数日の時を使ってじっくりと聖火を観察し、立ち位置も変えて構図を考える。
また他にも村人からの話を聞き、聖火についての思い入れなども聞かされた。一人だけではない、どれだけ村人がムスビ村を守り、見守ってきた聖火を崇め奉っているのかが伝わってきた。
これはもはや一つの信仰といっていい。
長い時を経て、多くの人の祈りと感謝を象徴する聖火信仰。
その象徴である聖火を、村のために描くことの重さよ。
話を聞くにつれてその重みが緩やかに自分の中に積み重なっていく。気軽に引き受けてしまったことを、少々後悔してしまいそうだった。
でも、引き受けたからにはやり遂げなければならない。すでに墨は届けられる手はずになっているし、宿代のサービスも受けている。それらを放り投げることなどできなかった。
「…………ん?」
構図を考えながら祭壇から少し離れつつ、ぐるぐると歩き回ったり、立ち止まったりしている中、不意に何かおかしなものが見えた気がした。首を傾げてそちらを見ると、どうにも奇妙なものだった。
ぼやけた何かが、聖火を見物している人々の中にあった。大きさは人と同じくらいか、じっとその場に留まっている。
聖火をじっと見つめすぎて目がおかしくなったのだろうか。目をこすってもう一度見てみるのだが、相変わらずぼやけた何かがそこにある。
それだけではない。ぼやけたそれの中に淡い光が浮かび上がってきた、というより、最初から光はそこにあって、それが見えてきたというべきだろうか。
いや、光といっていいのだろうか。おかしくなった目にはそれが光かどうかもわからない。
ただぼやけた物体の中に、定まった形ではない何かが存在している。濃淡の違いから、自分にはそれが光なのかどうかと疑問を覚えているだけに過ぎなかった。
近づいてみればよりわかるのだろうか。
そう思って、それに近づいていく。すると、それはゆっくりとそこから離れて移動し始める。
それを追いかけるべく、自分は少し足早にぼやけた何かへと近づこうとした。
「――え?」
だが突然、そのぼやけたものは、すっと何事もなかったかのように消えた。
目をぱちくりとさせ、また目をこする。でも、自分が見ていた光景に、さっきまであったものはどこにもない。
まるで幻のように、最初からそんなものなど存在していなかったといわんばかりに、日常の中のムスビ村を自分の目に映し出す。
そんなはずはない。
自分が見ていたものが幻であるはずがない。近づいたら霞のように霧散して消え去ったなど、そんな馬鹿な話があってたまるものか。
辺りを見回し、何かが隠れていそうなものがないかと探す。点々とした家と店、村に植えられた木、少し離れたところにある畑。その近くには採れたものを保存しておくための倉庫らしきものもある。
とりあえず歩き回ってみる。あのぼやけたものの大きさは人と同じくらいだった。なら、もしかすると人が行きそうなところに隠れた可能性も捨てきれない。
謎めいたものを探すために歩き回るが、それは同時にムスビ村の探索のようなものになった。
村全体で見れば、立地は山に囲まれた盆地といっていいかもしれない。全てが平原というわけでもなく、一部は丘のように盛り上がったところもあり、坂道を登って一本道を歩いていくところもある。
坂道の近くにも木造の建物が点々とあり、その一角にたくさんの木が生える林も広がっていた。その林の中には広場があり、そこでは村の子供たちが遊んでいる様子が見えた。いわゆる憩いの場というものだろう。森林浴にも使えそうな場所だった。
道を歩けば何人かの村人ともすれ違う。そのたびに挨拶を交わしながら、見失ったものを探してみる。
どうして自分は、わけのわからないものを探しているんだろうと、少し冷静な自分が問いかける。
見間違いだってこともあり得る。今はそんな謎めいたものを追いかけるより、絵に集中した方がいいんじゃないかと。
でも、この目が奇妙なものを捉えたのだ。
50年以上生きて、そんなことが起きたことは一度もない。
それに自分はギルドに所属する調査員だ。今までにない事象が起きたならば、それが何なのかを突き止めるために調査をする役割を担っている。それを果たすためにも、謎の現象を見たら、その是非を確かめなければならない。
(やはり、見間違いだったか?)
