非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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その家族の触れ合いを

 

 

 

 

 ふわふわとした揺れの中で少女は穏やかに眠っていた。

 暖かいものに包まれて、抱きしめられるような感触に包まれて、幸せな気持ちがいっぱいで夢と現実の境に意識を彷徨わせる。

 

 夢を見ていた。

 とても幸せな夢を見ていた気がする。

 現実とは思えないくらい幸せで、もう味わう事なんて出来ないと思っていた夢を見ていた気がする。

 

 けれどそうやって、それを夢だと自覚してしまうと少女はとても残念な気持ちになってしまった。

 

 もっと幸せな夢の中にいたかった。

 もっと幸せな夢の中だけにいられれば、きっと苦しい気持ちを抱くことは無かったのにと少女は思った。

 

 目を開けたくない。

 徐々に意識が明瞭になっていく中、少女はそんなことを思って、自分を優しく揺すっている揺り籠をぎゅっと抱きしめた。

 そうしたら何故だか、少女を優しく揺らしていた暖かな揺り籠が一際大きくゆらりと揺れる。

 

 

「————わ、わわわ……! ば、バランスが……!」

「燐香、大丈夫か? 別に俺が遊里さんも背負って良いんだぞ? いくら最近お前の運動能力が上がったと言っても、お前より大きい遊里さんを背負うのは無謀というかなんというか……俺は桐佳と一緒に遊里さんを背負うくらい苦じゃないしな」

「お兄ちゃんっ、これは私の決意の行動なんだよっ……! うぅ……私の至らなさが、桐佳と遊里さんを危ない目に遭わせて一杯傷付けちゃったから、そんな自分を戒めるためにも、妹の重さってものを自分の身にしっかり味わわせないと……」

「お前がそんな事を言っていたら、俺の立つ瀬が無いんだが……」

「お兄ちゃんは何だかんだショッピングセンターまで駆け付けてくれたでしょ。お父さんから心配のメールが届いてたよ。お兄ちゃんがニュースを見て、血相変えて家を飛び出したって。お兄ちゃんが来なかったら桐佳と遊里さんをこうして運べなかったから、本当に助かったよ。ふへへ」

 

 

 何だか穏やかな会話がすぐ近くで交わされる。

 とても聞き覚えのある二人の声を聞くだけで酷く安心してしまって、夢見心地だった少女はゆっくりと重い瞼を開いていった。

 

 揺れる視界。

 見覚えのある風景。

 いつの間にかすっかり慣れ親しんでしまっていた帰り道をゆっくりと進んでいくのを目の当たりにして、ようやく少女は今の自分の状態を理解する。

 

 

「それにしても本当に災難だったな。あんな世界的に有名なテロリストがテロを起こした場所にまさか桐佳達がいたなんて……大きな怪我が無かったみたいで本当に良かった」

「いやぁ……本当だよね。偶然って本当に怖いっていうか。うん……」

「なんだか暗いな? どうしたお前らしくも無い。というか、お前らしくないと言えばその上着。随分大きな男物のコートだよな? そんなのお前持ってたか?」

「……ん? え? あ゛っ……!? あわわわわ、あわわわわわわわ!! あ、あとでお金払いに行かないと……!!」

「なんだその反応……まあ、ちゃんとやっておけよ」

 

(お姉さんとお兄さん……あの、ショッピングセンターから、どうやって……お姉さんが私を撫でてくれた時のことは、夢じゃないの……?)

 

 

 ゆっくりと家に近付いていく。

 あれだけ色んな事があって、あれだけ取り返しのつかない事をした筈なのに、この場にいる人達は誰もそんな事を気にもしていないように、また日常に戻ろうとしている。

 

 良いのだろうか、思わずそんなことを思ってしまう。

 だってそうだろう、事情があったとはいえ遊里が恩人である彼らに牙を向けたのは事実なのだ。

 色んな人を傷付けたし、妙な力に目覚めさせられて爆弾を抱えたような状態になった自分が平和なあの家に戻ったら、また誰かを不幸にしてしまうんじゃないかと思った。

 

 思い出すだけで身の毛がよだつ、人を腐らせてしまう異常な力。

 自分の内側にまだそれがあることが自覚出来て、今にも暴れ出してしまうんじゃないかと怖くなった。

 

