司馬遼太郎風エヴァ「シヴァンゲリオン」   作:しゅとるむ

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第四話 わが影、やつれざる友よ

 女が独り、鉄塔の頂上に佇立している。

 天下の峻険と呼ばわる箱根山の山上から麓に向かって吹き下ろす強い風は、時折、高圧電線を僅かに軋ませさえする程だが、女は身じろぎ一つしない、という光景はむろん尋常でははい。

 

 よくよくその足下を見れば、僅かに八角形の光の揺らぎが見え、その輝きが女の足場をしっかりと保持しているようだった。

 

 A.T.フィールドというのは西洋の専門の学者に言わせれば、人の心が誰でも持つ、他者への壁、すなわち自他の境界なのだそうである。拒絶し、排除し、合一を拒む。だが、それは心の壁であって、通常の人間において、A.T.フィールドが物理的な障壁を成すことはない。とすれば、この女もまた、常人とは言えないであろう。

 

 憮然とした表情ながら、背格好は中学生のそれである。猫の耳状の飾りの付いた黒いキャスケットに栗色の長い髪を半ば押し込め、赤いパーカーのポケットに両手を突っ込み、左の目には黒い眼帯をしていた。全身を包むのは、鮮血に墨を溶かし込んだような、肌に密着する紅いプラグスーツ。

 年相応に若々しい格好ではあるが、その隻眼のさまは明らかに異相であると言えた。

 

 そもそも独眼竜といえば、唐の武将、李克用がすがめ、すなわち斜視であり、黒ずくめの軍装に供を揃え威圧する様が独眼の竜に映じたものという。遥かに後代、この国の奥州地方に覇を唱えた風雲児、伊達左京大夫政宗(のち権中納言)の異名となったが、こちらは正真正銘の隻眼であった。差し詰め、この少女は紅の独眼竜といったところであろうか。

 

 しかし、それはひとまず、よい。

 

「♪箱根の山はぁ、天下の険~ 函谷関もものならず~」

 

 下から徐々に上ってくる歌声を、眼帯の少女はしかし完全に無視して、じっと遠方に米粒のように小さく見えるロープウェーのゴンドラを睨めつけている。早雲山に向かうロープウェーだろう。

 

「相変わらず、高いところが好きだなぁ、姫は」

 

 長い梯子を登って、ようやく上に立つ少女の足下にまで上ってきた眼鏡の少女は、息を切らした様子もなく、すぐにうんしょと鉄塔の最上部に上がってきて、何もない空間に胡座を組んで座り込む。いや、その下には眼帯の少女と同じように八角形の光がちらちらしている。と、すれば、この少女もまた眼帯の少女の眷属に属するのであろうか。

 

「で、こっちの王子様は見つかった?」

「あそこよ」

「ほほぅ。やっぱりこっちの姫と一緒なんだね。どこ行っても、仲好いなぁ」

 

 二人とも、双眼鏡も使わずにまるで近くに物が見えているが如き口振りだ。

 

「でも、どうしてわざわざこんな次数の低い世界で?たぶん、ここは1.0にも満たない世界よ?」

「分からないならいい」

「ふぅん。でも、そういえば、あの王子、ちょっと雰囲気が違うね。なんだかかっこいい。……それに王子を見つめる向こうの姫の目の輝きも違う。妬けるにゃあ」

「それはどうでもいい」

「恥ずかしいんだにゃ?」

「違う……合一すれば、関係なくなるからよ。あの娘の気持ちも、想いも、全ては消えて無くなる」

「そりゃそうだけどさ。でも、そう簡単に合一できるかにゃ?」

「相手は只のガキたちよ。すぐに終わる」

 

 ゴンドラの中の少年と少女は何やら愉しげに会話を交わしていた。さすがに声までは聞こえないが、そこに気まずい間がなく、途切れる気配がないことは、二人の表情を見れば瞭然だった。驚くべきことに、我知らず見つめられている少女と、それを見つめる眼帯の少女は、眼帯を除けば鏡のように瓜二つであった。

 

 寂寥たる想いに襲われたのか、

Still ist die Nacht,

で始まる、ドイツ語の(うた)を隻眼の少女は、知らず口ずさんでいる。

 

 夜は静かに、街は眠る

 この家に最愛の人が住んでいた

 彼女はずっと前に街を出た

 しかし元の辻に家はそのまま立っている

 

 19世紀ドイツ、ヘーゲルの薫陶を受けたロマン派の詩人ハインリヒ・ハイネの詩であった。

 

Du Doppelgaenger! du bleicher Gezelle!

