非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか? 作:色付きカルテ
最近は仕事からの帰宅が早い父親の佐取高介とパートから帰宅した遊里の母親である黒川由美に対して、疲れたように溜息を吐いた優助が向かい合って座っていた。
と言うのも、優助から彼らに対して、二人がいなかった朝の姉妹喧嘩の状況を伝えているのだ。
喧嘩の勃発理由やその経過、そして如何にして燐香が号泣するに至ったのかを説明したものの、心配そうな表情を浮かべる由美とは反対に父親はのんびり苦笑している。
真剣に話を聞いていないような父親の態度を前にして、優助は眉間に皺を寄せた。
「なるほどなぁ、勉強熱心な優助が大学を休んだって聞いたから何事かと思ったけどそんな事があったのか。色々考えなくちゃだけどそれはともかく、妹達の為に学業を休むなんて優助も変わったなぁ、お父さん嬉しいよ」
「茶化すなよ。俺が言いたいのはそういう事じゃない。燐香の奴は何だかんだ大人だから結局色々と譲歩する形を取るとは思うがそれでもアイツもまだ子供だ。最近の意固地な桐佳の売り言葉や買い言葉で変に拗れた時、俺らがどうフォローを入れるのかって話をあらかじめしたいんだよ」
「あはは。いやあ、そこまで心配する事無いと思うけどね。まあでも、まさかあの二人の喧嘩がそこまで加熱するなんて思わなかったよ。それに、燐香の捨て台詞も中々だね。多分、精神的なダメージは桐佳の方が大きそうだ」
「そ、それより燐香ちゃんは大丈夫なんですか? あの子が泣いちゃうなんて相当痛かったんじゃ……桐佳ちゃんの事を悪く言いたくないけど、あんまり暴力的なら注意しておかないと……」
三者様々な反応を見せるそんな会話。
話を聞いてもどこまでも穏やかな父親の様子に若干苛立ちながら、優助は時計を気にして早く帰ってこないかと燐香を心配する由美を安心させるために声を掛ける。
「……一応本人は大丈夫と言っていました。頭も打ってなくて、受け身を取ってたみたいなので怪我とかは大丈夫そうです。けど、俺は実際に怪我の具合を見た訳じゃ無いので、燐香が帰ってきたら確認をお願いしても良いですか?」
「あ、うん。それは任せて」
「ははは、妹に対しての接し方の線引きもどうしたものかって悩むよな。俺も優助が一人暮らししたあと家でどう娘達と接するべきかと頭を悩ませたよ」
「……父さんが楽観的過ぎて俺は頭が痛くなってきた」
これが三児の父親で40代の大人なのかと、優助が肩を落としながら遠い目をする。
一度はこの家から逃げ出した自分が言える事ではないのだろうが、唯一の保護者がこんな様ではこれまで燐香の気苦労は絶えなかっただろう。
そんなことを考えて、思わず燐香に同情が湧いてしまう。
眼鏡を外して目元を抑えていた優助が、自分一人が空回っている訳じゃ無いよなと不安に思い始めた時に、ふと気が付く。
「そういえば燐香はともかく桐佳と遊里さんの姿を見てないな。受験間近だから桐佳達の授業終わりって早い筈だよな? あの二人はもう帰って来てるのか?」
「そういえば見てないね。でも時間的にはもう帰って来てるはずだから部屋で勉強でもしてるんじゃないかな? 由美さんは見たかな?」
「私も見て無いですね……ちょっと部屋を確認してきます」
優助の疑問に不思議そうな顔をした由美が「遊里?」と名前を呼んでリビングから二人の部屋がある二階を窺い、それでも返事が無い事に不安そうな表情を浮かべ確認へ向かった。
優助的には、「どうせ喧嘩をした手前家に帰りにくいからどこか寄り道でもしてるのだろう」とは思ったが、良い機会なので由美にはこのまま席を外してもらうことにする。
子供想いな由美の後ろ姿を見送り、優助はぐるりと自分の父親に顔を向けた。
「……で? 今回の喧嘩を見ていて思ったが、そろそろ軋轢が出て来る頃合いだと思うぞ父さん」
