格から簒奪したのだろうと言う事以外分かりません。

 唯一分かりそうな『神託』ですが、これはギリシアに関係がある冥府もしくは大地に関係する神か魔獣から簒奪したのだろうと推測されますが、実際に冥府の神なのかは分からず、それが関係する神も複数存在します。

 大地の女神であるレトから生まれたアポロン然り、デルポイのガイアの神託所の番人であった牝蛇ピュートーン然り、夢の神オネイロス然り。これらの神々は皆、大地や冥界、闇、死、予言、神託に関係する神です。

 ですが、彼女が討ち下した神が何者かと言う事はある意味、些末事と言っても良いでしょう。今まで隠れていた為に草薙護堂と同じく先達のカンピオーネ達の様な絶対的な権威を獲得していないとしても、彼女が神々を弑逆し、その権能を簒奪せしめた『王』の一人である事に変わりはないのだから。

 尚、彼女は草薙護堂とは違い魔術・呪術の知識があり、どの程度かは分かりませんがそれを行使する事が出来ると判断されます。その理由は日本での彼女とアテナとの戦場跡に於いて、おそらく彼女が刻んだと見られるルーンの陣が確認された為です。

 この事から、おそらく彼女は最低でもルーン魔術を行使する事ができると予想されます。

 

 ●

 

「やっぱり、少ないわね。まあ、彼女がカンピオーネと確認されてまだ一ヶ月程度だから、仕方ないと言えば仕方ないんでしょうけど」

 

 自身の報告と調査、そして賢人議会の手の者による調査によって作成された和泉咲月に関しての報告書を読み、エリカは小さく溜息を漏らす。その為息は疲労と、若干の呆れによるものだ。

 和泉咲月。アテナが日本を去ってから、草薙護堂以前にカンピオーネとなったと言う彼女の情報をエリカは調べていた。

 しかし、得られた情報は芳しく無かった。何時、何処でカンピオーネになったのかも正確な場所は分からず、収穫と言えば彼女が所有するとされる権能の種類くらいだ。

 それはそれでかなりの収穫ではあるのだが、『魔槍』と『狼』の権能はどの様な神格から簒奪した権能なのか完全に不明で、『神託』の権能も該当する神が複数存在している為に特定が難しい。

 

「祐理の得た情報を奪い取られたのは痛いわね………」

 

 机の上に取り寄せた資料を下ろしながら、エリカは一人ごちる。

 霊視によって万里谷祐理は狼の権能の神格を入手していたのだが、直後に咲月本人にその情報を奪われたのだ。判明している情報が殆ど無いと言っても過言ではない魔王の情報を、得た直後に奪われたのは痛い。

 しかし、それでも調べて判明した事はある。彼女が持つ権能の数と種類、そしてカンピオーネと化した時期だ。特に、エリカの母国イタリアの王とほぼ同時期にカンピオーネと化した者だと言う点には驚いた。同じ年に二人カンピオーネが生まれる等、珍しいを通りこしていると思う。

 しかし、だからと言ってどう言う物でも無いだろう。報告書が記す通り、彼女が王だと言う事に変わりはないのだから。

 それよりも、問題は護堂と彼女との関係だ。会話をしたのは僅か一度のみだが、彼女は護堂の事を極めて嫌っていると言って良い。戦いになれば、躊躇せずに力を奮うだろう(それは護堂含め、他の王も変わらないだろうが)。

 だが、戦いになればほぼ確実に、現在の護堂では負けるだろう。何せ情報が殆ど無いのだ。ウルスラグナの『黄金の剣』を使おうにも、あの化身は神格の情報が無ければ使えないのだ。

 対して、こちらの情報はある程度知られていると考えた方が良いだろう。特にアテナの言葉で、護堂が蘇生系の能力を持っているだろう事は確実に知られていると見た方が良い。殺された直後に、再び殺されると言う事が起きても不思議はない。

 護堂が生き延びるためにも、もっと情報が必要だ。そう考え、エリカは再び報告書と、自身が集めた情報を洗い始めた。

 

 ●

 

 咲月は自室のベッドに横になり、枕元の電気スタンドの照明を点けて本を読んでいた。古びた装丁の本だ。題名は『古事記』。『フルコトブミ』と呼ばれる説もある、上つ巻、中つ巻、下つ巻の全三巻からなる、彼女と草薙護堂の生国である日本の、最古の歴史書と伝えられる書物だ。

 彼女が現在呼んでいるのは上つ巻。天地開闢、別天津神(ことあまつかみ)、神世七代、そして国生みを始めとした、日本創世の神話から最初の天皇である神武天皇が出てくるまでの物語を収めた書だ。

 

「…………」

 

 咲月は無言でページを捲り、読み進める。中々に古い所為か変色し、所々に虫食いがあり読みにくい箇所も有るが、読み難いと言うだけで読めないと言う訳ではない。

 彼女が現在呼んでいるのは、上つ巻の中でも序章に属する章、国生みと神生みの章だ。神世七代最後の一組、伊邪那岐命と伊邪那美命より始まる物語である。

 兄妹であり、夫婦である二神は天沼矛と呼ばれる槍で海水を攪拌し、穂先から滴り落ちた塩を積み重ねてオノゴロ島と呼ばれる島を最初に創り上げる。そこに降り立ち、二柱は一度の失敗を経て国生みと神生みの儀式を始めるのだ。

 

「……ふう」

 

 一息吐き、咲月は枕元にある時計を見る。時刻、11時43分。睡眠時間や起床時間、弁当を作る時間等を考えると、既に寝ていなければならない時間だ。

 存外、集中していたらしい。そろそろ寝なければ寝不足だ。そう思い、咲月は古事記を閉じてベッドから身を起こし、古事記が収めてあった木箱の中にそれを収める。

 コトリと、音が鳴る。それを耳に入れて、咲月はベッドに戻り、電気を消して身を横たえ、目を閉じた。途端に、強烈な眠気が襲って来る。

 彼女はそれに逆らわず、すぐに意識を手放した。

 

 ●

 

 夢を見る。

 深く、暗い闇の中、光が見える。小さく、しかし強く、神々しくも禍々しい印象を持たせる光だ。

 僅かにノイズが奔り、映像が変わる。今度は動物が出て来た。小さな、とても小さな動物だ。灰色のそれは小さく、素早く、そして賤しい。ネズミの様な印象だ。しかしそう思った直後、ネズミは姿を変えた。

 元の数倍はあろう大きさの体に、鋭い牙と、爪。目はギラギラと獰猛に輝き、猛々しい印象を抱かせる。何故か、狼をイメージさせる。

 その狼は光に向かい走り出し、途中で蛇の様な何かを殴りつけ――――突如、大きく映像にノイズが奔った。

 映像が切り替わる。暗い、とてつもなく深い、暗闇。その奥に、小さく光る物がある。奇妙な形に配置されたその光りの数は、八。非常に強い、大地の力と冥府の力を感じさせる。

 再度、切り替わる。大きな一本の木と、巨大な岩。何かを隔てるような印象を抱かせるその岩の前に、人影が一つ見えた。

 何か。そう思い、目を凝らすが――――直後、夢の映像は消え去った。

 


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