司馬遼太郎風エヴァ「シヴァンゲリオン」   作:しゅとるむ

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第二話 悪妻アスカ

近頃のシンジの日々は駆け抜けるように過ぎていく。ほぼ自宅と学校とネルフを往復するだけだが、帰りは大抵九時か十時を回る。

(保安部は、よくやる)

黒服の尾行が途切れる時間帯がないかと探ってみるが、今の所その気配はない。といって、無理に尾行をまいたりは下策だ。それに日々やってる事は人脈作り、後ろ暗さはない。

 

(カルペ・ディエムだな)

日々を摘み取れ、というラテン語の警句だが、その言葉通り、シンジには確かな日々の手応えがある。

とはいえ、気掛かりもないではない。

帰宅し、玄関をくぐる瞬間の緊張感を孕んだ空気だ。

「今日も遅かったわね」

(やはりか…)

部屋着姿のアスカが腕を組んでシンジを睥睨している。

(俺はお前の良人(おっと)ではないぞ)

 

そう叫びたくなる気持ちを抑えてシンジは無理やりに微笑む。

「ごめん。ちょっと友達とコンビニで話し込んじゃって」

話し込んではいないが、必要な資料の受渡しをネットを介さずに行う必要はあった。コンビニ内での万引き騒ぎを事前に準備してもらい、その騒ぎに乗じて受け渡したので支障はない筈だ。

 

「遅くなるなら連絡はしてって言ってるでしょ。夕食を自分で作らなくてはいけないじゃないの」

(当たり前ではないか。俺はお前の良人ではない)

再びその言葉をシンジは飲み込む。

「その積もりだったけど、つい…」

「最近、鈴原や相田と仲いいみたいね」

その言葉にシンジの目が僅かに細められる。

 

アスカの無言の視線は

(アンタが何かをしてる事は分かってる。何かまでは分からないけど…)

と物語る。

少女はあの「アスカは、頑張ってるよ」の夜からどうも様子がおかしい。

シンジとしては自然、この娘を遠ざける他はない。

「忙しくても電話ぐらい出来るわよね」

(女房みたいな事を言いやがる)

やはり、女はむつかしい。

 

 

早々に部屋に引き上げ、室内灯を消したまま受取った相田謹製資料をスマホの光源だけで読み取る。

(やはりそうだ…)

シンジは己の推測が正しかった事を確認する。疑念の発端はアスカ、シンジ、レイの3人が同じ中学の同じクラスに編入された事だ。始めは警備の問題と思ったがどうもそれだけではない。

(おかしいではないか)

 

警備の問題だけなら、邪魔な他の生徒など居ない特別クラスを設ければいい。第一アスカは既に飛び級で大卒だ。わざわざ日本の中学の一般学級に編入する必要などない。漢字が覚束ずテストでも四苦八苦してるぐらいだ。首を捻っていると、男子同士の世間話が解決の糸口を開いた。

 

つまりはお互いの家族構成の話だ。たわいもない話だったが、シンジ、鈴原、相田、いずれも母親が居ない事がすぐに分かった。無論アスカやレイにも母親は居ない。それを偶然と思える程、シンジは太平楽ではなかった。

「相田、クラス全員の家族構成を調べる事は出来ないか。それも誰にも気付かれずに」

 

シンジの推測するところ、この情報は極めて機微な情報だ。取り扱いには慎重の上にも慎重を要する。こうして迂遠な手順を踏んで、受け渡された資料だったが、果たして、想像の通り、……クラス全員の母親が死別していた。

(親父殿。これは一体どういう事ですかな)

恐らくは、ここからシンジの反撃が始まるであろう。

 

  

シンジにはどうやら、周旋の才能があるらしい。といって、誰にそう言われたわけでもない。伊藤博文は師吉田松陰に「俊輔、周旋の才あり」と誉められ、その楽天的で素直な性質から言われるままに自分をその様に染め上げていったものだろう。