「ん? 何がだ?」
「……父さんがどう考えているのか知らないし、深く聞くつもりも無いけどな。由美さん達と同居している以上生活環境に差があるのは悪影響にしかならない。遊里さんの時期が時期だから、彼女達をもう少しここに住まわせるのは良いけど、その後どうするかはいい加減決めておけよ父さん」
「…………」
「由美さんの事、俺は良い人だと思ってるぞ」
良い機会だからと遠回しにそんな話をして、優助は廊下を見遣った。
色々あったようだが、あの燐香や桐佳に心を許されている人はそういない。
もう半年ほど同居している事や普段の態度を考えると、どうせ父親も由美も、歳の近い子供がいるお互いを内心憎からず思っている事は確定なのだと優助は思っている。
今の関係性が心地良いのは分かるが、そのうちそれぞれが与えられているものの違いから擦れ違いが起きるのは確実だ。
現在のそれぞれの立場だと、何かあった時にはどうしたって我慢をするのは全部由美や遊里になってしまうのだから、そろそろ関係を明確にするべきだと優助は思うのだ。
それにもしも、家族がもういない母親の事をいつまでも引き摺っているのなら、それもそろそろ解消する方が良いに決まっている。
報われることの無い死者への想いよりも、今を生きる身近な人への想いを大切にするべきだと優助は思うのだ。
……あの厄介極まりない亡き母の実家との関係を少しでも断つためにも、と優助は思う。
黙ってしまった父親の様子を見る事も無く、優助は手持ち無沙汰を解消するために何気なしにテレビの電源を入れた。
そしてその報道を目にしてしまう。
「……なんだこれ?」
たまたま付けたテレビの画面がどこかの報道番組で、速報を伝えるテロップといやに早口なアナウンサーの様子に驚いた優助は何事かと目を丸くする。
どこかの現場を映している映像を背景に、アナウンサーは笑顔の無い焦りを浮かべた表情で、走って来たスタッフから渡された資料を読み上げ始めた。
撮影者の息遣いや画像の乱れ、機材を使わず緊急で撮影しているだろう事が分かる程にブレがあるその現場の映像からはやけに緊迫感が伝わってくる。
『————救出作業が進められていますが現在も具体的な被害状況、負傷者の数も不明。建物の崩落や内部状況など分かっていない事は多く、救急隊員や警察官の活動も突入までには至っていない様子です。また、ハイジャックされた飛行機による衝突の可能性もあると見られており、ハイジャック犯の内部での活動も視野に入れて慎重に行動するため、現場には絶対に近付かないようにと警察庁より連絡が来ております。皆様、くれぐれも現場へは近付くことが無いよう宜しくお願いします。もう一度繰り返します、本日午後5時過ぎに新東京マーケットプラザに飛行機が墜落する事故がありました。本件は――――』
流れる現実とは思えない情報の羅列に優助は目を瞬く。
ありえないと一笑しようにも、過去に自分の目の前に現れた想像もしなかったような銀色の怪物の姿が脳裏に浮かび、言葉に詰まってしまう。
「なんだこれ? 飛行機の墜落? 新東京マーケットプラザって確か、俺の大学に行くまでの駅の近くに最近出来たばかりのところだよな? 割と近いし……父さん、これさ」
「……こんな事故があるんだね。それに、ハイジャックでの事件の可能性もあるなんて……取り敢えずウチにまで影響は無いだろうけど一応外出は控えるようにしないとね。燐香に早く帰ってくるように連絡して、桐佳と遊里さんにも連絡をつけないと」
にわかには信じがたい報道に反応が遅れながらも、優助に促された父親は家族の安全を確保するために今この場にいない子供達へ連絡を取ろうとした。
驚くような大事件が身近で起きているのは理解したがそれでもまだ自分の事だとは思えず、画面の先で作られた誰かの物語の事であるように、優助とその父親にはまだ焦りはなかった。
