非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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望まざる状況

 

 

飛禅飛鳥は今日も忙しい。

広報の仕事に、詰め掛ける報道への対応。

さらには通常の警察業務にプラスして、これから異例の出世をしていくだろう飛鳥に何とか良い印象を付けようとする警察官僚や異能に対して懐疑的な感情を持って、その態度を隠しもしない者達の嫌味などなど。

 

給与は今までとは比較にならないくらいに飛び上がったが、それにしたってここ一カ月間一日たりとも休めていないのはどう考えたってやりすぎだろう。

 

諍い合う同期の存在はまだ良い。

だが、何を考えているのか分からない不穏な異能犯罪者が同僚となり、恐らく警察署内に存在するだろう出力を探知出来ない異能持ちへの警戒、積極的に異能を広報している飛鳥の存在を邪魔に思う者達の事など、それらの事を飛鳥は考えるだけで頭が痛くなっていた。

テレビ出演や警察紹介動画などを通じて広告塔の様な扱いを受けている今のアイドルの様な扱いを、飛鳥は欠片だって望んでいなかった。

 

警察が新設した対異能部署に入ることも、異能を使う者として有名になることも、彼女の人生にとってプラスではないのだ。

 

 

(……安請負いするんじゃなかったわね……)

 

 

ついそう思ってしまう。

自分の運命を変えたあの火災現場の時無理に異能を公にせずにいたら、なんて。

あの火災現場で救出した20人余りの人達を放置すれば、今の精神をやすりで削られるような状況は無かったのではないかなんて、そんなありもしない非道な選択をした後の事を考えてしまう。

 

最近はまともに眠れていない。

仕事で帰るのが遅いと言うのもあるし、そもそも考え事や不安が多くて眠れない。

こんなことになるならもっとよく考えてから火災現場での救出作業をすれば良かったと後悔してしまうのだが、どうしようもない事に、飛鳥はあの死んだ眼の少女の前ではついつい格好を付けたくなってしまうのだ。

 

憧れは人を盲目にするし、好きな人には自分を好きになってもらいたいと思うもの。

人なら至って普通の感情だろう。

 

 

(もう当初の目的も果たせたわけだし、警察官辞めても、なんてね。……燐香、何か異能持ちの組織でも立ち上げてくれないかしら……人助け的な、そんな会社。多分、あの子なら上手くやれると思うんだけど無理かな……)

 

 

ここまで知名度が上がってしまった飛鳥を迎え入れる会社なんて否が応でも注目されるに決まっているから、注目されるのが嫌いなあいつの行動原理を思うと、こんな考えはあり得ないと分かっている。

だがもう、日々の仕事で疲れきった彼女の思考はそんな事ばかり考えてしまっている事に、疲労の重症具合が良く現れていた。

 

 

(……あれも……相坂君になんて言おう)

 

 

視線が、部屋の隅で手錠に繋がれ一応は拘束された状態の“紫龍”に向けられる。

異能持ちということで、普通の署員は警戒する態度を隠しもせず、最も近くに席を置かれた柿崎が時折その鬼のような眼光で“紫龍”が不審な動きをしないかを監視していた。

とは言え、そんな拘束などあの男には何の障害にもならないだろう。

 

『連続児童誘拐事件』の実行犯であり、相坂家を引き裂いた元凶の一つとも言える存在。

自由行動はほとんど許されていないが、警察に協力していると言う現状は今の“紫龍”にとって、逃走も、復讐も、容易な立場にあることを意味している。

飛鳥は逮捕に関わっていないから、奴がどんな異能なのか直接見た訳ではないが、“紫龍”を捕まえた2人から“煙”の力の詳細は聞いていた。

煙は目に見える訳だし、即死戦法の『高所への強制移動』は“浮遊”の力を持つ飛鳥にとって対応できない事ではないから、自身にとっての危険性はそれほど高くない。

ただ、問題はその点ではない。

 

