魔槍の姫   作:旅のマテリア売り

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3話 まつろわぬ気配

 

 アテナ。

 パラス・アテナともグラウコーピス・アテーネーとも呼ばれる古代ギリシアの神々の一柱で、その頂点とも言える『オリュンポス十二神』の一柱にも数えられる、知恵と工芸、そして戦略を司る女神である。

 父にクロノスとレアーの末の息子、神々の王たる天空神ゼウスを。母にオケアノスとテテュスの娘である無限の叡智を持つ知恵の女神メティスを持つ彼女は、父であるゼウスの頭を割り、甲冑をその身に纏い成人した状態で世に生まれ出た。

 彼の女神は月を司る女神アルテミスや、竈の炎を司る女神ヘスティアと同じく処女神として存在する。

 ギリシアの女神として知られるこの女神は、しばしばカナン神話の女神アスタロト――イシュタルやアナト、エジプト神話の女神ネイトやイシスと同一視される、地中海最古の神の一柱だ。その原形となった神はギリシアではなく、北アフリカを出自とする。

 この女神達には共通した属性がある。「戦争」と「主神に最も近い女神」、そして「豊穣神」と言う点だ。

 太陽神ラーを産み出した牝牛ネイト、嵐と豊穣の神バアルの陪神であるアスタロトとアナト、そして天空神ゼウスの娘とされたアテナ。彼女達は皆、戦を司る女神と豊穣神と言う属性を持っている。

 アテナは大地に属し、確かに豊穣神としての属性を持っている。しかし、彼女自身の属性としては、どちらかと言えば弱い。寧ろ、戦争を司っている辺り冥府の神、死神としての属性の方が強いだろう。これはイシュタルにも、アナトにも、ネイトにも言える事だが。

 では何故、彼女が強力な豊穣神の属性を持っているかと言うと、その理由はペルセウスの神話が関わって来る。

 ペルセウスの物語で最も有名な物は、やはり麗しき王女アンドロメダを助け、妻とすると言う物だろう。彼はアンドロメダを助ける為に、ポセイドンの放った海のバケモノ――これはティアマトともされる――を倒す為に、多くの神々の助力と武装を借り受ける。

 即ち、伝令神ヘルメスより空駆ける黄金のサンダル(タラリア)(ハルパー)、ゼウスの兄であり冥府を統べる王ハデスの持つ姿を見えなくする隠れ兜を、泉のニンフより金糸銀糸で織られた布で作られたとも、ゼウスの乳母である山羊アマルテイアの皮で作られたとも言われる(キビシス)を、そしてアテナよりあらゆる攻撃を防ぐとされる最強の防御を誇る(アイギス)を。

 これらの武器を持って彼は、ゴルゴン三姉妹の中で唯一不死ではない石化の邪眼を持つ蛇のバケモノ、メドゥーサを打倒し、その首を以て海のバケモノを退治する。そして、メドゥーサの首はアテナに献上され、その盾に埋め込まれより強力になったと言う。

 このメドゥーサは、元は北アフリカのリビアで生まれ、アマゾーン族――アマゾネスに信仰された大地の女神であった。その名の意味は「支配する者」、即ち女王である。大地を統べる女王として生まれた彼女は当然、大地母神としての属性も持っていた。

 オリュンポス十二神の一柱であり、海と馬の神でもあるポセイドンの妻とも愛人とも、また強姦されたともされる彼女は、その名の語源をアテナの母メティスとしており、一説にはアテナの原形ともなった女神である。

 女神アテナの象徴は梟とオリーブ、そして蛇だ。オリーブは平和と知恵を象徴し、蛇は知恵と永遠の命の輪廻、豊穣を象徴する。メドゥーサは蛇の女神であり、アテナの母であるメティスもまた、人頭蛇身の女神であると説によっては伝えられており、アテナの子供も半身が蛇だ。

 梟もまた知恵を司り、冥府と現世を自在に行き来する鳥だと考えられた。現代の様に明るくない、真実暗黒だと言えた古代の夜を我が物顔で飛び回る梟は、さながら死神の使いと思われただろう。