だがそんな時に、桐佳と遊里の様子を見に行った由美がリビングに戻って来た。
片手には自身の携帯電話を持ち、困ったように眉尻を下げ、首を横に振っている。
「やっぱり二人とも部屋にいないみたいで……今気が付いたんですけど、遊里から連絡が来てました。喧嘩しちゃった桐佳ちゃんの気を紛らわせるために新しく開店したショッピングセンターに行ってくるって……」
「……ショッピングセンター?」
目の前のテレビから流される情報と少し前にあった遊里からの連絡。
その二つの点が彼らの脳内で繋がるまで、そう時間は掛からなかった。
‐1‐
それは桐佳にとってよく分からない光景だった。
到底桐佳には理解できないような、どうにも辻褄が合わないおかしな光景。
これまでの出来事は理解できた。
飛行機が自分達のいる建物に衝突してきた光景だったり、その衝撃で大きなショッピングセンターという建物が半壊され怪我人がいっぱいいる状況だったり、突然現れた変な男と子供が現実離れした攻防を行ったり。
連続したのはどれも現実離れした出来事で。これまで自分が過ごしてきた日常とは掛け離れた出来事の数々は信じられなくても何とか理解することは出来たのだ。
これが大事故と呼ばれるもので、それに伴う怪我人がいっぱい出て、現実離れした攻防をしている人達は異能と呼ばれる才能を持った人達なんだと理解できた。
想像の範囲外ではあったけれど、事前に知っていた情報から現状は桐佳にとって辛うじて理解はできる内容であったのだ。
けれど、それならこれはなんなのだろう。
『捕まえないとっ、捕まえないといけないんだぁ……!!』
『逃げないでっ! 貴方が逃げると私達が食べられちゃうのっ!! 何も悪い事をしていない私達が食べられちゃうのよぉ!!』
『痛い痛い痛い! 踏まないでくれぇ!!』
『逃げるなァ!! 降りて来い!!』
悪人と善人。
加害者と被害者。
誰かを傷付ける人と誰かを守る人。
どちらの方が味方が多くて、どちらの方が支持されるべきなのかなんて。
桐佳の価値観にとって、それらは疑問なんて抱かないくらい当然ものである筈だった。
例えばこの事故を意図的に引き起こした人がいるとして、その人は当然この場にいる被害者の誰にも支持なんてされるものではない筈だろう。
それが当然の価値観だと桐佳は考えていたのだ。
だからこそ目の前で起きた出来事が、今の桐佳にとって理解できるものでは無かった。
濁流のように互いを押し退け合い、金髪の少年目掛けて殺到する乗客達。
自分の怪我を気にもせず、倒れた誰かを踏みつけながら、状況が理解できず彼らから距離を取る少年に対して一心不乱に迫っていく知性を有しているとは思えない人達の姿。
事情を知らない桐佳が見ても、たった一人の子供を追い掛けまわす集団の様子はあまりに異常だ。
「……違う。あれは多分……もっと単純な……」
「あの人達、どうしてあんな様子がおかしいの……? いったい何が……」
「そ、そんなこと聞かれても、私にも分からないよ。でも、あの男の人が海外の指名手配犯なら……超能力を持っている筈だから……」
器がまるごとひっくり返ったかのような状況の変化。
先ほどまでは苦痛と暗闇と呻き声が支配していたこの建物の中が、一瞬にして狂気に満ちた鬼ごっこの会場へと変わり果ててしまった。
そして、その渦中にいるショッピングセンターに買い物に来ていただけの人々は、突然始まったその光景に理解が追い付かず、呆然とその鬼ごっこの様子を見る事しか出来ていない。
だがそんな苦境に立たされても、数で圧し潰そうとする相手を前に物理法則を無視したような動きで躱していく少年の動きは微塵も精彩を欠いていない。
その動きは洗練されていて、彼を追い掛けている只の乗客達がいくら時間を掛けようが到底捕まえられるようなものではないように思える。