問題は、飛鳥が異能の基本的な使い方を教えたあの子供や、他の被害者達に対する罪悪感。

自分の家族をぐちゃぐちゃにした犯人一味の実行犯が、警察にいると言うのを知られた時どうすればいいのか。

被害者達に真実を知られた時、胸を張って今のこの現状の対応は正しい事だったのだなんて、飛鳥は口が裂けても言えなかった。

幸い、異能の扱いを教えていたあの少年の力は既に安定していて暴走することもないだろうから、接する機会自体減っているものの、この飛鳥の立場は裏切りと取られても仕方ないと思えてしまう。

 

 

(上層部は何を考えてるんだか……と言うか、異能持ちの存在を最近知ったような奴らが、本当に首輪を付けて扱えるとでも思ってるのかしらね。とんだ思い上がりだと思うんだけど)

 

 

今日も朝から色んな場所に赴いていた飛鳥が、昼過ぎにようやく自分に振り分けられた机の元に辿り着いてそのまま、コンビニで買ったおにぎりを食べようと封を切った瞬間、部署内がざわついた。

 

 

「……?」

 

「ICPOの人達が到着したらしいぞ、ここに向かってるみたいだ。浄前部長、手筈は整えてあります!」

「分かった、全員起立して待ち構えろ。失礼の無いようにしろよ」

「全員作業の手を止めろ! 起立して待ち構えろ!」

 

「……チッ」

 

 

タイミングの悪さに思わず、いつもの猫被りに罅が入る。

気持ちを落ち着かせ、封を切ってしまったおにぎりを袋の中に仕舞い込み、大人しく他の人達と同様に立ち上がり、派遣されたと言うICPOの者達を待つことにする。

イライラしたって仕方がない。

 

飛鳥は少し前の事を思い出す。

以前病院で見た3人組の姿は異様だったが、確かにどいつも強力な異能の気配を有していた。

“白き神”と言う精神干渉系の常識を逸脱した異能持ちにこそ手玉に取られていたが、異能自体も非常に強力なものであり、“転移”に“音の支配”と言う、使い方次第では他の異能持ちにすら容易く勝ち得る強力な異能。

あれらのような異能持ちが他にも所属しているのかも分からないが、ICPOと言う組織に所属する異能持ちの全貌は未だに見えていないのは確かだった。

 

ゆえに、飛鳥はこれから協力する仲間と言う視点とはまた別の視点から、彼らの戦力に興味を持つ。

“顔の無い巨人”を宿敵と定め、組織としてその足取りを追いかけている彼らの組織に飛鳥は腹の内で少しだけ打算を立てた。

 

 

(タイミングの悪さには正直苛立ったけど……今後敵になるのなら情報収集にはこれ以上無いくらい適しているわね)

 

 

以前と同じ者達が来ることも考えられるが、もし別の人員が来るとしたら今回はどんな奴らだろうと、少しだけ興味を持った飛鳥の視線の先に彼らは現れた。

 

 

「失礼します。国際刑事警察機構、対異能犯罪取締課から派遣されたルシア・クラークです。それからこちらは……」

「初めまして! レムリアです! よろしくお願いします!」

 

「…………女と子供? 2人だけ?」

「なんだ? 本当に彼女達が俺達に異能犯罪について教えてくれるICPOの人員なのか……?」

 

 

張り詰めていた空気が弛緩する。

扉から現れたのは、眼鏡を掛けた金髪の女性とその女性よりもずっと小さな小学生程度の男の子だったからだ。

異能に対してほとんど見聞がない彼らにとって、異能と言う超常的な現象に対抗する人間は経験豊富な屈強な人物だろうと言う勝手なイメージが無意識の内にあったのだろう。

扉から入って来た予想外過ぎる2人の人物に、挨拶を返すことも出来ないままざわついた。

 

そんな動揺した空気の中で、この課の代表である浄前が2人の前に進み出る。

 

 

「初めまして、対超常現象の解決を目的としたこの部署で長をやっている浄前です。今回は非科学的な現象を扱う者達の検挙のイロハを教えていただけるとお聞きしています」

「初めまして。今、私達以外の残りの人員は持ち込んだ機材等の整理を行っているため、ここに来ているのは私とレムリアだけですが、ICPOからは計20名の派遣となっています。さて、早速ですが報告のあった、こちらの未把握の異能持ちについて、その情報詳細分かるものを見せていただけますか?」

