Ankou°˖◝(⁰▿⁰)◜˖ 異世界をゆく   作:かまぼ子ロク助

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第44話 アンコウ、川海豚になる

 アンコウに無駄な抵抗はするなと、おとなしく捕まれと言いつつ、バルモアがさらにアンコウに近づいてくる。

 

 アンコウはこの逃亡期間中、いや、アネサでグローソンの手の者に捕まって以来、散々考え続けてきた。

 

 自分の望む自由について、アンコウはどのような境遇にあろうとも、自由でなければ人生に意味は無いという大前提の元で行動してきた。

 それは果たして正しかったのかと、最近わずかに疑問に思うようになってきている。

 

 今になって思えば、アンコウがこの世界に落ちてきた時に、何の力も無いままに、奴隷となって過ごした一年ほどの経験が、アンコウの心に与えた影響があまりに大きかったのかもしれない。

 

 それまで豊かで平和で自由な社会で生きてきたアンコウが、突然あらゆる自由と人権を奪われ、心身ともに暴力に晒され、人としての尊厳を完全に踏みにじられた。

 その経験が、抗魔の力を得、この世界で冒険者と生きるようになってからも、他人の支配下に入るということを過剰かつ無思考に、反射的に拒否する(かたく)なな心をつくってしまっていた。

 

 しかし、完全に他者からの干渉を受けずに生きつづけることなど、この世界でも元の世界でも、山奥にひとり籠もる生活でもしない限り、客観的に考えれば不可能だ。

 

 ようは、どの程度の他者からの干渉を受け入れ、どの程度の自由と思える状況を確保できるかということが問題なのだ。

 

 現状、グローソン公ハウルという権力者に目をつけられた以上、そう簡単にハウルの手が完全にとどかない場所に逃げることはできないということは、アンコウも認めざるをえない。

 

 そして、そのハウルはアンコウを奴隷にはしないと言った。だだ昔を懐かしむために自分の手の内に置くと言った。

 ハウルは、アンコウの唇を奪い、ケツをまさぐったホモ野郎だが、あれはあの場における一種の脅しのようなものであり、グローソン公ハウルが本気で自分の体を狙っているとはアンコウも思っていない。

 

 無論、権力者の家来となれば、貞操は奪われなくとも、忠誠という名の自己犠牲を強いられる覚悟は必要であろうし、その行動の自由も制限を受けることは間違いない。

 

 ここに至ってもアンコウは考え続ける。あの男の軍門に降れば、どの程度の自由を奪われ、どのような生活の保障が為されるのだろうかと。

 

 アンコウが自分の感情を排除し、自分が置かれた現状を客観的に考察すれば、仮にこのまま逃げ切れたとしても、アンコウがアネサにいたころのような冒険者としての生活にすぐに戻れる可能性は低い。

 それでもアンコウは、ここまで逃げたいという衝動に圧され行動してきた。

 

 そして今、ついにアンコウは追い詰められてしまった。

 

 

「……ちくしょうがぁ」

 

 諦めの心が明らかに芽生えはじめているアンコウに、近づいてくるバルモアが話しかける。

 

「アンコウよ。これ以上貴様のために労力を割く気は私にはない。貴様の言う自由のために死んでもいいと思うのなら、再び逃げるために走ればよい。殺してやる。

 先ほども言ったが、貴様を殺すと判断したときには、私だけでなく、まわりにいる私の手の者すべてが貴様に襲いかかると思え」

 

 冷静な口調であるが、バルモアがアンコウを見る目に殺気を籠めながら、脅し文句を吐く。

 

「くっ、」

 そのバルモアのセリフに、悔しげに口をゆがめたアンコウにむかって、今度は少し殺気をやわらげてバルモアが語りかける。

 

「しかし、アンコウよ。グローソン公爵様に忠誠を誓うということが、なぜ自由を失うことになるのか。私にはわからん。貴様は我が殿の手をこれだけ(わずら)わせたにもかかわらず、殿は貴様を奴隷にはせず、正式な家臣として処遇すると仰せになっているのだぞ。何と慈悲深いことか」

 

