非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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過去最長の一話です…
お時間がある時にお読みくださいっ!


かみのまにまに

 

 

 

 

 桐佳が脱出した出口とは別の場所。

 そこでは、集まった警察官達が数人がかりでなんとか建物内に突入しようと、黒く蠢く壁の破壊を試みていた。

 

 だが、銃器や鈍器といったものによる破壊の試みを既に十分以上続けているものの思うような成果を出せておらず、突入による救出作業にも入る事が出来ていないのが現状。

 正体の分からない蠢く壁を破壊しようと試みてみても、目の前の黒く蠢く壁はさらに厚みを増していくだけに終わるのだ。

 

 そんな正体不明の蠢く壁を前に、警察官達が作業の手を一旦止めて乱れた息を整える。

 

 

「……駄目だ。なんなんだこの壁は……穴すら開かないぞ」

「硬いというよりも無限に増え続けるゴム……いや、壁と言うよりもむしろ生き物みたいな。なんだ、まるで生き物の内臓でも見ているような気分になるな」

「不気味な事言うなよ! うわぁっ、なんか俺頭痛くなってきた……生き物を捌くのとか見れないのに……」

「それなりに的を射ている気がするな……まるで内臓か。と言うと、この中はさしずめ怪物の胃の中ってか? 中にいる人達は既に怪物に食われてるってことか? ……あながち間違いじゃない気がしてきたな。異能とやらはこんなにもおぞましいものなのか……」

「この中に何人の救助を待つ人達がいると思ってるんだ! そんな悠長なことを言ってないで何とかこの壁を突破するぞ!!」

 

 

 専用の工具で何度も蠢く壁を叩くがびくともしない現状に、救助しようと待機している者達の表情から焦りが生まれ始めていた。

 

 既に飛行機の墜落からは30分。

 蠢く不気味な壁が形成されてから20分もの時間が経過している。

 壁が形成されるまでは順調に進んでいたショッピングセンターからの救助作業も、もうかなりの時間停滞してしまっている。

 

 その上目の前にあるこれは明らかに何かしらの科学技術によるものとは考え辛い現状、この建物内で情報にあったテロリストが活動しているのはほぼ確定しているのだ。

 話に聞くそのテロリスト、“死の商人”と呼ばれる者の残虐性を考えると、これだけの時間同じ建物内に閉じ込められた人々が安全だとはどうしても思えない。

 

 

「建物を占拠して人質も豊富。なのに何の要求も、コンタクトを取ろうとする動きも無いのを見るとこの犯人にとっては現状の継続を望んでいるんだろうな……何を待ってるんだ?」

「……超能力事件の担当部署はどうなってるんだ? この現場に向かって来ているのか?」

「この前の爆破事件があっただろ。あれの事後処理や損害とかでかなり手詰まりな状況とは聞いていたからな。こっちに向かってくれてはいるんだろうが、どこまで対応できる戦力があるか」

「上が隠してる戦力もあるだろ。なんなら捕まえた超能力持ちの犯罪者を使ってでもこの場を何とかしないとこの中からどれだけの被害者が……」

「もう無理だ。そんな対応力がウチの組織の上にあると思うか? 被害が出るだけ出て、適当な謝罪会見だけやって、今後は同じようなことが無いように異能犯罪担当部署への人員増加と予算が増えるだけさ」

「……“ブレーン”とやらが今回の対策を考えて無いのか……? この不気味な超能力を制圧する術は……」

「……さあな。そもそもそんなやつ本当にいるのかね」

 

 

 諦めの空気が漂い始める。

 その空気を何とか変えようと、その場で最も立場のある人が声を出して指揮しているが、この場にいる者達の内心は例外なく、何処か救助への諦めが存在していた。

 

 だってそうだろう。

 占拠する建物の壁すら壊せない自分達では、建物の中にいる異能持ちには絶対に勝てないことを理解せざるを得ないからだ。

 

 

「ようやく到着したね……随分時間を掛けちまった」

 

 

 だが、そんな淀んだ空気にしわがれながら芯の通った女性の声が割って入った。

 杖を突きながら規制を越えてやってきた老女の姿を目にし、その場にいた警察官達が目を丸くして慌てて止めようとする。

 

 

「お、お婆さん! ここは危ないから入ってきちゃ駄目だよ!」

「そうですよ! お婆さん、ほら、離れて離れて!」

「……ふん、この国の警察の年寄りに対する扱いは悪くないじゃ無いか。だがね、離れるのはそういうお前達だよ。まったく、異能で作られた正体の分からないものに異能を持たない奴が手を付けて。基本的な動きがなってないね」

「何を言って……」

 

 

 突然現場に現れた老女を規制の外に連れ出そうと近付いた警察官を、老女は自身が生み出した球体に通過させる。

 突然目の前に現れ、自身の体を通過した球体にきょとんと呆けた警察官が、自分の体に襲った奇妙な感覚に慌てて自身の体の異常を探し始めた。

 聞こえなくなった自分自身の脳内のネガティブ思考に気が付かないまま、やけに身軽になった自身の体の調子に動揺していれば、老女は告げる。

 

 

「どきな。潜り込まれてる奴ら全部私が治してやる」

「潜り込まれてる……? それってどういう……」

「救助しようとする奴の心を自然に折るように仕向けるなんて、奴のやりそうな事さ。良いように操作されている事に気が付けなかったのを仕方ないとは言わないけど、今回は相手が悪かったね」

 

 

 直後。

 危機を察知した何かが警察官の頭に激痛が与え始めた瞬間、その老女、ヘレナの周囲に幾つもの球体が取り巻いていく。

 事前の許可や問答も無く、それらを操るヘレナは呟いた。

 

 

「そう不安がる必要は無いよ。体内の怪我だってまとめて治るからね」

 

 

 それだけ言ってヘレナは渦を巻くようなその球体を自由自在に浮遊させ、“死の商人”の異能の気配を潜ませている警察官達を的確に通過させる。

 

 それだけで、頭を押さえて膝を突いていた警察官達から激痛が取り除かれる。

 それどころか、警察官達の体に蓄積していた筈の疲労すら取り払われており、それはまるで強制的にベストコンディションまで巻き戻されたような感覚だった。

 

 

「……なんだこれ。これもまさか、超能力なのか……?」

「いや、そもそもさっきまでの頭の痛みは何だったんだ? な、なあ婆さん、何か事情を知ってるみたいだが、いったい……」

 

「何をやっている、ヘレナ様から離れろ。私達はICPOだ、説明は私達から行う」

 

 