 悪い事ばかり考えてしまう。

 それを誰かに向けて振るってしまった時を思い出して、酷い吐き気に襲われる。

 大切な人達が腐り果てる、その光景を想像して泣きそうになる。

 

 

(桐佳ちゃん達も、お母さんも……もしも誰かを傷付けちゃったら……私、あんな力どうしたら……どうすればいいの……)

 

「大丈夫だよ」

 

 

 けれど、そんな風に思い悩もうとした少女の思考を遮るように、彼女を背負う人は優しい声を出す。

 

 

「私はそういうのに詳しいからさ。どうすれば良いかっていうのは、きっと誰よりも分かってるから。逃げないし、離れないから。ちゃんと最初から全部教えてあげるから。だから絶対に大丈夫だよ」

 

(————)

 

 

 息を呑んだ。

 まるで心を読んだかのようなその人の言葉が少女の悩みを溶かしていって、根拠も無いのにその言葉だけで安心してしまって、くしゃくしゃになっていた頭の中が静まっていく。

 泣きたくなるくらい優しい言葉に、その人の背中にぎゅっと顔をうずめてしまう。

 

 

「……いや、お前な。なんとなくさっきの反応から察したけど、お金を払わずにそれを持ってきちゃったんだろ? その犯人のお前が絶対に大丈夫って言うのは、流石に少しどうかって思うんだが……」

「んっ!? い、いや、私が言ったのは別にそう言う事じゃなくて……あわ、あわわっ……! お、お兄ちゃんは一々うるさい!」

「なっ、なんだと!? せっかく一緒に謝りに行ってやろうと思ったのになんだその言い草! 大体お前な! 朝の喧嘩で怪我してないかってこっちは散々心配してたんだぞ……! 一人でビービー泣きだして、不貞腐れて学校に行きやがって! こっちがどれだけ」

 

「————あーもうっ、マジでうるさい! こっちは疲れて寝てるんだから騒がないでよポンコツお姉に馬鹿お兄! 配慮ってものが出来ないの!?」

 

 

 騒がしい彼らにまた一つ騒がしい声が加わった。

 常識的なようで、状況を考えるとどこか横暴なもう一人の声に、それまでやいやいと言い合っていた彼らが成す術無く圧されていく。

 目を見張る程に優秀な筈の彼らが、妹の言葉に情けない顔をするしかなくなっている。

 

 どうしてこんな妙な力関係が生まれるのだろう。

 そんな事を考えてしまうとおかしくて、少女は堪え切れなくなり噴き出すようにして笑い声を漏らしてしまった。

 少女の笑い声に気が付いて、怒りや困惑や動揺といった表情を浮かべていた彼らの顔が同じ様に緩んでいく。

 

 誰が見てもそれは、何てことない妹達を背負う凸凹兄妹の穏やかな帰宅風景だった。

 

 そして。

 

 

「————遊里!」

 

 

 夜道の先で待ち構えていた誰かが焦りを滲ませた声で少女の名を叫ぶ。

 その声に兄妹の誰かが反応するよりも先にその声の主は彼らに駆け寄って、妹達を背負う二人ごと両手でぎゅっと抱きしめた。

 

 

「ああ……良かった……皆が無事で本当に良かった……」

「……お母さん」

 

 

 泣きそうなくらい声を震わせたその言葉。

 部屋着のまま長時間外にいたのか、酷く冷たい少女の母親の体。

 

 きっと、深夜に近い時間帯にも関わらずずっと家の前で少女達の帰りを待ってくれていたのだろう。

 

 きっと、ずっとずっと心配して、待ってくれていたのだろう。

 

 それなのに。

 

 

『————あなたなんか、産まれなきゃよかったのに』

 

 

 それなのに、少女の頭にはそんな呪いの言葉が過ってしまう。

 

 心配してくれて嬉しい筈なのに、散々迷惑を掛けてしまっている筈なのに。

 昔、心の深い所についてしまった傷が痛んで、母親の優しさを素直に受け止められない自分が苦しくなった。

 

 だからまたいつものように、少女は口を噤みそうになる。

 醜い自分の気持ちを誰にも知られないようにと、息を潜めて自分を押し殺そうとする。

 

