東京都立呪術高等専門学校に入学して、早いことで数ヶ月。緑が生い茂り、青空には入道雲。蒸し暑さで気が滅入る。
ーーーー呪術師の夏が始まった。
「繁忙期で忙しい五条さんたちに変わって今日から数日間臨時教師になります、灰原雄です!
よろしくね!」
現れたのはたった1日だけの恩師。恩を仇で返してしまったと言うのに笑って「仕方ない!」と笑ったその人は、僕を見つけて目を輝かせる。
「久しぶりだね、乙骨くん!
元気そうで何よりだよ!」
「お久しぶりです、灰原さん。その節はすみません……。」
灰原雄さん。最初に僕に呪力の制御を教えるために教師になってくれたのだが、僕のせいで大怪我を負ってしまった。
「気にしない気にしない!
あれは僕の力不足の責任だからね!」
これから忙しくなるよ!
そんな灰原さんの言葉通り、夏はひたすら忙しかった。西へ東へ駆けずり回って、北へ南へ飛び回る。
ヘトヘトになりながら学校へ戻る。夏休みなんてものはなかった。
夏の終わりに近づいて、なんとか少し落ち着きを取り戻し始めた8月の終わり。
「や、憂太。なんか疲れてる?」
「夏油先生!」
約三ヶ月ぶりの先生との再会。「どうしてここへ?」と聞けば、気まずそうに頭をかいた。
「実は私もここの教師なんだ。兼業しすぎてなかなか来れないんだけど。」
ソレはソレでどうなのか。「呪術師と、教師と、革命家と、予備校の理事長と、教祖と……」と指を折っていく彼に胡乱な視線を送る。というか、教祖って何?
「そうだ、すこし話をしようか。
私もね、昔ここで先輩と語り合ったものだ。飲み物奢るよ、何がいい?」
「えっと、じゃあお茶を……。」
「ん、了解。」
がこん。自動販売機にペットボトルが落ちる音がやけに反響する。「麦茶でよかった?」と差し出され、「はい、ありがとうございます。」と受け取る。
夏油先生の手には、ブラックコーヒー。かしゅ、とプルタブが開けられる。
数秒の沈黙。
「もう、呪術の世界には慣れた?」
「えっと、……はい。」
慣れた、のだろう。最初はどうすればいいのか分からなかった。世界に存在していいのかわからなくて、閉じこもって。
「(でも、今は……)」
生きていいって、自信が少しだけついた。
そんな自分語りを「うんうん」と聞いてくれた夏油先生が「君は居場所を作ったんだね。」と微笑む。
「それで、悩み事は?
ソレが理由じゃないならなにかな?」
「えっと……」
口籠り、躊躇う。一拍置いて、唾を飲み。決意。
「……同じ呪術師なのに、なんで家族は冷たいんでしょうか。」
「ああ、真希のことか。」
「!」
言い当てられて驚く。夏油先生はコーヒーを飲みながら遠くを見つめていた。
「彼女の身の上は複雑だろう?
まあ、私自身、彼女の境遇には少し
一瞬滲んだ嫌悪。隠すようにはめられた笑顔の仮面。
不快の示すところがどこにあるのか、自分にはわからない。でも、きっと。夏油先生のことだから禪院本家へ向けたものだろう。
「その義憤は正しい。君の家庭環境を鑑れば、到底納得できるものじゃないだろう。」
非術師の両親に、非術師の妹。共感者がいない世界で、里香ちゃんだけが光だった。
真希さんの世界は、僕とは逆。見える中で1人だけ見えない。
それでも、見えないものを見ようと、理解しようと足掻いて、己を認めさせるために努力する真希さん。
ソレを理由に虐げることが、僕には理解できない。
「なあ、憂太。君はどう思った?」
ひやりと、空気が冷え込む。真夏なのに鳥肌が立って、ピクリと体を震わせる。
「おかしいとは思わなかったか?
なんで仲間のはずの呪術師に背中を狙われることを恐れる必要があるんだ。」
淡々と、夏油傑は言葉を放つ。
「おかしいとは思わないか?
なんで守るべき非術師に虐げられる呪術師がいるんだ。」
先生らしからぬ冷たい声。嫌悪しかない表情。
オーラとでも言うべきだろうか、それとも呪力が滲み出ているのだろうか。
禍々しい様相はまさに修羅。
「答えは一つ。そいつらまとめて愛がないゴミ屑だからだ。」
刀のように、鋭く研ぎ澄まされた殺気は、明確に何かの命を狙っていた。
何か言葉を言わなければと思うのに、喉の奥が締まる。音にならない。ぱくぱくと開く唇はさながら池の中の鯉。
「君はとても素晴らしい力を持っている。
……私はね、憂太。大いなる力は大いなる目的のために使うべきだと考えるんだ。」
飢えた時の泥水のような言葉だ。飲みたくないのに飲まねばならぬ。そんな極限状態の救いのような。
心の隙間。人間の「弱い」ところを的確に狙って抉るような、どうしようも無い救済。
「なあ憂太。今の世界に疑問はないかい?
