魔槍の姫   作:旅のマテリア売り

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23話 神威繚乱・中

 

 その光景を護堂も、エリカも、祐理も、何も言うでもなく見ていた。視界に映るのは現在最古の魔王の一人である老王で、彼は遊戯に水を差された腹いせから、目的でもあった万里谷祐理を護堂達諸共に殺す寸前だった。

 多くの死せる騎士や魔女、そして狼達をうすら笑いさえ浮かべることなく召喚していくヴォバン侯爵から感じた怒気と殺意は本物で、だからこそエリカと祐理は正しく死を覚悟した。唯一護堂だけは『白馬』の化身を使用し一矢報い、出来るなら侯爵を撃退するつもりではあったが、それでも状況的に見て三人の敗北は最早揺ぎ無い物だった。乱入者が無ければ。

 乱入があったのは侯爵が死者と狼を嗾け、護堂が『白馬』を撃とうとしたその瞬間だった。二人の神殺しはその身に滾った力から、神に類する存在が現れたのだと瞬時に気付いた。

 だが二人とも、気付いていながら相手にしている神殺しの事を優先した。護堂は厄介と思ったが、侯爵は手早く済ませて相手をすればいいと、そう思ったのだ。その思考が、侯爵がその身に傷を負う原因となった。直後に首筋に来た激痛に、侯爵も思考を止めてしまったのだ。

 目を向ける。まず視界に映ったのは黒い髪だった。しっとりと濡れて艶やかな、美しい髪がその場に居る全員の目に映る。着ている物は貫頭衣で、雨の中でもハッキリと浮かぶ鮮やかな色彩が美しい。しかし侯爵に掴みかかっている腕や脚など、僅かに見る事が出来る身体は正常な部分と紅い肉が見えている部分が有り、美しくも醜悪だ。装飾品として身に着けているのだろう勾玉や腕輪が美しいが、それが醜い部分をさらに際立てている。髪に隠れているが僅かに見える瞳は黄金で、爛々と不気味に煌いている。

 侯爵が呻き、自身の首に喰らい付いている存在を睨みつける。それは老魔王の憤怒と憎悪の込められた声を聞き、睨みつけられていながらも尚彼の肉に噛みつき、その体液を啜っている。肉を食われ血を啜られる度に、侯爵は苦しそうに、不快そうに呻く。

 肉を咀嚼する音がグチグチと、血液を啜る音がジュルジュルと、不気味に、おぞましく嵐の闇に紛れて響く。頸動脈、或いは頸静脈を傷つけているのか溢れる血の量は多く飲み切れておらず、噛みついている口の端から漏れ出てその存在の口を、そして侯爵の首筋と衣服を汚している。

 護堂と侯爵の戦いに乱入し、侯爵の首筋に喰らい付いたナニカ。神に類するそれは護堂のほうに視線も向けず、侯爵の首に喰らいつき、一心不乱にその肉と血液を喰らい、飲み続けている。

 耳のすぐ傍で響く不快なそれを聞きながら、侯爵は激しい喪失感に苛まれていた。喪われていくのは体の一部、血液、体力だけではない。己の力の源でもある物――呪力だ。それが肉や血と共に、首に噛みついている存在に取り込まれている。

 

「ぐ……きさ、ま……っ! ふざけた、真似を……っ!」

 

 血を、体力を、呪力を急速に失い冷えて行く体を自覚しながら、侯爵は自身に喰い付いている存在を排除する為に召喚していた狼達を消し、残りの呪力を高める。

 呪力を高めた途端に侯爵の体が膨張していく。着ていた服を破り、雨と外気に晒されたその体は少しずつ、だが確実に人間の形を失っていき、獣の姿へと変わっていく。それは大きさこそ違えども、先程まで侯爵が召喚していた狼と同じ姿であった。

