それから幾ばくか時間が経過した。
コテージはしんと静まり返っていた。
子供達の騒いでいた声はいつの間にか消え失せてしまい、フロア内は元の寂れた人気の無い空間に満たされている。
フロアの明かりは全て消灯されており、室内は暗闇に包まれていた。
夕暮れ時だった先刻から時間経過したのか窓の外は暗くなっており、故にコテージの中も薄暗い。
「…………」
そっと音もなくとある部屋の扉が開いた。
まるで幽霊が勝手に開けたように、スーッと。
開け放たれた暗闇の奥からは何者かの気配がする。
「…………」
コツん、コツん、と僅かに足音のようなものが聞こえた。
ドアの奥から誰かがゆっくりと出てくる。
音の主は幽霊ではなく、実体を伴った者だった。
しかし、普通の人間でもなかった。
「ヒ、ヒ、ヒ」
くぐもった声が声帯の向こうから発せられた。
不気味な途切れ途切れの笑いが暗闇の中に消えていく。
人の姿をしたそれは、仮面を被っていた。
道化師を模しているような、ピエロの仮面を。
「ヒ、ヒ、ヒ」
仮面の下の服も、道化師の着る格好をしている。
赤をメインとした派手な衣装でまさしくピエロの姿そのものだった。
そして………。
驚くべき事に、ピエロは胸にとある人間を抱えていた。
金髪の髪が道化師の仮面のすぐ下に見えている。
「……………」
両腕で1人の小柄な少女が抱えられて運ばれていた。
既に意識はなく、どうやら眠っているとみられる。
ピエロに抱きかかえられた女児は、先程の来訪者である子供達の1人だった。
やけに大人びた知的な少女、灰原哀だ。
どういうわけか彼女は今眠らされており、この正体不明のピエロに運ばれている所だった。
「ヒ、ヒ、ヒ」
傍で眠る哀を見下ろし、道化師から不気味な笑いが零れる。
コツん、コツん、とゆっくりと足音を立ててピエロは廊下の先へと進んでいく。
コツん、コツん。
コツん。
コツん。
コツ、
ふと、鳴っていた足音が止まった。
ギイイ、と何かを閉める音がする。
廊下の奥に突き当たったらしく、そこからさらに中へ入ったらしい。
少女を連れたまま、道化師は扉の奥へと姿を消していった。
「…………!」
その一部始終を、1人の少女が見ていた。
小部屋のドアを僅かに開けて、彼女はのぞき込むように外をうかがっていた。
「ぁ、哀ちゃん……!」
口を両手で覆い、戦慄と動揺で固まった少女が絶句する。
彼女は哀ともう1人の女子団員である吉田歩美だった。
今し方“目覚めた”ばかりの彼女は、真っ暗になった辺りの様子にまず困惑していた。
さっきまで皆で楽しく食事を取っていたはずなのに、気が付いたら明かりは消えていてどこか別の場所で寝ていたのである。
ここは小さな小部屋らしく、2畳ほどしかないスペースに枕と簡易的なマットが敷いてあり、彼女はそこで眠っていた。
彼女1人でぴったりくらいの狭さなため、当然この部屋に他の子供達はいない。
コナン君や哀ちゃん達はどこに行ってしまったんだろう、と歩美は不安を覚えた。
とりあえず彼女は電気のスイッチを探そうとしたが、どうやらそれらしき物は見当たらない。
焦りが募ってきた所に、部屋の外から足音が聞こえてきたのだ。
部屋の外の物音に気付き、彼女がドアの隙間からそっと外をのぞいた所、あの不気味なピエロが奥を横切っていった。
しかも腕には哀が抱きかかえられており、彼女は眠っているようだった。
「ど、どうしよう……変なピエロさんに、哀ちゃんが連れていかれちゃった」
恐怖を感じて両手の先がぶるぶると震える歩美。
だが、彼女は歯を食いしばった。
(怖がってちゃ駄目…!私が何とかして、哀ちゃんを助けないと……!)
