非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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ずるいあの子

 

 

 

 

 『異能』と呼ばれる力はどこか別世界の事だと思っていた。

 

 騒がれている異能を開花させる薬品があって、その偽物が一杯あって、それで詐欺のような事をしている人達がいて、絶対自分の手には届かないくらい高い金額で取引されていて、それを取り締まる本物の『異能』を持った人達がいる。

 きっと生まれながらにして持っていなければ絶対に手に入れることなんて出来ないだろうと思っていた『異能』という才能。

 

 良いんだ別に、そんなもの。

 裕福で、身体的に優れていて、自分の好きな事を得意な事に出来る人は一杯いた。

 色んな人に称賛されるようなものを持っている人とそうでない人の差なんて、『異能』なんていうものが取り沙汰されるずっと前から、無情に線引きされていたじゃないか。

 

 だから良いんだ、そんなもの無くて。

 何もせずに満たされるような裕福さも、誰からも羨望される身体的な優位性も、好きな事を得意な事に出来るだけの巡り合わせの良さも、あるいは絶対的な才能も。

 どうせ私には何にも無くて、どうせ私は取り合う資格も無いのだから。

 

 私は何も持たないようにと、そうやって生まれて来たのだと諦めている。

 今いる場所の幸せだけでも充分自分は恵まれているんだと、何度も何度も自分に言い聞かせた。

 

 でも。

 ああでも、そうやって色々諦めていても、どうしても。

 私が欲しかったものを全部持っている人が私の隣で笑っていると、心の奥底でずるいと思ってしまうのは仕方がないと思うのだ。

 それがたとえ恩人だったとしても、それがたとえ大切な友達だったとしても、何も持たない自分と比べてしまうのは、仕方ないと思うのだ。

 

 

 

 

 

 ぽこぽこと、気の抜けたような動きで生まれた泡が宙を舞う。

 うっすらと紫がかったシャボン玉のようなそれが、大小様々な形を成して舞い踊る。

 手を離すこともせず呆然と遊里の罅の入った顔を見詰めていた桐佳が、産まれたシャボン玉が目前にやって来てようやく正気に戻った。

 

 これは危険だ。

 そんな考えが頭を過る。

 けれど、そんなことを考えたって咄嗟に何も行動できず、掴んだ手さえ離せず、桐佳は衝撃に耐えようとするようにぎゅっと目を瞑ることしか出来なかった。

 

 だから代わりにマキナが動く。

 

 

『馬鹿ガ!! 逃げロ!!!』

 

 

 怒声と共に飛び出したのは雷だ。

 桐佳の携帯電話から指向性の持たされた電気が飛び出し、桐佳に向けて飛来していたシャボン玉全てを引き裂いた。

 引き裂かれたシャボン玉から飛び散った飛沫のような滴が周りに振り撒かれ、桐佳に殺到しようとしていた人々に降りかかる。

 

 その材質は分からないが、降りかかった滴に触れた人々が、悲鳴を上げて床をのた打ち回り始めたのを見て桐佳の顔から血の気が引いた。

 

 

「なにこれっ……!? ゆ、遊里!? その顔っ、痛いでしょ!? 大丈夫!? 何かされたの!? 早くここから逃げて病院にっ……」

「桐佳ちゃん、ずるいよ。ずるいずるいずるいずるい。なんで桐佳ちゃんは何ともないの? なんで桐佳ちゃんばっかり恵まれてるの? 私だって、私だっておんなじ場所にいるのに、私ばっかり何もないのはおかしいよ」

「遊里……? 何を言ってるの……? 私は、別に何も……」

 

『触れた物を腐敗させる泡……! 言っただロ!? 異能だっ! 強制服従させられてるんダ! ソイツの言葉に耳を貸すナ! 良いから逃げロ!』

 

 

 飛び掛かって来た他の人々の認識を強制的に歪め、見当違いの方向に攻撃を向けさせることで桐佳を守ったマキナがそのまま遊里に精神干渉を施し、桐佳の手を払わせる。

 けれど、自分の友人の変貌が信じられないのか、桐佳は手が離れたにも関わらず後退りしただけでその場を動こうとしない。

 

 振り払われた手を信じられないように見つめて、桐佳は震える声を出す。

 

 

