非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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今回はちょっと怖い要素があるのでご注意下さい!


深淵の淵に立つ

 

 

 

 

見詰める扉の先からは未だにノックの音が響いていた。

規則的かつ理性的に、知性を持つ生き物が鳴らすようなその音の発生源。

私の『読心』が何らかの要因で発動出来ていないが、その音の感じからして、扉の先にいるモノが無知性の物体であるとは考えにくかった。

 

扉を挟んだ先にいる正体の分からないモノは、想像を絶することはあっても理解できないモノではない。

 

 

(落ち着け。確かに私の『精神干渉』の力は強力だけど、こういう風に遮断される可能性も考えていた。世の中には絶対はない、だから、異能が通用する相手だけしか存在しないなんて最初から思ってない)

 

 

――――ならどうするか、戦況を冷静に分析する。

 

状況は良くない。

この部屋の出入り口は今ノックされている扉といくつかの窓だけだが、ここは4階。

窓から飛び降りるのは現実的ではなく、正体不明のソレと接触することなく逃走するのは難しい。

 

戦力はどうか。

相手の異能は未知数。

しかし、異能を遮断する何らかの手段を持っていて、私の索敵技術の基礎である『読心』が通用しないということは、『外側からの異能の干渉を受けないこと』が確定する。

ノックをしているということは、私の様な目に見えず形の無い力ではない。

物理的な干渉力を持ついずれかの異能、と考えるのが妥当だろう。

 

勝利条件はどうか。

扉の先にいる相手の目的は不明だが、このタイミングで出て来たのが偶然だとは考え辛い。

桂達の反社会的勢力の襲撃を待っていた何者かが、この騒動に紛れて目的を果たそうと動き出したと考えるべきだろうか。

つまり犯人は、私達若しくは桂達の動きを監視していた何者か。

桂達の始末が目的なら私達を追う意味はなく、この場に来たということは私達どちらかの命を奪うことが目的と考えられる。

 

……情報を徹底的に遮断している私が標的になっている可能性は低い。

十中八九、お兄ちゃんの命が目的だろう。

つまり、異能と言う存在を隠匿するのが好都合な者。

 

 

「……相手の輪郭が見えてきた……」

「お、おい、燐香。なんだか、ノックしてきている奴の様子おかしくないか……?」

「黙ってお兄ちゃん」

「っっ……」

 

 

『読心』が通用しないということは、同じく異能の起点を外側に置くものは通用しないと考えるべきだろう。

 

そうなると、『ソウルシュレッダー』や『意識外への設定』も恐らく効果が無い。

逆に内側に起点を置く『思考誘導』は通用しそうではあるが、『読心』を伴わない『思考誘導』の難易度はかなり高い。

目隠しして無作為に混ぜられたルービックキューブを完成させろと言われるようなものだ。

単純なものならまだしも、全てを都合よくなんて操作できない。

 

結論から言うと、扉の先にいる相手は私の『精神干渉』の天敵に近いのだろう。

 

 

「お兄ちゃん、多分この先にいるのはまともな人間じゃない」

「……何を言って……」

 

 

ノックの音が止まった。

 

静けさの中、ズルリ、と言う粘液が地面を引き摺るような音と共に、扉の隙間から溢れ出すように入って来たのは、銀色の液体が無理やり人型を作ったような歪な存在。

目の前に超常現象の塊のような姿が目前に現れてもなお、この存在からは思考は読み取れず、異能の出力も感じられない。

 

通り抜けた際にその液体に触れた扉が音を立てて溶け落ちる。

ステンレスの扉が、煙を上げながらグズグズに崩れ落ちる様はあまりに異様だ。

 

お兄ちゃんが息を呑んだ。

蒼白な顔で、目の前に現れた異常事態を凝視する。

 

 

「非科学的な現象を操る人間……異能持ち」

「な、んだ、あれ……」

 

 

ボタボタと銀色の人型から滴り落ちる液体が、床に触れた瞬間音を立てて溶かしていく。

恐らくは、強酸性の特性を持った存在で、触れられたら人間などひとたまりもない。

 

 

「まごうことなき怪物だよ」

 

 

目も鼻も口も無いそいつは確かに私達の存在を知覚して、その不気味な体を私達に向けた。

 