しばらく歩き回ってみたが、ぼやけたものは結局見つからなかった。家の物陰にも首を突っ込んでみたけれど、隠れているようなこともなかった。数時間かけて探してみても、ぼやけたものは見つからず、夕暮れ時になってしまった。
何だか無駄な時間を過ごしてしまった気がする。しかし未確認のものを探すときは大体このような感じで時間が潰れるものだ。よくあることだと、ここは割り切ることにする。
宿に帰ろうかと踵を返したところ、不意に視界に光が横切った気がした。あの光は、ぼやけたものに見えたような光だった気がする。もしかして、ここにきて見つかったのかと、そちらへと駆け出した。
そこは収穫した作物を保存しておく倉庫の一角だった。夕暮れの光もあまり当たらず、暗がりになってしまっている。人の気配もあまりなく、少し不気味な静けさになっていた。
倉庫のそばの積み上がった木箱がある一画に、その光が存在している。目を凝らしてみれば、ぼやけた何かが木箱に座っているかのように見えそうな気がした。
だから、何気なく自分はこう言った。
「誰か、いるのか?」
答えは返ってこないかもしれない、そうどこかで思いながらの問いかけだった。
そのぼやけた何かが本当に人なのならば、答えが返ってくるかもしれないが、それはあり得ないだろう。そう思っていたのに、
「――――いやはや、本当に追いかけてくるなんて、ね」
と、女の声が聞こえてきた。
ぼやけていた何かに実体が浮かび上がり、足を組みながら座っている女がそこに現れる。着崩れしている着物を着た女だった。伸びた髪を右肩へと纏めて、そのまま流しつつ布で結った髪。少しだけ力が抜けたような目で、じっと自分を見下ろしている。
見た目は普通の人の女だ。右耳は髪に隠れているが、左耳は露出している。その形からして、竜人族ではなく、普通の人間らしい。
しかしただの人間が姿を隠すようなことができるだろうか?
それとも最初からずっとそこにいて、ぼやけたように見えたのは、いよいよ本格的に自分の目がおかしくなっただけなのだろうか。
姿を現したら現したらで、色々意味が分からなくなってしまう。頭がおかしくなりそうだ。
そんな自分をどこか笑うように、女は唇の端を笑みに変える。
「竜人族、か。好奇心で追いかけてきたのなら、なるほど……さすがは知識を求める輩。めんどくさいったらありゃしない。それに、何その目? このわたしを見つけるなんて、実に興味深いけれど、深く触れるべきものじゃなさそうか」
細められた目は自分のことを興味深そうに見つめていたが、不意に右と左の目がそれぞれ別の動きをし始める。右が辺りを見回すようにすっ、すっと動きつつ、左は上から下まで自分を観察するように動いたのだ。
明らかに人間の目の動きじゃない。森で見かける爬虫類の一種が、あれに近しい目の動きをするだろうか。
「誰だ? 人間じゃない……?」
「それを疑うんだ。でも、人間じゃなかったら何を想像すると?」
「新たな竜人族とでも? あんたのような人は、聞いたことがない」
「ふっ、長く生きていれば、色んなものに出会うものさ。わたしにとってもね。でも、わたしとしては想定外。タイミングが悪かったと嘆くべきかしら。この出会いはわたしには不本意極まりない」
やれやれと首を振り、肩を竦める女は、それほどまでに自分に見つかったことを嘆いていた。やはり、ぼやけたように見えたのは見間違いではなかった。本当に女は、あのようにして他の人々から見つからないように行動していたのだ。
そうしてそのようなことができるのだろう? あの服がそうさせているのだろうか?