それを見ていた護堂達は狼の召喚だけでなく、自身の体を変化できると言う事実に驚きを露わにする。

 獲物の体の変化によって喰い付く事が困難になったか、黒髪の女性は弾かれるように侯爵から離れた。しかし唯で離れるつもりはなかったのだろう。侯爵の首筋の肉を食い千切って行った。血の雫が雨に混ざって宙を舞い、地に落ちる。

 

「ぬ、っぐ……貴様ぁ……!」

 

 受けたダメージが大きかったのか、それとも体の変化を維持できなくなるほど多大な呪力を奪われたのか、侯爵は変化した体を元の老人の物へと戻した。余程に深いのか首筋の傷は癒えておらず、血を垂れ流したままだ。

 しかし、膝は地に着いていない。息も荒く、顔色も悪いが、三百年を生きた魔王としての誇りか意地か、彼は首の傷を手で抑えながらもその両の足でしっかりと地を踏みしめている。流石は現存最古の神殺しの一人と言うべきか、唯の人間なら確実に致命傷、下手をすれば即死となる傷を負っても弱った様子は見せていない。ただ己を傷付けた存在を、殺気を孕んだ目で睨んでいる。

 その侯爵を守る様に、死せる従僕達が円陣を組み、侯爵を囲った。しかしその動きは護堂達に襲いかかった時よりもぎこちない。

 

『……ふ……ふふ、ふ……ふふふふふ……』

 

 そんな侯爵たちを護堂達が見ていると、声が聞こえた。唯の声ではない。奇妙にブレて聞こえるそれは鈴を転がすように涼やかでありながら、地の底から響く様な、暗い、恍惚とした笑い声だ。それを聞き、護堂達は侯爵に奇襲を仕掛けた存在に目を向ける。

 

『あぁ、あぁ……なんと甘美な、なんと芳醇な……神殺し共の血肉とは、かくも美味なる物なのか……。先の女も美味であったが、汝(なれ)もまた格別ではないか……いかなる美酒も、この味には勝るまい……』

 

 口の端から垂れる血をその舌で舐め取りながら言い、女性は天を仰ぎつつその黒髪を掻き上げ、その顔に恍惚とした表情を、黄金に煌く瞳に愉悦を浮かべながら侯爵を見据える。その瞳は、何処か蛇の目を護堂達に思わせた。

 

『あぁ、あぁ、(あれ)の体に力が満ちるのが分かる。かつて失った吾の力が、奪われた物が、戻って来るのが分かる……いと嬉しや』

 

 ぶるりと震える身を抱き締め、吐息と共に言葉を漏らす。恍惚とした表情を浮かべる頬は朱が差しており、唇は笑みの形に歪んでいる。

 女性の言葉を聞き、侯爵と護堂、エリカはその女性が何らかの要因で零落した神なのだと理解した。

 理解した瞬間、女性から呪力が吹き上がる。何よりも暗く、どこまでも深い、昏い冥府を思わせる呪力だ。同時に闇が集まり、女性の体を覆い隠す。

 

『嬉しや、いと嬉しや! 吾はようやく、かつての吾に立ち戻ったり!』

 

 女性の声が闇に響き、その姿を覆っていた闇を吹き散らす。闇に覆われていたその姿が露わになった。

 まず目に入ったのは白い衣服だった。元から身に纏っていた鮮やかな色合いの貫頭衣の上に美しい文様が染め抜かれた白地の布を複数重ね、帯で結んで解けない様にしている。

 伸ばされていた美しい黒い髪は闇の中でなお光沢を放ち、黒曜石か黒漆のようでありながら、夜の海の様な印象をも見る者に抱かせる。

 首に掛けているのは勾玉で、それらは白、紅の瑪瑙と碧の翡翠で作られている。三種一連で美しく長く、動くたびにシャラシャラと涼やかな音を立てる。

 服の合間から覗く体は腐った身ではない。所々に見えていた紅い肉はすべて滑らかな白い肌に覆われており、醜さ等最早どこにも見られない。血色も良く、完全に健常者のそれだった