問答は無かった。

それは即座に私達に向けて、鞭のようにしならせた腕を振るう。

私達に存在した机を2つほど挟んだ距離が、ゴムのように伸びた腕に潰された。

 

 

「――――っっ!?」

 

 

けれど、奇襲に近いその攻撃は大きく的を外し、壁と天井を大きく溶かすだけに終わる。

強酸性の、液体を滴らせるその人型がその結果を見て、驚きで一瞬動きを止めた。

 

 

「――――私の声は聞こえますか?」

 

 

予想通り、起点を内側に置く『思考誘導』は効果こそ薄いが通用する。

私の異能は知性体を対象として効果を及ぼすが、この『思考誘導』は外から人の精神を弄るものでは無く、存在する知性を内側から変質させるもの。

 

どれだけ無敵の防御を誇っても、知性を有していれば私のこれは防げない。

 

 

「私の――――」

 

 

聴覚があるのだろう。

私の言葉に異常を感じたソイツが、返すようにもう一度私目掛けて腕を振ってくる。

しかし、それも私から大きく逸れて床を引き裂くだけに終わる。

ここまでは想定通りだった。

 

 

「こっちだ!!」

「!?」

 

 

全力で異能を起動させていた私の隣で、お兄ちゃんが声を上げ、お兄ちゃんが近くに置いていたパイプ椅子を溶解人間に対して投げ付けた。

一瞬怯んだソイツの横を駆け抜けたお兄ちゃんは、廊下に飛び出しながら、実験用器具をさらに投げ付ける。

 

私も考えていた、この怪物が持つ目的は何なのかの結論が同じだったのだろう。

自分に注意を引き付けようとするお兄ちゃんの行動に、私は驚愕する。

 

投げ付けられた物を、呑み込むようにして溶かしたソイツの顔がお兄ちゃんへと向いた。

もう一度だけ私を見て、それからお兄ちゃんに向けて動き出したそいつに私は焦りを覚える。

 

 

「なにをっ……! このっ、スライム人間っ! お兄ちゃんをっ」

「燐香お前は逃げろ! こいつは俺を狙ってる!」

 

 

それだけ言って、廊下を駆けだしていったお兄ちゃんに、ソイツは人型だった身体の下半身を蜘蛛のように変化させ、おぞましい速さで追いかけていく。

思わず言葉を失う程のその素早さに、慌てて私も駆け出した。

 

 

(『身体変異』……流動的かつ硬質化も可能で強酸性も兼ね揃える異能なんてっ……せめてアイツの目的が私だったら……)

 

 

蜘蛛の足によるあのおぞましい速さでは、いかに足の速いお兄ちゃんと言えどすぐに追いつかれてしまうだろう。

そして、あの強酸性の体は触れるだけで生死に直結し、狭い場所も関係なく、立体的な動きも可能で、手足を伸ばして距離を潰すことも出来る。

 

生身の人間では、どうやっても逃げ切ることなんて出来る訳がない。

 

 

(っっ……『読心』で探知出来ないから遠距離から捕捉が出来ないっ、これじゃあ、精神干渉も通らない!! せめて視界でアイツを捉えないと……どうすればっ……)

 

 

お兄ちゃんの研究室から出る前に目に入ったものを1つ、使えるかもしれないと手に取って追いかけるが、こんなもの現状を打破できるようなものでもない。

 

そもそもお兄ちゃんがこんな行動を取らなければもう少しうまくやれたのだ。

お兄ちゃんが自分を囮にして私を逃がそうとしたのか、意味が分からない。

銃を向けられあれだけ恐怖していたお兄ちゃんが、あの異形の人間を前にして恐怖を感じない訳がないのに、どうして。

 

 

(……過ぎたことを考えても仕方ないか。このまま追っても絶対追いつけないだろうし、まだ出来るだけこちらの情報は隠しておきたい……やりたくないけど、お兄ちゃんの思考を探して先回りを……)

 

 

慌てて廊下に出たものの、既に2人の姿は視界にない。

即座に異能の探知範囲を広げ、お兄ちゃんを探す。

あの溶解人間は私の探知には引っ掛からないが、お兄ちゃんをしっかりと追っていると仮定して動けば……。

 

そこまで考え異能の範囲を全開まで広げていた私は、探知内に神楽坂さんがいることを発見した。

救援要請をしていたが、こうして異能で存在を身近に感じると、やはり安心感がある。

 