シンジには人に教えることに異常に親切であった松陰吉田寅次郎は居ない。

(ならば、俺は自分の才を自分で誉めてやらねばなるまいな)

 

そう、シンジは考えを巡らせるが、これは、どのような心境であろう。自分で自分を誉めて育て上げる、という自己催眠法にも似た成長術を独創した英雄が、かつてあっただろうか。この碇シンジは筆者の思案にも余る、些かふしぎな、しぶとい生き物に変わろうとしていた。

無論、その実績は上げつつある。

 

すでに第三新東京市立第壱中学校の学内において、隠然たる抵抗組織の構築に成功しつつあるが、当初、その組織論については破棄した一つの案があった。

それはセルビアの黒手組という民族主義組織をモデルに、如何なる構成員であろうと上司一名、部下二名以外との意志の疎通を不可能とするものだった。

 

この黒手組式組織ならば、全体が壊滅する事はない。三名以外の仲間をそもそも知らないので、構成員が捕まっても首領の正体を暴露される心配もない。だが、シンジはこれを早々に放棄した。

(これは、ダメだな)

その様に蛸壺型に分離されては、テロの連鎖は出来ても「細胞」の暴走を防ぐ事が出来ない。

 

シンジは暗殺者集団を作り上げたいわけではないのだ。だが、それよりもっとこの組織形態を認めたくない理由があった。

(このオレが組織を作り上げるならば、オレはその「作り出し」、「他者を巻き込んだ事」への責任からおめおめと逃げ出したくはない)

ーそれならオレ諸共に組織ごと壊滅した方がマシだろう。

と思うのは、シンジの中でも、冷静な計算というよりは美学に属する問題であろう。

 

シンジがやや旧態然とした保守的な組織作りに甘んじたのは前記のような事情に拠った。

それでも、構成員にコードネームのようなものを導入し、秘密組織めいた体裁を殊更に整えてみたのは、実をいえば中学生という十四の若者らしい稚気によるもので、これはすこぶる児戯に属するものであった。

 

例えば、鈴原トウジのコードネームが、「ロビン・ロクスリー」ならば、洞木ヒカリは「マリアン」といった具合で、若者らしく真っ直ぐで向こう見ずな、正義の叛乱軍気分のものも多い。相田ケンスケの「アフリカヌス」などは、素直に「ハンニバル」とせずにその上を行こうとする所に気負いも感じられる。

(だが、相田には実際、ジャイアントキリングとでもいうか、ゴリアテを打ちのめすダビデのような、大物殺しの潜在能力を感じる時があるからな…)

実はシンジが、心中密かに警戒するのはケンスケの底知れなさでもあった。

 

また、この遊び半分のコードネームが後に意外な波乱を生んだこともあった。

つまり、アスカが自分のコードネームを引っ提げて、シンジの自室に乗り込んで来たのだ。どういう手段を用いたかは知らないが、片手には、シンジに協力する組織構成員の過半のリストを持って。

「入れてくれるわよね」

さっとリストに目を通してからその正確性に舌を巻き、アスカの能力を改めて見直す。

(やれやれ)

肩をすくめるとシンジは椅子を回転させてアスカに向き直る。

「で、どんなコードネームにするの?」

「クサンティッペよ」

(はあああ?)

シンジが混乱する中、アスカは畳み掛ける。

「アタシは、阿呆と馬鹿の違いは、馬鹿は自分が馬鹿だと知ってる事だと言ったわよね」

「ああっ!!」

(そ、そう繋がるのかよ!!)