 けれど、そうする筈だったのに、少女を背負うその人が自分達を優しく抱きしめていた母親を押しやった。

 

 乱雑に、拒絶するように、まるで少女の想いを代弁するように。

 押された母親が後退りをして、状況が分からず呆然とした表情で固まる。

 思いもよらないその人の行動に皆が目を丸くして、背中の少女が落ちないようにと背負い直した彼女を見詰めている。

 

 そしてその人は、少女が口に出来ない想いを声に出す。

 

 

「本当に本気で心配していたんですよね?」

「え……?」

「っ……」

 

 

 先ほどまでの穏やかなものとは違う、どこか冷たく見定めようとする声。

 変貌に驚いた兄妹達が何を言ってるんだとその人を止めようとするけれど、「黙って」と一言だけ言ってその人は問い掛けを続けた。

 

 

「疎ましいなんて思ってないんですよね? 遊里さんに不幸にされたなんて思ってないんですよね? 形だけじゃなくて心から、由美さんは遊里さんが大切なんですよね?」

「燐香ちゃん……? 勿論そうよ……? なんでそんなこと聞くの……?」

 

 

 真正面から見据えられた母親が動揺しながら返事をした。

 その言葉に嘘が無い事くらい、質問している彼女も最初から分かっている。

 

 でも。

 

 

「そしたら……由美さんは、『産まれなきゃよかったのに』なんて、そんなこと思っていないんですよね?」

「っ……!?」

 

 

 それは、その言葉は以前、母親が自分の娘に対して口にしてしまった罪の言葉だ。

 後悔してもしきれなくて、いくら謝罪しても娘は気にしてないとしか言わなくて、誰にも罰せられずずっと心残りだった言葉だ。

 

 自分と娘以外知らない筈のその罪の言葉に、顔色を変えた母親が表情を歪めながら首を振った。

 

 

「そんなっ……! そんな、こと……少しも思ってないわ……! 私は……わたしは……そんなこと絶対にっ……」

 

 

 見ている周りが痛ましく感じるほどに取り乱した母親の姿を目の当たりにして、その人は眉尻を下げて悲しそうに口を開く。

 

 

「じゃあ……じゃあ、由美さん」

 

 

 その人はしっかりと、自分が追い詰めている女性の顔を見詰めた。

 

 

「……ちゃんと言ってください。遊里さんにそれをちゃんと言ってくださいよ。理由なんて聞かないで、どうしてだなんて言わないでください。謝罪なんて聞きたくもないんです。口に出した言葉で傷付けたものがあったら、謝罪なんかで心の傷が癒える筈も無いんです」

「……う、ぁ……」

「どんな事情があったって、どんな理由があったって、これからも傷付けた人と一緒に歩いていきたいなら、そんなものは全部関係ないんです。傷付けた言葉の否定よりも、心の傷を埋められるくらいの愛の言葉をちゃんとその人に紡いでください」

 

 

 じっと見詰める。

 少女が長い間口に出来なかった想いを全て言葉にしたその人は、言葉に詰まらせる母親をじっと見詰めたまま顔を背けない。

 母親は自分の言葉を待つその人から視線を彷徨わせ、その人に背負われる泣きそうな顔の娘と目が合った。

 

 自分が傷付けてしまった娘と目が合った。

 

 

「……わたしは……遊里が大切だもの」

 

 

 ポツリと呟かれる。

 

 

「大切で、宝物で……私が生きてこれたのは遊里がいてくれたからで……どんなに辛い時も、遊里が笑ってくれていれば頑張れると思ってて……遊里が幸せになってくれればそれで良くて……」

 

 

 ぽろぽろと涙を溢し始めた母親の顔。

 後悔や懺悔が入り混じったようなその顔は、少女が初めて見る母親の顔だ。

 

 過去の、どうしてそんなことをしたのか分からないような自分の行いを思い出しながら、母親は血を吐くように言葉を紡いでいく。

 

 

「……馬鹿なお母さんでごめんね。立派なお母さんじゃなくてごめんね……産まれなきゃよかったなんて、そんなこと思ってないんだ……空回りばっかりで、本当に望んでいた筈のことを忘れちゃって、何度も遊里を傷付けちゃったけどね。今更、信じられないかもしれないけどね…………本当に私は、遊里の事を愛しているの……」