そんなこと、素人である桐佳達も直ぐに理解できたのだから、当然当事者である少年も悟っているようで、焦ることなく追いかけてくる人達から大きく距離を取った。
そして、距離的な余裕を確保した少年はこの異様な光景の原因である銀髪の男性へ敵意を込めた視線を向けた。
『ははは、奴ら追い付ける筈がないのに必死にレムリア君を追い掛けてるよ。死に物狂いって奴なんだろうけど俺の言いなりになって子供を捕まえようと躍起になる大人の姿って情けないなぁ。もしかして以前君達に差し向けた奴らもこんな感じだったかい? 良いんだぜレムリア君そんな厚顔無恥な連中。君の異能で再起不能にしちゃえば全部解決さ。君だからこうして逃げられているけれど他の子どもが相手だったら簡単に捕まえられて見るも無残な目に遭うだろうよ、そんなことを自分の為なら迷うことなく成し遂げられるような自分本位な大人達なんだ。君が迷う必要もない、そいつらは俺と同じ性根の腐った摘むべき悪だよ』
『うるさいっ……! 誰がそんなこと……!!』
『おいおい、俺は君を追い掛けるそいつらとは違って心から君の身を案じて提案してるんだぜ? たとえ色々悪い事をやっている人間とはいえ、君の身を案じた提案までないがしろにされると傷付くなぁ。でもまあ……君はそういう子だよね。人の気持ちも分からない実験動物。正しい行いをしていればいつか人間になれるとでも思ったかい?』
『っ!!』
彼らの必死の鬼ごっこを嘲笑し、銀髪の男性は殺到する群衆の隙間をすり抜けるようにして瓦礫を飛ばし、位置を入れ替える事で接近してきたレムリアをやんわりと見据えた。
どんな原理かは分からずとも、操られているだろう人々を傷付けないようにと紡いだ反撃の一手。
だが、敢えて作らせた道を疑うことなく通って来た相手を捕まえることくらい、その男にとっては難しい事ではないのだ。
『だから言っただろう。まだ青い、と。経験不足だよレムリア君』
『————っぐぅぅ!』
優しく、受け止めるかのように。
攻撃を避けながらレムリアを捕まえて、銀髪の男性は軽く頭を触る。
その一瞬、銀髪の男性の体がぞわりと蠢いた。
まるで体の細部に意志が存在するように、不定形の蠢きを見せて、再び元の形に落ち着いた銀髪の男の姿。
それだけで、せっかく捕まえたレムリアを地面に下した彼は、完全にレムリアから警戒を解き、体を脱力させ思案する体勢に入ってしまう。
『……さて、なるほど。あのレムリア君が出てくるのは流石に想定外だったけれど、発掘してレアを当てるよりも最初から才能あるこの子を手中に収められたのは僥倖だね。ただこの子が来たという事は一緒に動いていたあの老女も確実に来る上、この国を標的としたことでやってくるだろう最悪の相手がいつ現れるかも分からない』
『……なに、これ……頭から……』
『まあ、心配する必要は無いんだけどね』
そして、レムリアを無力化した銀髪の男性がぐるりと周囲を見渡した。
飛行機にいた乗客以外の者達。
怪我をして動けない者やそれを助けようとしている者、状況が理解できずに様子を窺っている者や我先に助かろうと脱出場所を探す者。
銀髪の男性はショッピングセンターで買い物を楽しんでいただけのそんな人達をひとしきり眺め、いかにも無害そうな顔で笑うのだ。
『ここに来るだろう相手を考えるとあんまり時間も掛けずに籠城体勢を作っておかないといけないから……ううん、難しいな。自分の見たいものを優先してると結果的につまらない幕引きになりそうだから……』
異能持ち同士の衝突の終わり。
限られた人にしか与えられない絶対的な才能のぶつかり合いという滅多に見る事の出来ない光景を目の当たりにして動けなかった遊里が、苦しんでいるレムリアの姿を見て思わず動き出す。
「…………なんであの子供が、飛行機に乗ってた人達に攻撃されていたの? 体調が悪そうだし……た、助けに行かないと……」