 動揺する警察官達を、ヘレナの後からやってきた黒服達が制した。

 突然現れた屈強な外国人達に驚きを隠せなかった警察官達だが、彼らが提示する身分を証明するものを見て一斉に慌てだす。

 彼らが世界的にも知らぬ者の方が少ないだろう、本物の権威を持った国際組織の一員であると理解したからだ。

 

 だがそんな黒服達は動揺する警察官達の態度など歯牙にもかけず、じっと占領されている建物を観察するヘレナの邪魔をさせないよう徹底していた。

 

 彼らにとって、何よりも優先するべきは異能犯罪の解決だ。

 そして、異能の扱いと分析の面でヘレナ以上に卓越した者は存在しない。

 だから異能の事象を解決する何よりの第一歩は、ヘレナの観察を邪魔させない事だということが、これまで様々な異能犯罪の解決を見届けて来た彼らの常識であるからだ。

 

 

『……なるほどね。ロランや楼杏の報告に上がっている通り、個別に潰してもいくらでも替えが出て来るっていうのは間違いないようだね。厄介な異能だよ、これは。放置したら手に負えなくなるくらいにね』

『ヘレナ様、ロラン達への指示と私達の動きはどのようにしましょう……』

『ロラン達にはここに来る必要が無い事を伝えな。ここを囮にして別の場所を標的にする可能性がある。そのまま近場への警戒と移動体制の確保、奴を見付けた時の処分を優先するんだ。それとお前達も碌な防衛方法がないだろう、私がこの占領を崩すからお前達は私の邪魔にならないようこの国の警察を押さえておきな』

『了解』

 

 

 他者を強制服従させる力。

 その上、自身を分裂させ碌に攻撃を受けず、さらには神出鬼没でまともに対峙する事さえ出来ない“死の商人”の異能。

 万能にも思える力を振るうそんな“死の商人”の報告を受けていたヘレナが、目の前の黒く蠢く何かに汚染されたショッピングセンターを見上げて息を吐く。

 

 

(……この状況、やっぱりレムリアは負けたんだろうね。最初から奴の異能が異質な力だと分かっていたのに懐に入ったのは間違いだった…………奴の性格柄単純に命を奪うようなことは無いだろうが、過去の報告から他人を強制服従させるような力があるのは確定している。間違いなくレムリアが敵として立ちはだかる上、人質の中で異能の才能がある奴が服従させられていたらここの戦力は相当なものだ。ただでさえ、奴のテリトリーと化しているこの建物に突入するよう誘導されているっていうのに……現状、まさしくこの建物は奴の牙城だ。どう攻略するにも至難の業だがね……)

 

 

 だが、だからといってこの場だけに組織の戦力を集中させる訳にもいかない。

 この事態の犯人はそういう誘導を意図的に行い、本命は別の場所だったということが多々あるのだ。

 

 難攻不落と化している目の前の建物に辟易とした想いを抱えながら、ヘレナは不気味に蠢く目の前の壁を見詰める。

 

 どう見てもこの壁からは、こちらの様子を観察しようという意思を感じる。

 ヘレナが来てからやけに活発に蠢いているその壁を見詰め、彼女は肩を竦めた。

 

 

『……で? 私への対策を進めていたんだろう?』

 

 

 独り言のように呟いたヘレナへ周囲の注目が集まるが、それらを無視して彼女は蠢く壁に向けて話し掛け続ける。

 

 

『レムリアを捕まえて、一緒に居るだろう私の対策を、頑なに私との接触を避けていたアンタが取らない筈が無いだろうからねぇ。私の気配を感じたアンタの行動は、今まで通り尻尾を巻いて逃げるのか、そうでないなら私を倒せると確信できるほどの準備が出来たかのどちらかしかないだろう?』

『ヘレナ様……? いったい何をおっしゃられて……』

 

 

 ヘレナは笑う。

 牙を剥くように、長年無かった逆境を楽しむように、獰猛な笑みを浮かべた老女は自身を窺う“死の商人”目掛けて言葉を放った。

 

 

『神を気取るには能力不足だと思い知らせてやるよ。やってみな青二才』

『————』

 

 

 彼女の予想通り、ヘレナのその言葉を皮切りにして、蠢いていた壁が唐突に開き、中から“死の商人”の異能を潜ませた狂乱状態の一般人達が一斉に飛び出した。

 

 暴力衝動に支配されたような、まるで野に放たれた獣のような姿を見せる一般人達。

 誰か一人を標的としているものではない、お互いを押し退け合いながらバラバラに飛び出してくる人間の津波。

 

 被害の拡大を抑えようと動くだろうヘレナに最大限の負担を掛けるために、“死の商人”はあえて闇雲に被害を拡大するよう指示したのだろう。

 

 そのことを理解して、ヘレナはもう一度杖を突いた。

 自身の異能を起動して、その身に宿した世界を動かす力を振るう。

 

 ――――彼女の周囲の『刻』が歪んでいく。

 

 

 

 

 ‐1‐

 

 

 

 

「どうして?」「ずるい」「桐佳ちゃんはずるい」「私だけ」「死んじゃうんだ」「頂戴」「どうして?」「また私だけ」「諦めちゃうの?」「不幸になる」「どうせなら一緒に」「奪っちゃえ」「ずるい」「酷いよ」「誰にも愛されない」「本当に嫌な子」

 

 

 頭の中で声が反響する。

 まるで頭の中に自分が何人もいるように、自分自身の声が響き渡る。

 頭の中に響くこの声を聴いていると、自分の本当の考えが分からなくなる。

 

 妬み、奪おうとする頭の声に呑まれた自分が友人を傷付けてしまう事だけは分かったから、遊里は逃げるように闇の中を歩いていく。

 

 一度意識を失った事で収まりを見せていた頭の中の声が、段々と強く活発に遊里を呑もうと喚き散らす。

 

 

「気持ちの悪い子」「誰か認めて」「ここにいるよ」「私を見付けて」「違う」「ずるい人達から貰わないと」「気味の悪い」「才能も無い」「悪い子だよ」「だってそうでしょ?」

 

「うるさいっ……やめてよっ……」

 

 

 必死にその声を無視しようとした遊里が、意味も無いのに自分の両耳を塞いで走り始めると、数歩もしない内に頭の中の声が変わった。

 

 何度も夢に見たその言葉。

 いつも聞いてるその人の声が、昔聞いたその時の声色のまま頭に響く。

 

 

『————あなたなんか、産まれなきゃよかったのに』

 

 