 

 

 じっと娘と目を合わせて、ちゃんと自分の気持ちに向き合って。

 そうやって絞り出された母親の言葉が、少女の心の奥底にゆっくりと届いていく。

 目には見えない古い傷跡を少しずつ埋めていく。

 

 そして。

 息を吸って、気持ちを整えて。

 それで最後にもう一度、彼女は自分の娘への気持ちを言葉にした。

 

 

「……私は、私はね遊里。世界で一番貴女の事が大好きなんだよ」

「……ぁ……うっ……」

 

 

 その言葉で、ずっと少女の心の奥底に染み付いていた呪いが本当の意味で消えていく。

 じんわりと温かくなっていく胸の内に困惑するようにしゃくり上げた少女が、母親に向けて手を伸ばし、母親も娘を背負っているその人ごと強く抱きしめる。

 本人達も気付かぬうちに出来ていた、その隙間を埋める様に身を寄せ合った。

 

 

 声を上げて泣く母と娘のそんな姿を隣で見守っていた優助と桐佳が、同じように外で子供達の帰りを待っていた父親が近付いてきたのを見る。

 血の気を失っていた顔をほっと安堵に染めて息を吐いている自分達の父親を見て、優助は穏やかに微笑み、桐佳は嬉しそうに口元を緩めながらそっぽを向いた。

 

 結局こんなものなのだ。

 

 一度は放り出してしまった人や変わろうと決めたのに未だに素直に言葉に出来ない人。

 この小さな家族間でも色んな人の形があって、それぞれ綺麗に重なってくれるようなものでもない。

 もしかすると家族の間でも袂を分かつようなことはあるだろうし、偏にそれが間違いという訳でも無いのだろう。

 

 色んな家族の形はある。

 どの家族の形が正しいということは無い。

 ただ、この家族はどうしても、最後にはお互い身を寄せ合うように歩み寄る。

 

 

 

 

 ‐1‐

 

 

 

 

『航空G174ハイジャック-新東京マーケットプラザ襲撃占拠事件』

 世界的に指名手配されていた“死の商人”バジル・レーウェンフックによって引き起こされたこの事件は、旅客機のハイジャックからおよそ8時間34分にも及んだ凶行であった。

 

 その事件の凶器として使われたのは、一部の人間にのみ与えられた特権、異能だ。

 他者を強制的に服従させる異能による旅客機のハイジャック、並びにハイジャックした旅客機を使用してのショッピングセンターへの墜落行為。

 さらには旅客機の墜落により襲撃を行ったショッピングセンターを占拠し、かの異能によって多くの人間を服従させ手駒とさせ籠城を図った、計画的かつ猟奇的な犯行。

 歴史的に見ても類を見ない凶悪性を持ったそれらの犯行によって、本来想定される犠牲者の数は万を超えるほどのものだった。

 

 世界の犯罪史においても最悪なものの一つに数えられるようになるこの『航空G174ハイジャック-新東京マーケットプラザ襲撃占拠事件』は、それほどまでに常軌を逸したものだったのだ。

 だが現実は、現地にいたICPO所属の異能対策部署の人員による被害の軽減や、“死の商人”制圧後の多数の怪我人達を早急に治療した“医神”神薙隆一郎の存在で、犠牲者の数はあり得ない程に小さなものへと収まった。

 

 救助人員5022名、負傷者3382名、死者6名という、数字にしても異様な被害状況。

 関わったICPOの異能対策部署及び日本の救助関係者には世界から最大限の賛辞が送られ、世界各地で“死の商人”による被害に頭を悩ませていた者達はこの事件の解決に歓喜した。

 

 救助された人々、治療された人々、生死の淵から生還した人々へのお見舞いの言葉や亡くなった方々への哀悼はありつつも、異能犯罪への対処が形になりつつある事が明確に示された今回の事件。

 不幸な事件であることが忘れられたかのような歓喜の声が様々な方面から寄せられ、これまであまり風当たりが良くは無かった異能対策組織の確かな転換点。

 だがそんな周囲からの評価とは反対に、今回の事件の解決に関わった者達は同じように喜ぶ事が出来ていなかった。

 