「遊里……嘘だよね……?」

「あれ……? なんで私桐佳ちゃんの手を振り払ったんだろう……? おかしいな……そんなつもりなかったんだけど……」

「遊里っ、私を見てよ! こっちを……!」

 

「驚いたな、まだまともに動き回れる奴がいるのかい?」

 

 

 フロアで活発化していた異能の出力が集合し、銀髪の男の姿へ形を変えた。

 その男、バジルはぶつぶつと独り言を呟く遊里と青ざめる桐佳に視線を向け、心底面白そうに話し掛ける。

 

 

「君、異能を持ってないよね? 出力を感じないのにどうしてそこまで無事でいられるんだい? 今この建物内は君を除いてほぼ俺の手を伸ばし切ったんだけどどうして君だけは無事なのかな? んー? なんだー? もしかして君異能の出力を完全に消せたりするのかい? もしかして実は君が“顔の無い巨人”だったりする?」

「あ、あなたは……遊里はどうなって……」

「質問してるのは俺なんだけどなぁ。まあ、そればっかり気になってまともに返答できないか。丁寧に説明してあげても良いけど自分で実感した方が分かりやすいんじゃないかな? ねぇ遊里ちゃん、教えてあげなよ」

 

 

 バジルの声に反応するように頭を押さえた遊里が焦点の定まらない目を桐佳に向けた。

 じっと目の前の桐佳を見詰め、これまで見たことの無い憎悪の表情で桐佳睨んで口を開く。

 

 

「桐佳ちゃん桐佳ちゃん桐佳ちゃん。お金持ちで家族皆に愛されて何でも器用にこなせる桐佳ちゃん。私は何も無いのに。私はお父さんに認められなかったのに。私はお母さんに愛されなかったのに。私は何も無かったのに。なんで桐佳ちゃんはそんなに恵まれてるの。おかしいよね。おかしいよ。桐佳ちゃんずるい、ずるいずるいずるい」

 

 

 剥き出しとなった悪意に気圧され、桐佳が後退りするが、説明を促したバジルにとっては不十分だったのか、彼は困ったように肩を竦めた。

 

 

「おっと、駄目だね。抑圧しすぎた感情が強すぎてまともに説明もできないみたいだ。困ったなぁ、これじゃあ俺の質問に答えてもらえないじゃないか」

 

 

 要するに、とバジルは言う。

 

 

「遊里ちゃんには才能があったのさ。とはいっても自然に目覚める様なものでも無くて、何も無ければ才能に気が付かず一生を終えるようなその程度のものだ。たまたま俺がその才能を見付けたから貴重な薬品をあげて選んでもらったんだ。異能を開花するかどうか。それで、遊里ちゃんは自ら異能を開花させることを選んだ。だからやりたいようにやって良いよって言ったんだ。その力を使ってなんでも好きなようにやって良いよって。抑え込んでいたものを解放させてあげたんだよ。遊里ちゃんはあくまで本心から君の全てを羨んでいるのさ。情熱的だろう?」

「嘘……強制服従してるんでしょ……! ふざけた事を言ってないで遊里を解放してよ!」

「うーん……? 強制服従ってなんでそんな確信を持ってるんだ? 情報収集能力やこの状況を凌いでる状態を考えるとやっぱり“顔の無い巨人”の線は強そうだけどその割には行動がちぐはぐだし……難しいな君。“顔の無い巨人”の駒とか?」

「“顔の無い巨人”……? そんなの知らないっ……! そんなのどうでも良いっ……!」

「……演技にしては上手すぎない? けどなあ、さっきの奴も……まあいいや、攻撃して見れば分かるでしょ」

 

 

 苦虫を噛み潰したように少しだけ表情を歪めたバジルが諦めたように肩を落とす。

 そして、ドロリとした暗い感情を桐佳に向けている遊里の耳に口元を寄せた。

 

 

「ほら、遊里ちゃん見せてあげなよ。君が新しく手に入れた力をさ。何もかも恵まれたその子に向けて試しに振るってみなよ。その扱い方を俺が採点してあげるよ。しかも上手くいけばもしかして、君があの子の全部を貰えるかもしれないよ? あの子に成り替わることが出来るかもしれないんだよ?」

「……貰える?」

 

 

 虚ろな遊里の目が桐佳をじっと捉える。

 バジルは甘ったるい言葉を遊里の耳元で囁くようにして、指し示す。

 

