非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか? 作:色付きカルテ
「ううぅっ……ぐすっ……うう゛う゛……おうち帰りたくないようぅ……」
学校からの帰宅途中。
心が痛くてぐすぐすと鼻を鳴らしながら、私は覚束ない足取りで歩いていた。
頭の中を駆け回るのは、今日の朝に勃発した桐佳との喧嘩。
トラウマのように何度も思い浮かぶあの時の情景が、自分のこれまでを否定するように何度も私に圧し掛かる。
今日はずっとこんな調子だ。
申し訳ないが、顔を青くして心配してくれた袖子さんやなんだか異常に優しかった鯉田さんの言葉も耳に入らなかったし、今日は誰とも目さえ合せなかった。
何に対してもやる気が出ず、自分の殻に閉じこもるのに必死。
それくらい、私は今日の事が本当にショックだったのだ。
「がっ、頑張ったのにっ……頑張って、鍛えて来たのに……あんなに簡単に投げ飛ばされてぇ……! 桐佳に勝てると、思ってたのにぃ……!!」
別に今更、桐佳の反抗がショックだったのではない。
単純に、桐佳に喧嘩で負けたことが死ぬほど悔しかった。
だってそうだろう。
これまで私は神楽坂さんの監修の下、自分のバケツに穴が空いたような体力を向上させるよう目指して努力してきた。
半年以上の時間を掛け、体力も付いたし、筋力も増えた。そういう自信があったのだ。
色んな人に褒められることも多々あったし、これまでには無いほど自分の体力面に自信を持っていたのが今朝までの私だった。
そしてそんな自信満々だった天才少女燐香ちゃんは当然、日々勃発している妹との諍いにようやく勝利する事が出来る事を半ば確信していたのである。
最近、姉を姉とも思ってないんじゃないか疑惑が濃厚となっていた桐佳に、分からせる時が来たのだと思っていたのだ。
だが、蓋を開けてみればこの結果。
完膚なきまでに自信を喪失した私が痛みも相まって号泣するのは必然であったし、これまでの努力を否定されたような事実にショックを引き摺るのも当然だった。
「ううっ……投げ技なんてどこで覚えて来たのぉ……力では、力では負けて無かったのにぃ……こ、今度は神楽坂さんに投げ技への対処法を教えて貰わないとっ……」
(御母様、元気出しテ……?)
「元気なんてでないよぅ……。悔しくて、皆の前で泣いちゃって……お姉ちゃんとしての威厳が……遊里さんだって私の事駄目駄目な奴だって思ったに違いないんだぁ……」
シクシクと道の真ん中で頭を抱えてしゃがみ込めば、周りの通行人達がぎょっとしたように私を迂回していく。
流石にこのままでは邪魔になるかと思い直し、歩道の端にある植栽帯のブロックへと移動し腰を下ろして、建物の広告を眺めて精神の安定を図ることにした。
ぼんやりと無味乾燥な広告を眺めていれば、恐る恐るマキナが声を掛けて来る。
(お、御母様……定例の、異能持ち達の状況報告をしても良いカ!?)
「……そういう気分じゃないけど……気を紛らわせられるかもしれないから、お願い……」
(うむ、まずは現状の説明からダナ! 現在この国に入って来ている異能持ちはICPOの二人。目的は神薙隆一郎への面会と日本政府及び警察との情報交換のようダ。御母様が刑務所に叩き込んだ異能持ち達の脱走する素振りもなし。刑務所内の奴らに対して他に接触した者も、刑務所の看守や政府と警察の高官だけで特異な人物はなし。後は和泉雅が接触した際に妙な反応を示した相手もいたが、相手を考えると不審では無かっタ)
「うん、ありがと…………ん? あのサイコパスが妙な反応をした相手って誰?」
私のへこんだ気分を変えようとマキナが始めてくれた報告を聞いて、思わず聞き流しそうになった妙な点の確認を行う。
あのサイコパス。
お兄ちゃんや神楽坂さんを襲った過去があり、私が捕まえた異能持ちの中でも最上位の危険性を持つあの女は、在り方からして厄介極まりない。
所持する異能の性質、銀行強盗の計画立案を行う知性の高さ、そして恐怖や戸惑いといった感性が非常に鈍いことによる躊躇の無さ。
どんな凶悪で悪辣な手段も眉一つ動かさず実行に移せるあの女の精神性は、厄介さでいうなら、奴が妄信する神薙隆一郎よりも上だろうと私は思っている。