 知恵を司る蛇の女神の娘であり、大地の象徴である蛇の女神と共に在る死の女神。大地の豊穣を担うメドゥーサと、叡智と不死を担うメティス、そして戦争と死を担うアテナの三相一体。

 母と娘、蛇の三姉妹に分解された、闇夜と死を統べる暗黒の、地中海最強の太母神。

 それが、咲月が神託の権能で得たアテナの『原形神』の情報であった。

 

 ●

 

「……よりにもよって、『始まり』のアテナだなんて……」

 

 紅い夕陽に照らされた校舎の屋上で、咲月は頭痛を感じながら呻く。

 神託の権能で得たアテナの情報は膨大である。何せ、地中海沿岸の女神達全員と関係があると言っても良い世界最古の女神の一柱なのだ、その情報量は恐ろしい程にある。頭痛を感じるのもある意味で当然だろう。

 だが咲月が呻いている理由はそれだけではない。彼女が呻いている理由は、神話を紐解いてみても、権能で情報を洗ってみても、弱点らしい弱点がアテナには存在していないからだ。

 いや、正確に言うなら有るには有る。彼の女神が闇と大地を統べる女神であるのなら、太陽を始めとした『光』の属性を持つ権能か、『鋼』の権能がそれに当たるだろう。強い光は闇を引き裂き、鋼は大地母神にとって自身を征服した存在だからだ。

 幸い自分は、『光』に属する権能は無くても『鋼』に属する英雄神クー・フーリンを殺し、その権能を簒奪している。ある程度は有利に戦う事は出来るだろう。

 しかし、神具を求めてくるだろう女神は、原形とは言え『アテナ』として世に顕現しているのだ。大地母神としての属性も当然あるだろうが、それ以上にアテナをアテナたらしめるのは主として知恵と、戦。闇と死を齎す、闘争の死神である。大地の属性を持っている以上、弱点は確かに『光』と『鋼』だろうが、アテナは強大な闇の女神、地中海沿岸の地母神達の原形の一つだ。生半可な『光』や『鋼』ではダメージを与えられるかも疑わしい。

 さらに原形である大地母神としての彼女は、蛇の象徴でもある『不死』の神性をも持っている。倒しても復活してくる可能性は非常に高い。

 

「最悪だわ……。あの男子、とんでもない神具を持っているものね。一体何処で入手したのかしら……」

 

 自分の魔王としての後輩であり、ある意味で義弟とも言える男子に悪態を吐く。彼が持っているだろう神具から感じ取れた呪力の気配には、闇と大地、蛇の匂いがあった。

 アテナの三相一体で蛇に強い関係を持つのはメティスとメドゥーサ。母であるとされるメティスは知恵を担う水の蛇であるので、感じた気配はおそらくメドゥーサのものだろう。彼女は大地より生まれた蛇の女神だからだ。

 確実に目覚めているだろうアテナは、何処とも知れぬ国から――と言っても、地中海沿岸の何処かからだろうが――あの男子学生が持っている神具を求めて、この日本に来るのだろう。

 だがそれは、つまり……

 

(メティスの知恵の神としての要素とアテナの闘神としての要素は揃っていても、メドゥーサが持つ大地を統べる太母としての要素は欠けていると言う事……)

 

 神具と『まつろわぬ神』は惹かれ合う。それは、互いが己の半身である別たれた存在を求めあい、あるべき元の状態に戻ろうとするからだ。完全な状態であるのなら別たれた存在を求めはせず、そもそも別たれた状態で顕現などしないだろう。

 つまり、現在のアテナは完全な状態ではないと言う事だ。それでも神であるのでかなりの力は持っているだろうが、現在のアテナの状態で闘うとしたら、其処に勝機があるだろう。そんなアテナを倒しても権能は増えないかもしれないが、その場合は仕方ない。

 自分の平穏の為、正体を隠す為だ。躊躇せず、一切の容赦なく、全力で以て殺すとしよう。どんな攻撃をして来るのか、どれほど強いのか、楽しみだ。

 

(っ……今、私は何を考えていた?)