一般社会の秩序を守るために暗躍する呪術師が、同じ呪術師に背中を狙われるという意味不明な状況がまかり通っているんだよ。
ナンッセンス!
……だからね、君にも手伝って欲しいわけ。」
「?
何をですか?」
そう、察していたのだから。ここで聞くのをやめればよかった。だけど僕は続きを促してしまって、先生の【本性】を知ることになる。
知ってしまえば後戻りなんてできなくて。知って仕舞えば、考えずにはいられない【毒】のような思想。
「この世に蔓延る外道畜生を皆殺しにして、清く正しい呪術師や善良な非術師が生きやすい世界を作るんだ。」
そんな陳腐で、ありふれたような。しかし実現なんて到底考えることはない子供の夢のような。感情論で、理想論のような。
思考回路が停止する。
「清い水にこそ美しい生き物が住み着く。
しかし残念ながら呪術界と言う水槽はドブ川のように濁っている。腐ってるんだよ。
浄化するには革命という劇薬が必要だ。」
歌うように、言葉が流れる。聴き心地の良いような響きの下に、悍ましい邪悪を孕んだ言葉が。
「愛せない人間に価値などない。
愛すべき善良な非術師はその善良さに陰りを見せぬように守り慈しみ、若い術師は教育して伸ばし、美しいまま成長させる。そして理想を体現する。
____ね、素晴らしいと思わないかい?」
この人は、本当に夏油傑だろうか。夏油傑の皮を被った別人と言われた方が納得できる。
僕の知る夏油先生は、過激な一面もあるけれど愛を信奉する穏やかな人だった。
____その、はずだ。
「……過激ですね。」
「ふふ、そうかもしれない。悟にも諭されてるんだ。笑えるだろ?」
それでも。美しい世界を作るために、ゴミは
これは強者の義務だ、と。
語る姿はどこまでも少年のように無邪気だ。
「愛を免罪符にするのは間違ってると思います。」
「愛のためには多少の暴虐も必要だ。」
「でも僕は、愛に責任をなすりつけるのは嫌だ。」
「なすりつけてなんていない。責任は背負うものだ。愛を実行するためには、それ相応の責任が発生する。」
「それでもっ……。」
言葉が回る。から回る。
「それを良しとしたら、何を愛してるのか分からなくなってしまいそうだから……。」
「……へぇ。」
そらされた瞳の黒は、影にって
「はは、そうか。憂太の目には、私はそんなふうに見えているんだね。」
滑稽なことだ。先生は嘲笑う。自嘲する。
「
ありがとう、少し目が覚めたよ。私は盲目になっていたのかもしれない。」
「(ああ、よかった。元の穏やかな先生だ。)」
安心は束の間。暗く澱んだ瞳が三日月に歪む。
「それでもね、憂太。君もいずれ知ることになるだろう。
この世界の醜さを。歪さを。
その時に、私の言葉を思い出して欲しい。
____人間が不条理をねじ伏せ、前進するために必要なのは【愛】しかないのだと。」
「おーい、憂太!」
遠くから聞こえたパンダくんの声で「はっ」とする。「そろそろ任務行くぞ!!」と呼ばれて「うん!」と返事を返す。逃げられると、ホッとしてしまった。
夏油先生が「頑張れ」と笑う。よかった、いつも通りの穏やかな先生だ。
さっきまでの怖い先生が夢のように消えた。
最後に。先生が僕の耳元に手を当てて、子どもの内緒話みたいに囁く。
「返事はいつだっていい。君だって、高専に通っていれば嫌というほどわかるだろう。
今年の一年は粒揃いだと聞く、いい仲間になれたんじゃないか?
いつか君も、私の理想に共感してくれる日が来ると思うんだ
もちろん、必ずしも私に追従しろなんて傲慢なことは言わない。
私についていけないならば悟について行くのもいい。
私と悟の思想は似ているようで少し違うから、革命派に共感できなければ革新派に行けばいい。
それでも共感できないようならば、自分で新しい道を切り開くのでもいい。
私達は君の選択を否定なんてしない。君の決定を尊重する。
ただ、覚えていて欲しい。保守派と中立派は確実に君の敵だ。」
先生の言葉は、まるでタチの悪い油汚れのように僕の心に「べったり」と残り続けて、そして____。
「なるほど、夏油先生が言ってたのは
【記録____2017年12月24日】
「腐ってる。根本から変える必要があるな。
とりあえずお前は____……」
【特級過呪怨霊 折本里香。
二度目の完全顕現】
「ブッ殺してやる。」
先生の黒が、僕の黒に混ざって溶けた。