キッと勇気を振り絞り、彼女は小部屋の扉を開けた。
ただし不用意に開けるのではなく、音を立てないように慎重に。
「…………」
先程の不審なピエロのような輩がまだ他にもいるかもしれない。
女の勘ではないが、防犯意識の高い彼女は警戒を怠らず周囲に気を配った。
幸いにも、小部屋の周囲には誰の気配もないようだった。
ゆっくりと部屋の外に出た歩美はほっと息をつく。
(とりあえず、これからどうしよう……。さっきのピエロさんを追うか、それともコナン君達を探すか)
哀を一刻も早く助け出したい歩美は、まずはピエロを追おうかと考えた。
先に皆と合流するのを待ってからでは、哀がピエロに何か手出しされる危険がある。
彼女は今意識を失っており、無防備な状態だ。何かされても抵抗も出来ないし悲鳴も上げられない。
(今はまずピエロさんを追って哀ちゃんを守らなきゃ)
彼女は危険だが1人で道化師の後を追いかける決心をした。
もちろんただ単身で向かうだけでは危ないので、それと並行して探偵バッジで皆を呼び集める形にしよう、と。
「うん……これでいこう。歩美ファイト!」
彼女は自分を鼓舞するように(小声で)意気込み、消えたピエロを追って廊下の先へと向かった。[newpage]薄暗いコテージの廊下はやけに長く感じられた。
明かりがほぼ消灯している影響か、闇が覆い尽くすように歩美の周りを包んでいる。
「こ、怖くなんかないんだもん……!」
不安を隠せない様子の彼女は、しかしそれを振り払うように自身を鼓舞した。
1人きりとはいえ、ここは自分が頑張らなければいけない。
連れ去られた哀を救えるのは今は自分だけなのだ。
(それにしても……皆いったいどこへ行ったんだろう)
心細い中で耐えながら、彼女はふと疑問に思った。
さっきまで一緒にご飯を食べていたはずなのに、気が付いたらいつの間にか別の場所で寝ていたのだ。
哀は先程何者かに連れ去られてしまい、そして他のメンバーも姿が見当たらない。
(そうだ、探偵バッジでコナン君を……!)
一番頼りになる想い人の姿を脳裏に思い浮かべる歩美。
はっと思い出したように彼女は探偵バッジを取り出した。
これで呼びかければ通話できるはずだ。
「…もしもし、こちら歩美。コナン君、聞こえる……?」
声を出来る押し殺して、歩美はバッジに話しかけた。
・・・
・・・
・・・
「………もしもし、こちら歩美。コナン君、聞こえたら応答して……?」
・・・
・・・
・・・
「……うそ、返答がない………?」
いくら呼びかけてもコナンからの声は帰ってこない。
通話自体はちゃんと繋がっているようなのでバッジの故障ではないようである。
だがコナンが歩美の声に反応した様子はなかった。
「私みたいに寝ちゃってるのかな……?そ、そうだよね、きっと」
応答がない事に不穏を感じつつも、それを紛らわすように彼女は嫌な予感を考えないようにした。
とりあえずコナン君はまだ寝ているんだ、という事にして歩美は別の団員に連絡を取る事にする。
「じゃあ、光彦君は………」
次に彼女は光彦に連絡を入れてみた。
声を潜めながら再びもしもし、と話しかける。
・・・・
しかし、結果は同様に無反応。
いくら呼びかけても光彦から返事は帰ってこなかった。
コナンに続いて光彦までも音信不通状態になっている。
「光彦君も出ない……?じゃあ、光彦君も、お寝んねしてるんだよ、ね……?」
苦笑いしながら言う歩美。
だがだんだんと不安が高まり、彼女は心細くなっていく。
残るはあと1人しかいない。
「しょうがない……仕方ないから残った元太君で」
最後に残った元太に彼女は通信を入れてみる。
期待薄でとりあえずバッジに呼びかけてみる歩美。
「……もしもし、こちら歩美。元太君が大好きなうな重が置いてあるのを見つけたよ」
「…………」
「うな重と一緒にメモで『好きに食べていいよ』って書いてあったよ」
「…………」
反応は、なし。
彼の大好物な食べ物と食い気を催す言い方を試みてみたが、それでも彼からの反応は見られなかった。
「うな重で誘っても応答がないって事は、間違いなく起きてはないね……」
うな重に元太が反応しないという事が深刻な事を彼女は把握していた。
そのため、彼の意識も今はまだ睡眠の中のようだ。
「……コナン君、聞こえる?こちら歩美」
彼女は再びコナンに向けて通信を繋いでみた。
しかし、先程と同じく向こうから返答は返ってこない。