 

「そうさ。その子は君に散々見せびらかしてきただろう? 優しいふりをして自分の豊かさを見せつけて来たんだよ。きっとその子も君に豊かさをあげることを望んでいる筈さ。ほら、異能の使い方は分かるよね? それをあの子に――――ォ」

 

「貰える……もらえる」

 

 

 遊里を背中から抱きしめるようにしていたバジルが、遊里から発生した泡に呑まれた。

 ぼこぼこと溢れ出した紫色の泡がバジルをぐちゃぐちゃに腐らせながら、凄惨な光景に息を呑んだ桐佳を見つめ続ける遊里の周りを取り巻き始めた。

 

 ほの昏い目で蠱惑的な微笑みを浮かべた遊里が小首を傾げる。

 それから思い出したようにゆっくりと、懐から桐佳が姉へと買っておいたプレゼントを取り出して、宝石でも扱うように宙に掲げた。

 

 

「うふ。うふふふ。うふふふふふふ。桐佳ちゃん、産まれた子供が最初に貰うプレゼントって何だと思う?」

「……遊里、正気に戻って」

「名前だよ。なまえ。色んな意味が込められた人の名前ってさぁ、子供の事を想って親が考えるんだよねぇ。私達が覚えてなくてもさぁ。幸せを願われて付けて貰える名前は無くすことの無い最初の宝物だよねぇ……ねえねえ、桐佳って名前。どんな意味なのかなぁ」

「……」

「考えた事も無いんだ? 桐の花言葉には高尚って意味があってね。桐の花は神様の花とも言われてるんだよ。それで、佳の字は美しく整うっていう意味がある。つまり桐佳って名前は、高尚で美しく整った人になるようにっていう願いが込めてあるんだよ。凄いなぁ。素敵だよねぇ…………じゃあさ桐佳ちゃん、遊里って名前。どんな意味なのかなぁ?」

 

 

 普段からは考えられないドロリとした粘着質な遊里の声が桐佳に向けられる。

 異様な空気の遊里に気圧されながらも、桐佳は純粋に話が気になって続きを促してしまう。

 

 

「……どんな意味があるの?」

「うふふ。遊里って名前にはね。遊郭、つまり水商売をしている女の人って意味があるんだよ。うふふふふ。凄いでしょ? 子供にこんな名前付けるなんてさぁ、考えられないよねぇ。あり得ないと思わない?」

「…………なんで……?」

 

 

 想像だにしていなかったその言葉に桐佳は絶句する。

 名前の成り立ちには詳しくない桐佳だが、遊里の言葉が真実であるなら、彼女はまるで疎まれて産まれたとでも言うような、そんな名前を実の親に付けられたことを意味している。

 産まれてすぐ、何も分からない純粋な赤子に付ける名を選んでそんなものにしたのなら、それはあまりにも常軌を逸している。

 まさかあの人畜無害を絵に描いたような遊里の母親がそんなことをしたのかと考えた桐佳の考えを読んだのか、遊里は首を振った。

 

 

「うふふふふ。お父さんが名付けたんだってぇ。一回り年上だったアイツが、優等生だったお母さんと半ば無理やり付き合って。道を踏み外させたのに赤ちゃんの私にはこんな名前を付けて暴力ばっかり振るってた。多分本人は遊びのつもりだったんじゃないかなぁ。そんな最低の屑野郎の下で産まれた私なんかとは、愛されて育った桐佳ちゃんは全然違うんだもんなぁ。一緒に暮らしてて本当にそう思っちゃったよ」

「っ……」

 

 

 遊里の言葉に体を震わせた桐佳。

 考えた事も無かった遊里との格差を突き付けられて、そんな事も知らなかった自分の無知さにどうしようもない後悔が押し寄せる。

 

 そんなことも考えず、自分はこれまで彼女に何を言って来たのだろう。

 姉への我儘に家族の愚痴に、取るに足らない不満ばかりを口にしてきた。

 そんな話を聞かされていた彼女は、いったいどんな気持ちだったのだろう。

 自分との違いを聞かされ続けた彼女は、いったいどんな気持ちだったのだろう。

 

 彼女が一歩近付いて来る。

 掲げていた桐佳のプレゼントを再び懐に仕舞い込んで、ゆっくりゆっくり近付いて来る。

 

