後半戦開始です
先輩は、携帯の画面を見せて不恰好に笑う。明らかに引き攣ってて、無理矢理笑ってるとわかる笑い方だ。
「おかしいな、僕の携帯って呪具だったっけ?」
「……。」
そんな分かりきったことを言うのは、きっと現実逃避に違いない。先輩らしくない挙動を、私は呆然と眺めていた。私だって、現実逃避をしたかった。
「なあ、夏油。これってなんかの悪い夢か?
こいつら呪霊じゃないよ。いや呪霊だけど、人間だ……っ!
どういうことだ。僕たちは何と戦ったんだ?
僕は今、何を殺したんだ!?」
「そんなの、私だって知りたいですよ。」
投げやりになりそうになるのを、グッと堪える。今ここで投げ出して、知らないふりをしたら。きっと、絶対に後悔する。それだけは間違いないと、私は確信していた。
「だから、知りましょう。ここで何があったのか。」
「……研究資料か。」
「はい。」
呪霊による捜索と、人力の捜査。
テストルームのパソコンはまさに情報の山だ。殺した呪霊に関するものと思われるなにかの測定値がずらっと並んでいて、だけどそれが何なのかはわからない。
パソコンを一台一台電源を入れて、調べた。中身は一つ一つ違った。これは、個体ごとにパソコンを分けていたのかもしれない。
そんな作業を続けて、十数分。もしかしたら数十分かもしれないし、数時間かもしれない。時間を確認するのすら惜しかった。
「先輩、これを。」
とうとう決定的なものを見つけて、私は震える声で先輩を呼ぶ。
パソコンに刺さったままのUSBのデータだった。何でそれだけつけっぱなしだったのかわからない。回収し損ねたのかもしれない。だけどお陰で全てわかった。
この施設の実態も、あの呪霊のような何かが何なのかも。とても、信じ難い内容だったけれど。
「資料を持ち帰れとのことでしたが、これが上が求める資料ならば、そんなことって……っ!」
おもわず、デスクを殴った。行き場のない怒りを、どうにかどこかにぶつけたかった。こんなことしても意味はないのに。
「呪霊から術式を抽出して移植する実験、『改造人間計画』……ね。」
何がバイオテクノロジーの研究所だよ、と先輩が吐き捨てる。同感だった。
頭の悪い妄想みたいな内容だと、心の底から思った。ふざけるなと、腹の底から吠えた。
呪霊から術式を抽出すると言うのも、その術式を他者に移植するというのも。
手に負えなくなった【失敗作】を呪霊と偽り、私たちに処分させたのも。
真実が全て、親指と同じぐらいの大きさの媒体に詰まっていて。喉がカラカラ乾いて、胃のあたりが不快感を訴える。
ああ、『歴史のある』呪術師の家からしたら素晴らしく有用な実験なのかもしれない。
呪霊によっては強力な術式を持つ者がいるのだから。少ないけれど、領域展開ができる呪霊だって存在する。
知っていたさ、呪術の世界が「クソ」であることぐらい。
でも、こんなのってないだろう!
そもそも呪霊を調伏する段階でうまくいってないじゃないか。そんな呪霊から術式のみを分離して、さらにそれを術師に移植する、なんて……。
「(私の呪霊操術なら、できるかもしれない。)」
ふと、思い浮かんだ発想は酷く魅力的に思えた。
だが、同時に吐き気を催すほど悪辣だった。気色が悪い。呪霊の術式を我が物にするなんて。
「(だが、それができたら……)」
悟や吉野先輩に並び立つ、特級呪術師として恥ずかしくない実力なんじゃないか?
どうしようもない誘惑に心が揺れる。破り捨てるべきなのに、食い入るようにそれを眺めていた。
だから、私は。吉野先輩の変化に気がつかなかった。
「蜃、氷月、織姫。」
呼び出された式神は見慣れたものだった。だが、規模が段違いだった。
どさどさと召喚されて、先輩のふくらはぎほどの山となった蛤。
数が多すぎてもはや集合体のようなクリオネ。
悠々と大気を泳ぐリュウグウノツカイが数匹。それだけが美しく漂っている。
「織姫は補助監督を殺してから、まだ生きている被害者を捜索・保護しろ。いいか、被害者だけだ。補助監督と研究員の方は確実に殺せ。間違っても研究員は保護するな。
蜃と氷月は言われなくてもわかるだろう、やれ。」
「何をしてるんですか、吉野先輩!」
先輩はなにも答えない。ただ、冷めた眼差しで私を見据えただけ。
「夏油はそこで見てろ。」
「何をするつもりですか。」
「何って、わかりきったことを……。」
しんと、よく砥がれた日本刀のような鋭さだった。鋭利で、ぬらりと濡れたような怪しい輝きを携えた瞳。
血の気が引いて、紫色の唇がゆっくりと動く。
「皆殺しだ。当然だろう?」
当然、なのだろうか。違う、そんなわけがない。だけど、言葉は出てこない。先輩は、式神に指示を出しながら私に語り続ける。
「僕は許せないんだ。
このふざけた実験場も、それをやった研究者も。」
「呪術規定違反です。
呪詛師になるつもりですか。」
「はは、呪詛師? どっちがだよ。」
先輩の瞳にハイライトがなかった。昏い色の瞳が私を写す。
「なあ、夏油。僕がすること、本当に間違ってると思う?