 ぴたりと、足が止まってしまった。

 頭の中に響く自分のような声の反響の中で、ふと蘇った母親の言葉。

 忘れようとしても忘れられない、血走った眼をした母親から向けられたその言葉を思い出すだけで、遊里は息が詰まるような感覚に囚われる。

 

 分かってる、あの時の母親は正気じゃなかった。

 暴力を振るう父親から逃げて引っ越して、ギリギリの生活の中で消耗していた母親を、支援を名乗り出た宗教団体が巧みな人心掌握術で洗脳染みた事をして従わせていた。

 心も、体も、離れていく母親に対して何も出来なかったのは自分自身であるし、正気に戻って謝罪して、今は昔のような優しい母親に戻ってくれているから忘れようと思っていた。

 

 気にしないようにと思っていたのに、今更になってこんな風に思い浮かぶのは、きっとあの言葉が何よりも悲しかったからなのだと思った。

 

 

「おいおいおい遊里ちゃん。あんだけお膳立てしてあげたのに友達一人手に掛けられないなんて期待外れも良いところだよ。本当に何をやっているのさ」

「……」

 

 

 立ち止まった先の闇の中から銀髪の悪魔が姿を現した。

 だが、姿を現したバジルには言葉の通りの失望しているような態度は無く、強制服従の力に遊里が抵抗出来ている事に興味があるのかまじまじと遊里の観察を続けている。

 

 

「高価なんだぜ君が使った異能開花薬品。けど君なら上手くやってくれると思ったのにさぁ。期待してたんだけどなぁ、自分を押し殺した人間がその願いを解放する姿。悪人ばかり欲望を発散するのは不平等だろ? だから俺は君達みたいな自分を押し殺す善人を呪縛から解放してあげてるっていうのにさぁ。それなのに君は最後まで他人を思いやる下らない発言をするなんて……もうここまでくるとある種の病気だね。ああ、この国の人は本当に可愛そうだ。悪人に都合の良いように洗脳されている」

「……おかあさん」

 

 

 焦点の定まらない目をふらふらと揺らす遊里に、彼女の周りを大きく旋回するようにして歩き出したバジルは、異能による攻撃がこの建物に向けて始まったことを感知する。

 あまりに強い異能の気配に「例のあの老婆か」と当たりを付けながらも、バジルは遊里から目を逸らす事無く円を描くように歩き続けた。

 

 

「おかあさん、お母さんね。君のお母さんがどんな人か知らないけどどうせここまで自分の気持ちを押し殺すような君に愛着なんて持っていないさ……ん? んん? ああ、いや、そうか君は全く親にも愛されていなかったんだね?」

 

「あはははっ、暴力を振るう父親には存在を否定され、唯一優しかった母親も宗教に入れ込んで君への愛を枯れ果てさせた! なんて不幸な子なんだ! 求めていたもの全部貰えずこんな風に一人朽ち果てる事になる! 悲劇的で悪夢的だ! こんなにも君は不幸なのに、それなのに他の幸せな誰にも悪意を向けられないなんてっ……ああ本当に、本当に君才能ないよ。幸せになる才能ってやつが微塵もない」

 

「うんまあそれも仕方ないのか。まともな親の元に生まれなかった訳だしまともに愛されなかったんだから幸せになるやり方が全然わかってないんだろう。他人の愛を信じられないし、誰かを愛することも出来やしない。誰かを救う善人にも成れない癖に誰かから奪う悪人にも成れない半端もの。のうのうと息をする事しか出来ない癖に生きているだけで苦しみや痛みを背負い続けている君は、もういっそここで死んでしまった方が幸せなのかもしれないね」

 

「声も上げない、行動も出来ない、不満を信じられる誰かに言うことも出来ない。本心なんて口にしないで、ただただ周りに嫌われないようにと息を潜めるだけ。だから誰にとっても君に価値なんて産まれない。誰からの特別にもなれない。誰にも愛されることも無い。君には価値が無い。君は不良品だ。商品としても、人間としても、誰かの子供としてもね」

「……」

 

 

 酷い言葉だと思う。

 けれど、そうなのかもしれないと遊里は思った。

 正気では無かったのだろうけれど、あの時母親が自分に向けたあの言葉はきっと間違ってなんかいなかったんじゃないかと、思ってしまった。

 

 だからこんなことを思ってしまう。

 

 

(……私はきっと、産まれるべきじゃなかったんだ)

 

 

 だってそうだろう。

 自分が産まれて父親も母親も不幸になった。

 父親は暴力を振るったし、母親は自分を蔑んだ。

 自分が原因で家族はバラバラになってしまった。

 家族が壊れていく様を、自分はただ眺めることしか出来なかった。

 

 もっと違う未来はあった筈だ。

 父親と母親が仲良くて、二人に愛される子供がいて、何処にでもいる普通の家族のように笑っていられる未来はあった筈だ。

 もしも自分よりも上手くやれる誰かが父親と母親の子供であったなら、宗教団体が入り込む余地がないくらい二人の間を取り持って、二人の愛情を一身に受けて、幸せな毎日を過ごせていた筈だ。

 

 もしも二人の間に生まれたのが、自分なんかでなかったら。

 もしもそれが、『自分が尊敬するあの人』であったならと考えたのは、何も今が初めてではないのだ。

 

 

「っふ……ぅぁっ……」

 

 

 そんなことを考えるだけで、上手くいった筈の家族の姿が脳裏に浮かんで、気が付けば遊里は涙が溢れ出してしまった。

 

 胸が詰まった。

 苦しさで息が出来なかった。

 思い描いてしまったもしもの未来に焦がれてしまって、自分がここに存在してはいけない生き物のように思えてしまった。

 

 幸せになって欲しい人達の邪魔をしていたのが他ならない自分自身だと思えてしまって、どうしようもないくらい胸が痛くて蹲る。

 ポロポロと頬を伝う涙が床を湿らせていくのを見ながら、つい考えてしまうのだ。

 

 自分は背景の分からない父親の暴力をいつまでも憎んでいた。

 自分は正気じゃなかった母親の言葉にいつまでも傷付いていた。

 自分は自分を救ってくれた友人の環境にいつまでも妬んでいた。

 内心そんな事ばかり抱えていた誰も知らない醜い遊里の姿を知って、いったい誰が受け入れるというのだろう、なんて。

 

 隠し続けたこんな醜い自分の姿を、いったい誰が愛してくれるというのだろう。

 

 醜くて、醜悪な内面を抱えた悍ましい自分など、いつも周りを不幸にするばかり。

 

