そよ風が吹き、近くの草木を揺らす。周囲には誰もいない。環境音しかしない、静かな場所。
その日、そのとき、レムナンはルゥアンの中でも、街灯りや人々の喧騒から離れた場所にいた。
人混みに揉まれた末に、たどり着いた場所。人のいない草原だ。
時刻は夜、仕事を終えたレムナンは、ただ星々を見ていた。特にそのときに抱いていた感情はない。ただ、今日も無事に生き残れたらしい、ということをぼんやりと考えていただけだった。
しかし……その日は、無事には終わらない。突如としてレムナンの目の前に発生した存在は、レムナンの平穏を脅かす化け物だった。
異星体グノース、正体不明の存在。姿形はうまく把握出来ないのに、そこにいることだけは分かる不気味な存在。
グノースは、宇宙中に知れ渡る危険な存在である。人間がグノースに遭ってしまったら、間違いなく襲われる。運が良ければ助かるが、運が悪ければ……
そこまで考えたレムナンはその場から逃げ出した。グノースの移動速度が速いわけではないが、いかんせん数が多すぎる。このままじゃ確実にジリ貧だ。生き残るためには、逃げ切る手段を考えなければならない。
運の悪いことにレムナンが乗っていた宇宙船は、もう別の星系へと向かっている。次の船が来るまで確実に一日はかかるだろう。それを悠長に待っていたら手遅れになるのが目に見えて分かる。
あちこちから人の悲鳴が聴こえる。つんざくようなそれを聴かないようにして、レムナンは走り、周囲を見渡す。近くに宇宙船が見えた。それに乗り込むことが出来れば或いは……!
希望が見えたせいで、気持ちが緩んでしまったのだろう。それに気づくのが遅れてしまった。
「あっ、危ないです……!」
酷く狼狽した声で、レムナンはやっと現状に気がつく。自分の目の前に迫るグノースの群れ。
駄目だ、もう助かりようがない。そんな諦観の念が湧き、レムナンの足は止まってしまった。
しかし、レムナンは誰かに押されて、難を逃れる。そして、今までレムナンがいた場所には、グノースが集まっていた。
グノースは、人々を狙う。それはこの宇宙の皆が知る常識だった。
狙われた人間は、グノーシアになる。それか、きっと耐えがたいほどの怪我を負うだろう。
他人のことなんて、この状況では二の次。その上、頼んでもいないのに突き飛ばした人を助ける意味なんて存在しない。それが当然のことなのに、レムナンは……気がつけばその群れに向かい、自身を逃がそうとした人物の身体を抱きかかえていた。
至るところが傷だらけで、無事なところが存在しないほどの大怪我をしているその人物。血に塗れてどんな顔なのかさえも分からない。でも、まだ息をしている。その事実に安堵し、レムナンは今後を予想する。
グノースはレムナンを殺そうとするだろう。そう思い、目をつぶったのに、痛みは依然として訪れなかった。
レムナンは目を開けるが、その体には傷一つつかなかった。その代わりに、グノースの姿は消えていた。
レムナンは、腕に抱えた人物を見る。黄金に輝く瞳で、ただ眺めた。そして、少し逡巡した様子のち、その人物を背負い、走った。多くの人がいるところに行かなければならない。だから怯えている振りをして走った。走って走って、息切れして、それで……
「そこの君たち! 早く乗って!」
「あ、あの、でも……この人」
「これは……手を貸すからとにかく早く!」
宇宙船に乗り込み、幸運にも生き残れた。
ルゥアン星系から、命からがら逃げ出したレムナンたち。船内にいる人数はレムナンを含めて15人。グノーシアが大量発生したことを考えると、こんなにも多くの人が生き残ったのは奇跡のようだった。
「……のやつは…大丈夫か……?」
「そう……きっと……」
乗員たちは浮かれているのか、パーティーのように色んな星のごちそうをテーブルへと乗せて、談笑している。無事に生き残れたと、安堵する彼ら。それをしらけた目で眺めながら、レムナンは今後について考える。
グノーシアは、未知の存在だ。未知の存在だった。しかし、レムナンは知っている。グノーシアに存在を消されることは恐ろしいことではない。むしろ、それはきっと素敵なことに違いないと、彼は考える。
レムナンはグノーシアだ、この船内から一人残らず消して、そしてこの船を支配して誰もいない深宇宙に向かうのも良いのかもしれない。
レムナンは心の中でほくそ笑む。
「……ありがとう」
聞き覚えのない声が聞こえた。振り向くと、レムナンにとって見覚えのない顔の女の人がいた。
ジナだ。少し顔色の悪そうな彼女は、レムナンの目の前の席へと腰掛けて食事を置く。
「な、何が……ですか?」
「助けてくれた、から」
レムナンは不思議そうにジナを見る。理由を聞いたところで、よく分からなかった。
「私はこの船から出なかったから……だから、ありがとう」
追加で伝えられた内容を聞いても、レムナンにはジナの言いたい趣旨を完全に理解することは叶わなかった。
しかし、ジナの中では、もう終わった話として処理されたのか、それ以上なにかを告げることはなかった。
それからレムナンは、ジナと自己紹介を済ませ、食事を渡されて食べて……そしてSQに、マナンに再会してしまった。再会したという事実に気がついたのは、マナンだけだ。レムナンは、猛烈な寒気に襲われこそはしたが、その原因までは知ることは出来なかった。
ただ、SQからグノーシア仲間だと告げられて……そして、その場は終わった。
レムナンが少し休みたいとLeViへと告げると、1人用の部屋へと案内された。机の上に荷物を置いて目をつぶると、少しは気が楽になるようだった。
そして、今後について考える。