 それはそうだろう。

 “死の商人”による被害の軽減、制圧後の的確な救助。

 これらは確かに正式な救助人員による者達の手で為された事だ。

 

 だが、“死の商人”の制圧は違う。

 

 ハイジャックされた旅客機の墜落から始まった30分の籠城。

 建物を封鎖され、建物内の人員はほぼ全てが強制服従させられ人質となった最悪の状況。

 その状況を突破し、かつ“死の商人”が持つ特殊な異能を完全に上回って、無力化してみせた存在の話。

 これほどまでの大規模な事件を起こし、限りなく厄介な異能を持った“死の商人”を、死者を少なくして解決してみせたのは僅かな時間で制圧してみせたその存在の力があったからだ。

 

 今回の事件解決の中心となった者達はその存在の関与を頑として口にしない。

 各々の腹の内は違えど、その存在が事件の解決に関与した事を仄めかす事は彼らにとって利にはならなかったからだ。

 

 ただでさえ増えている世界の『Faceless God』の再臨を願う声。

 微妙な均衡の上に成り立っている暴動一歩手前の今の情勢。

 治安維持組織の手に負えない存在が野放しになっている事実。

 或いは、かの存在への期待や想いから。

 

 解決に関与した中心人物達は一様に口を閉ざし、誰もその事実を口外しようとはしなかった。

 

 ただ————

 

 

「……覚えてる……覚えているんです……あの地獄のような光景の中。頭の中で自分ではない自分が体を動かして、傷付けたくも無いのに誰かを傷付けて……どうしようもなかったあの時。私は、確かに救われたんです。“顔の無い巨人”に、止めて貰えたんです。あの方は、頭の中の悪魔を消し去ってくれた。私達の地獄を、変えてくれたんです。ああ……あの方は、確かにあそこにいて……私達を……」

 

 

 ————救われた者達の記憶には、かの存在が刻まれた。

 

 

 

 

 ‐2‐

 

 

 

 

 次の日。

 

 大きな怪我は無かったものの大事を取って学校を休むよう勧められた桐佳達だったが、本人達の希望で普通に学校に通学した。

 世界は桐佳達のような普通の学生個人の事情など考慮してくれないし、明確な目標を持つ桐佳の立場を考えると、この時期の一日の休みは中々取り返すのが難しいのが実情。

 それに受験が目前という理由もあるし、冬休みが目前というのもあるし、何より同じ経験をした相手がすぐ隣にいてくれている事による精神的な不安感が少なかったのも大きかった。

 

 だから、少なからず事情を伝えられた学校側の配慮はありつつも、何とかいつも通りの日を過ごした桐佳達はくたくたになりながらも何事も無く家に帰って来ていた。

 

 他に誰もいないリビングに辿り着き、桐佳と遊里は鞄を置いて一息吐く。

 

 

「ふぅ……なんだか凄い疲れちゃったね。遊里は大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。でも桐佳ちゃんは凄い疲れてるね?」

「ううん、筋肉痛がね……結構走り回ったからかなぁ」

「筋肉痛かぁ。あ、そういえば燐香お姉ちゃんから連絡があって、冷蔵庫にあるロールケーキ食べて良いよって。えへへ、二つあるから仲良く食べてって連絡くれてたよ。多分心配してくれてるんだよね」

「…………私には『体調大丈夫?』っていうメールしか来てないんだけど。あのポンコツ……私に送ったら一人で食べきるとでも思ってるのかな……」

「どうしてそんな穿ち過ぎたような考え方をするのかなぁ……」

 

 

 普段は結構ドライなところがある桐佳の唯一面倒臭くなる『姉』という点。

 桐佳のそんなところにいつも通りの適当な突っ込みを入れながら、遊里はじゃあと冷蔵庫の中を覗き考える。

 

 

「えっと、桐佳ちゃんの分の紅茶も作っちゃうね。教わった紅茶の入れ方、最近上手くなってきてるんだ」

「いいの? じゃあ、私は鞄を部屋に持っていっちゃうね。遊里の部屋に入って机の上に置くつもりだけど、大丈夫?」

「大丈夫。ありがとう桐佳ちゃん」

 

 