 きっと自分は産まれるべきでは無かったのだと、遊里は思ってしまったのだ。

 

 でも。

 

 

「それは違うよ」

 

 

 それなのに、そんな遊里の頭に浮かんだ考えを誰かが否定する。

 

 

「駄目だよ、そんなに自分を傷付けたら。貴女が周りを不幸にするなんて、絶対にそんなこと無いんだよ」

 

 

 自分の涙で濡れる床に影が差す。

 すぐ目の前にしゃがみ込み、酷く優しく頭を撫でてくれる誰かが優しく語り掛けてくる。

 

 

「貴女は優しい子だもの。苦しい現実に打ちのめされて内心でどれだけ暗く淀んだ気持ちが芽生えても、誰も傷付けないようにって我慢し続けたのは貴女が優しい子だからだもの。才能とかじゃなくて、環境とかじゃなくて、何にも代えがたい貴女自身の優しい人格があったから、貴女は貴女以外の誰も傷付けなかったんだよ。そのことに誰も気が付かなくても、私はそのことをちゃんと知ってるよ」

「……なんで……?」

 

 

 頭の中で繰り返されていた数多の声が、優しく頭を撫でられるにつれて消えていく。

 全身に走っていた割れるような痛みが、温もりに包まれて和らいでいく。

 

 そして、遊里がゆっくりと顔を上げれば、そこには予想通り優しい顔をしたあの人が自分を見詰めている。

 

 自分よりも背の低い、遊里の尊敬する人がそこにいる。

 以前も自分を暗闇から救いだしてくれた、佐取燐香がそこにいる。

 

 この場所にいる筈の無いその人の姿を遊里が呆然と見詰めていると、その人は安心させるように微笑みを浮かべた。

 

 

「……そんなの、私が遊里さんの頑張る姿を近くで見てたからに決まってるでしょ? 遊里さんには私の情けない所ばっかり見せちゃってるけどね、そんな私でも妹の抱えた悩みとか苦しみくらいは分かっちゃうんだから」

「…………わたしは……」

 

 

 どこまでも優しく語り掛けて来るその人の言葉を、遊里はこんな時だというのに震える声で否定する。

 

 

「桐佳ちゃんをずっと……羨んで、妬んで、ずるいって思って。私は皆を不幸にして、本当の私は皆が思うよりも醜くて……」

「うん」

 

「私が何も持たないのは理由があるんだって……醜い本性があるからだって納得してた。そうであるから仕方がない……自業自得じゃないと、おかしいんだって思った」

「……うん」

 

「私とお母さんを助けてくれたみんなが、不幸になってほしくなかった……こんなに醜い私を、知らないでほしかった……」

「…………うん、分かるよ。よく分かる」

 

 

 口に出そうとするだけで苦しい言葉の数々。

 それでもそんな言葉を必死に絞り出す遊里の話を止めることなく最後まで聞き届けて、その人は「でもね」と言ってゆっくり言葉を紡いでいく。

 

 

「……もしも。もしも、本当にそうだとしてもね。遊里さんが誰かを不幸にして、抱えきれないくらい醜い感情を持っていたとして、何から何まで自業自得だったとしても」

 

 

 ゆっくりと何かを思い出すように。

 

 

「私も……お兄ちゃんやお姉ちゃんっていうのは、弟や妹を守るものだって思うから」

 

 

 自身の罪を告白するように、自分の醜さを告白するように。

 遊里は目の前のその人に向けて言葉を紡いだのに、その人は何も変わらない優しい表情のまま遊里を認めてくれる。

 乾き切って罅の入っていた遊里の心に、何度も何度も優しい水を撒いてくれる。

 

 それだけで遊里は、さっきとは違う涙が溢れ出してしまう。

 

 

「……私は貴女にもちゃんと幸せになって欲しいの。私はもう、貴女のお姉ちゃんのつもりだから。どんな貴女でも、ちゃんと大好きだからね」

 

 

 そう言ってその人は、涙に濡れた遊里の目を塞ぐように手をかざす。

 小さな子供を寝かしつけるように、醜く汚れ傷付いてしまった遊里の瞼を優しく閉じる。

 

 

「これ以上怖いものは見なくて良いから、お休み遊里さん……良い夢を見るんだよ」

「おねえ……さ……」

 

 

 酷く眠かった。

 ずっと抱えていた淀んだものが優しく溶かしつかされて、抱きしめるように温もりを与えられ、今の状況なんて頭から抜け落ちて、遊里の意識は幸せな夢の世界へと落ちていく。

 

 

 その夢の中は昨日の、家族みんなが楽しそうに食卓を囲む光景が――――。

 

 

 

 

 

 

 音も無く、気配や予兆も無く、唐突にその場に現れた少女。

 幼さがある、到底悪意や悲劇とは無縁そうに見えるその少女が遊里を眠らせた光景を前にして、バジルは自身が興奮しているのを自覚した。

 

 目の前の少女が『あの存在』であると半ば確信して、バジルは感激を口にする。

 

 

「……ここまで来てもまったく異能の気配が感じ取れない。ふ、ふふふっ、ついに現れたのか本物の“顔の無い巨人”。いや流石に緊張してくるね。都市伝説や信じがたい新興宗教の一部として語られる存在の大元が実際に目の前に現れたとなると流石に俺でも感じてしまうものがあるよ。“無貌様”とでも呼んだ方が良いかな? それとも何か別の名前が良かったりするかな? いや失礼、俺の自己紹介がまだだった。俺の名前はバジル・レーウェンフック、世界を飛び回るしがない商人さ。情報、兵器、機密技術に疫病や戦争。少々値は張るが要望のものは何でも揃えて卸しているよ。何か欲しいものはあるかな? 君になら特別な商品を卸すのも特別割引で商品を販売するのも可能だよ。俺としては『UNN』のお爺さんよりも君に肩入れしたいんだけど…………そんな空気じゃないよねぇ」

「…………」

 

 

 遊里に自分の上着を被せて寝かせると、その少女はゆっくりと立ち上がり振り返った。

 黒曜石のような真っ黒な目が、興奮するバジルの姿を映し出す。

 

 無表情の少女が向けてくる冷たい敵意を感じ、バジルは水面下で迎撃の準備を整えていく。

 

 