「ええ、参考になるかは分かりませんが用意してあります。こちらへ」

 

 

浄前とルシアによるやり取りが始まり、ようやく動揺から解放された署員達は慌てて話を聞き逃すまいと2人の会話に耳を傾け始めた。

彼女達の能力云々は分からないが、ひとまずは無心で仕事をするべきだと言う判断に落ち着いたのだろう。

 

見るからに非力な彼女達を、既に無意識の内に軽く見始めていた他の課員達とは違い、異能の出力を感じ取れる飛鳥は口の端を引き攣らせていた。

視線の先には情報のやり取りをしているルシアでは無く、幼子、と言う域を出ていないように見える異能持ちの少年、レムリアだ。

 

 

(……何。この子、出力が変だ……歪と言うか、気持ち悪いと言うか……他の異能持ちに会う事なんてほとんど無いけど、それにしたってこれは……)

 

「お姉さんが飛禅飛鳥さんだよね……うん、実際に会うと凄い異能の感じ!」

 

 

事前に、失礼の無いように、なんて言ってた癖に、挨拶も返せなかった大半の者達を放置して、その少年は飛鳥を目に留めるとニッコリと邪気の無い笑顔を浮かべた。

そして、そのまま近付いて来る。

 

 

「お姉さんの広報動画よく見てるよ! 毎週楽しみにしてるんだ!」

「え、っと、ありがとう」

「今度お互いがどんな異能を持ってるのか紹介し合おうね! 僕の異能凄いんだから!」

 

 

浄前と挨拶を交わすルシアとは違い、一直線に飛鳥の元に向かって来た少年はいかにも子供らしくそんなことを話し掛けてきた。

 

年齢は外見から推測するに、相坂少年と同じくらいだろうか。

蜘蛛の糸のような異能を持つ少年に比べて、いささか幼い言動をしているように思える。

実際の年齢は分からないが、まさかあの少年以上に歳下でICPOの職員として活動しているとは考えにくい。

 

何と返事しようかと少し悩み、飛鳥はふと気が付いた。

 

 

「あれ、レムリア君は日本語が出来るんですね?」

「……? あ、アブサントの事言ってるでしょ! アブサントはね、悪い人じゃないんだけどルシア以外どうでも良いって言うのを思いっきり態度に出してたからね。他の言語なんて使おうともしてなかったんだよ? 最近は日本に友達が出来たらしくてせっせと日本語を勉強してるけど、本当なら世界を股に掛ける仕事なんだし、色んな言語を覚えた方が良いに決まってるんだけどねー!」

「へ、へぇ……」

 

 

秘密主義な印象があったICPOの個人情報が怒涛のように話されることに動揺し、飛鳥はそんな様子のレムリアにどうやって対応するべきかと頭を悩ませる。

どうにか一線は置いておきたいのだが、どうにも彼の様子は久方ぶりに仲間を見つけた子猫のように見えて仕方がない。

これを冷たくあしらうのは……なんて考えていた時、会話に割って入ってきたのが、同期の一ノ瀬和美だ。

 

彼女は興味津々と言った様子でレムリアに話しかける。

 

 

「お? レムリア君と飛鳥のアホって知り合いなんスか?」

「んーん、違うよ? でもね、異能……えっと、超能力を使う人同士って何となくお互い分かるから、親近感が湧いちゃうんだ! 前に同僚の、アブサントとベルガルドもお世話になったって聞いてるしね!!」

「ほほぉ、なるほどっス。でもそっかぁ、レムリア君が凄い若いから、どうしたのかなってビックリしてたっスけど、その、超能力を使えるからなんスねぇ……ねえねえ、私には? 私には超能力の素養があったりしないっスか? 炎とか氷とか出してみたいっス!!」

「えっとえっと、お姉さんには無さそうかなぁ……多分。僕ってそういう探知系じゃないから……正確ではないと思う、ごめんね?」

「そっかぁ……全然大丈夫! 教えてくれてありがとうっスよ!」

 

 