「コナン君、大丈夫?もしかしてどこか怪我してたりする…?」
彼女はもしや彼が身体のどこかに怪我を負ったのではと状態を訊いてみるが、やっぱり彼からは何の応答もない。
「……もしかしてコナン君の身にも何かあったのかな……?もしそうだったら、私……」
心のより所にしていたコナンの声が何度呼びかけても聞けず、彼女は不安になる。
彼の身を案じる歩美は、不安感から心拍数が上昇した。
まさかコナン君に限ってそんな事はないはず……。
(でも、青い古城の事件の時はコナン君が襲われて頭を怪我をしていたし……もしかしたら、ほんとに何かあったのかも)
以前少年探偵団として遭遇した事件での事を思い出す歩美。
あの時はまずコナンが犯人に襲われて離脱し、次いで博士まで消えてしまった。
その後元太に光彦までが失踪し、最終的には歩美と哀だけが残って2人で探索して探す形となった。
あの時は光彦が機転を利かせて皆を助ける事で無事事件は解決に至っている。
(今回もあの時と同じような……何か嫌な感じがする)
デジャヴを感じて歩美は肩を震わせた。
自分以外の皆がどこかへ消えてしまう恐怖。
(あの時はまだ哀ちゃんが一緒にいてくれたけど……今は私1人だけ)
3年前は心細い中でも哀が共にいてくれた事で彼女は安心できた。
だが今は違い、その守ってくれる友達がいない。
(弱気になっちゃ駄目。哀ちゃんがいなくても、1人でしっかりしなくちゃ)
不安な心を叱咤し、彼女は気を強く持った。
あの頃はまだ哀やコナンに守られ気質の所があった歩美だが、3年経った今は少し違う。
彼女なりに頑張って心を強く持っている。
「私1人でも哀ちゃんを助け出さなきゃ。そして、コナン君や他の皆も救い出してみせるもん……!」
キッと意気込んだ表情を作り、彼女は廊下を邁進する。
そして、臆せず廊下の奥まで歩を進めた。
暗がりの中、彼女は先程ピエロが姿を消した突き当たりの扉まで到着する。
「………」
ドアの取っ手を握り、歩美は僅かに引いてみた。
開いた隙間から慎重に中をうががってのぞき込む。
見た所、中はこちらと同様に明かりが点いておらず、薄暗い。
しばらくきょろきょろと目で見渡してみると、足下に階段が伸びているのが見えた。
ピエロはここを通って下に降りていったようだ。
「哀ちゃんはきっとこの奥に連れて行かれたんだ……。早く行って助けなきゃ……!」
歩美は意を決してドアを開けて中へと入った。
そして、下に伸びる階段へ足を伸ばす。
腕時計型のライトを点灯させ、彼女は暗がりの中を少し歩きやすいように工夫した。
「よし、これでちょっとだけ明るく………んひゃッ!」
ほっとした瞬間、彼女は声を裏返らせた。
踏みしめていた階段が、急にガクンと下がったのだ。
段状になっていた階段が、突然凸凹がなくなり、滑らかになったのである。
足場の支点が崩れ、彼女はそのまま尻餅をつく形で倒れてしまう。
「きゃア!」
転んだ拍子に彼女は悲鳴を上げた。
そして、そのまま“下へ”滑り落ちる。
階下へ伸びる階段は長く続いており、それがそのまま滑り台のように変形したのだ。
スロープと化した足場を彼女は踏ん張れず、転んだ勢いのままに滑り落ちていく。
「きゃぁアアア!」
勢いよく身体が下へ下降を始め、歩美は恐怖でたまらず悲鳴を上げる。
だが、勢いのついた身体は止まってはくれない。
どんどんスピードを増して彼女は底の見えない下方へと降下していった。
・
・
・
・
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「きゃぁァァーー!、、、ッ……!」
降下し続ける最中、ふと歩美は横目で何かを捉えた。
彼女がそちらを見ると、そこにはピエロの顔があった。
暗闇のスペースから道化師の顔だけが見え、こちらを覗いていたのである。
(あ、あれは、さっき哀ちゃんを連れていったピエロ……!)
脳裏に先程見た道化師がフラッシュバックする。
しかし、気付いたと同時に彼女は思考を中断せざるを得なくなった。
前方に“底”が見えたからだ。
スロープ状の滑り台が途中で途切れており、その先は普通の地面になっている。
このままでは勢いのついたままそこへ着地してしまう事になる。
「あっ、ダメ、と、止まってーーー!」
身体に力を入れて踏ん張って降下を止めようとする歩美。
だが、勢いのついた身体は止まらない。
彼女はそのまま為す術無く途切れたスロープから飛び出し、下の地面に滑り落ちた。