「……なんでこんなことをしたんですか?」

「ん? そんなつまらない事を聞かれるとは思わなかったな。どうしてってそんなの不幸な人を助ける為さ。この国だけじゃないけど我慢する人は我慢し続けて欲望を抑えない人はずっとそのままだ。そんなの不公平だろ? 俺達を形作った神様はそんな格差を許容していない。もっと作られた最初の時のように原始的で暴力的で欲望に忠実な人間の姿を望んでいた筈なんだ。原初の人間の姿こそ神様が望んだ俺達人間の完成形なんだよ。それを支配層が支配しやすいように洗脳を続けた結果こんな気持ち悪い不平等が蔓延ってしまうようになった。俺はそれを変えたいのさ。全ての人間が正しく自分の欲望を抑えない世界の実現に向けて、人間を正しい人間の在り方に戻してあげているだけなんだよ」

 

 

 投げ掛けた疑問の返答を受け取ったものの、“顔の無い巨人”の少女は眉一つ動かさずもう一度問い掛ける。

 

 

「それは商人としての行動理由ですよね。今回、どうしてこの場所を選んだんですか? わざわざハイジャックをしてまでこの建物を狙った意味は何ですか?」

「…………ふっ、君がこの国だけを必死に守っていたからね。世界各地で悲惨な異能犯罪が起きているのにこの国だけ君に守られて悲劇の蚊帳の外だ。世界はこんなにも悲劇に満ちていて“顔の無い巨人”に助けを求めている人は沢山いるのにこんなの不公平だろう? だからね、この国にも他の国と同じだけの不幸を振り撒こうと思ったんだよ。平等を愛する商人として、原初の人間を望む神の信徒として」

 

 

「そう」と続けたバジルは、用意していた手札を切った。

 

 

「――――君を攻略した上でさ“顔の無い巨人”」

 

 

 ズドンッ、と。

 視界外から砲弾のように飛来した何かが、眠りにつく遊里ごと少女を圧し潰した。

 作り上げられた巨大な亀裂の中心で、砲弾のように飛来した金髪の少年が先ほどまで少女がいた場所を殴り付けている。

 

 その強制服従させられている金髪の少年は自身がやっていることも分からないのか、血走った眼を周囲に巡らせながら何度も引き裂くように拳を振り回していた。

 少女達が少年に圧し潰される凄惨な光景を前にして、バジルは両手を広げてワザとらしい驚いたような態度を作る。

 

 

「ははは、レムリア君は暴力的だなぁ。驚いたかい? 君お得意の精神干渉の異能が無くても人を服従させることは難しくないんだよ。時代は変わる。君が神のごとき力を振るえた時代はもう終わり今や君の異能は時代遅れの型落ち性能。扱う技術こそ一級品のようだけどそれだけじゃ俺のような時代の先をゆく最先端の異能にはどうしても劣ってしまうんだか」

 

 

 だが、次の瞬間バジルの体が真っ二つに引き裂かれた。

 

 のこぎりで横一線に引き裂かれたように、宙を舞うバジルは自身の無残な姿を確認して驚きの表情を浮かべる。

 

 

「……おかしいな。君はこんな物理的な攻撃は出来ない筈じゃ……」

 

 

 直後、宙を舞っていたバジルの上半身は闇から現れた巨大な手によって地面に叩き付けられ、体の構成物質全てを跡形も無く圧し潰された。

 

 そして誰にも気付かれず、いつの間にか、傷一つ無い状態で“顔の無い巨人”の少女とそれに抱えられている遊里がバジルのいた場所の背後に現れている。

 潰れたバジルをゴミでも見るように一瞥し、“顔の無い巨人”の少女がバジルに強制服従させられている近くの人に声を掛けた。

 

 

「ねえ、この子を連れて出て行って」

「え、はっ、な、なんだ、何が……!?」

「聞こえないの? 私はこの子を連れて外に行きなさいと言ったのよ」

「ぉぁ……わかり、ましタ」

 

 

 抱えていた遊里を従順になった一般人に渡す。

 彼が大切そうに遊里を背負って駆け出したのを見届けた“顔の無い巨人”の少女は、おぞましい光を浮かべた目を暴走しているレムリアに向けた。

 冷たく見定めるような視線がレムリアの全身を捉え、血の通わないような無機質な推測が“顔の無い巨人”の少女の頭の中で行われていく。

 

 そして、結論を出した“顔の無い巨人”の少女が酷くつまらなそうに、再び闇から現れた銀髪の悪魔を見遣った。

 

 

「量は違っても根本は同じ。芸も無ければ技術も無い。応用性の欠片も無い。程度の低い異能の力ね」

「……おいおいおい、そんな冷たい事を言わないでくれよ。現に君は俺を倒せていなければ、俺の異能の本質も掴み切れていないだろう。いやいや嘲るつもりなんてないんだぜ。俺の異能は常人では理解し得ないもの。先に言っておくが君は絶対に俺を倒せない、いいやこの世の誰も俺を完全に倒す事なんて不可能なのさ。俺は人間を超越したんだよ。文字通り人間という種を越えた存在に辿り着いて――――」

 

「微生物」

 

 

 ピキリッとバジルの表情が一瞬固まった。

 明確な変化だったが、バジルの反応を見る事も無く“顔の無い巨人”の少女は周囲を見回す。

 

 

「記憶の連続性と本体と同じ人格、知性を持ったミクロ単位の分身を無限に作る異能。目に見えない程極小の分身を作る訳だから、簡単に言えば微生物ね。結合や分裂が可能で今私の目の前に普通の人間がいるように見えるけど、貴方は普通の人間とは異なりバジル・レーウェンフックの極小の分身が重なり合って形作っている存在にすぎない」

「……」

「他人を強制服従させるとはよく言ったものね。相手の脳内に極小の貴方が潜り込み、寄生する形で思考回路に介入を仕掛ける。潜り込まれた人は自分の思考と貴方の命令の区別がつかなくなりやがて洗脳に近い状態に陥って、貴方の手先が出来上がる。これが貴方の言う強制服従、これが貴方の異能を使った制圧術」

「……はははっ、流石に精神干渉の異能を持つ相手に隠し事は出来ないか。ここまで完璧に近い異能の詳細を見抜かれるのは他の誰であろうとも無かったと言うのにね。だが、だからどうした。それが分かったところで何が出来る。俺の異能を見抜いたと言うならこの異能に対する手立てが無い事も分かるだろう?」

 

 

 だがバジルの動揺も一瞬。

 今まで見抜かれた事も無かった自身の異能の詳細を相手に言い当てられても、バジルは直ぐに余裕を取り戻して“顔の無い巨人”の少女に向き合う。

 

 子供としか言えないような相手の姿を認識しながら、バジルは一切の油断もなく、相手の動きや呼吸をつぶさに監視し、戦闘の準備を整えていく。

 

 