 

 そこまで考えて、咲月はいつの間にか、自分がまつろわぬアテナと積極的に戦おうと考えていた事に気付いた。

 自分の平穏を守る為なら戦うが、今回はあの男子学生に対処を押し付けて――原因は彼にあるのだから、押し付けるというのはおかしいか――自分はひっそりと息を潜めていようと思っていた筈だ。それがいつの間にか、積極的に闘争を望んでいる。

 神と神殺しの戦いは大規模な物になり易い。人里離れた山奥などならいざ知らず、こんな都心で戦ったら正体を隠すどころか逆にばらす様なものだ。

 そうなれば、今までの四年間が台無しになる。

 

(神殺しとしての本能、か……結局私も、他の魔王と同じく狂人の一人、と言うことね……)

 

 無意識のうちにアテナとの闘争を望んでいた自分に自嘲する。

 かつて、何処かの誰かが「カンピオーネになる様な人間は、殆どが狂人や猛獣の様なものだ」と言っていたような気がするが、真実その通りだった訳だ。静寂や安寧を何よりも望んでいた筈の自分が、神との闘争を思い浮かべただけで、こんなにも心躍らせていると言うのだから。体は戦闘状態に移行していないが、心の方は既にそうなっている様で、いやに昂っている。おそらくだが、顔にも非常に獰猛な笑みを浮かべていただろう。

 

(義母さんに体を作り変えられた影響かしら……? 確か、神殺しに転生させる呪法には変な所が多いとか言っていた様な気がするし……? あら? 何時そんな事言われたのかしら?)

 

 クー・フーリンを殺した時に、自分の体が作り変えられた事は何となくだが理解していた。自分の義母であり支援者となったのは、やけにテンションが高く、軽い感じの性格をした外見美少女の女神だと言う事も。

 だが、聞いた筈の言葉を何時聞いたのかが思い出せない。一体、何時聞いたのか……。

 

「まぁ、いいわ。何かあったとしても、あの男子が対応するでしょうし。それよりも、もう帰るとしましょう。いい加減、夜も遅くなるし」

 

 見れば、校舎は既に夜の闇に沈んでいた。時間を確認するためにポケットから懐中時計――銀製の、父親の形見だ――を取り出し、蓋を開く。時刻7時半。神託を使ったのは6時10分かそこらだったので、1時間以上も風が吹く屋上で考え込んでいたことになる。予想以上に長居した。

 いつもならこの時間にはもう帰宅しており、食事も終えている。

 しかし今日は夕飯の準備も何もせずに学校へ来た。今から帰って作るとしても、そう凝った物は作れないだろう。パスタかラーメンか、蕎麦辺りか。

 

(流石にそれだけって言うのも、ね……コンビニかスーパーで既成品でも買おうかしら? 一食抜くって言う手も有るけど、それをするとマーナが不機嫌になるし……)

 

 夕飯をどうするか考える。

 自分は一食程度抜いても大丈夫だが、留守番している子犬――狼にも見える――はそれをすると文句を言う様に吠えてくる。ずっと独り暮らしと言うのも寂しいので外に出して飼い始めたら、食事の味を覚えたのか、やけにグルメになってしまったのだ。

 あの子犬は何でも食べるのだが、中でも咲月の手料理を好んでいる。犬が火を通した肉類を食べるのはどうかと思うが、今ではドッグフードを出そうものなら、噛みついてくる始末である。噛むと言っても甘噛みだが、あからさまに不満そうにして来るので割と性質が悪い。

 

(取り敢えず、明日のお弁当用に材料は買わないと。確か今日は、人参とじゃがいも、鶏肉が安かった筈……あまり時間は無いから、急がないと)

 

 頭の中で買う物をリストアップし、咲月は財布の中を確認する。必要な材料を買うには十分な金が入っていた。買い物用の袋も鞄の中に有る。

 それに一つ頷いて、咲月は鞄を持ち、グラウンドや近くの道に人が居ないことを確認すると、助走を付けて柵に向かって走り出した。かなり早く、このままだと柵に突っ込んでしまう。