ほっと息を吐き、安心して冷静になった私はふと思う。

そういえば、飛鳥さんと違って神楽坂さんは異能に類するものを調査する部署に異動した訳でないのになんでこんなところにいるのだろう、と。

勿論、優秀であり無条件で信頼できる相手だから居てくれるのはありがたいが、何と言うか、タイミングが良すぎる気がしてしまう。

 

 

「……いや、神楽坂さんの事だから、自分なりに異能関係の捜査をしてお兄ちゃんにつながった可能性もあるかな。こんなこと今考えても仕方ない。合流したら聞いてみれば良いし、お兄ちゃんの居場所を――――うん、見つけた」

 

 

降って沸いた疑問をひとまず放置する。

逃走を図っているお兄ちゃんの思考を見付けた私は、彼らに先回りするべく駆け出した。

 

 

 

 

‐1‐

 

 

 

 

佐取優助は妹が苦手だ。

幼いころ、自分の能力の高さに順調に自信を付けていた優助を、何の遠慮も無く叩き潰した燐香と言う妹に、彼はこれ以上ない程嫉妬や恨みを持っている。

自分が一番得意だった将棋を妹に負けたのを契機に辞めてからも、どうやったらあの怪物に勝てるのかと日々悩み続け、いろんな分野で勝負を仕掛け、結局最後まで満足に勝てなかったから、どうしようもない苦手意識を今だって抱えてしまっている。

だが、その苦手意識は同時に、燐香と言う妹の事をこれまで誰よりも見て来たからこそ、抱える悩みでもあるのだ。

 

だからこそ、優助は確信を持って今の妹の様子はおかしいのだと言える。

 

妹は、燐香は幼少こそ穏やかだった。

生活の端々で異常性を発揮しつつも、どこか他人を思いやる優しさは持っていて、困っている人を恐ろしい速さで見付けては助けに近寄っていくし、駄々をこねる妹の世話さえ不満を溢す事無く率先して行っていた。

そのくせ一歳下の妹に喧嘩が勝てず、いつも馬乗りにされて泣きべそをかく光景はいつもの事だった。

 

あの頃の燐香は本当によくコロコロと表情を変えた。

よく笑うし、よく泣くし、よく不機嫌にもなる、どこにでもいる様な少女だったのだ。

優助はそんな妹に恐ろしさを感じつつも、どうしても憎み切ることは出来ずにいた。

 

異変が起きたのは母親が亡くなった後からだ。

 

燐香が小学生に上がる直前くらい。

元々あまり体が強くなかった母親は白血病を患ってから一年ほど入退院を繰り返し、最後は病室で亡くなった。

その頃の記憶はあやふやで、いつの間にか葬儀は終わっていて、家にいて、母親がいないだけのこれまで通りの生活を送っていた。

それから、穏やかだった燐香は徐々に変貌を始めた。

 

何かの使命感にでも駆られるかのように。

家族に対する接し方はこれまでと変わることは無かったし善良な人間に対しては変わらず柔らかな物腰だったが、それ以外には酷く攻撃的に、冷酷に、悪辣になっていった。

 

やっている事は悪いことでは無い。

むしろ彼女がやっている行為のほとんどは人助けの延長だった。

決して目立つことはしないのに、どこからか影のように人を救っていく。

暴力に悩まされる者、環境に悩まされる者、自分の人生に悩んでいる者。

そう言う者達を魔法のように救い上げて、彼らやその様を見た者達の信頼を得ていった。

善行を為し、悪を挫き、他人からの信望を集めていく。

ごく一般的な人望を集める人間のサイクルであったが、異常なのはその規模だ。

学校の関係者、同じスーパーを利用する人々、顔も知らない街中を歩く大人達が、いつの間にか燐香に信頼を寄せるようになっていった。

 

燐香がするのは基本的に会話だけだ。

だが、年に見合わぬその言動は様々なものに影響を及ぼした。

子供のくせに、彼女の言葉はある時は人を奮い立たせ、ある時は簡単に人を絶望へ陥れる。

自分は表舞台に立たないくせに、嫌に影響力を持つ冗談みたいな存在になっていった。

心の底から信望する者は1人や2人では無い、きっと燐香が命を捨てろと言えば喜んで捨てるだろうと思うくらい、妄信的な人間が何人も現れた。

 