「っ……駄目!」
ふらりと、膝を突いて頭を押さえている金髪の少年の元へ歩き出しそうになった遊里の手を、桐佳は咄嗟に掴んで止めた。
そうするのが正しいと思ったからではなく、単純に危ないと思ったからの反射的な行動だったが、信じられないように振り返った遊里と目が合い、思わず後悔する。
「桐佳ちゃん……? どうして……? 私達よりも年下の子供が苦しんでて……危なそうな人に捕まっちゃってるんだよ……?」
「……駄目だよ遊里」
「なんで……? 桐佳ちゃんはあの子を助けないとって思わないの……?」
信じられないような、少しだけ責めるような遊里の言葉に桐佳は口を噤んでしまう。
それでも掴んだ手を離さずじっと視線を交わす二人だったが、隣にいるニット帽の女性がそんな二人の肩を掴んだ。
どこかぼんやりとしていた遊里の顔を、ニット帽の女性は自分へと向けさせて、強い口調で語り掛ける。
「いいや、桐佳ちゃんが正しい。もう分かってるでしょう遊里ちゃん、あの場にいる人達は異能という妙な才能を持った連中だよ。君が何をしようと何ができる訳でも無い。君がふらふらと死んでしまう場所に行くのを止めただけの桐佳ちゃんを責めるのはお門違いだよ」
「……責めるつもりなんて……」
「なら黙って逃げるんだ。お互いの手を取って、お互いの安全だけを最優先して、この場で他の誰が犠牲になろうとも目を瞑って走り続けるしかないんだよ。それしか、それだけしか君達に出来ることは無いんだから」
「…………」
黙ってしまった遊里の頭を軽く撫でて、ニット帽の女性はどうすれば良いのか分からず視線を彷徨わせている桐佳へと視線を変えた。
緊張で固くしていた表情を少しだけ和らげながら、抱えてしまった不安を解消させるように穏やかな口調で話し掛ける。
「桐佳ちゃん、こんな状況で遊里ちゃんの手を掴んだのは立派な判断だったよ。君の判断は何も間違っちゃいない。そして、これから君達が他の人を見て見ぬふりして逃げて行ってもその判断は何よりも正しいんだ。もし身近な人を守ろうとした君を非道だという奴がいるなら、お姉さんがそいつを醜い口だけの偽善者だと言ってやるさ。ね? だからそんな顔しなくていいんだよ。君はちゃんと優しい子さ」
「……お姉さん……」
「ふふ。ミクちゃんって呼んで欲しいって言ってたけど。実はそれ、偽名なんだ。ビックリでしょ? 今度会った時には本当の名前を教えるから、そっちはちゃんと呼んで欲しいな」
「……知ってたよ、そんなの」
ようやく異変に気が付いて逃げ出していく周りの人々。
蹲っている金髪の少年に何事かと声を掛けて、飛行機の乗客に同じように殺到され掴み掛られる人々。
そして、飛行機の衝突による怪我から立ち上がれず、周りの誰かに助けを求めて叫ぶ人々。
阿鼻叫喚の地獄の中心であるような光景の中で、「知られちゃってたかー」と舌を出して笑ったニット帽の女性は桐佳達の向きを飛行機とは反対方向へと向かせ、背中を押した。
「さっ、行って。二人で手を繋いだまま真っ直ぐ出口に向かうんだよ。ここから一番近い出口は階段を降りて真っ直ぐにある東口かな。ああ、でも逃げる人が殺到しそうだから階段から落ちないように気を付けるんだよ? お姉さんとの約束だからね?」
「ま、まって……! お姉さんも一緒に!」
「お姉さんはもっと良い一人用の脱出方法を知ってるからね。我が身が一番かわいいお姉さんは君達にはそれを教えずにこっそり逃げちゃうのさ。ははは、不審者の逃げ方としては中々お似合いだと思わない? ついでにあのヤバそうな人達も少しだけ足止めしてみよっかなって思ったり」
「そんな嘘っ! 桐佳ちゃんっお姉さんをっ……!!」
