しばし、綾波レイばなしを続ける。
彼女はこんにち一般的には碇シンジの母親、ユイに限りなく近い存在と理解されている。これは、やや通俗的なエヴァンゲリオン理解であって、「絵本太閤記」の記述をもとに蜂須賀子六が夜盗上がりであると見做すのにも似て、じゃっかん無理のある解釈であろう。
明治天皇の侍従であった蜂須賀茂韶侯爵が宮中に召されて天皇を待つ間、応接間の卓上に置かれた舶来の煙草を一本失敬し、これに目ざとく気づかれた天皇は「祖先の血は争えぬのう」とおからかいになられた。茂韶にはこれがよほど堪えたのであろう。わざわざ学者に依頼して、絵本太閤記の記述が事実ではなく、自然、子六も夜盗ではなかったということを実証してもらったという。
綾波レイについても、例えば母の一卵性双生児の妹ごときは、遺伝子的には母親と完全に同一であっても、あくまで叔母に相当するものであって母ではない、という当然の
また、綾波自身にも異本や史書により、多くの異なる言い伝えや描写があり、例えば、口が悪いロリな一人目、標準の二人目、二人目ではない多分三人目、後年リナレイとも呼ばれることになりアスカに対抗心を燃やす学園レイ、ポカポカしているポカレイ、プラグスーツが黒い黒波、やや異色なものとしては、声が同じで髪が茶色い戦略自衛隊製綾波タイプの霧島マナなどがある。
筆者が記す、肉ばかり食べる海賊レイ(肉食系)も、おそらくはこれら異本での描写の末端に連なるものであろう。
「お肉、食う」
そのことである。
肉波─と、もはや呼んでよいであろう─は、さきほどから旺盛な食欲を発揮して、焼肉をもきゅもきゅと食べ続けている。金網から、小皿へ。小皿から、口へ。口から、胃袋へ。目標をセンターに入れてスイッチ。目標をセンターに入れてスイッチ。ひょいひょい、パクパク、がつがつ、もぐもぐ、もきゅもきゅ。塩だれ、甘口だれ、辛口だれ。肉、肉、肉。綾波の肉。オール・ザ・アヤナミズミート。
「アラキドン酸は植物にはほとんど含まれない。高齢者の認知症予防に最適」
「いや、綾波は別に高齢者じゃないんだから……そんな肉ばかり食べる為の理論武装をしないでよ!」
「碇クン、あなたの肉は私が食べるもの」
「守ってよ!!」
二人のやりとりにアスカは冷ややかな視線を注ぐ。
「親子漫才か。はぁ……楽しそうでよかったわね!」
苛立ちが、栗色の眉の震えに小刻みに表れている。
先刻まで浮かびもしなかった妬心がアスカの身内に現れたことにはたしょうの理由がある。
すなわち、シンジのレイに対する遠慮のない態度であった。
シンジはアスカにはまだしも遠慮がある、その違いがアスカを苛立たせるのである。
「夫婦漫才とはあえて言わないんだね……アスカ」
「はぁん?アンタとどこの娘が夫婦ですって? 自分の女を平気で煽ってると、コロすわよ」
「視線で殺人を犯そうとしないで……」
「あんまりラブコメ気分で、周囲に女をはべらせていると、いつか本気で刺されるわよ。アンタにははべらせ体質が見える気がする」
「ひどい、頭からしっぽまで、偏見だ。そもそもはべらせ体質なんて辞書にない……」
刺されるといえば、幕末の長州志士、井上聞多(のち馨)が、対立する俗論党にめった刺しにされるも、50針を縫われて、命を取り留めたという逸話が想起される。井上カヲル、もはや名前のとおり、使徒のようなしぶとさというべきであろう。むろん、今のシンジにはまだ、カヲルという名の知人、友人は居ない。
アスカとシンジの画面外でのいさかいを他所に、満面の笑みを浮かべる綾波レイの取り皿にまた肉が山のように盛られている。今度はアスカの肉の残り全部だ。
「かいぞく!」
◆
そんなやりとりに、海賊船から注がれる視線が二人分。距離の遠隔はやはり状況把握の障害にならないようだ。桃色と赤のプラグスーツの二人は船のマストの上に上り、風を受けながら佇んでいる。
「アダムカドモンが、王子に籠絡されているにゃー」
「アヤナミレイ『に』篭絡されている、というべきよ。アレが他人を篭絡するようなタマか」
「それは姫の王子の話でしょう? ここの王子ではなく」
「……」
「いい加減、素直になるべきだにゃ」
「あいつのことは関係ない」
「でも、
「違う。サードチルドレンを合一、すべて統合すれば、《彼》は目覚め、初号機でユニバーサルセントラルドグマを犯せる。そうすればすべての枝世界で、人類補完計画も阻止できる。アタシの目的はそこまで。上位世界も、一人でとっととそこに逃げ出したバカにも、興味ない」
「なら、どうして。王子だけでなく、姫たちまで、合一するのかにゃ?」
「……せめてもの情けよ。アイツが居なくなった世界に残すのはしのびない」
「自分の辛さを他の自分にはもう味わせたくないんだにゃ。そして、合一するたびに姫たちの哀しみと孤独は姫の中に降り積もっていく……姫はやっぱり優しいね。優しくて、寂しいね」
「なんとでもいえばいい」
「そんなお優しい姫にプレゼント」
ピッと、中指と人差し指に挟んだ、白い書類を、メガネの少女は眼帯の少女に差し出す。
「……なによこれ」
「見てわかるとおり、第三新東京市立第壱中学校への転入届よん」
「こんなもの、要らない」
まぁまぁ、とメガネの少女はそれを宥めにかかる。
「でも、アダムカドモンが近くにいる以上、もうここの姫にも王子にも簡単に近づくことは無理だよ。アダムカドモンは王子への好感度が16.6666%を超えると、戦略的防衛モードに入るよう、あらかじめプログラムされている。私たちは対抗してビーストモードを発動させるわけにはいかないしね」
現在もATフィールドを操る能力を人間でい続けられる範囲で限定的に使用しているのに、ひとたびヒトの形を捨てれば、完全にシトになってしまう。
「そんなことは、知ってる」
「だから力押しはもう無理。学校に入れれば別だけどね。チャンスはいくらでもある。この世界の王子と姫を近くで見極めて、それでも二人を合一するか、決めればいい」
「情にほだされると思ってるなら有り得ない。アタシはアタシを見捨てたアイツのことを許すつもりはない。そんな馬鹿にどこの世界に行っても何故か入れあげている、あのバカな娘たちにも」
「それは別に仕組まれているんじゃなくて、単に、姫が王子のことが大好きなだけだにゃ」
「……だったら、猶更よ」
アスカは昂然と顎を上げて、宣言する。
「バカな
◆
翌週月曜日、2年A組担任教師の傍ら、黒板の前に立つ、二人の少女があった。
第壱中の制服に身を包んだ、眼帯の少女と、メガネの少女。
─式波・アスカ・ツェッペリン
─真希波・マリ・イラストリアス
黒板には白墨でそう書かれており、実際にも二人はそう名乗った。
「……何なのよ、あれは……アタシなの……」
「アスカが二人……」
アスカとシンジの愕然とした声が、響く先も応じる相手もなく、教室の床にそのまま零れ落ちた。