 瞳は黄金に輝き、それは蛇の目の様に見えながら全てを映し返す鏡の様にも見える。

 浮かぶ表情は優美な笑みで、何も知らねば誰もが見惚れてしまうほど麗しい。しかし血肉を喰らって浮かべた表情だと知るからこそ、その陰りない笑みは何よりもおぞましく感じる。

 アテナ襲来から約一か月。新たなる「まつろわぬ神」が顕現した――直後。

 

 

 ――――ミツケタ。

 

 

 雨音に紛れ微かに、しかし確かにその言葉が聞こえた直後。空気を引き裂き、一筋の紅い流星が女性の側に着弾した。

 雷が落ちたのかと錯覚するような爆音が轟き、衝撃とともに土砂が吹き飛ばされ、石が弾丸のような速度で舞い飛び女性と、侯爵を守る死せる従僕たちを撃ち抜く。

 突然の事に護堂もエリカも行動が遅れたが、何とか石に撃ち抜かれる前に防御することに成功した。

 雨の為か土煙は発生せず、着弾地点に何があるのかをはっきりとみる事が出来た。

 地面に突き立つそれは、槍だった。赤く、朱く、血のように紅い、濃く禍々しい呪力を炎と共に纏った一本の槍。雷鳴の如き音を付随させ着弾したそれは、その衝撃で出来たのだろう直径7mほどのクレーターの中心に根を張るように深々と突き立っていた。

 ただの炎ではないのだろう。雨に当たっていてもなお、燃え続けている。

 

「ようやく追いついたわよ、この腐れ女」

 

 それを確認した数秒後、上から声が降ってきた。歓喜と憤怒、憎悪と愉悦、その他様々な感情が綯交ぜになった様な複雑な印象を聞く物に抱かせるそれは、護堂や侯爵と言った神殺し達に向けられたものではなく、かといってエリカ達魔術師に向けられたものでも無い。それを向けられたのはただ一柱だけ、槍の衝撃で吹き飛ばされた女神だ。

 それは雨で湿った地面に音も無く降り立った。闇の中で浮かぶ銀灰色の毛並みは水滴を弾いて鈍く輝き、鋼のような印象を持たせる。大地を力強く踏みしめる四肢には鋼鉄すら引き裂きそうな鋭い爪を持ち、敵を睨み付ける眼光は当然の様に敵意に満ち、低く唸りを上げている。

 巨大な銀狼のその背から彼女は降り立った。片腕を血で汚し、権能の影響で翡翠色に変わった琥珀の瞳を怒りに染め上げて、殺気混じりの濃密な呪力を全身から立ち昇らせながら七人目の神殺し――和泉咲月が戦場に乱入した。

 

「よくも私の腕を食い千切ってくれたわ。アンタ、私に喰い殺される覚悟は出来てるんでしょうね」

 

 言いながら、咲月はクレーターに入って行き、中心に突き立つ燃える槍に手をかける。深々と地面に刺さり、抜くには相当の手間を掛けねばならないと思われたその槍は、しかしあっさりと抜け咲月の手の中に収まった。

 

「死んだふりなんかやめてさっさと起きなさい、どうせ神格と一緒に力も取り戻しているでしょう? 仮にも冥府の女神が、あの程度で死ぬはずないものねぇ」

 

 翡翠の目を細め、槍の穂先を吹き飛ばされた女神へと向ける。咲月の意思を反映してか、それともそれ自体に意思でもあるのか、紅い槍は咲月の手の中にあって揺れていた。

 

「……ふむ、その様子だと吾の咒を知っているようだの、神殺し」

 

 咲月の言葉に、吹き飛ばされた女神がそう返す。その口調に苦しげな色は見られず、手を地面に着くこともなく、何のダメージも無いかのようにあっさりと起き上った。衝撃に加え、弾丸のように弾かれた石で体を撃ち抜かれていながら纏う衣服にも傷一つ見られない。

