「やあやあやあやあ夏油くん!
ちょうどいいところに来たね、ちょっとお話しようよ!」
「げ、吉野先輩。」
2006年、六月。
雨がジトジトと降り注ぐ、湿度100%のただでさえ鬱陶しい一日が、余計鬱陶しくなった瞬間だった。
先輩の約一ヶ月にわたる長期任務終了から数日。やたらといい笑顔の先輩に嫌な予感しかない。
これは惚気られるな、と早々に自分の未来を予見した私は、なにも言わずに携帯ゲームを起動させた。
「〜〜でね、凪さんはいつも綺麗だけど、今日は本当に輝いているんだ! ああ、結婚してから一年五ヶ月と四日記念日とか作ったほうがいいかな?
順平をその腕に抱く姿は聖母マリア、いやそれ以上!
おんぶ紐で順平を背負って配膳してくれる姿は天の使いにしか見えないね。
ああ、三週間と三日ぶりの凪さん、愛しい愛しい僕の凪さん。仕事長引いて夜遅くに帰宅することになったのに、起きて僕を待っててくれて「おかえりって言いたかったからね。」って微笑んでくれる人を天使と言わずなんという? ……女神か。
こんな素敵な人が僕なんかのお嫁さんでいいのか……? 幸せすぎるぞ……?
いや、僕以外が凪さんと結婚するなんて認めないし絶対に妨害するけれど。呪いまくって破局させるけど。
ま、凪さんが選んだ男は僕だから誰も呪わないけどね。ふふ、幸せすぎてどうにかなりそうだ。今ならデコピンで特級呪霊祓えそう。
これは愛だね。愛でしかないね。
やはり愛は無敵! 愛さえあればなんでもできる! 黒閃5連発は堅いね!」
「はあ。」
長い。うざい。面倒くさい。
「それで、なんの用ですか。」
「ああ、ごめんね。僕と夏油で合同任務が回ってきてね。
聞いてくれよ、また長期出張なんだ。
また、家に帰れない日々が始まるんだ。」
終わったと思ったらまた始まった。クソすぎる。先輩の長話は止まるところを知らず、時折挟まる「聞いてるか、夏油?」の言葉に「はい、聞いてます。」と一言挟むだけの作業を再開する。
「はー、まったく。この業界は非術師家庭出身者に対して当たり強くないかな。
僕、この間も出張だったんだよ。しかも五日だ。五日も!凪さんの顔を見られず! 切ない夜を過ごしたと言うのに!
帰ってきたと思ったらまた出張だ。新婚に対して当たりが強すぎる!!」
「新婚って、四年目でしょう。」
「籍入れてからはまだ一年しか経ってない!
順平に顔忘れられたらどうしてくれるんだ!」
「いや、流石にそれはないですよ。」
「独身のお前に何がわかるんだ!!」
ああ言えばこう言う、本当にこの先輩はめんどくさい。カチカチと携帯をいじるが、それすらひったくられた。
「ああ、順平。愛しい愛しい可愛い僕の息子。
どう夏油、順平は本当に利発そうな顔をしてるだろう? 将来はノーベル賞を取るかもしれない。」
「そこは呪術師じゃないんですね。」
「あー、ダメダメ。呪術師なんて絶対ダメだ。
「汚い」「きつい」「危険」「帰れない」「厳しい」「腐った上司」と6K極めてるクソ職業なんて順平に相応しくないよ。給料以外いいとこがないぜ。
もっと順平には誰が見ても幸せ〜って感じの、いい職種についてもらいたいな。」
「後輩の前で夢も希望もないことよく言えますね。
呪術師は非術師を守るためにいる高尚な職業ですよ。」
「僕は『凪さん守るついで』ぐらいにしか思ってないけどね。
そもそも動機が金のためだ。」
「先輩は不真面目ですね。」
「真面目すぎるんだよ夏油は。」
ふう、とわざとらしく肩をすくめてため息をつく。流し目ですい、と視界に捕らえられた私は、ほんの少し唇を噛む。なんとなく、先輩の言いたいことがわかってしまうから。
「夏油だって思ってるだろ、こんぐらい。」
「……まあ、ちょっとは。」
「ほら〜! さあ、夏油よ。僕に最近の勤務スケジュール教えてみ?