「出来る事なら君とは商売仲間になりたかったがそうもいかないんだろう。残念だが君には踏み台になって貰う他ないみたいだ。恨まないでくれよ?」

「醜悪な貴方の思考は酷く不愉快なの。終わらせてあげるわ。その積み上げられた自信も、欠落だらけの異能も、腐り果てた精神も全て。信じてもいない神の存在で理由を語り、他人の善意を排斥する貴方のような思考回路。私は全部が不快で仕方ないのよ」

「良いぜ、やろう“旧時代の神様”。この際上下関係をはっきりつけようじゃないか。新時代の異能がどういうものか型落ちの君に教えてあげるよ」

 

 

 もはやお互いが会話をするつもりがない。

 お互いを自分勝手な物差しで推し量るように、そんな暴言に近い言葉を交わした。

 

 バジルの周囲一帯から威圧するように異能の出力が噴き出され、それに呼応するように手下と化している人々の目がギョロリと“顔の無い巨人”の少女へと向けられる。

 それらはレムリアや異能を持たされた青年や買い物に来ただけの一般人達。

 その殆どの人が少女よりも体格が良く、組み合えば勝つことなど不可能であり、単純な数の差も絶望的という状況。

 

 だが、そんな人達に完全に包囲されたにも関わらず“顔の無い巨人”の少女は冷めた表情を崩さない。

 

 

「……この場には、憎しみより優しさを選べる人も、不利益を受け入れてでも他人を助けられる人もいないから……」

 

 

 自身の妹を連れた一般人が無事に脱出していったのを視界の端で見届けて、一度目を閉じた“顔の無い巨人”の少女はカチリと自分の頭のスイッチを切り替える。

 冷たく凍るような思考の中で、にこやかな笑顔を浮かべているバジルへあまりに怜悧な目が向けられる。

 

 直後————深海の底に引き摺り込まれたような異能の出力がこの場を支配した。

 

 

「救いなんてものはない、貴方の世界は最悪の色へと腐り落ちる」

 

 

 持たぬものでは感じる事さえ許されない。

 出力そのものが重量を持っていると錯覚しそうになる現実に、バジルは顔を引き攣らせた。

 

 ノイズが全身を包み始めた“顔の無い巨人”の少女が歩き出す。

 

 

 

 

 ‐2‐

 

 

 

 

 ミレーという名の少女は不幸だった。

 羊飼いという、コミュ障染みた彼女にとって割と天職と言ってもいい仕事を持てていたのに、あれやこれやある内にいつの間にかテロリストに連れ回される立場になっていた。

 

 元々持っていた“見分ける目”の異能を日常生活でちょろちょろ使ってズルしていたのが悪かったのだろう。

 ミレーの目の力に気が付いたテロリストに良いように使われる毎日を過ごす羽目になってから何度も怖い思いをさせられることになった。

 

 怖い思いをさせられる、それは確かに不幸な事だ。

 けれどそれ以上に、自分が見分ける事で、テロリストが順調に人を不幸にしていくのがミレーは心苦しかった。

 申し訳ないと思いながらも、自分が捕まらなければ良かったのにと思いながらも、見知らぬ誰かの為に命を懸けて反抗する事も出来ず、ただただ助けを待つばかりの小心者の少女。

 脅されていただけで罪は無いと言うつもりは無かったし、いずれ助けられた時には何らかの贖罪をするつもりではいたのだ。

 

 けど、だからといってこんなのは、話が違うとミレーという名の少女は思う。

 

 

『な、に……あれ……あんなの、ありえない……』

 

 

 引き潰されていく。

 的確に、精密に、残酷に。

 視界全体に広がっていたバジルの異能が、空間ごと食い千切られた様に削り取られていく。

 殺到するバジルの手先が指先から鳴らされる音一つで崩れ落ち、決死の攻撃もあらぬ方向への攻撃へと変換され、存在しない筈の巨人に叩き潰されている。

 

 おかしいのだ。

 

 手先となっている人達に潜り込んだバジルの異能が消えていっている。

 一度手先になったらどうしようもない筈の、強制服従させるための粒子のようなバジルの異能が、手先となった人を貫通し直接削り取られていっている。

 人間から逸脱した力を持ち、抵抗しようのない方法で、悪魔のように他人を追い詰めるだけだったバジルという男が根こそぎ潰れて消えていっている。

 

 無限に増殖するバジルの異能。

 現に今も増殖を続けているが、それよりも消滅の速度の方がずっと早い。

 

 

『どうなってるどうなってるどうなってるっ……ミレーちゃん! 見ろ! 奴を見ろ! 奴は何をやっている!? 奴の攻撃の起点は何だ!?』

『きっ、起点といわれても……! お、おらには、なにも……』

『何をやっ』

 

「それが貴方の探知担当ね?」

 

 

 つい先ほどまで遠くで強制服従させられている人々に囲まれていた筈なのに、気が付けばミレーの目の前にソレが立っている。

 自身の異能ですら接近に気が付けなかったことに驚愕するミレーをよそに、彼女に指示を出していたバジルの分身体を“顔の無い巨人”の少女が片手で掴み取った。

 

 廻らせ、巡らせ、刃のように。

 精神干渉の異能を破壊方面に特化させ、超高出力の異能を手に回す技術。

 触れただけで人を廃人にする残酷な攻撃が、よりにもよってミレーの目の前で行われた。

 

 

『ギ■ぁご■ぐぐ■■■ォぉあァ■■ァ!!!』

『ひぃっ……!!』

 

 

 聞いたことも無いバジルの絶叫。

 想像を絶する激痛にでも襲われたのか、人間とは思えない断末魔を上げながら完全に裁断されたバジルの姿にミレーは腰を抜かしてその場に座り込む。

 

 腰を抜けしたミレーが恐怖で体を震わせながら目の前に立つ“顔の無い巨人”の少女を見上げ、思わず失神しそうになった。

 

 だがそれは、“顔の無い巨人”の少女が自分を見下ろしているからではない。

 “顔の無い巨人”の少女の手で掴まれたバジルの姿がボロボロと崩れていくからでもなく、“顔の無い巨人”の少女の背後でバジルの手先達が今もこちらの状況に気が付かないままお互いを攻撃しだしているから、でもない。

 

 本当に単純に、“顔の無い巨人”の少女を目前にして、ミレーの“見分ける目”でその才能を直視してしまったからだった。

 

 