純粋な疑問が尽きない。問いただし、解明し、記録したい。それを絵に残したい。そう考えると手が疼く。懐に入れてペンと紙を取り出し、描きなぐりたい。そう考えていると、実に呆れたように女は息をついた。
「実に、嘆かわしい。好奇心の化身? やはりそうして智を求めるのがらしい。長く生きるが故に、知らないことを知りたがる。それがお前の生きる原動力ってことか。やだねぇ……知るために、記録するために世界を巡る。未開の地をも侵していく。それがお前か」
「それがいけないことか? 知らないことを知る、それを楽しみに生きるのは、実に人らしいと思うのだけれど」
「いいや、別に? わたしとしてはうざったいと感じるけれど、人としては間違っていない。そう生きることは、否定することじゃない。どう生きるのかは、人の自由ってね。とはいえ何事にも限度はある。それを侵さなければ、好きに生きればいいさ」
周りと自分の二つを観察していた目が、ある一点で止まる。それは自分ではなかった。
その後ろ、夜が近づいていくにつれて村の灯りとなる聖火の方へと。聖火に何かあるというのだろうか? そう首を傾げていると、女はぽつりと呟いた。
「それに永遠はない。いつまでも変わらないものなどないのさ」
「……消えると? あの火が」
「消えるさ。100年以上、よく持った方だとは思うけどね、それだけ燃え続ければ、いずれは消えるさ」
淡々と、女はそう言った。確信を持った言葉だった。
100年消えない炎というのも信じられないが、100年もの間燃え続けた火が、いずれ消えてしまうということもまた、村人たちからは信じられないものだろう。
自分たちを守り続けた聖火が失われる、それは村人たちにとっての心の寄る辺、聖火信仰も終わりを迎えるということでもある。
「どうして消えると?」
「むしろわたしは逆に問いたいね。何でいつまでも消えないと思うの? 火は、燃える種がなければ、いずれは消えてしまうものだというのに」
「火種が尽きるって? なら、火種をくべればまた燃え続けるのでは?」
「そう簡単なものじゃない。あれは特別な火。何せ古龍の屍を一つの種とし、この周囲一帯へと養分を与え、それをも種として燃え続ける古龍の炎なんだからさ」
その言葉に、自分は息を詰まらせた。女ははっきりと古龍の炎と言い切った。まるで全てを知っているかのように、あの聖火の正体について語ったのだ。
女はこう説明する。
かつて二種の古龍がこの地で争った。争いに勝ったのは炎の古龍。もう一種の古龍を討ち倒した炎は、古龍が死してもなお、屍の上で燃え続ける。
古龍は強い生命力を保有する存在だ。骸となれば、生命力から生み出されるエネルギーが大地に多大な恩恵をもたらし、時には周辺一帯へと力が満ち満ちる。植物が活性化し、豊穣をもたらすこともあれば、地脈に影響して環境を変えることすらある。それほどに強いエネルギーが古龍の屍からもたらされる。
この周囲で採れるものが、他の山と比べて良質なものばかりなのは、古龍の屍がもたらしたものの影響だ。木々はより硬く良質な木材となるし、鉱石もまた加工すれば強固な素材となる。
聖火を祀る祭壇へと用いられ、なおかつ燃え盛る聖火に耐えられるだけの盃ができたのも、活性化した大地が生み出す鉱石が生成されたからに他ならない。
燃え続ける炎もまた、エネルギーを種として強く、激しく燃え続けるものだ。やがて屍が完全に燃え尽きてもなお、残存した生命力からもたらされる力を火種とするほどに。
そして長く大地と密接していたが故に、炎は活性化した大地からも火種として少しずつエネルギーを取り込み、燃え続けた。そのため、炎の中心には、強いエネルギーが溜め込まれ、それを消費することで古龍の炎として長く在り続けることとなる。
やがてムスビ村の人々は、この炎を聖火として崇め、盃や祭壇を用意して祀り上げる。その際に、炎は大地から離れることとなったが、それが遠い未来において、終わりの始まりとなる。
古龍の屍の生命力と、大地から取り込んだエネルギーという火種の貯蓄を、少しずつ減らしながら燃え続けることになったのだ。時に人が投げ込んだ火種を糧にすることもあったが、それも古龍の生命力に比べたら微々たるもの。
火としては燃え続けることもできようが、古龍の炎としてはかつての威容を残すことはないだろう。女からすれば、かつて感じられた古龍の覇気は、今となっては随分と小さくなったものと言い切るほどだった。
「久々にあれを見に来てみたけれど、わかるさ。随分とまあ、弱くなったものだとね。人や小さな存在からすれば、まだ心を揺さぶられるものがあるかもしれないけれど、さてさて、どれくらい時間が経てば、それもなくなるか。だからこの村の人は備えなければならない。いずれ火の力が失われたとき、どのようにして身を守るべきかを」