そういう人間なのだ、佐取燐香と言う怪物は。

 

容易く他人の人生を踏み荒らし、良くも悪くも他人の世界を壊す癖に、絶対に自分の懐に相手を入らせない。

派手さを嫌い、表舞台には立たない癖に、それでも何に対してもどうにかできるだけの力を持っている。

誰よりも近くで見る事が許された家族だからこそ知ることが出来た彼女のその怪物性は、いずれ日本のみならず、世界を統べるようなものなのだろうと優助を確信させるのは当然だった。

 

だから本当は、久しぶりに会った妹の様子を見た時、疑心暗鬼を抱きながらも彼は安心したのだ。

幼い頃のようにコロコロと表情を変える妹の姿を前にして、佐取優助は心のどこかでは――――。

 

 

「くそっ……この化け物は知性があるのか!?」

 

 

防火扉で壁を作り、窓を飛び越え講義室を通過するなどして様々な障害を与えても、それらをするりと抜けて追ってくる。

蜘蛛の様に変異させた下半身から生み出される速度はかなりの速さであり、未だに優助が追跡者に捕まっていないのはこの怪物の気紛れなのでは、と言う恐ろしい想像さえ頭を過ってしまう。

 

そんな、数分にも及んだ逃走劇は、出口に使おうとした扉の鍵が施錠されていた事で、唐突に終わりを告げた。

開かない扉に愕然とした優助が蒼白な顔で背後にいる怪物を確認し、別の脱出口を探すために視線を巡らせようとした瞬間、その怪物は手を大きな網目状へと変異させ振るってきた。

 

先ほどの攻撃が外れたのがよほど気にくわないのか、今度はしっかりと逃れようがないように。

 

転がるようにして、講義室に並ぶ机を上手く遮蔽物にした優助は何とかその一撃を避けたものの、壁になった机が音を立てて溶け落ちたのを見て、即座にその場から逃げ出した。

 

 

(なんだあれっ……生物と言うよりも、そもそも強酸としても常識外れだ! あんななんでも溶かすなんて、硫酸だってあそこまでじゃないぞ……!!)

 

 

対抗手段として考えられるのがほとんどない。

物質的に非常に安定しているダイヤモンドの盾でもあれば防げるのかもしれないが、そもそも強酸としてさえ逸脱しているあの溶解人間相手には、それがあったとしても立ち向かえるビジョンが見えなかった。

 

だが……と、優助は追ってくる怪物の足元を見る。

 

 

(常時あれほどの強酸性の体であるなら、床が溶け落ちる筈なのにそれが無い。意図的に硬質化させるのか、強酸性を抑えることが出来るのかは分からないが、強酸性がない瞬間だけは、反撃の糸口が……)

 

 

もっともその考えは、接近するという大前提をクリアしなければならない上に、考えを読まれ全身を強酸性にされた瞬間どうしようもなくなる。

即座に頭に過った反撃の選択を却下した優助が、何とか別の出口に辿り着き掛けた時、跳躍したその怪物が目前の出入り口を塞ぐように着地した。

 

 

「……うそだろ……」

 

 

その場で尻もちを突いた優助は、きっと責められるべきでない。

これまで廊下や教室を走り抜けて、追跡は振り払えないものの、捕まらないことは出来るのだと思っていた。

異常な見た目ではあるが、身体的な性能差はそれほどないのだと予測していた矢先、ほんの一度の挙動で、その予測が根本から崩された。

 

コイツは何時でも自分を始末できた。

そんな嫌な予感が現実だと、見せつけられたのだ。

自分の命はこの怪物の気紛れによって決まる。

絶望による思考停止。

度重なる疲労によって、優助の足はもう動かなかった。

 

座り込んでしまった優助に対してすぐに攻撃を仕掛けることなく、なぜか周りを確認したその怪物は、まだ来ぬ待ち人に落胆した様子を見せる。

だが、それも一瞬。

今度は手を細かい鞭のようにして、片手間に座り込んだ優助を薙ぎ払おうとして。

 

 

――――銃声が響いた。

 

 

的確に、怪物の変異した腕を打ち抜いた銃弾に驚愕した優助だったが、自分の味方だと判断した優助は即座に声を上げる。

 

 