 それを確認し、咲月はさらに目を細めて声を女神に投げる。

 

「ええ、追いかけてる間にアンタの呪力の残滓から、しっかりと解析させてもらったわ。で、どの咒で呼ばれたい? 好きな咒で呼んであげるわよ、この国で最初の死者でもある女神様?」

「くくっ、然り。確かに吾は大八州にて始まりの死人。穢れを纏う黄泉の王よ」

 

 咲月がそう言うと、女神と呼ばれた女性は一つ笑い、向けられた燃える槍を見た。

 女性と同じく、冥府の気配を感じさせる。しかし女性は、自分の中の何かがこの槍を危険なものと――天敵だと認識していることに気付いていた。母たるこの身が危険だと認識するものなど僅かしかない。

 だが天敵を前にして、女神は笑みを絶やさずに咲月に言う。

 

「好きに呼ぶがよい。(なれ)の知るその咒のどれも、吾が所有する咒よ。なれば、どの咒で呼ぼうがそれは吾を呼んでいると同じこと」

「そう、だったら伊邪那美って呼ばせてもらうわよ。顕現した際の属性とか考えたら黄泉津大神の方が相応しいでしょうけど、長いし呼びにくいし。まあ、ほんとは名前なんて別にどうでもいいのよ。どうせ殺すんだし」

 

 知り合い同士が言葉を交わすような軽い雰囲気で、しかし咲月は物騒極まる言葉を伊邪那美に投げた。

 伊邪那美。古事記においては全十二柱、日本書紀においては全十一柱とされている神世七代と呼ばれる神の一柱であり、その最後に現れた女である。創世の時、流動している下界を固めて国を作るよう使命を受け、兄神である伊邪那岐と共に天より降り立ち原初の日本を、そして神々を生んだ母たる女神だ。炎の神である迦具土を生んだ際、女陰に火傷を負いそれが元で死んでしまうが、死する際にもその吐瀉物や糞尿から金属や水、山などに関する幾柱かの神を生み、死した後は冥府を統べる主宰神である黄泉津大神となった、日本において大地母神に相当する女神である。

 だが伊邪那美は本来、そこまで有名な神格ではなかった。伊邪那岐ともども、元は瀬戸内海の漁民達に信仰された海の神であり、無名の神だったと言って良いだろう。有名となったのは時の朝廷によって記紀が編纂され、新たに作られた国土創世神話が民間に流布してからだ。

 新たに作られる神話は朝廷にとって都合の良い物語にせねばならず、その主役とするには力ある地方神は邪魔者でしかない。だからこそ無名だった神が求められ、そしてその主役に選ばれたのが伊邪那岐と伊邪那美だ。

 神話が変われば神格の属性も変わる。失う属性もあれば、新たに付け加えられる属性もある。伊邪那岐と伊邪那美は国生みと神生みの神話で創造神としての属性を、そして伊邪那美はその死によって冥界の主宰神としての属性を得た。これにより、伊邪那岐と伊邪那美は始まりの神として相応しい神格と力を得る。人間の手により、新たな属性が付与されたのだ。

 言ってしまえば、伊邪那美と伊邪那岐は人間によって選ばれ、創造神に「成り上がった」神格なのだ。元は海の神格である彼らが創造神を始めとした多くの属性を持つのはそれが原因で、古代で国土創造の神として最も民間に信仰されていた大穴牟遅と少彦名の二柱はその神話を書き換えられ、役割と権能を剥奪された。

 

「ほう、吾を殺すとほざいたか神殺し。貴様の血肉と、そこの神殺しから力を奪ったことで吾はかつての吾を取り戻したのだぞ? 傷を負い、力を奪われた汝にそれが出来るか?」

 

 咲月の言葉を聞き、伊邪那美は問いの言葉を投げた。その口調は嘲るような色を含んでおり、やれるものならやってみろと挑発しているように聞こえる。

 