 (勝手なことを言うな)と、アンコウは思うものの、もはやアンコウが強気のセリフを吐けるような状況にはない。

 それに、アンコウの心は楽そうなほうへと、徐々に引き寄せられてもいる。

 

「公爵様は、これ以上無用に手向かうようなら貴様を殺してもよいと言った。しかし、おとなしく捕まれば、貴様の身分は保証される。それに心配するな。私の見るところ、殿は貴様を(いくさ)の駒とする気はないだろう。

 フフッ、それに尻の心配もせずともよいと思うぞ。いずれも貴様は、殿のお好みではないからな」

 

 それでもバルモアの言いようは、その真偽に関係なく実にアンコウの神経を逆なでする。

 

「くっ!」

 それでもアンコウは、その怒りをこらえて聞く。

「……ほ、保障はあるのか」

 

「フン!貴様は忠誠を捧げるのだ、保障などあるものか。死地に赴けと言われれば、それに従うが誠の忠臣よ。

 ただ、まちがいなく貴様は奴隷にはされず、グローソンの臣として遇される」

 

「ぐぐっ……」

 アンコウはついに下を向き、口籠もってしまう。

 

 そしてバルモアは、言葉を発しなくなったアンコウの目の前まで歩いてきた。

 しかしバルモアは、殺す殺すとアンコウを脅してはいるものの、本気でアンコウを殺すつもりはない。

 

 グローソン公のアンコウに対する関心は、実際そうたいして高くはない。

 アンコウを殺したところでたいして咎められることはないだろうとバルモアは思っていたが、それでもグローソン公の命令はアンコウを捕まえて来いというものであり、グローソン公ハウルの忠実な僕であるバルモアは、当然その命令の達成を第一に考えていた。

 

 それにバルモアは、アンコウがサミワの砦で為した戦功のことも考慮していたのだ。

 バルモアとしては、どうしてこのような個人的な欲望でしか動かない男が、サミワの砦において、この短期間でこのような立場に就いているのか不思議ではあったが、アンコウは間違いなく褒賞に値する戦働(いくさばたら)きをおこない、サミワの将兵たちの信望を得ていた。

 

 サミワの砦の兵力など高が知れており、ただの戦争享楽者であるグローソン公ハウルなどは、はなから捨て砦としか見ていなかったが、バルモアの考えは少し違う。

 バルモアは此度、サミワの砦の将兵が見せた忠節疑いなき戦いぶりを早々に戦死した砦守将らを含め、実に高く評価していた。

 

 バルモアは、いまさら主君であるハウルの持つ戦闘享楽者的な気質を改めさせようとは考えていない。それも含めて、心よりの忠誠を尽くすべき主なのだ。

 

 ただ、ハウルの忠実な僕であることを誇りとするバルモアとしては、そのようなハウルの行いを補佐することが重要な仕事のひとつであると考えており、ここでアンコウを殺してしまえば、どのような理由をつけても、大なり小なりサミワの将兵の心にグローソン公爵に対する疑念を生じさせるだろうと思っている。

 

 バルモアとしては、サミワの将兵という小勢であっても、これだけの忠節を見せる戦いをする者たちの離間を生じさせるのは、グローソンにとって惜しいことだと考えていた。

 

 それも、こんなどこの馬の骨ともつかない冒険者風情の命ひとつでと思うと、馬鹿馬鹿しくて、バルモアはアンコウを殺す気にはなれなかった。

 

「……しかし、アンコウよ。それが貴様の望みではないということはわかるが、決して悪い話ではないのだぞ。この血なまぐさい世界で、人は死ぬまで生きていかなければならない。貴様に用意されている地位は、他人から見れば決して悪いものでない。

 それに、運良くこの場を逃げおおせたとしても、生涯逃亡者として、周りの目を気にし、逃げ続けなければならないということもわかっておろう。そこに貴様の言う自由はありはしないはずだ」

 

 そして、アンコウの目の前に立ったバルモアは、最後に比較的穏やかな口調でアンコウに語りかけた後、うつむくアンコウの肩にゆっくりと手を置いた。

 そして、何ら感情の籠もらない口調で、アンコウにゲームオーバーを告げる。

 