「――――足だ!! 酸性の体を硬化して床を溶かしてないっ、足を狙え!!!」

 

 

続いた銃声は4発。

全てが的確に怪物の足を打ち砕き、大きく体勢を崩した怪物の前から、優助は慌てて飛びのいた。

 

 

「こっちだ!」

 

 

銃声の元である神楽坂が、講義室の扉を開きながら優助に向けて呼びかける。

自分を助けた人物がここ連日自分を訪ねていた警察官の片割れだと知って、安堵した優助はすぐさま神楽坂の呼ぶ方へと駆け出した。

 

銃に弾を込め直し、体勢を崩したまま動かない怪物に銃口を向け続け、神楽坂は自分の元まで辿り着いた優助を先に逃がし、そのまま逃走を選択する。

戦闘はあり得ない。

見るからにおぞましい異能を所持している相手に対して、何の異能も持たない自分がまともに反撃できるとなんて思っていない。

 

 

(佐取はっ……!?)

 

 

一緒にいる筈のあの少女の姿を探し、視線を走らせようとした神楽坂が見たのは、合流した優助達の様子をじっと見つめる、銀色の液体が人型を作っているだけの怪物。

 

寒気がした。

奴にとってこの状況が一番の好都合であるかのような、嫌な予感が神楽坂を襲う。

判断は一瞬。

咄嗟に前を走る優助を掴み、地面へ転がった。

 

 

「な、なにを――――」

 

 

次の瞬間、溶解の怪物と神楽坂達を挟んでいた全てが強酸の腕に薙ぎ払われた。

 

全てを溶かし尽くした、文字通り。

 

数十メートルはあった距離。

その間にある、壁も床も天井も、机も段差も誰かの置いていた荷物さえ、まとめて溶かした強酸の腕はギリギリ躱し床に転がっている神楽坂達をさらに狙うべく、既にまた振り被られている。

一息だって吐く暇はない。

今度は、倒れた状態の神楽坂達をより当てられるように、腕を縦に振るおうとする怪物に、何とか優助を連れて逃げ出そうとしていた神楽坂の血の気が引いた。

 

 

(コイツ、判断速度が尋常じゃないっ! 無理だ、躱せな)

 

 

そんな刹那の間に、場違いなくらいの無造作で、缶状の物が怪物に向けて投げられた。

攻撃よりも防衛意識が勝ったのだろう、即座に攻撃のために振り被っていた腕でそれを弾いた怪物だったが、溶けた缶から溢れた内容物が怪物の全身に降り注いだ。

 

 

『――――■■■■ッッ!!??』

 

 

その缶は、対大型の獣を撃退することを想定して作られた劇物であり、酸性の液体と言う、言うなれば剥き出しになった体内に不純物が降り注げば、まともではいられないのは目に見えていた。

 

 

「良かった、ちゃんと苦しんでくれた」

 

 

悶え苦しむ怪物の前に姿を現した、その劇物を怪物に投げ付けた少女、燐香は、なんでも無いかのように怪物に話しかける。

 

 

「知性があるものの、どうにも人間染みていない様子だったので疑惑を持っていましたが、どうやら苦しみや痛みと言った部分の感覚はあるようですね。つまり貴方は、完全な異能の現象ではなく、人としての性質は消えていない。まあ、知性があるんですから、当然ではあるんですけど」

 

 

追撃が来ない。

聞き覚えのある声がする。

そんな状況に、優助が顔を上げてそれを見る。

 

数年前からちっとも変わっていない巨悪が、恐ろしい顔を覗かせて怪物と対峙している。

 

 

「そうなれば話は簡単です。私は貴方の壊し方を知っています」

 

 

わざわざ標的となるように姿を現し、苦しむ怪物を前に長々と話をする。

普通であればそれは致命的な隙であり、自分の目的を邪魔した燐香を怪物は即座に溶解しようと体を大きく変異させ、呑み込むように行動したのは『怪物にとって当然だった』。

 

 

「人としての機能、ないし、人間的な部分が体のどこかに残っているなら。人間にとっての猛毒で、その体を染め上げてしまえばいい」

『――――』

 

 

怪物が呑み込んだのは少女では無かった。

 