 

「わ、わたし……そんなの考えた事も無かった……ごめんなさい……」

「うふふふ。謝らないで桐佳ちゃん。桐佳ちゃんは私に優しくしてくれた。私に色んなものをくれたもの。暖かい家に美味しいご飯、湯船につかるのも自分の部屋を持てたのも初めてだった。優しい人達に囲まれて過ごす日々は幸せだったもん。悪いのは私の親であって桐佳ちゃんは何も悪くないの。だからそんな苦しまないで良いんだよ」

「遊里……」

「でもね、だからね。もうちょっとだけ頂戴桐佳ちゃん」

 

 

 目の前まで歩み寄った遊里が、ニコリと、色香のある美しい笑みを浮かべ囁くように言う。

 罅の入った顔で、亀裂の入った言葉を囁く。

 

 

「桐佳ちゃんの名前と家族の皆、私に頂戴ぜんぶぜんぶ」

「――――」

 

 

 明確な敵意なんてない。

 悪意なんてものもない。

 陥れる気もなければ不幸を願っている訳でもない。

 ただ純粋に羨む様な声色で紡がれた言葉に桐佳は凍り付いた。

 

 これはきっと強制服従なんて関係ない、ずっとずっと彼女が心のどこかで思っていた事だと分かってしまったからだ。

 

 手が伸ばされる。

 泡立つ毒手が伸ばされる。

 先程の銀髪の男があっと言う間に呑まれ、腐り果てた超常現象の塊である泡が迫るのに、桐佳は伸ばされた遊里の手が助けを求めるように見えて、どうすることもできずに見詰めてしまった。

 

 そして、遊里の手が目と鼻の先にまで近付いた時。

 

 

『マキナバージョンの“ブレインシェイカー”、ダ!』

 

 

 キンッ、というモスキート音と呼ばれる異常な高周波の聞き取りづらい音を介した、不可視の全方位攻撃が周囲に待機していた23の出力機から放たれた。

 

 不可視でありながら空間が丸ごと捻じれたようにすら錯覚させるフロア全域への攻撃。

 

 グラリと遊里の意識が飛び、手に発生していた泡が霧散する。

 それどころか桐佳の情報が伝わり周りに集まりつつあったバジルの手先達もまとめて意識を奪い取られ、桐佳の周囲にはぽっかりと倒れ伏す人達だけが広がった。

 呆気ない程簡単に崩れ落ちた遊里の体を桐佳が慌てて抱き留め目を白黒とさせていると、マキナが吠える。

 

 

『おしゃー! マキナの潜伏奇襲攻撃が成功ダ! おい、逃げるゾ! ボケボケするナ! もしお前が逃げられなかったら後先考えない大暴れをマキナがするんだゾ!? お前の失態で無駄にボコボコにされる奴らが出るんだゾ!? ソイツをしっかり持って逃げロー!』

「え、あ、う、うん。マキナ凄い!」

『当たり前ダ! あの銀髪糞テロリストはもっと徹底的にやってやりたかったがソイツが先に片付けたからナ! 良いカ!? 左方向の出口に向かエ! 外からの救援が近付いていル! 今度はソイツを絶対に離すなヨ! お前が言ったことだからナ! お前がソイツを助けたいって言ったんだからナ!? 今更下らない理由で取り辞めるとか言ったらマキナはお前を許さないゾ!!』

「っ……ありがとうっ……! ありがとうマキナっ……! 本当に大好きっ……!」

『マキナはお前に好かれても嬉しくなイ! 良いから走レー!』

 

 

 思わず口走った桐佳の言葉にマキナがいきり立つ。

 少しだけ頭を過ってしまっていた自分の悪い思考を追いやるようなマキナの言葉に本気で感謝しながら、桐佳はぐったりと意識を失っている遊里を背負って駆け出した。

 倒れる人達の隙間を縫いながら、桐佳は一目散に逃げていく。

 

 走って走って走り抜けた。

 今度は絶対に離さないように、以前背負った時より少しだけ重い遊里の体を背負って走って行く。

 