「アンコウ、捕まえたぞ」

 

 アンコウはバルモアのその言葉をしっかりと聞き、軽く目を閉じて、力なく(うなず)いた。

 そのアンコウの頷きを見たバルモアが、アンコウの肩から手を離す。

 

「これで終わりだ」

 バルモアが、アンコウに念を押すように言う。

「……ああ、もういい。俺の負けだ」

 

 アンコウはそう答えると、右手で掴んだままだった剣を赤鞘におさめた。力なく鞘におさめられた呪い魔剣は何の音もたてず、アンコウとの共鳴を解く。

 力なくうなだれているアンコウを、バルモアはしばし見つめている。

 

「では、ついて来い。アンコウ」

 

 アンコウに、これ以上の抵抗の意思がないことを確認したバルモアは、そう言うと、くるりとアンコウに背を向け、元来た方向に再び歩き出した。

 

 ギャーッ、ギャーッ、ピィーッ!

 

 バルモアがアンコウに背を向け、歩き出したその時、突然森の中から無数の鳥たちが飛び立ち、バサバサと羽音を周囲に響かせた。

 その鳥たちの鳴き声は、明らかに仲間たちに警鐘を発するものだった。

 

「なんだ!?」

 アンコウは思わず、うつむき加減であった顔を跳ねあげ、森のほうを見る。

 

 そして次に、鳥の鳴き声でなく、アンコウの耳に新たに響き始める音。それは、

 

(馬蹄の響きか!)

 

 アンコウがそう察した次の瞬間、アンコウの視線の先、アンコウが走ってきた森の中の道上に、武装した兵士を乗せた一頭の馬が飛び出してきたのが見えた。

 

 その騎馬兵が飛び出してきた場所は、アンコウが立っているところから、まだ少し離れていたが、アンコウの耳に聞こえている馬蹄の響きは一頭だけのものではなく、いまだ響き続けている。

 

 一人の騎馬兵が森から飛び出してきた後、そう時間をおかずに、次々と他の騎馬兵が森の中から飛び出してきた。

 そして、アンコウの耳に聞こえる馬蹄の響きは、どんどんアンコウたちがいるほうに近づいてくる。

 

「あれは……」

 

 アンコウがよく見ると、飛び出してきた騎馬兵たちの中には、体に矢が刺さっていたり、顔や体にべっとりと赤い色が着いている者がいたり、手負いの者たちが多く見られた。

 

「何ごとだっ!」

 バルモアが、大きな声で叫ぶ。バルモアが叫ぶ先にも、森から別の騎兵が飛び出してくる。

「くっ!敗残兵どもか!」

 

 そう、突如現れたのはサミワの砦を囲んでいた反乱軍の兵士たちであった。

 彼らはグローソン軍の猛攻を受け、すでに潰走を始めており、その一部がこの森の中まで逃げ込んできたようだ。

 

 ズザァッ!!! バサァッ!!!

 ついにアンコウのすぐ近くの森の木々のあいだからも、逃げる敵騎馬兵たちが飛び出してきた。

 

 そして、その騎馬兵たちとバルモアについてきていた兵士たちが戦闘状態になる。

 

 悲鳴、怒声、罵声、悲鳴、怒声、罵声

 

 あっという間に、再びアンコウの周囲が戦場と化していく。

 そして、アンコウは自分でも意識することなく、気がつけば、ついさっき鞘におさめたばかりの剣を無言のまま再び引き抜いていた。

 

 それはこの数年間冒険者として、生きるか死ぬかの戦いを当たり前の日常として生活てきたアンコウの本能的な反応だった。アンコウの目が再びギラリと光る。

 

 賭けに負け、気持ちはすでに降伏しているはずのアンコウが、自分の目の前で背中を見せ、森から飛び出してきた騎馬兵たちに気を取られているバルモアに、反射的に斬りかかっていた。

 

 刹那、アンコウ自身が自分の行動に驚き、今更愚かなことをするなと自分の理性的な部分が心で叫ぶが、すでに遅い。

 アンコウの抜き打ちに放った剣刃が、バルモアを斬り裂くべく走る。

 