「笑わせるんじゃないわよ、伊邪那美。不意打ちで一撃与えた程度で、もう追いつめたつもり? だとしたら程度が知れるわね。この程度の傷と消費、ダメージになんてならないわ。それに消費が気になるなら、補えばいいだけの話よ」

 

 言って、ちらりと咲月は視線を周囲に回した。アテナの様に冥府の気配を強く感じさせる美しい女神――その神格の全てを取り戻した伊邪那美の他に、草薙護堂と万里谷祐理と異国の魔術師、ある意味で長兄に当たる神殺しと、彼が従えているだろう死者達が大勢いる。

 翡翠に輝く瞳で死者達を見ると、その魂を縛り付けている権能の情報が脳裏に浮かんだ。

 大地と天空の子の一人、王冠を戴く大地と植物の神。鳥の羽を持つ姉妹と嵐と戦乱を司る豚あるいは犬の頭を持つ弟。四人兄弟の長兄。武力を用いず国を統治した偉大な王であったが、弟に殺されその体を無残にも八つ裂きにされ、ナイル川に打ち捨てられた緑の肌を持つ死者の神。妹であり、大いなる魔術師でもあり、そして母神でもある妻の魔術によって甦るも、その死によって冥府の支配者となった生産・豊穣の神格だ。

 神格を読み解いた咲月の脳裏に、権能の元になった神の咒が浮かぶ。四大文明が一つ、エジプトの神。ギリシア語での名が広く広まっている神だ。

 オシリス。エジプトの言葉でアサルともウシルともウェシルとも呼ばれる植物の神。それが多くの騎士と魔女の魂を縛り付け、死してなおも地上に留めている侯爵の権能の元になった神の咒だ。

 オシリスは死と再生、季節の移り変わりを表す穀物の神でもある。冥府の神格であるにも関わらず咲月の槍や神格を取り戻した伊邪那美の様に禍々しい呪力をさほど感じさせないのは、その神格が持つ生産性からなのだろう。伊邪那美も存在を生み出す母、創造神としての属性を持ってはいるが、今回顕現した彼女は冥府の主宰神、死神としての属性が色濃い。

 従僕達に意識を戻す。皆、いずれ劣らぬ騎士や魔女であったのだろう。その魂を侯爵の権能に縛られているだろうが、その構えから技量の高さと、強い呪力が感じられる。

 十分だ。人道に悖る下種な行為であるとは自覚しているが、既にこの身も心も神を殺し、人から外れてしまった者だ。対象も当の昔に死んでしまっている者だし、悲しむような親しい人間も既に存在しないだろう。別に気にする程の事でもない。

 この身を癒す為の贄となれ。そう思い、囁く様に、しかしそれにはハッキリと聞こえる声で、咲月は冷たく命令を下した。

 

「マーナガルム、選り好みは駄目よ――――喰らい尽くしなさい」

 

 その言葉を認識した瞬間、銀狼――マーナガルムはその身をさらに巨大化させ、侯爵の従える死者達に襲い掛かった。集団で居る場所に飛び掛かり、その巨大な口と鋭い牙で鎧兜や武器ごとその身を噛み砕き、屍肉を貪り、呑み下す。

 

「元は大騎士や高位の魔女みたいだけれど、所詮は死人ね。咄嗟の判断や反応が遅いわ。……ああ。もしかして、ご主人様のダメージが原因でそうなってるのかしら。それとも、死んでる人間を無理に動かしてるわけだから、そういう制約があるのかしらね?」

 

 命令を受けた神獣に蹂躙され、貪られていく死者達を流し見ながら咲月はそう声を漏らす。しかしその声音は冷たさすら感じさせず、嘲るような色すらない。ただ平坦だ。

 襲い掛かってきた巨狼に対して、死者達もただ突っ立っている訳ではない。傷を負った主を守りながらその武器を持って攻撃したり、術を放って倒そうとしている。

 しかしその大半が爪で引き裂かれ、あるいは尻尾の一撃で吹き飛ばされて塵へと還り、消滅する。マーナガルムにはダメージらしいダメージは与えられておらず、死者の被害は増すだけだ。