こいつ異能が欲しかったのか、なんて、今まで微塵も態度に出してこなかったそんな彼女の言葉に、飛鳥は若干呆れた。

確かに傍から見れば便利な力に見えるだろうが、簡単に自分の身さえも傷付ける危険な力なのだ。

仕方が無いのだろうが、無責任に自分も異能が欲しいと言っている奴には若干嫌気を感じてしまう。

 

と言うか、あのルシアと言う女性は異能を持っていなかった筈だから、今回派遣されてた異能持ちはこのレムリアだけということになる。

前回は2人来ていただけに自分達の事を軽く見られている気がして、飛鳥は少し眉を顰めた。

 

 

「……ところで、派遣される異能持ちはレムリア君1人なんですか? 以前の時は、基本2人での行動を原則にしてたみたいでしたけど」

「んと……ルシアに聞こえてないよね? そうなんだー、今僕達忙しくて……世界では異能を持つ組織が暗躍してたり政府との衝突が起きたりで大変だから、日本に派遣できる異能持ちは僕くらいだったんだよ。だから今回は僕1人……ほら、見ての通り子供だから、交渉の場には向かないからね。保護者役兼日本の異能対策への助言役のルシアに連れられて、僕は護衛任務に来たんだけどさ……」

「……護衛?」

「あ」

 

 

しまった、と自分の口に手をやったレムリアはこっそりと周囲を見渡した。

周りの人達が全員浄前達の会話に集中しているのを確認し、ほっと安堵のため息を漏らして、照れたように笑った。

 

 

「えへへ。本当は内緒なんだけど、つい言っちゃったから2人には話しちゃうね。忙しい中でこうして日本に来たのは、日本から助言が欲しいって言う要請があったからだけじゃなくて、ある人が狙われてるって言う情報を知ったからなんだ。あ、勿論、未把握の異能持ちについてはしっかり確認してきてほしいとは言われてるんだよ? でもそれよりも重要なのがこっちの護衛任務!」

「護衛って、超能力関係者に狙われるだけの理由があって、その上ICPOが直接護衛するほどの大物……そ、そんな人日本にいました? 総理大臣? それとも芸能人?」

「……馬鹿ね、日本が誇る世界的な権威と言えば1人いるじゃない」

「えー? そんなすぐ分からないでしょー? 誰をって言うのは流石に怒られちゃうから絶対言わないもんねー!」

 

 

頭を悩ませる和美となぜか自信満々なレムリアに対して、静かに飛鳥は考えを巡らせる。

 

世界的な組織が、数少ない貴重な人員を派遣してでも安全を確保したい人物。

世界最高クラスの要人と比較しても見劣りしないどころか、それらの要人でさえ自分よりも彼を保護しろと言いかねない。

ある方面に対して類を見ない程の才覚を見せた人物で、そして彼が生み出してきた技術の数々はこれまでも、そしてこれからも、世界中の多くの人々の命を救うだろう。

 

世界中から彼を頼る人は海を渡り、世界的な著名人すら大金を叩いて彼の元に頭を下げに来る――――日本が誇る世界最高の医者の存在。

 

 

「神薙隆一郎(かんなぎ りゅういちろう)……」

 

 

飛鳥はその名を呟いた。

それが正解かどうかは、目を見開いて信じられないと言わんばかりに驚愕するレムリアの表情で、はっきりと分かった。

 

 

 

 

‐1‐

 

 

 

 

東京の病院。

お世辞にも綺麗とは言えない外装の、大病院とも言えない程度の面積を有したそんな場所で、1人の白衣の老人に深々と頭を下げる男女とその手に繋がれた小さな子供。

両親に手を繋がれているものの、もう1人で歩くことは出来ないだろうと言われていた子供の足が、確かに自分自身の体重を支えている。

 

なんでも無いようなその光景は、ほんの数年前はあり得ないと断言されていた光景だった。

 

 

「先生っ……! 娘がこうして立てるようになったのは先生のおかげですっ……!! 本当にっ、本当にありがとうございました!!」

「いやいや、手術は成功したけれどこうして立てるようになったのは娘さんがリハビリを頑張ったからですよ。私に感謝する必要はありません、娘さんを褒めて、労わってあげてください」

「はい……はいっ……!」

「神薙先生……!!」

 

 