 しかし、間違いなくバルモアも歴戦の強者である。そう簡単には、まともにアンコウの不意打ちの一撃を受けてはくれない。

 バルモアは後ろを振り返ることなく、自分に襲いかかってくるアンコウの攻撃を探知し、それでもなお振り返ることはせず、すばやく前方に跳び退いた。

 

 これは簡単なようでなかなかできることではない。もしバルモアがアンコウの攻撃を察し、後ろを振り返っていたならば、アンコウの不意打ちの一撃をまともに喰らっていたはずだ。

 

 それほどアンコウの攻撃も容赦ない速さで繰り出されており、バルモアが迷うことなく前方に跳んだことで生まれたわずかな時間が、バルモアの命を救った。

 

 しかしさすがのバルモアも、卑怯と言わざるをえないアンコウの強烈な速攻不意打ち攻撃を完全に避けることはできず、アンコウの剣がバルモアの背中の肉を浅く斬り裂く。

 

「ぐかっ!」

 思わずバルモアの口から漏れ出る苦痛の声。

「こ、このっ!」

 背中に痛みを感じたバルモアの目に強い怒りの色が浮かぶ。

 

 バルモアにしてみれば振り向くまでもない。

 自分に攻撃を仕掛け、自分に痛みを与えた者はアンコウ。つい今しがた負けを認め、降伏したはずの男であった。

 

(こ、この愚か者の卑怯者がっ)

 バルモアは背中に痛みを感じつつも、いまだ宙を跳んでいる状態の内に、アンコウに反撃をおこなう体勢を整えようとする。

 

 まず、バルモアは地に足が着くと同時に精霊法術による攻撃をアンコウに放つことを考えるが、あまりにアンコウとの距離が近いことに思い至る。

 バルモアは簡単な法術なら、わずかな精神集中のみで放つことができるのだが、アンコウのスピードを考えればリスクが高い。

 

 それならば剣にするかとバルモアは考える。バルモアは精霊法術師ながら、剣の腕前も相当なものだ。

 アンコウの攻撃を避けるために跳んだわずかな時間の間になされたバルモアの思考であったが、そのわずかな判断の躊躇(ためらい)がアンコウに付け入る隙を与えることになった。

 

 バルモアは結局剣をとることを選択し、剣の柄に手をかけつつ地面に着地し、それと同時に後ろを振り返る。振り返ったバルモアの目に映ったもの。

 バルモアとしては、もうすぐそこまでアンコウが迫って来ていると思っていた。しかし視界に映ったアンコウは、決して遠くはないが、剣がとどく位置にはいない。

 

 ただバルモアのすぐ目前に、アンコウ自身ではなく、アンコウが投げつけた精霊封石弾が迫っていた。

 

「何だとっ!!」

 

 バルモアは踏み出した足を急停止させて、精霊封石弾から離れるために、さらに後ろに飛びさがる。

 

「チィッ!何を考えているアンコウ!?」

 バルモアは飛びさがりながら、怒りと疑問をこめて吐き捨てた。

 

 アンコウがバルモアにむかって投げつけた精封弾。バルモアは飛びさがりながらも、完全に避けることは難しいと覚悟をするが、

 

「アンコウ、貴様っ!!」

 アンコウが今いる場所も、バルモアとそこまで遠く離れてはいないのだ。

 

 バルモアは飛びさがりながら、自分に投げつけられた精封弾を見る。

 

(火だ。爆発系。決して威力の弱いものではない。くっ!)

「自爆でもする気かっアンコウ!」

 

 一方、その精霊封石弾を投げつけたアンコウも、己の顔の前で両手を交差させ、後ろに飛び退く。

 とっさに、いわば頭よりも体のほうが勝手に動いてしまったようなアンコウの行動ではあったが、アンコウも自分が何をしたかはわかっている。

 

(ちくしょう!やっちまった!)

 

 アンコウのその心の叫びとは裏腹に、アンコウは事態に対応して、流れるように動いていた。

 

ドゥオンッ!