 マーナガルムは死食いの狼であり、光を翳らせる大地の魔狼だ。死を喰うという特性は、生者に使えば死を遠のけ、多少ではあるが寿命を延ばす事も出来る。アテナとの戦いの際、咲月が自分の体に入り込んだ死の呪力に使ったのがこれだ。逆に死者に使えばその魂すら喰らい尽くし、己の力として取り込む事が出来る。咲月は今回、侯爵の従僕達にこれを使ったのだ。

 喰らわせた死者達の魂が、呪力が咲月に流れ込み、伊邪那美に喰い千切られ奪われた呪力と体が癒えていくのも感じていた。先に飲んだ霊薬の効果も合わさったか体が、特に腕の傷が熱を持つ。体の回復が始まった。

 

「あ、あんた何してるんだよ!?」

 

 神獣を嗾け、死せる従僕達を襲わせる咲月に護堂が慌てたような様子で問いかけた。彼が咲月に向ける目には、何か異常な物を見るような色があった。

 

「何って、見てわからない? 侯爵の下僕を喰わせてるのよ。これで傷を負ってる身だもの、癒す為の餌になってもらうわ。結構大勢いるみたいだし、十体や二十体喰ったところで問題ないでしょ。味はともかくとして、質はまあまあ良いし」

 

 言いながら、咲月はマーナガルムから流入し、自身の内で渦を巻き、そして消えていく魂と呪力を、感情を感じていた。

 まず感じたのは義憤。王の暴虐を許せない、無辜の民を守りたい。愛する人を守りたい。その為にも王を止めねばならない。王を倒さねばならない。大勢の民たちを守る為ならばこの命、惜しくはない。そんな騎士として、人としての正しい怒りが、高潔な心が咲月の心に伝わる。

 次いで感じたのは悲嘆。違う、違う。こんな事は望んでいない。王の暴虐に加担するために、新たな犠牲者を増やすために我らは王に挑んだのではない。力及ばず討ち下され、侯爵の権能に囚われ、望まぬ行為に使役されることへの強すぎる慟哭。喰った魂の全てが抱いているそれが咲月の心に伝わる。

 次いで感じたのは怨嗟。侯爵に挑んだ勇士達の力を、術を、彼らの望まぬ形で行使している主人に対しての恨みの声、怒りの声。どの感情よりも色濃いその声が咲月の心に伝わる。

 しかし――

 

(五月蝿い、黙れ。餌が喚くな)

 

 しかし咲月は、そんな死せる勇士達の義憤、慟哭、怨嗟の声を捻じ伏せ、呑み下した。

 愚か。マーナガルムが喰らい、咲月が呑み下し力と変えた魂たちが抱いていた感情に感じたのはまずそれだった。

 神を殺し、その権能を簒奪し己の力とした魔王に、大騎士や高位の魔女とは言え人間の範疇を超えていない存在が勝てるはずもないのだ。まして侯爵は死者を縛る権能を持っている。当時はどうであったか知らないが、今に伝え聞く侯爵の性格や評判などを聞けば、当時と変わっているとはとてもではないが思えない。それを考慮すれば、どのような事にその権能を使うか予測はできるだろう。

 だと言うのに挑み、敗北し、そして現状に慟哭している。こんな事に力を奮いたくないと、魂の底から悲嘆している。愚かだ。愚かにも程がある。

 その魂の気高さは認めよう。感情の正しさも認めよう。だが行動に起こした事へ敬意等は抱かない。現状に嘆くのならば、嫌なのならば、初めから挑まねばよかったのだ。義憤などと言う下らない感情で動かなければ、その死で悲しむ者も、怒りを抱いて侯爵に挑み、連鎖的に侯爵の犠牲になる者も生まれなかっただろうに。本当に、愚かだ。