ちなみに僕は十八連勤だ。」
「私はそこまでは。まだ学生ですし、三連勤ですよ。」
「僕もまだギリギリ学生なんだけどね。出張で?」
「悟と一緒に無人島でした。」
「かわいそうに。」
心底同情します、みたいに口を両手で覆った。イラッとして殴りかかろうとした、その時。
「あ、夏油さんに吉野さんだ!」
「おはようございます!」と、元気な声が溌剌と響く。昼間なのに「おはよう」なんて芸能界みたいなことを叫ぶ後輩が小走りでやって来る。
「七海に灰原か。おかえり、今日もお疲れ様。」
「ただいま帰りました!
なんの話ししてたんですか?」
「ん?
僕たちの勤労スケジュールどうなってるんだ!って話。」
逃げようとする七海の肩に腕を回した先輩が、空いてる片手を軽く横に広げて、肩をすくめるような仕草をする。
七海の顔は「心底面倒だ、逃げ出したい」と書いてあるのが見えるほどあからさまで、それに気づいてるんだか気づいてないんだか、先輩がペラペラ語る。
「僕さ、思うんだよ。上層部は僕たち非術師家庭出身者を軽く見過ぎだ。
等級は同じでも、危険な任務だったり面倒くさい任務は大体僕らに回ってくる。ついでに好きあらば殺しにかかってくる。
エコ贔屓だと思うね、僕は。」
「確かに、私もそれは思います。」
さっきまで物凄く嫌そうな顔をしていたのに、七海がポツリと言葉をこぼす。先輩が七海の肩から腕を外す。
「休みと仕事の量が釣り合ってない。
今日だって二件の任務をこなしましたが、うち一件は愛知県でした。東京より京都の方が近いんだからそっちに行かせればいいのに。」
「ほらね。やっぱりそうなんだよ。絶対嫌がらせされてるのさ!」
ーーーまあ、お前ら僕の派閥の一員みたいに上に認識されてるからなんだけど! と、最後に聞き捨てならないことを言った先輩。反論を言わせる前に言葉が重なる。
「まったく、この調子じゃ僕ぁ使い捨ての捨て駒だね。
過労死ルート一直線だ。凪さんと寿命を迎えるまで死ぬつもりはないけどさ。」
「愛は無敵の呪いだからですか?」
「わかってるじゃないか灰原!」
「ちょっと待ってください、なんですか先輩の派閥って。」
七海が冷静につっこんだ。私は「ナイス」と七海に対して指を振る。吉野先輩がキョトンと目を見開いて、「僕、派閥とか作ってないんだけどさあ」とぽつりと溢し……
「んー、革新派みたいな? いや、あえて言うなら革命派?」
なるほど、それは目の敵にされるだろう。
だけどあながち間違ってもないかな、なんて先輩は言って、いつもの気の抜けるようなヘラヘラ笑いとは打って変わって真剣な眼差しになって、はっきりと告げた。
「なあ、夏油。七海も、灰原も聞いてくれ。
僕はね、呪術界での非術師家庭出身者の立場を向上させたいんだ。」
ごくりと、知らぬうちに唾を飲み込む。本気ですか、と聞かずともわかる。先輩は本気だ。言葉の意味がわからないほど、私たちだって馬鹿じゃない。
「べつに、御三家に匹敵する権力を与えろなんて言ってない。ただ、呪術師家庭出身でも非術師家庭出身でも平等に接しろってだけだ。
たしかに英才教育をするわけだから、旧家が優秀な呪術師を輩出するという理屈には納得する。けれど、だからと言って非術師出身者が弱いわけじゃない。
そもそも、貴重な人材を割り箸みたいにぽいぽい使い捨てるんじゃねーよって話だ。」
「なあ?」と振られて、「まあ、はい。」となんともいえない返答を返した。先輩は気にせず勝気に微笑む。
「非術師出身の呪術師はどっちの世界でも生き辛い。
見える世界でも、見えない世界でも。
お前らも経験あるだろ?」
「まあ……」
そう、苦い顔をした私たちに、先輩は「だよなあ」と笑った。と、言っても。苦笑いだったのだけれど。
「まあ、非術師の反応も間違いではないし、悪くもないんだよ。
なんたって見えてる世界が違うんだから。だから、相互理解は難しい。
親が現実主義者な連中だったら、異常者扱いされて精神病棟行きだね。
でも、中には凪さんみたいに素晴らしい女性だっている。見えないのに信じて、笑って、僕らを愛してくれる人もいる。
なら、せめて。見える世界が同じ奴らがいる
さらりとねじ込まれた惚気。やはりまともなこと言っても吉野先輩は吉野先輩だ。
「それに、難しいことでもないんだぜ?」と、さらりと言い放つのも。
「現在日本にいる特級呪術師は三人。僕、五条、それから九十九さんだ。
でも九十九さんはどこにいるのかわからない高等遊民だから、実質僕と五条の二人だけ。
夏油も特級に相当する実力だけど、昇格が見送られてるのは何故だと思う?