 火の精霊封石弾が、バルモアとアンコウのあいだで爆ぜた。

 

 バルモアは精封弾が爆発するわずかな時間のあいだに、微弱ながら爆発による受ける衝撃を軽減するための風の精霊法術を発動させており、自分の体のまわりに渦巻くような風の流れを纏っていた。

 

 しかしそれだけでは、アンコウが投げた精封弾の爆発の衝撃を完全に防ぐことはできず、バルモアは精封弾爆発の衝撃をうけ、地面に叩きつけられ、そのまま地面を転がっていく。

 

「ぐわあぁぁーっ!」

 

 そしてアンコウもバルモアと同様、己が投げた精封弾爆発の衝撃に巻き込まれる。

 アンコウは爆発に対して体を正面に向けたまま、後ろに飛びさがっていた。

 爆発の衝撃がアンコウを襲ったとき、アンコウの足は未だ、飛びあがった状態で宙に浮いていた。

 

 アンコウは、自分も爆発に巻き込まれるということはよくわかっていた。アンコウは、意識的に自分をも飲み込んだ爆風に、その身を任せたのだ。

 結果、アンコウは大きく宙を舞うことになる。

 

「ぐぐぅぅっ!!」

(熱い。痛い)

 

 アンコウを襲ってきた爆風はまさに熱風だ。アンコウの体は熱炎に飲まれたに等しい。

 さらに爆発の衝撃によって飛ばされてきた大小の石や何かが、連続してアンコウの体にぶち当たる。

 

 しかし、それでもアンコウは宙を舞う体制を保ちながら、爆風の中に身を置き続けた。それによってアンコウの体は、大きく川の中ほどまでも吹き飛ばされた。

 

「痛てぇ、」

 宙を舞い、痛みをこらえながらも、アンコウはかすかに笑う。

 それはアンコウの計算どおりでもあったからだ。

 

 アンコウは宙を舞いながら、川の中に落ちる寸前まで空を見上げていた。

 青い空、白い雲、降りそそぐ太陽の光、それはすばらしい晴天の空だった。

 

(ああ、何やってんだ俺)

 

 アンコウはほんの一瞬、記憶にも残らないだろう微小の時、その心に虚しさがよぎる。しかし、当然ながらアンコウに感傷に浸る余裕などはない。

 

 刹那の感傷を認識することもなく、アンコウは自分の肺に入る限界まで大きく息を吸う。そして、

 

 ザブゥンンッ!!

 

 アンコウの体は強い衝撃と共に川に落ち、その身を水に包み込まれた。

 

 川に落ちると同時に、アンコウは水中で猛烈に動き出した。

 魔具鞄の中から紐を取り出し、その紐を魔剣とその魔剣を握る自分の手にグルグルと巻きつける。その作業をしながらもアンコウは、潜水状態で泳ぎ続けていた。

 

 そのアンコウの泳速はきわめて早い。魔剣との共鳴で強化されている肉体をフルに使い、川特有の強烈な水の流れに乗ったアンコウの強烈なドルフィンキックが水中でうねりをあげる。

 

 人間川海豚(にんげんかわいるか)と化したアンコウは、精封弾の爆発でうけた痛みなど意にも介さず、傷から流れ出る血もそのままに弾丸のような勢いで水中を驀進(ばくしん)していく。

 

 こうなってしまったら、バルモアに捕まれば、自分は殺されるに違いないという恐怖がアンコウの心をがっちりと掴んでいた。

 10分、15分、泳ぎ続けたアンコウが、泳速を落とすことなく、息継ぎをするためわずかに水面から顔を出す。

 

 一瞬で肺に空気を満たすと、アンコウは周囲を確認することなく、再び水中に潜る。川海豚アンコウは体力の続く限り、ただひたすら泳ぎ続けた。

 

 アンコウはどれぐらいの時間、どれぐらいの距離を川海豚アンコウとして泳ぎ続けたのだろうか、いつのまにかアンコウの意識は水中で朦朧としはじめており、その思考能力が怪しくなるほどまでに、アンコウはドルフィンキックを続けた。

 