「……少なくとも、今年中とかそういう話ではない?」
「それはわたしにもわからない。それに、世界はそう優しくもない。突発的にどこからか災害がやってくるのかわからないものさ。今までは運が良かったけれど、突然不運に見舞われることもある。そうだろう?」
「それは、そうだけど……でも、そうか。そういった不運にも見舞われなかったんだ。それも彼らからすれば、聖火が自分たちを守ってくれたと解釈し、より祈るんだろう」
「それもまた人らしい。だから信仰というものは、時折恐ろしいものさ。色々と都合よく解釈するんだからね」
どこか実感がこもったような声色に、女は実際にその光景を見てきたんだろうなと思わせる。その瞳の雰囲気は、そうなった人を憐れむような、その気配を感じ取った。それはまるで、長い年月を積み重ねた人間のような重みを感じさせる。
やはりこの女は、それなりに生きた存在。だというのにその若い女の見た目となれば、自分と同じ竜人族なのではないかと考えてしまう。竜人族の中には人とあまり関わりたがらない輩も多い。都会に出るものもいるが、そういう人は少数派だ。多くは辺境の集落で竜人族同士で生きることが多いものだ。
あるいは自然の中で生き、穏やかな日々を生きるものもいる。そういう類のものは、秘境などで暮らし、文字通り人との接触は断たれている。数年単位で人と会わないものもいるし、狩りに出てきたハンターと偶然遭遇したりもする。
恐らくこの女もそういう類のものなのだろうと推測される。
「ふぅ、少し話すぎたか。人との関わりはわたしをおかしくさせる」
嘆息しながら立ち上がり、積み上げられた木箱から飛び降りて背を向ける。その背中に、思わず「待ってくれ」と呼び止めてしまった。しかし女は立ち止まることはせず、その姿が消えてしまう。
でもやはり、ぼやけたものが自分の目に映り、光もまた中心あたりに揺らめいている。消えた場所から大きく移動したようだが、そこに向かって「待ってくれ」ともう一度呼びかけると、それは立ち止まり、僅かに振り返ったような気がした。
「…………やっぱりその目、わたしにとって忌むべきものね。……いや、違うか? 単に見えているだけじゃない?」
最後はぶつぶつと呟いていたため、自分には聞こえなかったが、止まってくれたのはわかった。それに向かって、自分は「古龍の炎と言っていたけれど、その古龍とはどのような存在なのかな? 教えてくれないか」と問いかけた。
古龍についての情報は、現状不明な点がたくさんある。100年前にこの地に現れたという二種の古龍。その片割れだけでも知りたかった。
しかし、女はそんな自分の思いに対してにべもなく、「断る」と告げる。
「そのようなものは、人に教えられるものではない。お前たち人は、自分で調査し、解明する種族。単に教えられるだけで、お前たちの欲求が満たされるものか。自分の足で現場に赴くか、あるいは向こうからやってきたものを調べる。それでこそ人。わたしはそんなお前たちとは関わりたくない。お前は僅かに興味の対象ではあるけれど――」
と、そこで一区切り入れて、
「――色んな意味でお前とは相容れないし、好かない」
と吐き捨てて、ぼやけたものは体勢を低くしたように動いたかと思うと、瞬時にそこから消えた。辺りを見回してみたけれど、もうどこにも女の所在を示すものはなかった。加えてもう日が完全に落ちており、暗がりが辺りを支配してしまっている。これではもう探しようがなかった。
宿に戻ろう。この奇妙な出会いは、少し振り返ってみるだけでも、色々と大きな情報を得た気分だった。
次の日、行商人が注文された墨を届けに来てくれたと報せが来た。墨の費用については村が持ってくれることになっており、墨だけを受け取る。行商人は他の商品も村人などに向けて商売するのだが、その際に気になることを話していた。
「モンスターの様子がおかしい?」
「ええ、私も人から聞いた話なんですがね。向こうの山、そのまた向こうの火山地帯周辺からモンスターが移動しているって話でさぁ。今までにないような動きをしているってんで、ギルドが調査隊を派遣するって話もあります」
「モンスターが異常行動を……」
そういう話が出るということは、何かが起きる前触れだ。ギルドに所属する調査員だからこそわかる。大抵の場合、これは良くないことが起きる。
火山地帯ということは、ここから竜車でも一週間以上はかかろうという距離。だからモンスターの異常行動はこの一帯でも起きるとしても、まだまだ先の話になるかもしれないが、用心するに越したことはない。
万が一に備えて、避難の準備はしておいた方がいいのではないか。そういったことを村人に提案してみたのだが、