世間では神薙隆一郎が表立って騒がれているが、悪人としての適性なんてものがあるとするなら、間違いなく奴が最上位に位置する。
私の監視対象の中でも飛び抜けて優先度が高い存在。
そもそも今は罪を償っているとはいっても、何かの間違いで野放しになったら大変だから、私が精神を根本から歪めるべきだとは思うのだが……まあ、『首輪』は設置しているのでとやかく言うつもりも無い。
保険を掛けている以上危険性は低いと思うが、それでも私は奴に関して油断するつもりは無かった。
例え僅かな反応であっても、見落としを徹底して排除しようという警戒を持っていたのだ。
だが、そんな私の引き上げられた警戒を余所に、マキナからの返答は取り敢えず納得のいくものだった。
(んと、飛禅飛鳥だナ。その時は特に会話も無く、異能持ち達の様子を一通り見て帰ったゾ)
「えー……? ……まー、飛鳥さんだったら何かしらの反応はしそうだし、その場にいてもおかしさはないかな……? でも、飛鳥さんってもう働いてたんだっけ? まだ異能も使えない期間なのに……何か緊急だったのかな? 一応後で確認だけしとこうかな……」
マキナの返答に私は取り敢えず安心する。
飛鳥さんであれば異能持ち達が収容されている場所を確認するのも不思議ではないし、サイコパスの方が反応を示すのも理解できる。
先日飛鳥さんの家に訪問した時はそんな話はしていなかった気もするが、まあ、警察の仕事で突然やらなければならない予定が入ってきても不思議ではないのだろう。
刑務所の人から「異能持ち達が怖いから定期的に視察に来てくれ」と言われれば、飛鳥さんの立場的にはいかざるを得ない事もある筈だ。
そうやってつらつらと考えを巡らせていれば、自分が先ほどまでの鬱屈とした気分から少しだけ脱する事が出来ているのに気が付く。
面倒ごとも、こうして気を紛らわせるのに適しているタイミングはあるものだと思う。
「ふう……後はICPO。ICPOね……最初は正体の分からない海外の組織って思って怖かったけど、私が何度か遭遇しても特になんとも無い事を思うと最初ほどの怖さは無いや。国境も関係なしに色んな異能犯罪を解決してるのは本当に凄いと思うけど、目の前で何の対策も無く異能を使うなんてことはしないでちゃんと考えて立ち回れば、私としては特に問題も無さそうだよね。何も無ければ向こうから積極的に絡んでくることも無いだろうし、こちらからアクションを起こす必要は無いかな」
(当然ダ! 御母様とマキナは最強だからナ! むんむん!! ICPOがなんダ! 御母様に勝てる奴はこの世にいないんだゾ! むふー!)
「ふへへ……そうだ。確かに私の身体能力は弱いけど、私にもこういう特技はあるし、別に自信を無くす必要は無いよね、うん…………まあでも、今日も桐佳達は学校終わるの早いだろうし、勉強の邪魔をしても悪いから久しぶりの気分転換にゲームセンターに行って遊んでこようかな……」
(あれ……御母様弱気……? なんで……? マキナと御母様は最強だゾ……?)
マキナは何か勘違いしているようだが、別に私は弱気なわけではない。
妹や遊里さんにと顔を合わせ辛い訳ではなく、久しぶりにゲームセンターで遊びたいだけだ。
そもそも私は基本的にスポーツ以外なら何でも楽しめる人種。
特に自分の得意分野で他人を圧倒するのが大好きな性格の悪い人間でもある。
そういう事をして自分のストレスを発散することに何の躊躇いもありはしないし、なんなら見知らぬ他人相手にこっそり異能を使って有利に立ち回ることにすら罪悪感を覚えないとんでもド屑だったりする。
そんな私が、今回もちょっと積もり積もってしまったストレスの発散にゲームセンターを選ぶというだけの話である。
(ゲーム、センター…………そうだ御母様! マキナと戦わないカ!? マキナやったこと無いけど多分強いゾ!)
「やったこと無いのに強いって……? それは別に良いけど……私基本的にゲームとか凄い強いよ? 小さい時ボコボコにしすぎてお兄ちゃんは将棋辞めさせちゃったし、桐佳は私と対戦ゲームは絶対にやりたくないって宣言するくらいだし、たまにやるお父さんとの戦いも一方的で負けたことは無いし……マキナ勝てなくて泣いちゃうかもよ?」
(むふー! 楽しみダー! 今の内にゲームセンター内にあるゲームの世界ランキング上位者の動きを学習しておくゾ! むふふー!)
