赤く染まるアネモネ 前
「はぁあ・・・」
市街ローレントに住む人々の生活と安全を支える国の機関、治安維持局。
その職員たちが毎日詰めている役所の片隅に、一人の少女が座っていた。
青い髪の毛を後ろでまとめ、その治安維持局の一員として服装を整えている彼女はしかし、
仕事中、と言うにはやや崩れた姿勢で、誰が見ても分かるほどに気怠げな雰囲気を纏っている。
「はふぅ・・・」
そして本日何度目かの深く重たい溜息が、その口から吐き出されたところだった。
「アネモネさん、おはよう!」
「っとと・・・おはようございますー」
新たにやってきた職員の声に慌てて居住まいを正し、彼女は笑顔で挨拶を返していた。
アネモネ。
それが役所の隅っこでどことなく所在なげに座っている、瑠璃色の髪と瞳をした少女の名前だった。
「今日のアネモネさん、どうしたのかな」
そしてそれを横目に窺いながら、小声で話し合っている人たちがいた。
同じ庁舎、しかし少し離れた場所で各々の仕事をしている、他の治安維持局員である。
「なんかこう、そわそわしてるというか・・・落ち着きがないよね」
「・・・あんなアネモネさん見るの、初めてよね?」
仕事場でひそひそと他職員の噂話などしていると、ともすれば眉をひそめる類のものかと思われるかもしれない。
しかし彼ら彼女たちのそんな行動は、ただただ純粋に、いつもと違う様子のアネモネを心配してのことだった。
アネモネは局員の中では新人にあたるが、彼女を知らない人間はここにはいない。
それどころか彼女はこの町、いやこの国で一番の有名人とさえ言える。
かつてはあまり馴染みのなかった局員たちからしても、今となっては幾度となく顔を合わせる仲であり、仕事仲間だ。
そして彼女が今日に限って何やら思い悩んでいるような、やたらとアンニュイな雰囲気を漂わせているとあっては、彼らにとってもまた、決して他人事ではないのだ。
「具合でも悪いのかしら」
「うーん・・・というよりはなんか、悩み事でもあるような?」
ふむ、と女性職員の一人がそれを聞いてアネモネの方を見やる。
確かに、心ここにあらずといった感じのアネモネの様子は、体調不良というよりかは精神的なものが原因のようにも見える。
そうであるなら、悩み事はなにか、協力できることなら、と一先ず声をかけてみよう・・・と、普通なら彼女はそう提案するタイプだ。
しかし彼女には一つ、引っ掛かることがあった。
「でもアネモネさんって・・・どんなことなら悩むのかしら?」
聞きようによっては失礼な気もするそれはしかし、彼女に限らず、この国に住む人々にとっては尤も疑問だった。
なぜならアネモネは、未来のことが何でも視えてしまうのだから。
「ふぇえ」
アネモネはまた一つ、バリエーション豊かな溜息をついていた。
「今日・・・今日かも・・・いや、間違いなく今日・・・はぁ、憂鬱かも・・・」
何度思い返しても、確かめても、未来の光景は変わらない。
今日いったい何が起こるのか、アネモネはそれを随分前から知っていた。
アネモネには魔法とも異なる類稀な力がある。
それは遥か遠い先に至るまで、自分やその周りの人々の未来が景色として見えてしまうというもの。
故にアネモネには、今日これから先起こることを知っており、それを知ってはいても割り切れない自分が、朝からこうして滅茶苦茶憂鬱な気分で溜息を連発してしまうことも、前から分かっていたことだった。
当然、役所の隅で、職員たちが自分のことで囁き合っていることも知っている。
幸か不幸か、あくまで未来は見えるだけで聞こえることはないため、何を話しているのかまでは分からない。
アネモネが未来を知っていることを、この国に住む人々なら皆が知っている。
故に何があってもアネモネさんなら動じまい、と思われているようなので、今日の私は殊更奇異に見えることだろう。
・・・少し前なら、何か悪い噂をされているかも、と思ったかもしれない。
しかし今となっては、ただ心配してくれているのだな、と自然と思える。
ここに勤めるようになって、私も少しは変わったかも、とその日、初めて口端が上がったのを自覚する。
あるいは、後ろ向きに考えがちな大馬鹿だ、と誰かさんに言われたせいだろうか。