「遊里ちゃんは優しすぎるなぁ……そういう優しすぎる子は、悪い人に食い物にされちゃうんだからね? 本当に気をつけないと駄目だよ? 相手がどういう人なのか、自分はどう利用されてしまうのか、それで自分を大切に想う人はどう思うのかをよく考えないと駄目だからね?」
そう言って、自分の折れ曲がった足を隠すように服の裾を動かしたニット帽の女性は顔だけ振り返った桐佳の目をじっと見つめた。
冷静でいようと、平静ではいられない友人と何とか逃げ延びないと、なんて。
今にも崩れそうな、張りぼてだらけのそんな虚勢を見て、女性は悲しそうに笑った。
「……辛い事ばかり選択させてごめんね……でも、桐佳ちゃん。遊里ちゃんをお願いね」
「っ……!」
ニット帽の女性の背後で乗客達の顔が一斉に別方向へと向けられる。
まるで何かしらの電波で一斉に命令を受信したように、この場にいる人々目掛けて鬼気迫る形相で走り出した人々の姿はまるで巨大な波紋のようにすら見えた。
片足が折れた女性と一緒の状態では絶対に追いつかれる。
そのことをあらかじめ分かっていたようなニット帽の女性の言動に示されたとおり、桐佳はそのまま迷いを見せず遊里の手を強く引き駆け出した。
悲鳴に近い声を上げる遊里の手を離さないよう強く強く握って、数秒後に訪れるだろう凄惨な背後の光景を絶対に見ないようにした。
張り裂けそうな胸の内に気付かないようにしながら、大粒の涙が零れないようにしながら、桐佳は自分達の命だけを助けるために走って行く。
そして。
「…………あーあ……何がお姉さんだよ。馬鹿みたい……」
少しだけ仲良くなった優しい二人の少女の背中を最後まで見送って、自分のニット帽を握り潰すように掴んだ女性は小さくそう呟いた。
見ず知らずの自分に手を伸ばしてくれたあの子。
嘘や演技ばかり上手な自分を警戒しながらも、信じてくれた彼女達。
本当なら幸せな場所で過ごしているべき子達をこんなことに巻き込んでしまった自分。
もし自分が食事になど誘わなければ、彼女達はこんなことに巻き込まれずに済んだのだろうか、なんて考えが頭を過った。
女性は自分に襲い掛かってくる乗客達へ振り返る。
目前まで迫ってきていた彼らに特に反応を示さず、女性は足元に散らばっているガラス片を拾った。
対抗手段には成り得ない、武器と言うにはあまりにお粗末な手元のそれを見ながら、その女性は呟く。
「……あんな子達に辛い選択ばっかりさせてさ。自分の打算でこんなことに巻き込んじゃったくせにさ。それで自分は一人で逃げ出そうと思ってるんだから、本当に駄目な大人だよ、私」
ガラスに映る自分の姿を見詰め、頭にかぶったニット帽を乱雑に脱ぎ捨てて、腰まで届く長く美しい髪を広げながら、その女性は歩き出す。
まるでただの通行人とすれ違う時のように、自然と隣を抜かれた事に動揺する飛行機の乗客達を無視し、自分が生み出した地獄の光景をまるで映画でも眺めるように楽しんでいた銀髪の男性を女性は視界に捉える。
「……でもさぁ。私の最終目標を考えると、こんな色んな異能持ちが注目するような場所からは一刻も早く逃げ出さないとなんだよねぇ。そう考えるとさぁ、今回の事を引き起こした貴方が、全部全部悪いと思わない?」
彼女は意外そうな顔で自分を見る銀髪の男に向けたもう一歩を、折れている筈の足で踏み出した。
「……お前のせいで私の計画はめちゃくちゃ。害虫風情が身の程を弁えろ」
ゴポリッと、歪な水音が響く。
‐2‐
走った。
走って走って走り続けた。
自分と同じようにこの場所から逃げる群衆の濁流に吞まれながらも、桐佳は遊里の手を決して離さないようにと力を込めて走り続けた。
恐怖や自己嫌悪でぐちゃぐちゃになった自分の感情を何とか抑え込みながら、桐佳はもし姉がこの場にいたらどうするんだろうと必死に思い描く。
きっとあの姉はこんな張りぼてだらけの強がりなんて簡単に見抜いて、泣きそうな自分の手を優しく引きながらこう言うのだ。