意外なところからのライバル出現。
家族や身近な人は私の強さを知っていて、そういう勝負事は絶対にやろうとしないから、逆にこうして嬉々として勝負を挑まれるのはかなり新鮮なものだ。
身近な相手がこうして戦いを挑んでくるだけで、なんだか嬉しくなってしまう。
とはいえ、いくらマキナの性能が飛び抜けていたってゲームに関しては初心者な事には変わりない。
世界ランキングの上位者とやらの動きを学習したとしても私が得意分野であるゲームで負ける未来なんて見えないし、流石に多少の手加減はしてあげないとなぁ……なんて、そんなことを呑気に考えながら、私は目的地を定めて立ち上がった。
そんな私の出鼻を挫くように背後から声が掛けられる。
「――――お姉さんだ! わあ、本当に会えるなんて思ってなかった! お姉さーん!」
「!!??」
突然掛けられた大きな声に驚き、固まる。
植栽帯のブロックから腰を上げた状態で停止し、嫌な予感を感じつつゆっくりと振り返る。
予想通り、振り返った先にいたのはかなり遠くの位置から人ごみを掻き分け、大きく手を振って全力でこちらに走って来る金髪の少年の姿だ。
以前、神薙隆一郎のいる病院で遭遇した異能を二つ持つ超絶天才少年。
彼の異能によって大きく地面が割られ、無様に転げ回ることになった光景が脳裏にはっきり思い起こされる。
(御母様、ICPOのレムリアだ。以前御母様の厚意に甘えまくっていた例の厚顔無恥のクソガキ……)
「あ、あんな遠くから前にちょっと会っただけの私を見付けてきたの……? あの子供、視力良すぎだし、そもそも記憶力が凄すぎじゃない……?」
いやまあ、異能を持っているとはいえ、小学生くらいの年齢でICPOなんていう国際機関に所属するのだから相応に優秀なのは分かっていたが、それでも気軽に常人越えをしてくるのは勘弁してほしい。
ガッチリと私を視界に捉えている彼から逃げるのは流石に無理だと判断して、私はレムリア君が来るまで待つことにする。
ものの数秒の内にニコニコと純粋無垢な笑顔で私の元まで走って来た彼は、私の両手を掴み嬉しさを示すように体をぴょんぴょん跳ねさせた。
「お姉さん久しぶり! わぁぁ! 絶対に会えないと思ってたのにこんな偶然あるんだね! 病院の時のお礼も前は充分に出来なかったから、絶対また会いたいって思ってたんだ!」
「へ、へえ……」
「連絡先も聞けなかったし、前に会った時はお姉さんも僕も大変だったから全然お話も出来なかったし……でもこうしてまた会えて嬉しいな! えへへ……お姉さん、今時間大丈夫?」
「えっと、まあ、少しなら……私、家に帰ってご飯作らないとだし、あんまり長いこと話したりはできないかなぁ……」
「えー!? そうなの!? 残念だなぁ……」
取り敢えず予防線を張りつつ、頭の中でどうにか逃げる算段を整える。
異能持ちの正確な位置を常時捕捉していなかったことに若干後悔するが、別に悪い事をしている訳でも無いのだから堂々としていれば彼が疑いを持つことは無いかと思い直す。
難しい話ではない。
今の私に必要なのは、出会ってしまった彼に対する適切な距離感と対応だけである。
「でもまあ、今は特に僕も暇がある訳じゃ無いからなぁ……。その、詳しくは話せないけど、今はね世界が大変なんだよお姉ちゃん! でも安心してね! 日本は他の国に比べて凄い安全だし、何よりも僕達が頑張って世界の大変なことを解決するからね!」
「……そっか、レムリア君は偉いね。ありがとね」
「ぼっ、僕の名前を憶えてくれてたの!? わあ、凄く嬉しい!!」
(むうぅ……こ、このガキぃ……!)