 自分は恵まれている、きっとそうなのだろう。

 優しい親がいて、自分を見捨てない兄がいて、傍にいてくれる姉がいる。

 異常なくらい優秀な兄や姉に勝てる所なんて自分にはほとんど無くて、彼らと比べたら自分が能力不足なのはずっと前から分かっている。

 それでも助けてくれる人達がいて、自分を好きだと言ってくれる人達がいて、大切なものに囲まれて過ごせる幸せな毎日。

 

 

 自分はきっと恵まれ過ぎていたんだと、桐佳は思った。

 自分はきっと何も知らな過ぎたんだと、桐佳は思った。

 

 知らないまま彼女を傷付けていた。

 知らないまま自分の恵まれた環境を甘受していた。

 知らないまま当然のように、誰かの努力で守られた日常を過ごしていただけだった。

 

 やり直そう。

 もっと色んな当たり前だったものを大切にしよう。

 父を労わって、兄に謝って、姉に感謝を伝えよう。

 優しくしてくれる人達をもっと大切にして、遊里や遊里のお母さんに辛い過去を忘れてしまうくらいもっと幸せになって貰おう。

 それから自分の大切な日常を、掛け替えのないものと理解して日々を過ごすのだ。

 

 きっと上手くいくはずだ。

 

 家に帰れば優しい皆が待っていて、お帰りと言って抱きしめてくれる。

 そんな何気ないと思っていた毎日の中、もう誰も不幸にならずにいて欲しかった。

 傷付けていた遊里にごめんねと言って、時間が掛かっても自分達は仮初ではない本当の家族にきっとなれる。

 

 だが、桐佳のそんな願いを邪魔するように、蠢くようにして銀髪の悪魔が現れた。

 

 

「逃がすと思うかい“顔の無い巨人”。君には聞きたいと思っていたことが一杯あ――――」

『嘗めるなテロリスト! お前の行動をマキナが予測できないとでも思ったカ!』

「――――……予兆も予備動作も無くここまで、素晴らしい力だ……」

 

 

 周囲の人々を強制的に動かして襲い掛からせようとしたバジル諸共、障害になるもの全てをマキナが薙ぎ払う。

 暴風のように横からの強烈な衝撃を浴びたバジルが容易く地面を転がって、その上に追加の雷を叩きこんだマキナが足を止めそうになっていた桐佳に言う。

 

 

「マキナっ……!」

『足を止めるナ! アイツがどう動こうがどれだけ分裂しようが全部マキナが何とかしてやル! マキナを信じロ!』

「……信じてる、信じてるよっ……!」

 

 

 いつの間にか姿の無いこの存在に全幅の信頼を寄せていた桐佳は、止まりそうになった自分の足を必死に動かし続けた。

 

 次から次へと現れる黒い粒とそれが形作るバジルをマキナが秒殺し続け、桐佳に一切近付かせないまま出口までの道を切り開く。

 

 もうすぐそこに蠢く黒いナニカで塞がれている出口がある。

 バジルによって塞がれていたその異能の壁を、当然のようにマキナが引き潰し破壊して、桐佳はためらうことなく外へと飛び出した。

 

 想像していたよりもずっと暗くなっている夜の風景。

 それを打ち壊すかのように、周囲を取り囲んだパトカーのヘッドライトによる眩い光が桐佳を取り囲み、脱出してきた桐佳達を見て大勢が驚愕と歓声に近い声を上げた。

 脱出してきた傷だらけの桐佳達の姿に、彼女達を保護しようと慌てた警察官達が毛布を持って飛び出してくる。

 

 疲労困憊で体力も限界。

 走り回り、命の危機に何度も晒された桐佳は朦朧とする意識の中で、ようやく助かったと思い体から力が抜けかける。

 

 だがその時、すぐ耳元で囁かれた。

 

 

「…………うふふ、桐佳ちゃんは本当に馬鹿だなぁ」

「――――!?」

「桐佳ちゃんを攻撃した私を背負って逃げ続けるなら、こんな事になるのは分かっていたよね? 目を醒ました私が桐佳ちゃんをどうしようとするか、少し考えれば分かったよね? 本当に、桐佳ちゃんは馬鹿だよね」

 

 

 背負っていた遊里が目を醒ました。

 

 背後から響いたのは先ほどと変わらない執着の声。

 背負った事で密着しており、どう動こうと避けようのない状況。

 背中の彼女が少しでも異能を使用すれば、桐佳はなす術も無く先程のバジルのように泡に呑まれて腐り果てるのは当然だった。

 