『桐佳、大丈夫だよ』
悲鳴が先ほどまで自分がいた場所から響いて来る。
色んな人を見捨てて走る自分に向けた呪いのように、その声はずっとずっと桐佳の背中を追ってくる。
悪夢にしたってあんまりな状況で、桐佳は頭に過った先ほどまで一緒にいた女性のことを考えないようにと必死になる。
遊里の手を引く自分の前に姉がいて、自分の手を引いてくれるのだと思い込もうとする。
『大丈夫大丈夫。いい桐佳、こういう時こそ冷静にならないとなんだよ? あのテロリストは怖いけど、今何よりも怖いのは逃げ惑う他の群衆。力の弱い私達は潰されないように立ち回らないといけないよ。まず一つ、無理に流れに逆らわないこと』
「……うん……」
押され押され、もみくちゃにされ。
それでも何とか助かろうと、人々の流れに合わせて走って行く。
逃げ道を探して、下の階へ行くための人々が殺到しているエスカレーターを見付け、同じようにそこに向かおうとした桐佳を姉の幻影は引き留める。
『落ち着いて桐佳。エスカレーターは幅が狭いしいつ重さに耐えられなくなって壊れるか分からない。何よりもあの人数だと押し出されて落下する可能性があるから、ちょっと時間は掛かっちゃうけど階段を探しに行こう』
「……ぅ、ん……遊里、あの状況のエスカレーターは危ないから他の階段を探すよ」
「え!? う、うん……」
ここにはいない姉の幻影。
もしも姉がいたら言いそうなことを考えただけの自分の妄想なのに、今はそれがどうしようもなく心の支えになってしまっている。
後ろにいる遊里の手を握り、前にいる姉の幻影の手を握り、チカチカと明滅する僅かな灯りの中を桐佳は必死に進んでいく。
『逃げてる人が増えて来たね。あんまり走り続けるのは得策じゃないかな。んー……意外と追って来てる雰囲気もないし、焦りすぎる必要は無いかも。あ、桐佳、あそこが階段だよ。人はそこまで多くなさそう。階段は端の方を急ぎ過ぎない感じでね』
「…………うん」
「……桐佳ちゃん、誰と話してるの? 前に伸ばしてる手は何を掴んでるの……?」
「……誰とも話してないよ……」
困惑した遊里の問いかけにそれだけ返す。
自分でもこんな妄想の姉に返事している事の異常性は分かっているつもりなのだ。
だがそれでも、今の桐佳には冷静な判断を行うのに必要不可欠な事。
理解してもらえずとも、ここにいない姉の手を離すことは出来ないのだ。
階段を降りて、無事に一階まで辿り着く。
辿り着いた一階のフロアは桐佳達がいた階よりも人が多いようで、より多くの人達が出口を求めてごった返している。
人と人の間の距離がほとんど無く、密着している状態なのを考えると、少しの距離を進むにもかなりの苦労を強いられるだろう。
だが出口が見えた。
逃げ惑う群衆の向かう先。
そこに外の様子が見える出入口が存在している。
『あそこまで行ければ逃げられるけど、最後まで気を抜いちゃ駄目だよ? まあ、桐佳が気を抜いたとしても私がちゃんと気を張っておくから、奇襲やハプニング、なんでもござれなんだけどさ。ふへへ、お姉ちゃんに任せなさい』
「……お姉ちゃんのばか……」
「出口……さっきのお姉さんとか、他の怪我してた人も……助かるよね……?」
永遠にも思えた地獄からの脱出を目前にして、桐佳は表情を和らげる。
同様に遊里も少しだけ表情を明るくしたものの、見捨てて来た後ろの人達が気になるのか頻繁に振り返っている。
他の人達も同様のようで、歓声に近い声が周囲に響き、こぞって出入口に向かっていこうとした時。
音も無く黒い靄のようなものが現れた。
その黒い靄のようなものが、桐佳達が逃げ道として目指していた出入り口に張り付き壁を作っていく。
非常に小さな蟲の集まりのようなそれが、一つひとつ知性を持っているように動き回って、群を為し、壁を為し、そしてまた一つの人型を形作っていく。