 ちょっとグロッキーな桐佳とは違って、今日一日ニコニコと機嫌のよさそうな遊里の様子。

 昨日の事があるから彼女が元気でいてくれるのは桐佳としては本当に嬉しいが、疲れ切っている自分との差に驚きを禁じ得ない。

 体育の授業などでは自分の方がダントツで体力があるというのに、この差はいったい何なんだろうと思いながら桐佳は二人分の鞄を持って階段を上がっていった。

 

 最初に遊里の鞄を置きに行って、ふと、桐佳は自分の携帯電話の画面を見る。

 

 姉からの連絡が他にも来ているか確認。などではなく、昨日のあの事態があった時に自分の携帯に現れた『マキナ』という存在がいないか確かめたのだ。

 

 だが、そこに映るのは変わり映えしない携帯のホーム画面。

 今日だけで5回を超える程その確認作業を行っているが、『マキナ』が現れた時の、青と数字の羅列が飛び交う見た事も無い表示なんてどこにもない。

 まるであの時の出来事は自分が思い描いた妄想であったとでも言うように、今は何処にも姿形が残っていない。

 

 その事がどうしても寂しくて、桐佳は思わず携帯電話に声を掛けてしまう。

 

 

「……おーいマキナ? そこにいるんでしょ? 聞こえてるんだから返事くらいしてよー」

 

 

 勿論、携帯電話から返事なんて無い。

 その事が不満で、桐佳は唇を尖らせながらしばらく睨むように携帯電話の画面を見詰める。

 

 追い詰められてどうしようもなかったあの場所で現れた、姿が無く、人の心があるとは思えないような言動をしていたデリカシーの無い存在。

 その癖あの時桐佳の心の支えになって、実際に不思議な力で導いてくれた非現実的な存在。

 少なからず桐佳は、友人のような、信頼できる相手となっている『マキナ』との再会を心から望んでいるのだが、あの建物から脱出して以降一切の音沙汰が無かった。

 

 

「……マキナ、何処に行っちゃったんだろう?」

 

 

 感謝の一言も言えてない。

 おかげで無事にあの場から脱出できたというのに、挨拶も無しに顔を出さなくなってしまった『マキナ』という友人に想いを馳せ、桐佳は溜息を吐いた。

 

 あまりに薄情だと思う。

 こっちがどれだけ感謝していて、どれだけ『マキナ』と言葉を交わしたいと思っているのか、きっとあの人の心が無さそうな奴は考えてもいないのだろう。

 

 そんなことを考えると、一方的に執着しているこの状況が何だか腹立たしくなってくる。

 

 

「マキナのバーカ。人の心の分からないポンコツー。中二病みたいな名前して格好良いねー…………なんて。何やってるんだろう私、馬鹿みたい」

 

 

 自嘲する。

 自分の携帯電話に向かってこんな事を言っていたら誰が見てもただの痛い子、姉の事をポンコツだなんて言える立場でなくなってしまう。

 そう思って、携帯電話を懐に仕舞おうとした桐佳だったが、その瞬間、ガタンと何かの衝突音が姉の部屋から響いてきた。

 

 何だか唐突な怒りに目覚めた何かが、部屋から飛び出そうとして扉に体当たりしてしまったかのような音。

 

 ぱちくりと、目を瞬かせた桐佳が遊里の部屋の隣に位置する姉の部屋の方向を見詰め、ゆっくりとした忍び足で廊下に出た。

 

 そっと歩きながら姉の部屋の前に辿り着く。

 もしかして姉が部屋にいるのだろうかと、そんなことを思いながら軽く扉をノックする。

 

 

「……お姉? 部屋にいるの?」

 

 

 返事はない。

 それどころか、部屋の中からは人の気配がない。

 それもそうだ、受験が近い桐佳達はいつもより授業が終わるのも早い訳だし、姉はここから割と距離のある高校に通っている。

 桐佳達が帰って来たばかりのこの時間にこの部屋にいたら、それはもうズル休みをした以外になくなってしまう。

 

 でも、だったらさっきの音は何だと思い、桐佳はそっと扉を開けた。

 

 部屋の中が見える。

 以前見た時と変わりない、綺麗に整頓されているのに籠城でもするんじゃないかと思う程サバイバルグッズが揃えられている部屋。

 女子高生の部屋とは思えない姉の部屋にそっと足を踏み入れて周りを見渡すが、音の発生源となったと思われる物の姿は何処にもない。

 物が倒れている訳でも、落下した訳でも無いようだった。

 