「何も心配することはありません。我々には聖火がありますから」
「村を拓いて100年、危険なモンスターが現れたことは一度もない。それは、こういった事態が遠くで起きた時も同様ですよ」
「まるで村を避けるように、災いは降りかかったことはありません。今回も大丈夫です」
このような反応を返してくるのだ。それだけ村人はあの聖火に対して高い信頼を預けている。
随分と重い信頼だが、しかしこれは100年という積み重ねた時間の重みでもある。人間にとって100年は自分だけで過ごせる時間ではない、親世代、あるいは祖父母世代から続く時間の重みなのだ。
まさに世代を超えて受け継がれていく信頼の重みを、よその人が否定することなどできはしない。これがこの村にとっての聖火信仰なのだ。
昨日の女が、信仰は時に恐ろしいと語ったのも、こうして考えれば頷ける。遠く離れた危機が実感できるほどに近づかなければ、決して避難行動を取ることはないかもしれない。
それにまだ、まだ今は「かもしれない」という段階だ。危機が発生する予兆とは考えられるが、それがこっちに来るかどうかはわからない。別の方角へと危機が向かうかもしれないが、その場合はそちらにある集落などに住む人は、何とか逃げていてくれと祈るしかない。
「さて、描くか」
道具は揃ったから、今日から本格的に依頼を進めていくことにする。
構図はもう決めた。そしてその構図に合わせて机も用意してもらった。祭壇の近くにそれを設置してもらい、そこに紙を広げて聖火を描く、その流れで作業をすることになった。
観光客からは少し奇異の眼差しを向けられることになったが、絵を描いているとたまにあることなので、今さら気にすることでもなかった。
筆を手にし、自分が見えるものを紙に表現する。今まではありのままのものを描いてきたが、依頼されたからには、それだけでは終わらない。聖火の火の揺らめき、祭壇としての厳かな雰囲気、そういったものも表現できれば、より絵としてのクオリティが上がるだろう。
この数日、構図を考えるだけではなく、筆を使うカンを取り戻すために、いくつか試し描きをしてきた。そのため、今こうして筆を走らせることに不都合は何もない。
聖火がもたらす神秘性。人の心を惹きつけるような雄大な炎。それをこの筆と墨で表現する。改めて聖火を見つめていると、やはり心に来る何かを感じ取る。あの女が言うには、昔に比べればそれは弱くなったらしいのだが、それでも高い神秘を感じるのは確かなのだ。
そこまでは伝えきれないだろうが、しかしそれでも自分の筆で表現しなければならない。そして長年積み重ねた技術には確かな自信がある。なければ依頼を受けることはないし、ここまで準備をすることもない。
数時間かけて筆を走らせ続け、やがてそれは完成する。
揺らめく炎、シンプルながらも厳かさを感じさせる祭壇。祀られている聖火を描き上げたその作品に、自分は少し満足がいっていない。
何かが足りない。
その炎の濃淡だろうか。人の心を惹きつけるような迫力か、神秘性か。弱まっているとはいえ、あれはまだ聖火と呼べる存在だ。自分はその聖火の全てをこの絵で表現しきれていない気がした。
筆が止まり、唸っている自分を見て、近くで見守っていた依頼主が近づいてきた。そして絵を見て、驚きの声を上げる。息を呑み、絵をじっと見つめて、「完成したのですね?」と問いかけてきた。
「……描き上げはしましたが、自分としては足りない気がしましてね」
「私としては十分な出来のように見えるのですが……。これでも依頼を終えていただいて結構ですよ?」
「そうですか? 自分はまだ、もう一枚、いや何枚か描かねば気が済みそうにありません。あの炎を、この筆でしっかりと描き上げたい気持ちがあります」
「これより更に素晴らしいものになると。それは……ええ、とても期待が持てます。ただ、これも買わせていただきたい。ええ、これくらいの価格で買わせてください」
そう提案してきた価格は、ハンターに出される依頼に対する報酬に近しいものだ。一枚の絵に対してそれだけの価格を提示してくるあたり、自分の絵に対して、それだけの価値を見出してくれたということだ。
それに対しては素直に感謝したい。でも、それでも自分はこの炎が納得いっていなかった。周りの祭壇はいい、十分雰囲気を作り上げている。だがこの炎からは、あの炎から与えられた衝撃が十全に反映されていない気がした。
自分にはまだ技術が追い付いていないということだろう。この気持ちの全てを筆に乗せきれなかったのか。50年以上生き、絵を描き続けたといっても、まだまだ自分は未熟者だ。
何より自分は、未だに美しさを理解できていない。
やはり、美しさを理解できなければ、人を惹きつけるあの炎を自分は描ききれるのだろうか。
美しさとは何だ?