『……ふう、結構な数逃げられちゃったか。残念。なんだか投資を失敗したような感覚だよ』
男性が姿を現した。
遠目からも日本人離れした風貌と分かるその男の姿を目の当たりにして、桐佳と遊里の表情が凍り付く。
『もうそんなに時間も無い。「商談」は無しだ。ひとまずここにいる人達は』
「……何言ってるか分かんないけどそこどけや! 俺達は直ぐに外に出たいんだよ――――」
立ち塞がるように現れた相手に、助かりたいという焦りに急かされた男性が掴み掛り声を荒げた。
激昂した男性の勢いに同調するように、出口を目前にしていた人達が一斉に駆け出そうとして、突然現れた銀髪の男性を押し退け。
――――血が噴き出した。
その銀髪の男性に掴み掛った人から、唐突に血が噴き出した。
静まり返るフロアの中、もはや縦半分しか人の形をしていない銀髪の男性が呆れたような声を出す。
「日本語、日本語ね……今俺は焦ってるんだよ。思わぬトラブルで大事な商機までの時間が無くなって本当に焦ってるんだ。それこそ、反抗なんてことを考える馬鹿な奴は商品として扱う余裕もないくらいにさ。さあ、メンテナンスの時間だ。俺に不良品として認定させないでくれると助かるんだけどね」
「ぁ――――」
血を噴き出しその場で崩れ落ちる人。
原理は分からなくとも、残酷なまでに現実を突きつける光景。
きっかけとしてはそれだけで充分だった。
人が血を噴き出して倒れた事で、人々は完全な狂乱状態に陥った。
逃げ道にいる人を引き摺り倒し、お互いを押し退け合い、力任せに逃げ出していく。
向かっていた人の流れが突然反転すれば、後方の状況をよく呑み込めていなかった人達は、当然のように反応できず押し倒され、突き飛ばされ、踏みつけられていく。
だから、強い力で押し退けられた桐佳も同様に逃げようとする人々に突き飛ばされ、両手に握っていたものが離れてしまった。
あ、と思う間もない。
倒れ込んだ上から誰かに踏まれ、走る人に蹴られ、傷だらけになりながら服屋に転がった桐佳は何とか試着室の中へと逃げ込んだ。
カーテンの外から人々の怒声や悲鳴が数多に重なり、音だけではまるで外の状況が分からない。
遊里から離れてしまった手と、幻影すら見えなくなってしまった姉の姿にガタガタと体を震わせて足を抱えて座り込んだ。
ここには守ろうと思っていた遊里も、いつも引っ張ってくれる姉もいない。
そう思うと桐佳の頭は真っ白になっていく。
(痛い……どうしよう……遊里とはぐれちゃった……どうしよう。お姉ちゃんならこんなときどうするの……怖い、寒い……出口はどこに……)
先程の血が噴き出した光景が脳裏を過る。
一緒に食事をしていた女性が血を噴き出す姿が脳裏に浮かぶ。
そして、遊里や自分も同じように血だまりに沈む姿を想像して、桐佳は頭を抱えて顔を膝に埋めた。
容易く他人を害する人間の悪意を初めて目の当たりにした。
何の力も無い人がこんなにも簡単に血に沈むのを初めて目の当たりにした。
そして、それに恐怖した人々の暴力が簡単に自分と遊里を引き離して、ゴミのように踏みつけられるしかないのだと初めて知ったのだ。
ぽきりと、心の支えが全て根元から折られてしまった。
今の桐佳にはもう恐怖以外、何も残らなくなってしまった。
ポロポロと、堪えていた涙が溢れ出す。
(やだやだやだっ……ゆうりがいないっ。こわい。ひとがこわい。からだがいたい。わたしいろんなひとみすてた。こわい。おうちかえりたい。しにたくないこわい。おねえちゃん、おねえちゃんたすけておねえちゃんたすけておねえちゃんたすけておねえちゃん――――)
だから、涙に濡れ、懐が揺れたことにすら気が付かない程に切羽詰まった桐佳にその声が掛けられたのは本当にどうしようもなかったからだ。
『助けてやろうカ?』
ゴトリと落ちた携帯電話。
そこに映し出された画面から、無機質な声がする。