帰宅した和希はベッドに飛び込む。それと同時に彼の脳裏を過ぎる夕日に照らされた悲しげな少女の姿。
「山吹……」
呟くと同時に、彼はまどろみ始める。定時制とはいえ通学したことと十分ではない休息が災いしたようで、急激な疲労に襲われたのだ。
「明日の準備……しなきゃ……」
頭を振るい、思考を遮る。そして重い体を起こしながら、明日の荷物を纏め始めるのだった——
翌朝、普段と同じように登校する和希。ここまでは普段と変わらない。ただ一つ違うことがあるとすれば、隣の少女が熱心に何かに取り組んでいると言うことだ。
(何してんだろ……)
疑問に思いながらも彼女を眺めていると、昨日会話をした少女の姿が重なって見えた。
「……ッ?!」
それ即ち、どこか似ていたのだ。かつての自分自身に。それを理解した瞬間に、彼女を直視することが辛くなってきた。
現実から目を背けるために、彼は鞄の中から取り出した文庫本を読み始めるのだった——
——神田和希は元々、活発的で明るい少年であった。それと同時にとある事柄に情熱を注いでいた。それは、音楽だ。
両親の影響を受け幼い頃から音楽にのめり込んでいた。その中でも特に歌うことに対して。だがしかし、音楽が大好きだった頃の彼はとある事象をきっかけに消えてしまう。
彼が小学校を卒業し、中学校への入学を目前としていたとある日に、彼の両親は事故で他界してしまい彼の心に大きな傷痕を残した。そしてそのショックは失声症として彼の身に現れ、歌えなくなってしまった。
そんな彼は親戚に引き取られ中学校に通うことになり、そこから1年経つ頃には以前同様に言葉を発せる様に、歌えるようになっていた。
だがその時既に、彼の中での音楽への情熱は失せてしまっており自ら進んで歌うことはなくなっていた。そしてそれは、今の彼まで引き継がれてしまっている——
結局和希は、その日の半分ほど現実から目を背けていた。そんな彼は誰もいない茜色に染まった薄暗いの教室の中で1人机の前に座っていた。
そしてただひたすら見開きに文字がびっしりと刻まれたノートを眺め続けていた。
「はぁ……」
大きく溜息を吐いた和希はそっとノートを閉じる。その直後、廊下の方からこちらへと向かってくる足音が彼の耳に届く。
「あ、神田君」
足音を引き連れて現れたのは——沙綾だった。
「山吹……もうそんな時間か」
沙綾が姿を表したことにより、自身が長時間この場にいたことを再認識する和希。そんな普段とは少し違った反応を見せる和希に対して沙綾は問いかける。
「もしかして、普通科の授業終わった後からずっと残ってるの?」
「ああ。少し考え事をしたくてね」
そう言って、先程閉じた『ユメ』と題されたノートを鞄にしまう和希。
「さてと、俺はこの辺で失礼しようかな」
「うん、気を付けてね」
「ありがとう。山吹も授業頑張れよ」
短い会話を交わし、和希は教室を去る。そんな彼の背中を、沙綾はどこか寂しげな視線で見送るのだった——
学校を後にした和希は、1人神田川沿いを歩いていた。薄暗くなり始めた頃合いの川沿いに人影は見えない。人気の無い世界の中にあるのは、遠くから微かに聞こえて来る車の走行音と、川の流れる音のみ。静かな世界にただ1人。何も求めることなく彷徨う。
そのことに、彼は一種の心地よさを覚えた。もし許されるのならいつまでも、こうしていたい。何も考えずに——っと。
夜風を浴びながらゆったり歩みを進めていると、開けた場所に到着した。
「……公園か?」
備えられた遊具を眺めながら、徐に呟く和希。すると、どこからともなく新たな『音』が彼の耳に届く。
「アコースティック……?」
微かに聞こえるその音色に彼は足を止め、瞳を閉じ聴き入る。
「これは……『HELLO,GOODBY』か。上手だな」
世界で1番有名なバンドの楽曲にして、彼がかつて好きだった楽曲。暫くの間その楽曲が奏でられていたが、突如として曲が切り替わる。それと同時に彼は、自身の中での違和感を覚え始める。
「あれ……この曲……」
歌詞は愚か、曲名も知らない初めて聞くはずの楽曲。しかし、彼はこの曲の旋律を知っている気がした。
「——『なんとか』の名の下に、だったっけか。ダメ、思い出せない……」
頭の中に浮かび上がった単語を言葉にするものの、記憶が曖昧になってしまっており肝心なところが抜けていた。
そのことに落胆した和希は、そっと閉じていた瞳を開き目の前にあった滑り台の上へと視線を向ける。
するとアコースティックギターを抱えた長髪の少女と目が合う。そんな2人は暫くの間無言のまま見つめ合う。
「あ、あの——」
沈黙を突き破るかの様に、和希は目の前の少女に言葉を投げる。すると、そこから数秒遅れてビクッと反応を示した少女は、ギターを背負うなり脱兎の如く走り去ってしまう。
「……速っ」
公園に1人残された和希はただ呆然と立ち尽くすのだった。
——微かな煌めきが、夕闇に浮かび上がった。