 愚者の蛮勇。人でありながら魔王に挑んだ身の程知らずの愚か者。勇者となれなかった者達。

 それが、咲月が敗北すると分かっていながら勇敢にも侯爵に挑み、殺されて使役され、そして彼女の体を癒す贄となったかつての勇士達に下した、あまりにも非道な評価だった。

 マーナガルムに出現していた従僕達をあらかた喰わせ、咲月は自分の腕を見た。血の跡こそ服に残っているが、傷は残っていない。少し腕を曲げてみても、筋が張るような感じはしない。感覚的に、失った呪力も回復している。

 死者の魂を喰らい、取り込み咲月は完全に回復した。

 

「小娘……貴様……!」

「ああ、そう言えば居たんだったわね。ごきげんよう義兄さん……とでも言った方がいい? それにしても元気ね。傷のせいでほとんど動けないみたいだけど」

 

 侯爵の呻くような声を聴き、咲月は白々しくもたった今気付いたと言うような反応を示し、侯爵の方を見た。

 彼は咲月を睨み付けていた。自分の娯楽を邪魔し、力を奪い取った伊邪那美に向けていた怒りと同等か、それ以上の怒気をエメラルドの眼光に乗せて咲月を睨み付けている。

 しかし咲月はその視線に臆することなく、薄く笑みすら浮かべて翡翠の目で見返していた。

 

「義兄だと、いやそのような戯言はどうでもいい! 貴様、我が従僕どもを喰らい、奪いおったな!」

「ええ、見ての通り喰わせてもらったわ。まあ、あんまり美味しくはなかったけれど……ご馳走さま。おかげさまで傷も癒えたわ」

 

 激昂する侯爵に向かって咲月はそう言い、その唇を紅い舌で何かを舐め取る様に一度舐めた。それは漫画やアニメなどで食事を終えた者がよくする動作だ。

 この動作をした咲月に、何かの意図があったわけではない。ただある意味で食事をした事で、反射的にしてしまった行動だ。

 だが、侯爵はそれを挑発と見て取った。ただでさえ怒りに染まっていた表情が、さらに強い怒りに染まる。

 侯爵は最古の王の一人である。実に三百年もの時を生き、多くの神を殺してきた彼はその実力に比例したプライドの高さを持っている。咲月の『食事』と無意識の動作は、侯爵の誇りに大きく傷をつけた。

 目を禍々しく輝かせ、肉食獣の様に牙を剥き出しにしたその表情は、形容するなら悪鬼羅刹の如くと言って良い。

 

「許さん、許さんぞ小娘! よくも我が従僕どもを喰らってくれた! そこの小僧共や女神ともども貴様も我が慰めとなり、そして従僕となるがいい!!」

 

 老王が咆哮する。同時に大量の呪力を奪われ、失ったはずの彼の体から膨大な呪力が吹き上がり、再び嵐が吹き荒れ、雨の勢いが強くなる。首の傷から血が流れているが、それは気にも留めていないようだ。その傷が癒える様子は見られない。

 

「はん、血も呪力も失くした死に体の老人が粋がってんじゃないわよ。アイツは私の獲物。誰にも譲らないし、奪わせないわ。取ろうとするなら殺すまでよ」

 

 侯爵の怒りを感じながら、咲月はさらに挑発を返し、呪力を体から吹き上げる。首の傷と流れる血の量から、彼女は侯爵の事を戦力として数えてはいないのだろう。故に、意識を集中しているのは一人……いや、一柱のみ。

 

「くくっ、吾に挑むか神殺し。良かろう、ではまず汝を喰い、その後に残りを喰うとしようか」

「そんなことさせる訳がないでしょう。アンタを喰うのはこの私よ」

 

 伊邪那美の言葉に咲月が返す。互いの呪力が高まり、そして――自分がされ時の焼き直しの様に、今度は咲月が女神に襲い掛かった。

 


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