 

「やよ、わが影、やつれし友よ…」

 

 わが影はしかし、やつれてもいない。幸せのただ中にあって、かつての恋人とそっくりの顔をした少年を安心しきって見つめている。

 それが何故か許せず、少女はギリリと歯を噛み締めた。破鏡の痛みがどうしようもなく、ぶり返す。

 

「こんな世界、ほっといてあげたら?偶には姫にだって安らげる世界が必要だよ?」

「あれはアタシじゃない。ただの(こだま)よ」

「でも原理的に、どっちが谺かは分からないんじゃないの?」

「……最後に残ったのが(ひびき)よ」

「まあそれは分かりやすい考え方だけどさ」

 

 桃色のプラグスーツだけを身に纏った眼鏡の少女は、立ち上がると、肩をすくめる。

 

「ま、姫のやりたいように。あたしは何でも助けるわよん」

「函谷関もものならずと言ったわね」

「うん、それがどした、姫?」

「……函谷関なら鶏鳴狗盗の輩でも陥とせる。でもジオフロントを侵すのは、本物の漢でなければ無理よ」

 

 最後はひとりごちるように呟いた少女の一つしかない視線は、真っ直ぐに少年だけを見つめている。

 

 

 麓の街の映画館を出てアスカとシンジの二人は公園に向かった。

 幼き日のダイアン・レインをヒロインにした恋愛ストーリーのリバイバル上映であり、初めてこの映画を知ったアスカは、青空の下で大きく伸びをした後も、興奮醒めやらぬ様子だった。シンジも映画館の大きなスクリーンで見るのはこれが初めてだった。

 

「あのお爺さん、素敵だったわね!」

「うん。ローレンス・オリヴィエ」

 

 その英国の名優はこの映画の時点で、すでにエリザベス二世女王より、一代貴族の叙爵を受けているから、正式にはもはやオリヴィエ男爵というべきであろう。一代限りの勲爵で文化人への栄誉を賜る、最も古くに近代を切り開いた英国という国の風通しの良さに基づく文化施策と言えるだろう。このオリヴィエ男爵、国を代表する名士が現実をひっくり返したようにいかがわしい老紳士を演じている。要するに詐欺師役なのだが、成り行きから、駆け落ちを企む利発な少年少女の庇護者として活躍する。

 

「名台詞ね。『伝説とは何でもない者がとてつもないことをした話だ』」

 

 それは勿論、作中の少年少女に発奮を促しているのであり、自ら演じる、つまらない詐欺師の成し遂げる偉業の事を指しているようでもある。人間の卑小さや凡庸さを一旦認めた上で、その成し遂げた功績が大なればこそ、その落差が胸を打つ、という、これは何も作劇上の小手先の技術ではなく、自然な人間心理であろう。

 

「この映画、アスカと観たかったんだ」

 

 早熟な天才少年と天才少女の恋愛と冒険の物語である。策謀と無謀の話でもある。知らずシンジは自分とアスカをこの映画の主人公とヒロインに重ねていた。そして何より、そのローレンス・オリヴィエの台詞を聞かせたかった。「それを真実にするのは君らだ。必要なのは勇気と想像力だ」ともオリヴィエは作中で言う。

 

「父さんが企んでいる事が何なのかはまだ分からない。でも、誰にだって、伝説は作れる」

 

 アスカも静かに頷く。

 

「そういえば、主人公のあの男の子も可愛かったわね」

「生意気だよ」

「それがいいんじゃない。アンタみたいで」

 

 アスカは挑むようにシンジに顔を寄せて、にやりと笑う。

 

「……」

「といったら、アンタは喜ぶ?嫉妬する?」

 

 アスカは、ニヤニヤと笑ったまま、少年に近すぎるほど近付けていた体を起こす。

シンジはどうやらこのアスカに試されているようである。

大急ぎで話を変えねばならない。

 

「彼はあの一作で、俳優をやめたそうだよ。歯医者になった」

「へえ」

「彼はフィクションの世界ではなく、自分の人生を生きたんだ」

 

 シンジは何故か、そう説明してふと胸が苦しくなった。

 

「そうなんだ」

 

 アスカは頷き、シンジはいつの間にか俯いている。

 

「でも、彼はこの映画の中に生きたことを忘れないと思うな」

 

 アスカはシンジにそっと背を向け、遠くを見るような視線で言った。

 

「自分ではない自分に、何かを重ねて、時間を過ごす。それって別に無駄な事、じゃないわ。大切な事だもの」

 

 優しい声だった。

 何故か、シンジの胸はもう苦しくはなかった。

 そして、シンジとアスカの二つの手が再びそっと繋がった。


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