私のそんな淡白な反応にもレムリア君は本当に嬉しそうに頬を桜色に染めてはにかんだ。
純粋そうなレムリア君の裏で色々な算段を立てている事に若干の罪悪感はあるが、流石に彼の立場を考えると何も考えず仲良くなる事なんて出来ない。
何を話そうかと顔を俯けて視線を迷わせている姿は普通の子供のようなレムリア君だが、希少な異能持ちの中でもさらに希少な、二種類の異能を持つ本物の天才なのだ。
どんな国や組織も喉から手が出るほど欲しがるだろう彼の価値を考えれば、親密になんてなれる訳が無い。
というか人柄を度外視したら、絶対に友達にもなりたくない相手だ。
「本当は、せっかく会えたから色々お話したかったけど…………せ、せめて連絡先を教えて欲しいなっ……なんてっ」
「ヒヒッ、何だい。色々言っていた割には随分情熱的じゃ無いか。こんな年寄りを置いて一人で走って行ってしまうなんて、レムリアは酷いねぇ……」
私が純粋な好意を向けて来るレムリア君の対応に四苦八苦していると、彼の背後からもう一人の人物が声を掛けて来た。
あっと驚いた顔をしたレムリア君と共に、私は声の主を見る。
上品な老女。
編み込まれたプラチナブロンドの髪や深い皺が刻まれた肌。
カーディガンを羽織り、杖を突いていながらも美しい姿勢を維持しており、周りには何人かの筋肉質な黒服を従えている姿は何処かの大富豪のマダムのよう。
美しい老人を体現したような女性がそこにいる。
だが何よりも、私が目を奪われたのは彼女から僅かに発せられる圧倒的な年期を感じさせる程に練り上げられた異能の出力だ。
(嘘でしょ。この出力、今まで会って来た誰よりも……いやそれよりも、この出力どこかで……)
(気を付けろ御母様。ソイツは、ICPOの最大戦力――――)
私の視線に気が付いたその女性は、レムリア君に向けていた悪い魔女のような笑みを優し気なものへと変えた。
子供好きな老人のような優しい表情で、打算と警戒を完全に腹の内に隠して、その老女は私に対して親し気に話し掛けてくる。
「――――はじめましてだね。私はヘレナ・グリーングラス。ウチの奴らが世話になった話は聞いてるよ。会いたかったよお嬢さん」
「……うげぇぇ……おうち帰りたいよう……」
世界中見渡してもこれ以上ない程の最悪の相手。
神薙隆一郎や山峰衿嘉、あるいはそれ以上の老獪な気配を感じた私は、無意識の内に嫌そうな顔でそう言ってしまった。
‐1‐
日が暮れ始める時間帯。
買い物を楽しんでいた桐佳と遊里は現在、開店したばかりのショッピングセンター内でも格式が高そうなレストランの中にいた。
とはいっても、好んでこんなレストランに来ている訳でも、格式が高い場所としては不釣り合いなほど大量に並べられた目の前の料理を楽しんでいる訳でも無い。
ニコニコと心底楽しそうに自分達を眺める女性のごり押しに屈し、少しだけという話でこのレストランへと連れ込まれてしまっただけだった。
「さあさあ遠慮しないで! ここのお会計は全部お姉さんが持つからさ! 年頃の桐佳ちゃんと遊里ちゃんは何日か分の食い溜めする勢いで食べないと! あっ、タッパーとか持ってる? 気に入った料理があれば詰めて持って帰っても良いよ? 店員さーん! タッパー貰えたりしないですかー?」
「おっ、お客様っ、そういうのは他のお客様のご迷惑となりますので……!」
「えー、ケチだなー……ちょっとだけ。こっそりやるからさ。だめ……?」
「駄目です!」
しょんぼりと肩を落として、ごめんね全部食べなくちゃ駄目みたい……と言う自称大人の女性の姿に戦慄を覚え、桐佳と遊里はお互い目配せさせてひそひそと内緒話を始める。
「なんなの桐佳ちゃん……! このお姉さんどこで拾って来たの!? い、いきなりこのお姉さんを連れて戻って来たかと思ったら、食事に連れて行かれるし……! メニュー表を見る間もなく色んな料理を注文しちゃうし……! こ、こんな高そうな料理がいっぱい並んで……私絶対払えないよう!」
「わ、私だって払えないよ! こんな品の無さそうなお姉さんの『お会計は任せろ』なんて言葉は信用できないけど……で、でもっ、絶対お礼するんだって話を聞かないし、大人のお姉さんに相談をしなさいとかうるさかったし!」
「そんな人に絶対着いて行っちゃ駄目だったよぅ……お、お皿洗いのアルバイトを何時間やったら許してもらえるかなぁ……」