 

「……な、なんか、怖くなってきたんだけど……お姉? 実は隠れてたりしないよね? 流石にこれ以上は趣味が悪いよ?」

 

 

 キョロキョロと周りを見渡しながら部屋に入り、声を出す。

 それでも何処からも反応が無くて、なんだか怖くなった桐佳は取り敢えず遊里を呼ぼうかと思った桐佳は部屋の中央まで歩いた足を反転させて、出口へと向き直った。

 

 そのタイミングで、桐佳は少し開かれたままになっていた押し入れの奥に、見過ごせないものがあるのに気が付いた。

 

 

「…………あっ、あのポンコツお姉っ……! 見当たらないと思ってたらっ……!」

 

 

 見付けたのは『桐佳成長記録 ~ 0歳から3歳まで ~ 』という文字が書かれたDVD。

 ピリピリとしていた姉をポンコツにするために恥ずかしいのを我慢して使用したそれを、あの姉はこっそりと回収して自分の部屋に仕舞い込んでいたようである。

 

 まるで餌を自分の巣に隠すハムスターのような生態であった。

 

 

「こんなこっそり部屋に回収してたなんてっ、あ、あとでとっちめてやるっ……! 人の、幼い時の恥ずかしい映像を、勝手に何度も見るなんて最低っ……!!」

 

 

 先ほどまでの不気味な音への恐怖は何処へやら。

 怒りや気恥ずかしさ、それから少しの嬉しさを感じながら、桐佳はぶつくさと文句を言って、押し入れの奥にあった自分の幼年期の映像記録に手を伸ばし乱暴に抜き取り回収した。

 

 のだが。

 

 

「あっ……」

 

 

 バサリ、と。

 抜き取った映像記録の隣に仕舞われていたイラスト用ノートが、引き抜いた時の勢いに巻き込まれ桐佳の足元に落下した。

 

 姉が使っているのを見た事も無いのにやけに年季の入ったそのノート。

 落ちた拍子でページが捲れ、まるで最初から決まっていたかのようにとあるページを開く形で床に広がる。

 

 姉の私物を傷付けてしまったかと、桐佳は焦る。

 

 

「あ、ど、どうしようっ、お姉の古いものってきっと大切なものだよね……? 多分傷は無さそうだけど、こういうのはちゃんと謝った方が良いよね……?」

 

 

 慌てて開かれたノートを拾おうと手を伸ばす。

 出来るだけ内容は気にしないようにと、勝手に見るのはあまりに失礼だと思いながら、桐佳は落ちてしまったノートを拾い上げようとしゃがみ込んだ……けれど。

 

 

「……なに、これ」

 

 

 その開かれているページの異質さに、桐佳は思わず固まった。

 

 

 異様な雰囲気を持つその絵と文字。

 

 何度も書き殴ったような真っ黒な球体の絵とその下に書かれた一文。

 

 気にしないようにと思っても、何故だか吸い込まれるようにその絵と文字を見詰めてしまった桐佳は黒い球体の下に書かれたその一文をじっと読んで、思わず口にしてしまう。

 

 

「……人神計画……エデ……?」

 

 

 桐佳にはそこに書かれている事は何一つ理解できなかった。

 

 人神計画なんて聞いたこと無いし、『エデ』という名称にも心当たりはない。

 

 

 けど。

 

 けれど。

 

 変化が、起きた。

 

 

 影が差す。

 視線を感じる。

 窓から差し込んでいた日の光が、何か巨大なもので遮られている。

 急激に空気が冷えたような錯覚を覚えて、全身が粟立ち、総毛立つ。

 開かれたノートをじっと見詰めたまま、桐佳は背後にある窓の外から強い視線を感じていた。

 

 

「……」

 

 

 声が出せない。

 

 後ろを振り向かなければならない。

 

 息が出来ない。

 

 後ろを振り向かなければならない。

 

 音が聞こえない。

 

 貴方は、後ろを振り向かなければならない。

 

 

 桐佳は自分の意志でないのに体が動き出すのを感じた。

 ゆっくりと、酷くゆっくりと、ノートを見詰めていた体を振り向かせて、強い視線を感じる窓の外へと目を向ける。

 