もう何度目になるか分からない、今にも泣き崩れそうな男女の様子に、そんな光景も慣れたものなのか老人は優し気な笑みを崩す事無く2人の肩を軽く叩いた。

そして、未だに実感が沸いていないのかぼんやりと自分を見上げている少女に視線を合わせるように地面に膝を突くと、優しく少女の頭を撫でた。

 

 

「ほら、言ったとおりだったろう? 治らないものなんてない。約束通り、君は歩けるようになった。私は約束を果たした、なら、君も約束を果たしなさい、良いね。思いっきりお父さんお母さんに甘えて、存分に学校を楽しむんだ」

「……うんっ! かんなぎせんせー! ありがとー!!」

「うんうん、また来る……事は縁起でもないから、何かあったら頼りに来なさい。ほら、こんな老人に時間を使ってないで、一刻も早くお家に帰らないと」

 

 

そう言って、何度も名残惜しそうに振り返る少女と両親の姿が完全に見えなくなるまで手を振り続けた老人、神薙隆一郎は彼らの目が届かなくなってから安堵のため息を吐いた。

肩の荷が下りたとでも言うように、軽く肩を回す彼に、背後で見守っていた看護師が声を掛ける。

 

 

「先生程の方でも慣れませんか? 担当していた方が無事に完治して退院するのを見届けるのは」

「いやぁ、こうして完治して無事に退院するのを見送るよりも、完治できなかった人を看取った事の方が記憶に焼き付いていてね。私にとってはどんな患者でも担当するのは、これ以上無いくらい緊張するものなんだ。ついつい、無事に退院してくれた日は羽目を外してしまうくらいね」

「初心を忘れないことは大切でしょうけど、先生が、となると過剰とさえ感じてしまいます」

「ははは、私達にとっては多くの患者の1人でも、患者にとっては替えの利かない自分や大切な人の命に関わることなんだ。どれだけ真剣に取り組んでも過剰なものなんてないよ」

 

 

医師、神薙隆一郎。

世界に名を轟かせるかの人物は、そんな殊勝なことを口にする。

 

彼の名前を知らぬ医療関係者はこの世界にいない。

内科外科に、循環器科、脳神経外科や眼科、皮膚科に至るまで、あらゆる医療方面に精通し、あらゆる面で新たに画期的な治療法を確立して来た彼に医学関係の賞で取れていないものなどない。

医療関係者にとってはまさに生きる伝説であり、彼が完治させられないのは精神病関係のみと言われるほどに卓越した医療技術を有する者。

 

 

「しかしね。こうして高齢になった身、いつ自分の体に限界が来るかと常に不安なのは事実なんだ。なんでもない時に1人で命を失うのは良い。だが、もしも私が執刀中だったら、担当した患者を完治させられていなかったら、そんなことを考えるといつだって不安で堪らない」

「先生……」

 

 

もう年は90を超えている筈なのに患者を不安にさせないためにと姿勢はこれ以上無いくらい整えられており、顔に彫り込まれた皺からは老いでは無く貫録を感じさせる。

だが、老いは確実に“医神”と呼ばれる彼を蝕んでおり、彼の体力は全盛期とは比べることも出来ないだろう。

 

 

「……冗談だよ。何時まで経ってもこんな頭の固い老人が、医療に関する頂点に君臨していると言われている事に対する当てつけさ。若い子達が、もっともっと頼りになるくらいになってくれればと思ってね。だが、現役でいるうちは完治できない患者なんていないと言い切って見せよう。昔と違って体力はないけど、技術は日々向上しているんだ」

 

 

不安そうな顔をした看護師に、神薙は優しい笑みを浮かべてそう言い切った。

それから少しだけいたずらっぽい笑みに変える。

 

 

「ただまあ、医師を辞めたらこれまで禁止してきたお酒を浴びるほど飲みたいと言う願望はあるんだけどね。休みの日ですら呼び出されない方が珍しかったくらいだから、気を遣わざるを得なくて……」

「先生はお医者様の癖に健康に悪い物を好み過ぎです」

「おお、そう言われるとジャンクフードが食べたくなってきた。確か期間限定商品が今日から販売だったね。一緒にどうだい? 勿論奢るとも」

「ふう……頂きます」

 