「あれー……お姉さんなんだか不審者を見るような目で見られてない……? おかしいなぁ、お姉さんの完璧な美貌を前にしたら大体の人は無条件で信用するんだけどなぁ……」
年下二人に完全に信用されていない事を察した女性はそんなことを悲しそうに呟いて、いじいじと机に指先を当てていく。
そして、メニュー表を見せて料理の金額を気にさせないようにと一気に注文した自分の行動が裏目に出ている事を、未だに一切手が付けられていない料理で確認すると、溜息混じりに店員を手招きした。
「なんだか不思議なんだけど、この子達にお金が払えないかもって心配されててさ。この子達食事が楽しめないみたいだから今の注文分だけ先にお会計させてくれない? はい、カード」
「はぁ、それはまあ、構いませんがっ…………んっ!?」
「あっ、店員さんもお姉さんが払えないとでも思ってたなー? 酷いなぁもうっ……」
言葉に詰まった店員に対してヘラヘラとした軽い態度を維持する女性。
店員が渡されたカードに息を呑み、深々と頭を下げ、慌てて会計を終わらせようと小走りで去っていくのを見送って、店員とのやり取りに目を丸くしている桐佳達へと向き直った。
そしてふにゃりと表情を崩す。
「いやあ、でもこうして可愛い子達と食事が出来るなんて最高だね。おかずが無くともご飯三杯はいけちゃうよ。ねえねえ、お姉さんと食事の後もどこか遊びに行ったりしないかなって。お姉さん奮発しちゃうよ?」
「なんで一々言動がおっさんみたいなの!? 今の流れなら素敵なお姉さん枠への挽回もギリギリ出来たんじゃないの!?」
「き、桐佳ちゃん! それは流石に初対面の人に失礼だよ……!」
「えへー、桐佳は可愛いなぁ」
「呼び捨ての名前呼び!? 距離の詰め方激しすぎなんだけど!?」
「桐佳ちゃんー……」
桐佳の鋭い突っ込みにもなんのその。
嬉しそうに表情を崩す女性は被ったニット帽を整えながら、「さて」と仕切り直す言葉を口にした。
「私としてはいくらでも談笑していたいけど二人はそういう訳には行かないだろうし、そろそろちゃんと相談に乗るよ。お姉さんこれでも結構な人生経験があるからさ。大概の相談には応えられる筈だよ? あ、あとミクちゃんって呼んでね?」
「……相談って言っても」
視線を下げる。
初対面のこんな人に何を相談するのだろうと、ちょっとでも揺れた自分の心を後悔する。
だがそんな桐佳の感情すら読んだように、目を細めた女性はしみじみと頷く。
「分かるなぁ……見ず知らずの人に、ううん、それどころか親しい人にも話せないような不安や怖さがあって。ただただ自分で抱え込んじゃうそういうほの暗い気持ちって、絶対あるものだよね。でもそれってさ、ずっと自分で抱えるのは苦しいよ? 自己解決するだけが正解じゃないとお姉さんは思うよ?」
「……お姉さんもそういうことあったんですか?」
「うーん、まあ、まったく同じっていう話じゃないけど、似たような時はあったよ。周りに押し付けられる期待とか、勝手に思い描かれた理想の自分とか、そういうのを必死に演じようとする自分とかに板挟みになって。それで…………まあ、にっちもさっちもいかなくなった時期はあったんだよ。あっ、あとミクちゃんって呼んで?」
「……それじゃあ、お姉さんは……」
頑として希望する名前を呼ばないことに「酷い……」と涙目になる女性だが、そんな事は気にも留めず桐佳はじっと女性の目を見詰めた。
「素直になる……演じないようにするのって、どうやりますか? 積み重なった関係性で、思わず思っても無い事を言ってしまうのはどうやって……」
「お姉さんの場合は一度自分の本心を解析して、それをどう表現するかを考えるから全く演じないって言うのは難しいかな。でもそうだなぁ、多分桐佳ちゃんにとって一番簡単なのは馬鹿になる事だと思うなぁ。何にも考えない。単細胞になっちゃう。その時思った事を何も考えないでそのまま口に出す。そうすれば自分の本心が勝手に表に出ちゃうものだからね」
「……そんな単純な話じゃ……」
「桐佳ちゃんはさー、色々考えすぎなんだよー。犬とか猫を見て可愛いって言うのに何か恥ずかしさを感じる? 虹とか流星群を見て綺麗って言うのに何か恥ずかしさを感じる? 好きな人に好きって言うのとそれらに何の違いがあるの? 要するに、その後を考えるから素直になれなくなるんだよ。後先を考えないでその時思った事を無条件で口にしちゃえば、少なくとも変な取り繕いは無くなると思うなぁ」