大勢の人間がいるような場所で乗員を消したら、乗員はレムナンをこの船から追放しようとするはずだ。今はレムナン以外同じ部屋にいるのだから、消したらバレてしまうのは明白。それなら……空間転移をするときにやるのがいいのかもしれない。
レムナンは今後の予定を立てたあとに、思考の外へと追いやっていたことへと目を向ける。
この船にはひとり、重傷者がいる。レムナンを助けようとした愚か者。結局、その人物の顔を見ることもなかった。だからレムナンは、その人物がどんな顔をしているのか、多少の興味が湧いた。
『空間転移を行います。乗員の皆様は……』
LeViのアナウンスを聞き、寝たフリをしてやり過ごし、そして空間転移の際に動き出す。
レムナンは個室を出て、その人物がいる医務室へと向かった。まだ治療中だと医療ポッドには書かれていたが、蓋を開ける。
その中にいたのは、どこにでもいるような、目立った特徴のない人物だった。
その人物の顔は、苦痛で歪んでいると想像していたのに、ひどく穏やかで──まるで、レムナンを助けられたことを、喜んでいるようだった。
レムナンは、驚いたようにその人物に触れる。しかし、時が止まった世界の中では、脈を確認することも息をしていることを確認することも出来なかった。しかし、懸命にポッドで治療されていたことからして、目の前の人物は、まだ生きているらしい。
それが、レムナンには怖かった。
「……貴方は、怖くない……ですか?」
結局声を聞いたのは一回だけ。人となりも、どこの星出身なのかも分からない。顔だって、今知ったばかりだ。
人に見られていないうちに消す機会はあるはずだった。それなのに、こうしてまだグノースのもとへと送れていない。
一度でいいから話してみたかった。なぜレムナンを助けようとしたのか、その理由が知りたかった。
結局のところ、ただの他人でしかないその人物が、どうしてレムナンを助けるために動いたのか、それがレムナンには分からなかったのだ。だからこそ、薄気味悪く感じられた。
もし、その人物が問いを聞いたならば……照れくさそうに、レムナンと友達になりたかったからだと伝えるだろう。それでも、もうそれを伝える人はいない。
レムナンは、困惑した様子でポッド内の様子を見る。顔を見たところ、一応傷は塞がっているようだが、元通り歩けるようになるかは分からない。ガワだけは見れるようになっているだけで、内側はまだボロボロなはずだ。歩くには激痛が伴うだろうし、このまま生きるには酷な状況だ。そもそも、目が覚めるかというのもまだ、分からない。
もし、後遺症もなく怪我が治ったとしても、レムナンには……こんな世界で生きる理由なんてないのではないかと思えてならなかった。
そこで、レムナンの脳裏にはある考えが浮かぶ。
グノーシアに消された人は、蓋然計算領域に行けるはずである。だからこそ、そうするのもいいのかもしれないと考えたのだ。その結論にたどり着くのに、時間はかからなかった。
レムナンの目の前にいるのは意識のない人物。そして、この船にいる乗員たちは皆レムナンの行動に気付かない。そのため、レムナンを止める人は誰もいない。つまり……これは、チャンスだった。
目の前の人を消したら、どうなるのか。
レムナンは考えるが、たどり着いた結論はひとつだった。ただ、その人が救われる。それでしかない。ひとつの疑念こそ残るものの、きっとそれは問題ないことなのだと、レムナンは無理やり自分を納得させようとした。
レムナンは哀れむような表情で、その人物の境界に触れる。刹那、その人物はこの宇宙から消え去った。あまりにも呆気なく、その人物がいた痕跡はなくなった。
「よっすレムナン、こんなところにいたんだ……って、もう消したの?」
「レムナン様」
レムナンは、空になったポッド内から声の方へと顔を向ける。
マナンと、もうひとり。ステラがグノーシアであるらしいということを確認し、レムナンはポッド内へと顔を戻す。
「勝手にグノースへと送り届けたのは……すみません。ですが、もう時が動き始めますから……今は、この部屋から出ましょう」
「ええ、そうですね。ですが、レムナン様……次からはご相談くださいね」
やんわりとステラに注意をされたレムナンは、上の空で頷いた。
「……はい」
「……まあいいケド」
いかにも面白くなさそうなマナンだったが、その場は退いてくれるらしい。今日だけは、という前置きが付きそうではあるが。
いつ爆発するともしれない危険物。機嫌を損ねないように行動することが、最善なのだろう。それでも、レムナンは……疲れてしまい、ただ、何が起こるか分からない明日に身を委ねようとした。
──だが、思うような明日は訪れなかった。
存在しえないはずのイレギュラーが現れたからだ。
別の宇宙から現れたユウ。その辻褄を合わせるために、ひとりの人物がグノーシアに消されたという事実は、この宇宙からは消え失せた。ユウという存在が存在するために、同一人物の記録は宇宙から抹消された。だから、乗員の中に残ったのは、船内にグノーシア反応が検出されたという事実だけだった。
しかし、レムナンの中には……どうにも、腑に落ちないしこりが残ることとなった。
──翌日、船内にてグノーシア反応が検出されたためメインコンソールに集まるようにとアナウンスがされた。これからいったい何が行われるのだろう。グノーシア汚染された人間は、この後どうなってしまうのだろう。
きっとろくなことにはならない。でもどうか……酷いことも、出来れば痛いこともしないでほしいとレムナンは願い、メインコンソールへと向かった。
静かに、目立たないように、隅の方へと腰掛ける。
「──よっ、レムナン」
声をかけてきたのは、そこにいたのは。
昨日レムナンを助けた人物が、笑みを浮べて、立っていた。
Day1に続く