お前が非術師家庭出身だからだ。栄えある特級呪術師の三分の二が非術師出身なんて、御三家の面目丸潰れだからね。」
突然褒められるのは少し気恥ずかしい。でも褒められて照れたと思われるのは癪なので「それはどうも。」と作り笑いを浮かべる。
でもそれも要らぬ心配だったようだ。先輩は私の様子なんて気に求めず、大統領演説みたいにガンガン言葉の弾丸を飛ばす。
「だけど、これはチャンスだ。
非術師出身の術師の強さを知らしめるのに、僕たちほどいいコンテンツはない。
僕たちこそが非術師出身の呪術師の希望の星なんだ!」
「大袈裟な。」
「大袈裟? どこがだよ。」
言葉の通りさ! 先輩が今日一番調子を上げて、腕を振り上げる。私の呪霊操術の可能性から、今後の展望。他の一級と比べてどこがどう「良い」だの、ベタ褒めだ。
これには流石の私も取り繕えなくて、顔が熱くなるのを感じた。
七海と灰原の視線も痛い。 七海の目は「ご愁傷様です」と言いたげだし、灰原なんて「さすがです夏油さん!」なんてキラキラさせている。
「もうやめてくださいって。」
「目立ちたがり屋の派手好きのくせに、何照れてるんだ。」
「また悟ですか。」
「五条も言ってるけどさ、実際そうじゃないか。自分だって「一級なんかじゃ物足りない」と思ってるくせに。」
う、と言葉に詰まる。まあ、そうだけれど。他の一級に比べて、私の方が頭一つ二つ優れているな、と言う自負がある。自意識過剰ではなく本当のことだ。
だが、自分で思っているのとそれを他人に言われるのとでは、全然違う。
「さっさと上がってこい、夏油。妨害工作になんて負けるな。
一緒に世界を変えよう、息苦しい水槽を息がしやすい水槽に変えるんだ。
これは、そう、革命だ!」
「……簡単に言いますね、吉野先輩。」
「言うだけならタダだ。まあ有言実行するけれどね。
七海も、灰原にも言えることだ。一級に上がってこい。僕が推薦したいと思うほど強くなれ。
お前らが上に上がってくれば、もっと僕たちの声は大きくなる。」
先輩の手が、前に出された。円陣を組むような、部活動の試合みたいな、青臭い仕草が小恥っずかしくて、でも悪くない。
「いいですよ、すぐに上がってやりますよ。」
「じゃあ、僕たちも一緒に革命します! ね、七海っ!」
「革命って……あなたのそれはクーデターでしょう。まあいいですけど。
先輩の意見には同意すべきところがありますし。」
先輩の手の甲の上に、一つ、また一つと手のひらが重なる。四枚重なった手のひら、嬉しそうに笑った吉野先輩。
「よし、今から僕らは運命共同体だ。僕らが生きやすい
「「おーー!」」
「……おー」
天井に向かって振り上げられた手のひら。
灰原は先輩の音頭に元気よく返事をした。私は悪ノリするような気分で乗っかって、七海だけ恥ずかしそうに顔を伏せながら小さく「おー」と言う。
「僕が直々に稽古をつけてあげよう。喜べ、今日から君らは愛の伝道師・吉野公平の弟子だ。
愛を学び愛に生きて愛で持って強くなろう!!
黒閃の連発記録更新も余裕だね!」
「はい、よろしくお願いします!」
「不名誉な称号なのでお断りします。」
「言ってやるなよ七海。」
「あれ、夏油と吉野先輩じゃん。
こんなところでナニしてんの。」
ふと、第三者の声が割り込む。少しハスキーな女の声は傑に聞き馴染みのあるもの。
タバコの煙に振り返る。案の定、校舎内で歩きタバコをする硝子の姿がそこには合った。
「やあ、家入。今僕らは素晴らしい理想をーーー」
「任務は?」
食い気味に、言葉を遮られる。「補助監督が探してたけど。」と付け足された言葉に、先輩がポン、と手のひらに拳を打ちつけた。
「あ、忘れてた。」
集合に大遅刻した私たちは補助監督に大目玉を食らった。