ともあれ彼ら彼女たちについては、後日に心配ないと告げ、お礼代わりにちょっとした菓子折を持ち寄っている自分の姿が見えているので問題ない。
問題は、これから現れる人達にもこの調子で応対するわけにはいかない、ということだった。
待合室のような間取りで机と椅子が置かれたそこは、彼女だけの仕事場だった。
アネモネは治安維持局の中でもちょっと特殊な役職に就いており、此処はそのためだけに設えられたスペースだ。
昼を過ぎた頃になったら、悩みを抱えた町の人々が入れ替わり立ち代わりこの場所へやってくる。
そこは言うなれば、占い師がひらくお悩み相談所のようなところだった。
アネモネはかつて己の力を限定的に使い、この国の人々に、あえて不幸な未来を告げていた。
それを知ることでそれ以上の不幸に見舞われぬよう、彼らが次善の策を立てられるようにしつつ、あえて不吉を担い、嫌われ者を買っているつもりだった。
ところが、ある日を境にその役目は終わってしまった。
この街を統治している領主様や、未来を告げられた当事者たちはアネモネの真意にとっくに気がついていたらしく、あえて正体を伏せる必要はどこにもなかったのだという。
恐る恐る名を明かしたその時に、領主様から直々に贈られた感謝状は今でも家に飾ってある。
そしてこの国に本当の意味で受け入れられた時、アネモネが選んだのは、自らも治安維持局で働くことだった。
その頃から、予言者としてのアネモネの行いは少し形を変えることとなった。
アネモネは正確すぎるその予言によって、神か何かのように祀り上げられることを好まない。
しかしその内容が不吉なものばかりであるというのも、実際のところ本意ではない。
その折衷案として生まれたのが、お悩み相談所という体裁でごくごく近況の未来を告げる、占い師の真似事のような役だった。
ここにはアネモネを頼って、老若男女、あらゆる人々がやってくる。
彼らはみな一様に、抱えている悩みを打ち明けたり、単に愚痴ったりする。
それに対してアネモネは相槌を打ったり、聞き流したりしつつ、最後に一つの予言を聞かせる。
ただし、その内容はアネモネ次第。
「貴方は今日のうちに包帯と消毒液を買って、自宅の机の上に置いておくといいかも」
「貴方は今すぐここから走って、本屋さんに行くといいかも」
「今、貴方に言えることは何もないかも」
それはある程度は具体的だったり、逆にひどく曖昧だったりとまちまちな上に、その時に聞いた悩みと全く関係なかったりもする。
だが、何故そんなことを言うのか、と問うのは禁止だ。
これまでと違い、確定している未来ではない・・・少なくとも、それを直接知るわけではない相談者たちには、アネモネの言葉を自分なりに解釈して行動することを推奨している。
その全てはアネモネの知るところではあるが、それを本人が知るべきかどうかは、その内容によるのだ。
予言者としては少々いい加減にも思えるその口ぶりがどう捉えられるか、はじめは心配だった。
結果を知っていることと、いざその瞬間に口にすることは別種の緊張が伴うものだ。
しかしここを訪れる彼らは皆、風変わりなアネモネの相談所に何の不満もないようだった。
それはあえて真実を伏せて告げられる予言についても然り。
わざわざ決まりを定めずとも、住人たちはみな「そうか」と頷いてお礼を言い、そのままその場を去ってくれる。
たとえその助言によって、必ずしも事が上手く運ばずとも・・・むしろその場では不幸に陥ってしまうとしても。
それがいつか何らかの形で功を奏するよう、あえて言葉を選んでくれたのだろうと、彼らは察してくれていた。
アネモネが不吉を告げる謎の予言者として活動していた頃からすでに町の人々は理解を示してくれていたのだから、そこに関して何か問題が起きることはほとんどなかったというのは、予想できたし、知ってもいた。
そうなることを知っていたからこそ引き受けた、ということも勿論あるが、それでもアネモネは嬉しかった。
それもまたアネモネに対する、一つの信頼の形と言えるのだから。
・・・そして、この未来もまた、そうした関係の上に成り立ったものなのかもしれない。