 その未来を想像しぞっと表情を固めた桐佳に目覚めた遊里が嗤う。

 桐佳の背中から手を回して、離さないようにギュッと強く抱きしめる。

 まるで体温を奪うかのように、まるで自分の体温を伝える様に、強く強く抱きしめた遊里が満足したのか少しだけ身じろぎした。

 

 そして。

 

 

「……ごめんね桐佳ちゃん。これ、忘れ物だよ」

 

 

 桐佳の手に、預かっていた姉へのプレゼントをそっと握らせた。

 

 背中から降りた遊里が驚く桐佳を保護しようとしていた警察官達に向けて押し出す。

 そして自身は桐佳が出て来た出口に向けて振り返り、歩いて行ってしまう。

 桐佳を置いて、遊里はどこかに歩いて行ってしまう。

 

 警察官達に保護されて、後を追えない桐佳が必死に遊里に向けて手を伸ばすが、出口の扉まで辿り着いた彼女はその手を見る事も無くクスリと笑った。

 

 

「……頭の中がぐちゃぐちゃで、今の自分が本当は何をやりたいのかよく分からないままでね。まだ頭の中では桐佳ちゃんから全てを奪っちゃえって声がしていて、どれが本当の私の考えなのか分からないんだ。変だよね、自分の事なのに自分が本当にやりたいことが分からないの。桐佳ちゃんが羨ましくて仕方ないのは本当だけど……どうしてなんだろうね」

 

 

 でもね、と遊里は言った。

 

 

「桐佳ちゃんはお馬鹿で、素直になれなくて、努力家で、私みたいのを見捨てられない優しい子だって知ってるから。どんなに羨んでも嫌いになれないくらい、ずっと近くで見てきて分かってるからさ。優しい桐佳ちゃんには、やっぱりそんな事したくないなって思ったんだ。私は最後まで桐佳ちゃんにとって友達でいたいかなって思ったんだ」

 

 

 言葉が出ない。

 声が詰まる。

 悲鳴すら上げられない。

 

 どうしてそんな事を言うのか分からないし、どうして何処かへ行ってしまうのか桐佳には分からないのに、きっともう彼女と会えないことだけは分かってしまう。

 

 このまま彼女の手を離してしまえば、もうきっと会えない事だけは分かってしまう。

 

 桐佳の手はもう届かない。

 誰にも救いの手が伸ばされることが無いのは彼女も理解している筈なのに。

 それなのに、必死に手を伸ばす桐佳へ振り返って彼女はいつものように優しく微笑んだ。

 

 

「お母さんのことよろしくね。幸せになってね桐佳ちゃん」

「――――…………!!」

 

 

 その言葉を最後に、遊里との繋がりが潰されるように再び出口が黒い壁で塞がれた。

 

 ボロボロで、限界で、力尽きたようにその場で膝を突いた桐佳を周りの警察官が慌てて支えようとするが、桐佳はそれを拒否するように顔を埋めて地面に蹲る。

 大切なものを零してしまった自分の手を、痛めつける様に強く握り抱いた。

 

 嗚咽を漏らす。

 

 涙を溢れさせる。

 

 蓄積した疲労でちっとも動いてくれない自分の足を何度も叩いて、声にならない悲鳴を上げ続ける桐佳の自傷行為を止めようと警察官達が必死に制止する。

 

 それでも延々と、塞がれてしまった出口に涙で濡れた視界で見続ける桐佳は、必死に姿の無い遊里を追おうと体を動かそうとし続けた。

 

 何度も何度も、何度も何度も何度でも。

 無力で非力で、何も出来ない自分を傷付け続けた。

 矮小で、未熟で、誰の救いにも成れない自分を桐佳は心底嫌いになった。

 

 

 でも――――そんな桐佳の頭を誰かは優しく撫でる。

 

 

「うん、よく頑張ったね桐佳。もう大丈夫だよ」

「……お姉ちゃん……」

 

 

 その声に、ふっと体の力が抜けてしまう。

 姿も無く、根拠もないのに、思わず安心してしまった桐佳はそのまま意識を失っていく。

 ぺしゃりと動かなくなった桐佳の視界の先で、塞がれていた出口がもう一度引き裂かれた。

 

 

 

 

 


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