(あ、ありえないありえないありえない。この人おかしいっ、才能がおかしいっ! 異能の才能がおかしいっ。これは人間じゃないっ、人間のレベルを完全に外れちゃってるっ……! 見た事無い、こんなの、こんな人がいるなんてありえない。こんなの異能の才能を持った人間じゃなくて、異能そのものが人の形になったような――――)

 

「ねえ、貴方邪魔なの。少しの間意識を奪うわね」

「かひゅ……」

 

 

 その怪物がミレーの額を小突いただけで、今にも失神しそうな状態だった彼女は碌な抵抗も出来ないまま地面に倒れて動かなくなる。

 “顔の無い巨人”の少女はミレーが倒れるまでの様子をじっと見届けて、背後から攻撃を仕掛けて来たバジルを振り向きざまにブレインシェイカーを放ち無力化した。

 そして、ブレインシェイカーによって行動を封じられたバジルを手に纏わせた超高出力の異能の刃によって裁断し、“顔の無い巨人”の少女は随分と減ったバジルの異能に目を向ける。

 

 

「キリがない訳じゃ無いわね。人型を作るだけでも数十億程度の分身は必要みたいだから、人型を倒すだけでもかなりの数の分身を削れたことになる。のこのこ顔を出すなら人型を優先して狙えば良いし、こそこそ隠れているなら範囲の広い攻撃をすれば良い」

 

 

 そう分析してから、“顔の無い巨人”の少女は大きく表情を歪めながら再び現れたバジルに視線をやり、「それで」と言う。

 

 

「次、最先端の異能は何を見せてくれるの?」

「…………なんなんだ、お前……」

 

 

 本格的に戦闘が始まってまだ3分程度。

 だというのに、今のバジルには最初の勢いはほとんど消えかかっており、大きく表情を歪めて現れた今の彼からは焦燥すら感じさせる。

 心底苦々し気に“顔の無い巨人”の少女を睨むバジルは、うわ言のように呟き始める。

 

 

「……なんでだ。お前の異能は精神干渉……俺の異能は天敵のようなものの筈だ。俺の作り出す分身は俺自身であって俺ではない。完全に別個体だが同時に完全な知性体として複製された存在でもあるんだぞ。異能には限界がある。浮遊させられる重さ。転移させられる距離。それらと同様に精神干渉を実行できる相手の数は限界がある筈だろう。特に同時に他人の精神を操作する力なんていう精密操作が必要なものなら同時に操れる人数には限りがある筈だ。マルチタスクにしたって限界がある筈なんだ。異能の限界。人間の機能的な限界。それらを明らかに飛び越えているお前の異能は……いや、お前は何なんだ」

「さあ?」

「このたった数分の内に数千億の俺を始末したなんてありえないんだよ! この場にいた数千億の俺が複数の視点からお前の姿を捕捉していたんだぞ!? それら全ての俺の認識に干渉して位置座標を誤認させる!? どんなトリックだっ、ありえないだろう!? “読心”を中心として立ち回る精神干渉の異能持ちのお前がっ、独立して攻撃を仕掛けていた数千億の俺の思考の全てを同時に読み切って行動できる訳が無いだろうっ!? おかしいんだよっ、何もかもがおかしいんだっ! お前はいったい何なんだよ!?」

 

 

 激昂した。

 初めて味わう敗北感に頭まで浸かってしまったバジルはなりふり構わず吠え立てた。

 劣勢の怒りをぶつけるというよりも、目の前の理不尽が理解できずに混乱するしかなくなってしまっている状態だった。

 

 そうだあり得ない。

 異能は原理原則の無い力じゃない。

 魔法では無いし、神様の権能でもない。

 今の科学では証明できないだけで、法則があれば限界だってあるものだ。

 そもそもそれを扱っているのが人間である以上、人間の範疇以上の事をするのは不可能なのだ。

 “死の商人”として異能に関わるものも扱って来たバジルはそのことを良く知っているからこそ、目の前のこの存在が振るっている力がいかに常軌を逸しているか理解してしまう。

 

 

「貴方が言っていたじゃない、“旧時代の神様”なんでしょう?」

「ほざけっ!! だったら小細工の隙も与えなければ良いんだろうっ!?」

 

 

 そのどうでも良さそうな返答にバジルは全力を振り絞る。

 発狂染みた激情に身を任せ、攻撃だけに全てを振り切った。

 息を乱し、残った手札であるレムリアと異能持ちへと仕立て上げた青年。この場に残っている自分の手下や宙に浮いていた分身達全てを一斉に“顔の無い巨人”の少女に強襲させた。

 

 本当の意味で今自分に存在する全戦力を投下して、目の前の怪物にぶつける。

 鬼気迫る形相で襲い掛かる濁流のような人間と異能を前にしながらも、“顔の無い巨人”の少女はそれらに共通して存在する感情を確認し、恐ろしいほど酷薄な笑みを浮かべた。

 

 

「――――あはっ」

 

 

 機械に潜むものにも指示をしない。

 自身に迫りくるあまりに多くの知性体の数を正確に把握しながらも、“顔の無い巨人”の少女は何からの手助けも求めない。

 

 だって、その必要は無い。

 

 

「貴方はやり方を間違えた」

 

 

 唐突に、少女の背後に巨人が姿を現した。

 暗闇の中立っている、口以外に顔の無い人型としても歪な巨大なナニカ。

 恐怖の象徴とも呼ばれる名称の存在そのものを目の前にして、バジルは大きく目を見開いた。

 

 

「恐怖は人の認識を歪める。ありもしないものを見て、ありもしない音を聞く。やりやすいのよ、とってもね」

 

 

 誰一人足を止める暇すら無かった。

 最初にレムリアが“顔の無い巨人”に掴まれ数十メートル先に叩き付けられた。

 次に数多のバジルが“顔の無い巨人”が腕に纏わせたソウルシュレッダーによって塵も残さず裁断された。

 次に異能持ちへと仕立て上げられた青年が頭上から振り下ろされた“顔の無い巨人”の平手で叩き潰された。

 次にバジルの手下になっている一般人達が“顔の無い巨人”による腕により纏めて薙ぎ払われた。

 

 終わりだ。

 終わりだった。

 最後の総攻撃からほんの数秒も要さずに、全てが沈黙してしまった。

 誰一人何も抵抗できないままで、倒れ伏し身動き一つ取れなくなっている。

 

 そして、この場に残る最後のバジルは――――

 

 

「――――顔の無い巨人というのがまさか……その名称を実体化させたそのものを指す言葉だったとは……。俺のリサーチ不足か……いやはや、流石最強の異能持ち。どれほどの小細工を用いても勝てる気がしない」

「……」

 