燐香が研究室で回収していた容器、それは塩素系洗剤。

酸性系洗剤と塩素系洗剤を混ぜ合わせることで起こるのは、人体に猛毒な塩素ガスの発生だ。

空気中に拡散するだけでも甚大な被害を引き起こすそれが、人としての性質を残す体内に取り込まれたらどうなるか。

結果が出るのに時間なんて掛からなかった。

 

銀色だった身体に毒々しい紫色の斑点が次々に浮かび始めた。

瞬く間に全身をどす黒い紫色に染め上げられたその怪物は、ぐらりと床に倒れ込み、その場で苦しみによりのたうち回る。

自壊し、体の結合が崩壊し――――そして、体がただの液体へと溶けていった。

 

不死に思えた酸性の怪物は、もう動かない。

 

 

「…………よし! 何とかなった! 流石私っ、相性なんてものともしない!! むふふふっ」

 

 

動かなくなった怪物を至近距離から見届けた燐香はガッツポーズを取り、怪物がいた場所に広がった液体を適当なもので突いて、安全を確認する。

どういう原理なのか、液体からは酸性が完全に消えているようで、粘つきも無く、ただの水に近いものになったそれを、燐香は不思議そうな顔をしながら眺めて。

 

 

「……ん? これ……人の指?」

 

 

黒く炭化した人間の指の様なものが、その怪物が変異した液体の中にあるのを見つけた。

大きさ的に小指だろうか。

怪物として動いていた時は液体に覆われていただろうそれが、わずかに異能の出力を残しているのを見て、燐香は理解する。

 

 

(……なるほど、これがこの異能を遠距離で動かすための核。それにこれは……異能のラインが他に繋がっている訳ではない。これが本体でないならもしかすると……)

 

「燐香……?」

「へあ……?」

 

 

怪物の亡骸を弄っていた燐香にいつの間にか近付いていた優助が、困惑したまま声を掛けた。

 

完全に虚を突かれた顔で兄を見返す燐香と疑惑の眼差しを向け続ける優助。

そんな2人の様子を見守っていた神楽坂が、怪物が暴れた周りの惨状にも、自分の協力者の窮地にも、どうするべきかと頭を痛め、重いため息を吐いた。

 

 

 

 

‐2‐

 

 

 

バレた。

お兄ちゃんに、異能がバレた。

いや、正確には私の『精神干渉』に対する詳しい説明をした訳でもないし、私が『非科学的な現象』を扱えるのかと直接聞かれた訳でもないが、恐らく……多分……バレているのだと思う。

 

心は読んでいない。

だって、あの時は非常事態だったから場所を捕捉するために仕方なく読心対象にしていたが、非常時でもないのに自分で決めたラインを自分の都合で踏み越えるなんて……、と思うからだ。

だから、絶対にバレたという確証がある訳ではないのだが……。

 

 

「お、お兄ちゃん? ……よ、良かったよね、何とか皆無事でさ! い、いやあ、あの怪物を前にした時は死んじゃうんじゃないかと思ったけど、何とかなって良かった良かった!」

「……」

「警察の人がドバーっと大学の中に入ってくるのもビックリしたよね。色々聞かれた時は怖かったけど、結局そんなに時間も掛からなくて安心したよ! と、ところで、お兄ちゃんの研究対象って、あの怪物みたいなやつなんでしょ……? わ、わぁ、あんな実物を前に出来て、すっごく良いサンプルが取れたよね! このままノーベル賞一直線だね!」

「…………」

「あうぅぅ……」

 

 

ずっと無視される。

嫌がらせの為の無視ではなく、何か考え込む様な、何か非常に思い悩むようなことがある様な、そんな感じの無視だ。

 

嫌われたとかじゃない筈。

多分、きっと、そんな気がする。

 

 

「あー……そろそろ着くぞ?」

 

 

車を運転し、私達をお兄ちゃんの住むマンションまで送り届けてくれている神楽坂さんが、空気の悪さに気を遣ってそっと声を掛けてくれる。

キリキリと痛んでいたお腹が、神楽坂さんが声を掛けてくれたことで少し収まった。

もはや私にとってこの場における唯一の癒しである。

 

 

「しかし、優助さん本当に災難だったな。半グレ組織には狙われるし、妙な怪物には追い回されるしで、怪我が無くて本当に良かったよ」

「……いえ」

「半グレ組織については、やたらと武装も所持していたからな、今後まとめて検挙するからもう付け狙ってくることは無い筈だ。そこは安心してほしいんだが……すまんな。あの怪物について、まだ警察内では猜疑論が根強いんだ。証言もまともに聞いてくれなかったんだろう?」