非術師出身の術師で人体実験する奴も、非術師拉致って呪霊の餌にする奴も、生きてる価値ある?」
「それ、は……」
ない、と。心では思った。そんな奴らに生きてる価値はあるのか。守るべき非術師を、守るべき子どもを塵芥のように消費する奴らは、呪術師ではなく呪詛師じゃないか、とも。
「こういう頭が化石な旧体制の奴らがいるから、この世界は腐るんだ。
一つ潰したところで意味はないかもしれないけれど、人材が減ると言う意味では意義があるだろう?」
「……。」
「大丈夫。証拠は残さない。」
押し黙る傑に何を思ったのか、先輩が優しく肩を叩く。
「……残穢が残るでしょう。」
「ああ、そこも問題ないんだ。まあ、見てくれよ。」
ごろりと、巨大な蛤がタイルの上を転がる。知っている。これは先輩の式神の『蜃』だ。毒の霧を出して内側から破壊する凶悪な式神は、口を開けて転がっている。
「“僕の残穢だけ吸い込め、蜃”」
ずず、と。蛤は動かない。毒の霧も吐かない。でも、呪力を、残穢を、吸い込んでいる。これは知ってはいけないことだと一瞬で分かった。
「……呪詛師向きの能力ですね。」
「うん、だから秘密だよ。」
「……。」
私の沈黙をどう捉えたのだろう。おそらく、先輩はそれを黙認と見做した。だから「やれ」と一言告げる。私はそれを止めずにいた。
阿鼻叫喚の地獄が始まる。四方八方から悲鳴が聞こえた。
私と話している間に式神を配置していたのだろう、とアタリをつける。用意周到すぎて、先輩の本気を理解した。
ああ、どうすればいいのだろう。思考がまとまらない。先輩は、非術師も術師も関係なく研究に関わったものどもを鏖殺している。見殺しにした私も、共同戦犯だ。
気分が悪くなって、吐き気が込み上げてくる。先輩がそんな私の背中を優しく撫でた。
「夏油はなにも気負わなくていいんだ。これはあくまで僕の独断専行。まあ、もし何か言われたら“呪詛師を討伐した”とでも報告しよう。
……ああ、だめだ。そしたらこの研究を提出しなければいけなくなる。
証拠は燃やさないと。こいつらが何してたのか、他の奴らに知られるわけにはいかない。
施設に火をかけるか?」
先輩がぶつぶつと独り言ちる。私は、そこまでされてやっと覚悟を決めた。
「……私がやります。」
ここまで来たら、私だってもう先輩の共犯だ。先輩の虐殺を黙認したのだ、当然だろう。
補助監督だって殺した。あの人がこの施設の関係者だろうが無かろうが関係なかった。証拠を残してはいけない、完全犯罪のために殺したんだ。
共犯ならば。中途半端に関わるのではなく、やり遂げなければ。線引きを引いていたそれを踏み越える行為を「一線を越える」と言うが、本当にそんな気分だった。
足がすくんでいた。初めて呪詛師を殺した時でもこんなことはなかったのに。ほんの一歩。前に踏み出すことに、ひどく時間がかかった。
先輩はそれを待っていた。静かに。
「いいのか、夏油。」
「……これは、呪詛師の討伐です。呪術師じゃない。」
火を吐ける呪霊を呼び出して、施設の至る所に配置した。これで、先輩が保護した被害者を全て救出出来次第、すぐにでも燃やせる。
「これで共犯ですね、私たち。」
「あっはっは! そっか、夏油は共犯者か。
いいな。あらためて、今日からよろしく頼むぜ、運命共同体。」
「ええ、先輩。」
燃えて赤く染まる世界の中で、私たちは同じ十字架を背負った。