 そこには。

 

 何も無い筈のそこには。

 

 

「……ぁ」

 

 

 そこには、巨大な『黒い太陽』がこちらを覗き込んでいた。

 

 あまりに巨大な、黒い壁にしか見えない何か。

 それでもそれが『黒い太陽』だと、何故だか無理やり理解させられてしまった桐佳はその存在から目を外す事が出来なくなる。

 それはただの球体ではなく、表面に無数の凹凸があり、何か大量のものが集合して球体を為しているがはっきりと視える。

 

 あまりに神々しく、あまりに絶対的で、あまりに人智を越えたその存在が、じっと自分を見詰めている事に気が付いて、桐佳は導かれるように窓を開けようと歩き出した。

 

 一歩、また一歩と。

 神々しいその御身へと、足を進めて————

 

 

「————いったぁ!!??」

 

 

 唐突に、爪先に何かから強烈な体当たりを受けた桐佳があまりの痛みに絶叫した。

 

 グラリと視界が歪むほどの痛み。

 小指をぶつけた時のような強烈な感覚に、一瞬真っ白に染まった思考が怒りに支配されるのを感じながら、桐佳は勢いよく足元を見下ろす。

 涙を目元ににじませながらしゃがみ込み、痛む爪先をさすりながら痛みの原因であるその機械を掴み持ち上げた。

 

 ウィンウィンと、桐佳の手の中で自動掃除機『マキナ』が情けなく暴れている。

 

 

『むー!! むー!!』

「このっ……! こいつっ……!! ベッドの下から飛び出してきて、よりにもよって爪先に体当たりして……!! 体当たり機能なんていつ搭載したのっ!? さてはさっきの物音もアンタでしょ!?」

『むーーーー!!!!』

「むーむーうるさい! 馬鹿マキナ! こっちは本当に痛いんだから!」

 

 

 悪びれもせず下ろせと大暴れする自動掃除機の『マキナ』に口元を引くつかせた桐佳だったが、ふと直前の事を思い出し、慌ててマキナを床に置いて窓の外を見る。

 

 だが、先ほどまでの光景が嘘のように、日が差し込む昼の光景が窓の外には広がるだけであり、『黒い太陽』の姿など何処にも見当たらない。

 まるで先ほどの光景は白昼夢であったというかのように、窓の外には影も形も無かった。

 

 桐佳は目を擦りながらそんな外の様子を確かめていたが、床に降り立ったマキナは未だにモーター音を鳴らして足元で暴れていた。

 まるで何かに対して威嚇するように音を響かせているマキナを見下ろして、桐佳はまさかと目を瞬かせる。

 

 

「……もしかしてマキナ、私を助けてくれたの……?」

「…………」

 

 

「あ、やべっ」とでも言うように急に静かになったマキナはクルリと向きを変えて掃除を始めた。

 ウィンウィンと軽快な音を響かせ、部屋のゴミを吸い込んでいく真面目な仕事人を装ったポンコツの姿を視線で追って、桐佳は自分が体験した今の事を思い返す。

 

 落ちているイラスト用ノートを見遣り、窓の外を見遣り、もう一度誤魔化すように掃除を続けるマキナを見遣った。

 

 

「桐佳ちゃん? 紅茶できたよー? どうしたのー?」

「……なんでもない。今行くね」

 

 

 浮かび上がった考えを振り払い、直前にあった出来事を忘れようとしながら、桐佳は自分を呼ぶ声の元へと走って行った。

 

 振り返ることなく部屋から出ていく。

 そうして人がいなくなったその部屋で、せっせと動いていた自動掃除機が唐突に動きを止めて、クルリと窓の外へと向き直った。

 

 音も出さず、動き回るようなこともせず。

 人の目には見えない窓の外のソレを、その自動掃除機に宿る存在はじっと観察する。

 

 

 

 





今回の章もこれで終了となります!
結果的に10話という中々長めの章になりましたが、ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました!

次話からは間章になりますが、これは纏めて毎日投稿というよりも一週間に一話ペースといった感じにちょっとずつ進めていきたいと考えていますので、あらかじめご了承ください!
これからも本作にお付き合い頂けると嬉しいです!

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