「え!? あれだけ見るからにヤバい奴が暴れ回ったのに、まだ全然信じてもらえないんですか!? わ、私はそっちの話は全然聞かれなかったので、どんな話になってるか知らなかったんですけど、お、お兄ちゃん馬鹿にされたの……?」

「……はい。でも、俺だって未だにあの光景が現実だと実感できてないですから、実際に目の当たりにしていない人が無条件に信じるのは難しいと思っています。……それにどうやら、監視カメラもしっかりと潰されていたらしいですし」

「監視カメラの映像データを潰した奴については調査中だが、まあ、十中八九半グレ連中なんだろうというのが今のところの警察内部での見解だ。まだこの件についての謎は多い。十分気を付けて生活を送ってくれ」

 

 

そう締めた神楽坂さんの言葉に、お兄ちゃんは暗い顔のまま頷いた。

そこまで話をして、チラリと私に視線を送ってくれた神楽坂さんに軽く頭を下げて感謝を伝えておく。

こういう事情があるからあまり深く思い悩むな、そう言われた気がした。

 

それからすぐにお兄ちゃんの住むマンションまで到着した私達は、部屋の前まで送ると言った神楽坂さんに甘え、いくつかの荷物を持ってもらいながら階段を上がっていく。

先頭を歩くお兄ちゃんに少し距離を置きながら、私はこっそりと神楽坂さんに話しかける。

 

 

「神楽坂さん、今回は本当にありがとうございました。その、初めて私の異能が利きにくい相手だったのでちょっと動揺していた部分が……一度取り逃がしたのは私のミスです」

「いや、俺から感謝することはあっても感謝されることは無いさ。結局倒してくれたのは佐取のおかげだからな。佐取がやってくれなかったら、君のお兄さんも、俺も、命を落としていた」

「いえそんな……それで、今回の件で少し疑問点が残っているので、お話ししたいんですが……」

「ん? ああ、それは勿論構わないが……佐取は今日家に帰るんだろう? お兄さんを送り届けてから合流で良いか? ああそうだ、家まで車で送ろう。その時車内で話せばいいか」

 

 

ダンマリを決め込んだままズンズンと歩いていくお兄ちゃんの背中を確認する。

こちらの様子には気が付いていないようだ。

 

本当なら、お兄ちゃんには聞かれたくない内容の話だからこんなところで話すよりも、神楽坂さんが言うように車内で話した方が良いのだろうが、どうしても気になることがあった。

 

喉に小骨が刺さった時の様な、言い知れぬ不快感。

拭いきれないその疑惑を、早急に解消したかった。

 

 

「……はい、詳しい話はそこでしたいんですが、ちょっとだけ早急に確認したい事がありまして。その、神楽坂さんは今回の件、どういった形で介入することになったんですか?」

「言っている事の真意が分からないが……昔教え子だった奴が、俺を頼ってきたのが切っ掛けだったな。それで、数日前から君のお兄さんに接触を繰り返していた」

「……龍牙門と言う半グレ組織って、情報収集に長けているんですか? 具体的には、大学の学生が出した、かなりマイナーな論文も見付けてしまうくらい」

「いや、どちらかと言うと、抗争とかの荒事で主に金を稼ぐ連中だな。どうやって佐取のお兄さんの情報を知ったのかは知らないが、裏の情報屋みたいなのは結構いるんだ。そういう奴から情報提供されたんだろうと思っているが……」

「……血の気の多い暴力集団で、考えなしに大規模な行動を起こす恐れがある連中……騒ぎを起こしてくれるのを期待するならこれ以上ないくらい適任……」

「…………聞きたいことはもう良いのか? なんだか、佐取が疑っているのを見ると、無性に不安になるんだが」

 

 

神楽坂さんの質問に、取り敢えず材料が出揃った私は軽く頷いてぼんやりと考える。

 

学生の身であるお兄ちゃんが出したマイナー論文に注目して、接触を図る半グレ組織。

神楽坂さんと言う、これまでの異能の関わる事件を解決に導いたとされている者が、所属部署を通り越して急遽この件を担当することになる状況。

そして、半グレ組織とは無関係のように見える、突如として現れた第三者の異能持ちが、都合よく半グレ組織の騒ぎを察知して姿を現したという事実。

 