 

 自分の準備した手駒が完全に沈黙した状況。

 この場で作り出して用意していた自分自身の分身、およそ5000億にも及んだ存在は今のバジルを形作るものを除いて残らず消え失せてしまった。

 

 完全敗北。

 その事実を噛み締めながらも、バジルは先ほどまでの激昂が嘘のように落ち着いた様子を見せている。

 手を広げ、何も抵抗する気が無い事を示しながら、バジルは処刑を待つ囚人のように溜息混じりの敗北宣言を“顔の無い巨人”の少女に対して行った。

 

 

「俺の負けだ好きにすると良い。抵抗しようとも思わない。君の好きなように」

「つまらない演技ね」

 

 

 だが、それすら“顔の無い巨人”の少女は冷たく切り捨てる。

 悪魔のようなこの男の最後の手札を、“顔の無い巨人”の少女は最初から見通しているからだ。

 

 

「分身を作る異能を持っているなら保険を掛けるものよね。この場所が危険地帯だと分かっているなら、他の場所に分身を残さずにここに来る理由はないものね。最初から全滅する可能性も考慮して、貴方はこの場に来ていたんでしょう? 貴方がここで消え失せても、国外に広がる他の貴方が生存し続けられるようにって」

「…………クはっ、くははハはハハはハはハハハはッ!!!!!」

 

 

 何の感情も籠らない無機質な指摘に晒されて、バジルは一瞬だけ顔を俯けた後堪え切れなくなったように噴き出した。

 

 ケラケラケラケラケラケラと。

 人間の不幸を嘲笑する悪魔のように哄笑を響かせたバジルが心底愉しそうに、相対する“顔の無い巨人”の少女を見据えた。

 

 

「そうだ! そこまで分かるか“顔の無い巨人”!! 素晴らしい!! 異能だけに留まらないその才能!! 俺の想像以上だ!! 俺が甘かった!! 君を見くびり過ぎていた!! 君は間違いなくこの世界を征服するに足る器だった!! “旧時代の神様”などではない!! この世に産まれ墜ちてしまった厄災そのものだ!!! 敬意を表しよう!! 畏敬の念を抱こう!!!」

 

「だが!! だがだ!!! “顔の無い巨人”!!! ここで俺が潰えても君は俺を完全に抹消することは出来ない!!! 神様にだって俺を抹消する事は出来やしないんだ!!! 世界各地には既に俺の記憶と知性と人格を持った存在達が充満している!! 今なお無限に増殖し続けている俺の存在を誰も完全に殺す事なんて不可能だ!!! 不死では無くとも不滅の存在へと昇華された俺の存在は文字通り人間という種を完全に超越している!! 概念の存在まで足を踏み入れたんだ!!!」

 

「また会おう!! 俺ではない別の俺が君とまた会って、次こそは俺が勝つことを願おうじゃ無いか!!! 慈悲深い神様はきっと俺と君との再会を祝福してくれるとも!!! 君との戦いは非常に愉しいひと時だった!!! クはっくははハハはは!!!」

 

 

 哄笑。

 嘲りを含んだ哄笑が闇の中を入り混じり、人々が倒れ伏す地獄のような場所の中心で嗤い声を上げる銀髪の悪魔を前にして、“顔の無い巨人”の少女は小さく息を吐いた。

 

 

「貴方は一つ勘違いをしているわ」

「――――ハ?」

 

 

 想定外の言葉に意表を突かれたバジルが首を傾げる。

 何を言いだすのかと、“顔の無い巨人”の少女を見詰めて、彼女が見つめる先が自分ではなく空に向けられている事に気が付いた。

 

 

「何のために私がここまで時間を掛けて貴方と相対したか。何のために私がここまで正面から貴方と会話を交わして異能による交戦を行ったか。何のために私が自分の姿を隠さず貴方の前にこうして現れているのか。……貴方は何一つとして理解できていないでしょう?」

 

 

 ゆっくりと手を空に向ける。

 “顔の無い巨人”の少女が片手を空に向けて広げながら、謳う様に言葉を紡ぐ。

 

 

「人々が思い描いた神様は、貴方が思う程慈悲深くなんてない」

 

「救いなんてものはない、貴方の世界は最悪の色へと腐り落ちる」

 

「――――見せてあげる」

 

 

 変色する。

 

 世界がモノクロへと切り替わる。

 

 気が付けばいつの間にか、バジルの頭上に星を吞み込むように巨大な球体が鎮座していた。

 

 正体の分からない、あまりに巨大な黒い惑星。

 

 敢えて形容するならば、『黒き太陽』と呼ぶべきソレがじっと地上を睥睨している。

 

 言葉を失うバジルの前で、“顔の無い巨人”の少女が『黒き太陽』から何かを受け取った。

 

 バジルが指先一つ動かせない内に、“顔の無い巨人”の少女は呟いた。

 

 

「完全捕捉。マキナ、引き潰して」

『了解、任せろ御母様』

 

 

 その瞬間、電波を通じて異能の出力が世界中を駆け巡る。

 

 地を満たす絶対的な異能の出力。

 海を越え、山を越え、空気や動物、人や封された金庫などのあらゆる場所へ。

 この世界全てに充満していたバジルの分身達を一つも残さず正確に捉え、その全てを抹消する。

 

 ほんの一瞬、ほんの一瞬だ。

 一秒だって要さないその異能の行使を目の前で行われたバジルが、呆けた表情を崩せないまま、現状を全く理解できないまま、怪物を見詰めて固まってしまう。

 

 

「これで正真正銘、貴方一人ね」

「…………は? いや……何が……? ま、まってくれ……いったい、なにが……」

「終わりよ全部。貴方の全て、もう終わり」

「おわ、り? いや、俺は……不滅の存在で……人間と言う種を超越した上位者で……誰であろうと俺を殺し切ることは出来ない筈だから……」

 

 

 少女の背後に立っていた“顔の無い巨人”がゆっくりと動き出す。

 その顔の無い頭をバジルに向けたまま、一歩、また一歩と近付いて来る。

 状況を全く理解できていないのに、自分の完全な終わりを理解させられたバジルが顔から血の気を引かせてそのまま尻もちを突いて倒れてしまった。

 

 お伽噺に出てくるような怪物の姿。

 ゆっくりと近付いて来る巨大な怪物を前にして、呼吸も出来なくなったバジルは自分を見下ろす少女に助けを求め縋るような目を向けた。

 

 

『……神様』

 

 

 助けを求めるその声に、応える存在は何処にもいなかった。

 

 

 

 

 


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