つまり、アスカの言っている、「馬鹿」とは、「無知の知」を体現している者の事である。そしてその話をした前後からアスカは、なぜかバカシンジという呼び掛けを始めた。そして、無知の知といえば、ソクラテスであり、クサンティッペはそのソクラテスの悪妻である。

 

頭を抱え込んで机にうずくまるシンジの背中を軽くポンポンと叩いて、アスカは、耳元で囁く。

「ま、たっぷりイジメてあげるから、せいぜい哲学者になれるように頑張んなさいよ、バカシンジ」

少しだけ、顔を上気させ、声を上擦らせながら、部屋を出て行くアスカの心中を、しかしシンジは推し量れるまでの余裕も経験もなかった。

 

 

「で、今後の方針はどうするわけ?ソクラテス」

「それココではやめない、アス…」

(ここは自宅ぞ…)

保安部の盗聴がないことは相田の協力宜しきを得て、確認済みだ。

「クサンティッペよ」

への字に口を引き結び、アスカはなぜか得意げだ。

(気に入ってるなあ)

歴史に名高いソクラテスの悪妻の名だ。

 

ソクラテスをして「結婚は良い、たとい相手が悪妻でも儂のような哲学者にはなれる」と言わしめた「史上最強の悪妻」がクサンティッペで、曰わく「我が妻とうまく付き合えるなら、他の人間の誰とでもうまく付き合える」ということなのだそうだ。

(最も深く触れ合う他人であり、最初に自分で選ぶ家族か)

シンジはアスカの瞳を見つめる。

 

だが、シンジはアスカの思い違いを糺さねばならない。

「そもそも僕のコードネームはソクラテスじゃない」

「え、どうしてなのよ」

何故かアスカは、不機嫌そうだ。せっかくクサンティッペにしてやってるのにと言わんばかりだ。

「別に君に合わせて付けてるわけじゃないからね…」

「じゃ、何なのよ」

「それは……」

少しだけ言い淀んで

「オイディプス」

 

アスカは暫し沈黙する。

我が父を殺し、我が母と交わると神託で予言され、そして実際にそうなった古代の英雄である。

深く息を吸って、アスカは次の言葉に決意を込める。

「……父を云々はアンタが必要なら好きにやんなさい。なんならアタシが手伝ってやってもいい」

アスカの顔が少し赤らむ。

「だからその……母と云々は止めておきなさいよ。気持ち悪いし、相手は他にいるでしょ」

他にと言いながら、我の胸にそっと手を当て、アスカは、この心配の根源がどこにあるのかを探り当てようとして、遂に果たせない。

「僕の母さんはもう亡くなってるよ」

実母が亡くなっている。アスカとても承知している事実だ。それがシンジが調べ、これまでに把握しているエヴァパイロットの条件でもある。

シンジは雰囲気を変える様に声を上げて笑う。

「前にテレビでやっていた『アポロンの地獄』を観て、気に入ってたんだ。それだけの話だよ」

それもまた別に嘘ではない。

 

青々としたみどりの世界。こんなにも広々と明るい世界に産み落とされた我々が、こんなにも苦しむのはこのよるべなき広さと明るさ故なのか。苦しみが前提なのはむべなるかな。我々は母から産み落とされ、母から切り離され、もはや母と再び繋がることを禁じられているからだ。

映画を見終わった後、幼少時に死別し、母の記憶に乏しいシンジでさえ、そんな風に感じたのを覚えている。

 

「クサンティッペでなく、アンティゴネーにするべきだったのかしらね」

アスカは腰に手を当てて嘆息し、シンジはふと荒野にてよろめく自分が、アスカに手を引かれながら、歩いていく姿を幻視する。

アンティゴネーとは、オイディプスが全てを知って盲目となった後、父の手を引き諸国を放浪した、オイディプスの娘だ。

「アスカは、やっぱりクサンティッペが似合っていると思うよ」

思い付くままにシンジが言うと、

アスカは、横目で冷たくシンジを見て、

他人事(ひとごと)みたいに言っているけど、その悪妻の被害を受けるのはアンタなのよ、バカシンジ」

ソクラテスがクサンティッペに水を掛けられたという逸話を思い出して、シンジはぶるっと身体を震わせた。

 


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