あっけらかんと適当にそう言った女性は手元にある料理を摘まんだ。
上品さの欠片も無い、親指と人差し指で摘まむ所作に周りの人達はチラリと様子を見てくるが、何故だかそんな女性の前にいる桐佳と遊里は不快感なんて覚えなかった。
ペロリと指先を舐める品の無いような動作にさえ、独特な色香を魅せるこの女性の仕草はある意味洗練されている。
「自分はどう思われているんだろう、とか、この後どうなるだろう、とか、言った後どう思われるだろう、とかね。そこら辺の考えは全部本心を出す上での障害にしかならないんだよ。頭良いと言われる人間は全員人間関係上手くやれてる? 天才と称される人達は周囲との関係を上手く回せてる? そんな訳ないでしょ? 考えすぎる事は逆に人間関係っていう紐をややこしく絡ませるんだって。本心を伝えたい相手くらいには何も考えない言葉や態度で接した方がまだ解きやすい絡まり方をするよ」
「……」
「……」
こんなお調子者な女性の口から出るとは思いもしなかったような綺麗に並んだ言葉を聞いて、桐佳と遊里はぽかんと口を開けて放心してしまう。
捉え方によっては言われている内容は間違っていないのだろうと、そんな風に解釈を終えた桐佳が思わずむせた。
「んう゛!? ……な、なんだかそれっぽいアドバイスされてる……? こ、こんなガサツっぽい女の人に……!?」
「ひっ、酷い!? 遊里ちゃん今の聞いた!? 今の桐佳ちゃんの発言っ、完全に何にも考えて無い本心の言葉だったよね!? ね!?」
「あ、あははは……桐佳ちゃんは、今は本当に余裕がないので。ちょっと失礼なことは勘弁してあげてください……」
「遊里ちゃんのそういう、こてこてに取り繕った言葉も傷付くんだってー……」
シクシクと下手くそな泣き真似をしてから、女性はビシッと桐佳を指差した。
姉が妹を褒めるような雰囲気で、気安い表情で笑う。
「うんうん。でも、そういう感じだよ桐佳ちゃん。思った事を口にしちゃえばいいのさ。変な事を言ったって、桐佳ちゃんのお姉さんは笑ってくれるでしょ? 当たってみて、砕けて逃げるかはそれから考えれば良いんだよ!」
「それは、まあ……そうなんでしょうけど……?」
あれ、と感じた違和感。
この人に姉の話なんかしたかな、なんて思ったものの、騒がしいこの人との会話でポロッと口にしていてもおかしくはないかと思い直した。
別に自分が姉の話をするくらい珍しくも無いのだから、なんてそんなことを思う。
「……ま、本心からの罵倒を受けられるくらい気を許してもらえたと思ったら良いかな。むしろお釣りが来ちゃうよ、へへー。ねえねえ、連絡先交換しない? お姉さんもっと親しくなりたくなっちゃったー」
「え、えー……ど、どうしよっか」
「ううん……」
「こんなにもアタックしてるのに欠片も気を許してもらえてなかったぁ……! 連絡先も交換できないなんてお姉さん大ショックだよぅ……!」
ぐすぐすと今度は若干本気っぽいベソを掻き始めた女性が戻って来た店員からカードを受け取り、先程とは違う、最低限店に合う様な丁寧な食べ方で料理に手を伸ばし始める。
お互い目配せして躊躇する様子を見せる桐佳と遊里に食事を勧め、おずおずと口を付け始めた二人を見て心底嬉しそうに表情を崩した。
子供が温かい食べ物を口にしている光景。
それを嬉しそうに眺める女性は色々と問題のある人ではあるけれどきっと優しい人なんだろう、なんて。
結局そんな風に目の前の女性の人となりを判断した桐佳と遊里が安心した様子で料理に舌鼓を打ち始めてから、少し。
ピクリと、ニット帽の女性の眉が動いた。
「――――……」
唐突に、目の前の女性が表情を消した。
喜怒哀楽、色とりどりの感情を見せていた女性の顔から完全に表情が消えた。
まるで目の前で突然、人間だったものが人形になったような変貌の仕方に、二人はこれまで感じたことも無いような恐怖を覚える。
「…………お姉さん?」
「どうか、しましたか……?」
「……ごめんねぇ二人とも」
指先一つ反応できなかった。
立ち上がるのも、机越しに手を伸ばしてくるのも、桐佳と遊里の首元を掴んだ動作も、決して速い動きでは無かったのにあまりに自然過ぎて反応すら出来なかった。
だから、その女性に首元を掴まれた二人はそのまま――――