 アンコウが潜行している川の水は濁り水であり、視界は悪い。

 しかし、この川の中で泳ぎ続けているうちに、アンコウの目には水中深くまで差し込む太陽の光が見えはじめていた。

 

 それだけではない。アンコウの目には鮮やかな色をした大小さまざまな魚の群れが見えていた。

 その色とりどりの魚のウロコに、空から差し込む陽の光が反射して水中でキラキラときらめいている。

 

(綺麗だ……!!まるで南国の海のようだ)

 

 アンコウがそう思うと、アンコウの口に入ってくる川の水が海水特有の塩味に変わる。

 そしてアンコウの耳には、水中深くを潜っているにもかかわらず、キャッキャ、キャッキャと騒ぐ若い女の声が聞こえてきた。

 

(ビーチバレーだ!若いビキニのギャルたちが真っ白い砂浜でブルンブルンとビーチバレーをしているに違いない!)

 

 アンコウがそう思うと、そのブルンブルンな光景が見えてくる。

(おおっ!)

 

 川の中を猛スピードで泳ぎ続けているアンコウのテンションがあきらかにおかしくなってきている。しかし、アンコウ自身はそれらの変化に何ら違和感を感じていない。

 

 アンコウは今、太陽の光などまったく届かない濁った水の川の中、魚の姿もまったくない、むろん若い女の声や姿などあるはずもない、川の深く速い流れの中で1人泳ぎ続けている。

 

 アンコウは幻覚を見、幻聴を聞いていた。

 

 これは精封弾の爆発によってうけた傷からの出血。それに共鳴によって強化された肉体をフルに使った潜水泳法により、脳が必要としている酸素の供給不足。

 出血多量と酸素不足の状態が、長時間続いた影響により現れた症状だ。

 

 しかし、おかしなテンション域にまでトリップしてしまったアンコウは、精神だけは上機嫌で、さらに延々と全力で泳ぎつづけた。

 

 そして、アンコウの逃亡の遠泳の終わりは突然やってくる。

 少し前からこれまで以上に早くなっていた川の流れにも、まったく逆らうことなく猛スピードで泳ぎ続けていたアンコウの体が、突然川の中とは違う浮遊感に包み込まれた。

 

ザバァンッ!!!

 

 アンコウは突然川の中から、空中へと飛び出した。アンコウの眼下にあるもの、それは大きな滝と、その滝壷だ。

 

「ウヒョオーー!?」

 

 猛スピードで泳いできたアンコウは、その勢いのままに滝に突っ込み、空中に飛び出した。

 

 この流れ落ちる滝は相当に高い。アンコウの眼下には滝つぼだけでなく、生い茂る森の木々が広がっていた。

 

 しかし、その高さの空中に突然投げ出されたアンコウだったが、恐怖も焦りも感じていない。思考の働きが鈍っているアンコウの脳は、未だ幻覚を見、幻聴を聞いており、とってもよい気分だった。

 

 滝から飛び出したアンコウが宙を舞う。川海豚(かわいるか)アンコウが、今度は大空を飛ぶ鳥になった。

 

「アチョオォォーッ!!」

 

 大空を舞い飛ぶ鳥になったアンコウは、今度はその脳内で、極彩色に色ずく空と虹色の雲の中を、見目麗(みめうるわ)しい天女たちに囲まれて、イチャイチャと優雅に舞い踊っていた。

 

 しかし、現実には、アンコウの体は滝のテッペンから、真っ逆さまに落下中。

 勢いよく大きく滝から飛び出したアンコウの体は、さらに吹きつける強い風にあおられて、空中でさらに大きく移動する。

 

 いつのまにか落下するアンコウの真下にあるのは滝壺の水ではなく、生い茂る森の木々になっていた。

 それでも幻の中にいるアンコウは、何ら恐怖を感じることなく、上機嫌で落ちていく。

 

 そして、ついにアンコウの天女たちとの空中ランデブーは終わりの時を迎えた。

 

バキィッ!!バキ!ボギィ!メキッ!バサバサバサバサバサッ!!

 ギャーッ、ギャーッ、ピィーッ!

バタッバサッバサッバタバサッ!!

 ドザアァンッ!!!