墨の濃淡、筆の強弱で表現しきれるだけの美しさはあるのか? あったとして、自分はその技術を会得できるのか。それはわからない。
わからないけれど、歩みは止められない。とにかく描く。描き続けたその先に、きっと答えがあると信じるだけだ。
次の日も、その次の日も、自分は筆を執り続ける。
一回は、同じ構図で描いてみた。でも、納得がいなかった。
その次は、別の角度から描いてみた。少しはましになったような気がしたが、気のせいかもしれない。出来上がった炎からは、あの日感じた驚きを感じられなかった。
でも少しばかり、炎の表現が良くなったような気がした。何度も炎を描くことで、少しずつ筆の動きが洗練されてきたかもしれない。
出来上がるそれを、毎回誰かが買い取った。値段は相変わらずいいものだったが、それぞれの出せる額というものがあった。自分の方がより高い値段で買い取ると言ってくるものがいたが、別に自分は値段にそれほど執着する性分ではなかった。
欲しいならくれてやる。そんな気持ちで、声をかけてきた人に、それぞれ売り払う。
彼らにとって聖火は特別なものであり、それを絵にしてくれることはこの上ない喜びだ。毎日熱心に祈りに来る人もいる程だ。そんな人たちからすれば、クオリティの高い絵を描いてくれたのならば、お金を出してでも所有したいと思うのは自然なことなのだろう。
幾日かが過ぎた。人からすればクオリティが高いと思われようとも、自分で納得のいく出来でなければ意味がない。しかしそろそろ今の自分では限界なのではないか? そんな予感がしてきた頃、また村に別の行商人が現れた。それには、ギルドの人間も護衛のためかついてきていた。
彼は言う。先日のモンスターの異変が近くまで迫ってきていることを。小型のモンスターだけではなく、飛竜もまた火山地帯から離れるように移動している。この村付近にも現れる可能性があるため、避難するようにと通達してきた。
しかし村人は相変わらず聖火の加護を信じ、避難するようなことを口にしなかった。ギルドの人は再度、避難をするように言うのだが、村人は大丈夫だ、大丈夫だと繰り返す。その様子に、ギルドの人は呆れたような表情を浮かべてしまう。
そんな彼へと逆に聖火を見て行け、あれを見れば村は大丈夫だと信じられると勧めていくのは、なかなかに図太い根性をしている。
(本当に聖火の守りを信じているんだな……でも、ギルドから直々に知らせてくるんだ。本当に危ない状況になっているんじゃないだろうか)
道具を片付けながらそんなことを思う。自分も備えなければいけないだろう。
ここから離れるかどうか。離れるなら、火山から離れるように移動すればいい。逆に異変について調べるのならば、火山に近づく必要があるが、果たして一人だけで異変を調査できるかどうか。
飛竜すら異常な行動を起こし始めているのであれば、ただ事ではないのは間違いない。調査員一人ではなく、調査隊を編成して現場に向かうような事態だろう。
そう、自分はただの調査員。異変が強力な飛竜だったならば、ハンターへと依頼が出され、彼らが現場へと赴いて飛竜を討伐し、事態の解決を図るものだ。
誰かが出しゃばって事態を悪化させる可能性もあるため、多くの場合、ギルドが発行する依頼の受注を経て、解決への道を歩むのが慣例となる。緊急事態、あるいは依頼を経ずとも独自の判断で行動ができる資格を得るものだけが、その慣例に倣わずに行動ができる。
自分にはその資格はない。そのため事態を収めるために行動するならば、ギルドから依頼、または指令を受ける必要がある。
片付けを終えて宿へと戻り、部屋に置いてあるチェストにしまってあるハンターの装備を確認する。水剣ガノトトスを取り出して壁に立てかけ、いつでも持ち出しができるようにしておいた。
装備もまた取り出しておき、一式を立てておくことにする。
自分が身に着けるのはレウスシリーズ。火竜リオレウスの素材を用いた装備であり、火竜だけあって耐火性に優れたものだ。加えてこれは強力な個体を用いたもののため、通常のレウスシリーズよりも強固に作られている。
もし火山に住まう何かが異変の原因ならば、火を扱う何者かに違いない。それに対抗できるだけの準備をするならば、耐火性に優れるレウスシリーズを用意しておくのは、悪い選択ではないはずだ。
狩りの際に持っていくポーチに収める道具も確認しておき、足りないものがあれば調合して補充しておく。この日の夜は、万が一に備えて色々準備を進めておくことにする。その時になって慌てても遅い。こういうことは、前もって行動するに限るのだから。