頭の中で、嫌な線が繋がっていく。

この件に関わる第三者、Xの存在があった時、それはどんな存在なのだろうと考える。

 

その存在Xは恐らく――――

 

様々な論文を漁るだけの教養を有していて、半グレ組織に情報を提供していた。

異能の情報が出回るのを相当嫌うだけの理由が存在しており、異能を研究するお兄ちゃんと、出来れば異能の事件を解決している神楽坂さんも同時に始末したかった。

半グレ組織が起こす騒ぎに乗じて行動し、全ての責任を彼らに押し付けるため、身近で状況を見定めていて、なおかつ『読心』出来る私が接触していない人物。

 

そして、もしも私がそれに会った時、『読心』出来なかったとしたら、それこそが。

 

 

 

「――――あ、神楽坂先輩。丁度良かった。色々重なって急に会えなくなっちゃったから、ここで待ってたんです」

 

「伏木? 本部への連絡は終わったのか?」

「ええ、そうなんですよ。それで、本部から神楽坂先輩を呼んでくるようにって言われちゃってですね」

 

 

――――あの、正体不明の異能持ち。

 

 

「ああ、すいません。佐取優助さん、部屋の前で待っていてご迷惑でしたよね。どうぞお気になさらず部屋に入ってください。俺は神楽坂先輩と少し話すことが……」

「……どうやってここまで入ったんだ? オートロックだぞ、ここ」

「……管理人さんに連絡して、入れて貰ったんですよ。すいません、変に不安にさせて。それで――――」

 

 

マンションの外に置かれていた野球用のバットを持った私は、異能で姿を隠しながら、全力でその男の頭をぶん殴った。

 

ぼちょん、と言う気が抜けた音と共に鼻から上が消し飛び、銀色の断面が露わになる。

ぼとぼとと断面から流れ落ちるのは、真っ赤な血なんかではなく、銀色の不気味な液体だ。

 

 

「――――そこにいる子って、優助さんの妹ですか? いやあ、似てる部分が結構あって可愛らしいですね。そんなに可愛い妹がいるなんて羨ましいなぁ」

「…………ふ、伏木?」

「ひっ、あ……なんだ、こいつ……り、燐香早く離れ……」

「あれ? どうかしたんですか? ほら、神楽坂先輩早く本部に行きましょう」

 

 

まるで自分がどんな状態なのかも分からないのか、鼻から上が無くなった状態でペラペラと話し続けるその怪物の姿はあまりにおぞましい。

顔を引き攣らせたお兄ちゃん達の様子に首を傾げながら近付こうとしたそいつに、私はバットを捨てて、右手を向ける。

 

 

「ソウルシュレッダー」

 

 

銀色の液体の中に見える指の様なものに向けて、手に纏わせた私の異能を銀色の断面に押し当てた。

想像していた通り、外皮は異能を弾くが内部は異能を通すようで、裁断されたその指の異能が破壊され、人型を作っていた液体が、音もなく崩れ落ちた。

 

人が液体になったのを目の当たりにした神楽坂さん達が顔を蒼白にさせている中、残骸であるその液体の中で核である指の他に、別の指が入った小瓶があることを確認した私は、神楽坂さん達目掛けて駆け出した。

 

 

「お兄ちゃん神楽坂さん! まだ来るっ、逃げてっ!!」

 

 

小瓶が内側からの力で破裂した。

中から現れた銀色の液体は、傍にあった炭化した指を呑み込みながら、先ほどの男の姿を足から順に作り上げていく。

ほんの数秒で、どこにでもいる様な先ほどの男の姿を模った銀色の液体は、困ったような顔を浮かべた。

 

 

「あれ、おかしいな。どこでバレたんだろう」

 

 

それから、その男はぼとぼとと大量の銀色の液体を腕から地面に垂らし始める。

その銀色の液体は、大学で見た酸性などでは無く、真っ赤に燃え上がる火炎を噴き出し始めた。

 

 

「まあ、いいか。どうせ全部殺すつもりだったし」

 

 

嫌に人間染みた笑顔を浮かべるその男は、化け物にしか見えない姿で歩いて来る。

 

 

 

 

 

 

 


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