「!!!!!!!」

 

 滝の上から真っ逆さまに地面に落下したアンコウは、騒々しい音を森の中に響かせたあと、悪ガキに地面に叩きつけられたウシガエルのごとく、地に落ちた。

 

「…………………」

 

 しばしの間、ただ滝の水が落ちる轟音のみが響く、ある種の静寂の時が過ぎる。

 

「………!!う、うぎゃあぁぁーっ!!痛ってぇぇ!!」

 

 そしてアンコウは、七転八倒。痛みのあまり、地面の上を転がりまわりはじめた。

「クゥゥゥゥゥゥーーーッ!!!」

 

 しばしのあいだ、ゴロゴロゴロゴロゴロゴロと地面を転がるアンコウ。

 しかし幸いなことに、アンコウはこの落下の衝撃を受けても、そう大きな怪我は負っていない。

 

 アンコウの手には未だ赤鞘の魔剣がしっかりと握られており、身体は共鳴による強化が保持されていた。

 そして、いくつもの森の木の枝に体が引っかかったことによる落下速度の緩和。

 さらに、アンコウが叩きつけられた地面は、滝壺からそう遠くは離れておらず、水を多く含んだ柔らかい土のうえに、やわらかそうな苔が層をなして生い茂っていた。

 それらが、アンコウの落下衝突の衝撃を相当に弱めてくれた。

 

 しばらくそのまま全身の痛みに悶え苦しんでいたアンコウだったが、ようやくのた打ち回るのをやめると、

 ハァハァハァと息遣い荒く、仰向けで地面に転がり、顔には涙、鼻水、ヨダレ、土に葉っぱをへばりつけ、何とも言いようのない表情で天を仰ぐ。

 

 天を仰ぐアンコウの視線の先、かなり高いところに滝の落ち口が見える。あんなのところから落ちてきたのかと、アンコウは気が遠くなる思いがした。

 

「……何がアチョーだよ。くそったれ……」

 

 アンコウが見上げる空に浮かぶ太陽は、もうずいぶん傾いてきている。

 

 一体どれだけの時間、どれだけの距離を泳いできたのか、アンコウはわからなかった。ただ、アンコウを追ってくる者はおらず、人の気配すら感じられない場所にアンコウはいた。

 そして地面に仰向けに寝転がったままで、そのままゆっくりと目を閉じた。

 

 

 一方、サミワの砦の戦闘はすでに終結しており、砦を囲んでいた反乱軍どもは完膚なきまでにグローソン軍に叩き潰されていた。

 

 アンコウがいた川辺には、すでに人の姿はまったくなく、ただいくつもの死体がそこかしこに横たわっているだけであり、バルモアたちの姿は、戦場にもサミワの砦にもすでになかった。

 

 砦では、姿が見えなくなったアンコウを案じ、ヒルサギがアンコウの安否を皆に尋ねてまわるものの、アンコウの行方を知る者は誰一人いなかった。

 

 

 

 

 アンコウはゆっくりと目を開き、周囲を見渡して「チッ」と舌打ちを漏らす。

 

(こんなところで寝ちまってたのか)

 

 アンコウが寝ていたのは短い時間だ。まだ周囲には明るさも残っている。

 アンコウは、ヒールポーションを飲みながら疲労でかなり重くなっている体をゆっくりと起こす。

 アンコウは体の重さだけでなく、心の重さもズシリと感じていた。

 

「……これからどうするよ、俺」

 

 アンコウはつぶやいてみたものの、どうするもこうするもない。

 すでにハウルとの賭けにも負けたにもかかわらず、バルモアに斬りかかったアンコウは、これから延々と逃げ続けるしかない。

 

「………くそっ」

 

 アンコウは滝壺から離れるように、森の中へと足を向け、重い足を無理にあげて走り出す。

 

 バルモアから逃げることができたのに、アンコウの顔色はさえない。

 森を走るアンコウの目には、もうムチピチビキニのギャルも透け透け羽衣の天女も見えなくなっていた。

 アンコウは薄暗い森の中を独り、ただ走る。

 

 

「………あちょー……アチョーッ!!」


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