 

呆れたような、嬉しいような、そんなため息を吐いた看護師がそう返事をする。

中身もないような何気ない会話をしていた彼らが、そろそろ病院に戻ろうとした時。

 

 

「神薙隆一郎さんですね?」

「おや、君達は……」

 

 

目の前に現れた黒服の集団に、神薙は困惑するような声を上げた。

咄嗟に看護師を守るかのように前に出た神薙に、彼らは慌てて警戒させないよう自分の所属を名乗る。

 

 

「失礼しました。私達は国際刑事警察機構の対異能部署の者です。神薙先生の護衛任務を任され、挨拶に伺いました」

「国際刑事警察機構の異能部署? それも護衛とは……私はしがない老いぼれ、最近話題になっている超能力者のような人の話であれば、まったく見当も付いておりませんよ? 今更自分で新たな研究をするような活力も無いですから」

「いえ、私達もその様な事を話しに来たのではありません。国外の、とある組織が神薙先生を狙っていると言う情報を得ましたので、こうして護衛の任務を託された次第です」

「国外のとある組織? なぜそんな人達が私を……」

「世界最高峰の医学知識を持ち、卓越した技術もさることながらその名声は計り知れない。“医神”神薙隆一郎を狙わない理由を探す方が難しいでしょう」

「ふむ……」

 

 

これまで優し気な笑みしか浮かべてこなかった神薙が、眉間に皺を寄せた。

考え込むようにして、差し出された名刺を受け取りその中身に偽造が無い事を確認した神薙は深く息を吐いた。

 

 

「……つまり、病院を休み、保護下に入れと言うんだね?」

「流石神薙先生、お話が早い。では、これより我々が用意している警護用のホテルに案内しますのでお荷物を――――」

「悪いが、それは遠慮させてもらうよ。ありがたいことだが、今日もこれから10人以上の問診予定があって、2人の執刀予定もある。私に診てほしいと予約している人は山ほどいるんだ。彼らを裏切ることは出来ないし、救えたであろう命を自分の身の安全の代わりに失わせるなんて出来る訳がない」

 

 

はっきりとした断言に、ICPOの職員は唖然とする。

それから、「もしそれで警護に支障が出るなら警護しなくていいよ」とだけ言うと、病院に戻ろうとした神薙とそれを追いかける看護師。

 

慌てたのは世界最高クラスの要人として警護しろと言われていたICPOの方だ。

 

 

「ま、待って下さい! 分かりました! それでは先生には普段通りの生活を送っていただいて、我々が邪魔にならない範囲で警護を行います! それならよろしいでしょうか!?」

「ああ、勿論それは私にとってありがたい申し出だ。何か不満があれば言うから好きにしてくれていいよ。……そうだ、病院のスタッフには話を通しておくから応接間は好きに使ってほしい」

 

 

状況についていけずオロオロとする看護師に「戻るよ」と声を掛けて、神薙は病院に戻っていった。

病院の中に戻っていく2人の背中を見届けたICPOの職員達は通信機を使って状況を、警察署を臨時の支部として設立しているだろうルシア達へと事態の変化を報告する。

 

 

『……しかし、説明にあった通り聖人染みた人だな。若い頃から画期的な医療技術を無償提供し続けていたと聞いていたから、どんな裏がある人物かと思ったが……あれが本物か』

『まあ、所詮今回の敵組織は覇権争いに負けた奴らの苦し紛れの悪策だ。過剰に護衛対象の意向に反することは避けるべきだろう』

 

 

保護下に入ることを拒否されたことに驚きはあったが、彼の人柄を知る幹部からその可能性の話はされていた。

想定していた範疇は超えていないし、対応もしやすい。

むしろ協力的なあの人柄の人物が護衛対象であれば、これまでの任務よりは幾分かは楽だろうと思える。

 

1人を直近に付けて、一旦挨拶に行っている者達と合流しようと結論付けた彼らはもう1度だけ病院を見る。

 

この現代社会、間違いなく世界最高の医者である神薙隆一郎が勤務する場所だとは思えない程、随分と古い、それほど大きくもない病院がそこにあった。

 

 

 

 

 


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