 しかし咲月は、ある程度の距離まで近づくと足裏で呪力を弾けさせ、柵に跳び上り片足をかけた。呪力を弾けさせた場所には罅が走っている。

 直後、再度足裏で呪力を弾けさせ、柵の外に躍り出る。その衝撃で柵がひしゃげるが、咲月は気にせず空中に飛び出した。制服のスカートが翻り、薄い亜麻色の髪が風にたなびく。

 彼女は次いで木の枝や電柱を足場に跳び進み、ある程度進んだ所で公園に降りて食材などを買いにスーパーに寄り、帰って行った。

 

 ●

 

 咲月が跳び去って暫く後。城楠学院周辺の道に一人の男が音も無く現れた。

 年齢は二十代後半と言った所だろう。眼鏡をかけた若い男性だ。

 しかし、着ている背広はくたびれ、だらしなく着崩されており、さらに無精ひげも生えているので実際の年齢よりも老けて見える。

 彼の名は甘粕冬馬。全体的にだらしのない印象を見る者に与える外見をしているが、これでも日本の呪術界を統括する組織『正史編纂委員会』に属している公務員だ。

 

「さて、確かここらだったと思うんですが……少々遅かったみたいですね」

 

 ぼりぼりと頭を掻きながら甘粕は周辺を見回す。視界に入るのは闇と電柱、街灯のみで、人影は一つも無い。

 呪力が弾ける感覚。それを彼が感じ取ったのは本当に偶然だった。

 武蔵野の媛巫女である万里谷祐理に、カンピオーネの可能性がある草薙護堂の正体を見極める事を依頼し、他にも色々と仕事を片付けて報告に戻る途中だったのだが、呪力が弾ける感覚を感じ取り、在野の呪術師が何かしでかしたのではと調べる為にやってきたのだ。

 

「ふむ……別に呪術を何かにかけた、と言う感じは無いですね。単純に、呪力を弾けさせただけ、と言ったところでしょうか」

 

 空気中に漂う呪力の残滓を感じ取りながら、何があったかを分析する。残っている呪力の感じから、単に弾けさせただけの様だ。

 しかし、分かったのはそれだけ。霊視は彼には出来ないので、これ以上の情報を集める事は自分では難しいだろう。

 

「危険な感じはしませんが……一応、報告はしておきますか。場合によっては彼女に霊視を頼む必要もありますか。やれやれ、これ以上仕事を増やさないで欲しいんですけどねぇ」

 

 まるで面倒臭そうに感じられない口調でそう言い、甘粕は現れた時と同様に、音も無く道を歩いて行った。

 

 ●

 

 とある港に、その少女は佇んでいた。

 月の様な銀色の髪と、夜の闇の様に暗い目を持つその少女は、何をするでもなくただ港に佇み、潮風に髪を揺らしながら海を見ていた。

 いや、正確に言うのなら、海の向こうに存在する自分を呼ぶ何かを。

 

「古の蛇……この海の向こうへと持ち去ったのは、古き帝都で会った若き神殺しか」

 

 目を閉じ思い返すのは、ローマと呼ばれている古都で出会った異邦の神殺しの事だ。あの時には自分が探し求める神具の事を優先していたので、久方ぶりに出会った宿敵と言うだけしか思わなかった。

 その時には神具を持っていなかったので余り気に留めず、僅かばかり話して見て抱いた印象は、神殺しらしからぬ、度し難い程に甘い男だった。倒すにしても、『蛇』を得てからでいいだろうと、その時はそう思った。

 が、その男が去ったと同時に、求める『蛇』の気配が遥か東へと進んで行くのを感じた。間違いなくあの男が持ち去ったのだろう。戦う事を望んでいないと言っておきながら、中々どうして、やってくれる。

 目を開く。この海の先に有る国に、求める『蛇』の気配がある。自分を読んでいるのを感じる。

 

「我が求めるは蛇……古の、蛇」

 


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