非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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正常性バイアス

 

 

 

 

 その日、佐取燐香と言うふてぶてしい死んだ目女子高生に内心でギャル子と呼ばれている少女、鯉田岬(こいだ みさき)は酷く不機嫌であった。

 

 いつもは憩いの時間である筈の学校終わりの時間にも関わらず、その日は友人達との買い物の時や今のカフェでの一時も口元を尖らせ腕組みをして、見るからに機嫌が悪い様子を隠すことは無い。

 共に帰宅する友人関係である、派手な格好をした角園美穂(すみぞの みほ)や大人しい性格をした舘林春(たてばやし はる)がどうしたものかと目線を交わらしているがそれすら気が付かない。

 

 それくらい、鯉田は自分の頭の中を回る考え事に夢中になっていた。

 

 その考え事はただ一つ、自分の学校生活が思うようにいかない事だ。

 

 

「……くそっ、あいつら……」

 

 

 脳裏に浮かぶのは、同じクラスの二人の顔。

 

 忌々しい程に優秀な二人組。

 何においても勝てていない、クラスどころか学年全体で見てもトップクラスに優秀な奴らに対して、鯉田は激しい競争心を抱いていた。

 

 鯉田の中学生の頃は、生来の要領の良さで遊び半分でも学校内トップの成績とされてきた。

 周りから持て囃され、自分は才能があるのだと信じて来たのだ。

 自分はこれから先も、お洒落も、成績も、人間関係も、誰もが羨む様な完璧な結果を残せる筈だと信じていたのに、高校に入ってみれば平均以下の結果ばかり。

 自分に欠けているのは生まれだけだと思っていたのに、今はまるで井の中の蛙であったと思い知らされるような結果しか出せていなかった。

 

 彼女の怒りや悲しみの矛先が、高校のクラスで中学時代の自分と同じ立場を確立している二人に向くのは当然だったと言えるだろう。

 

 だが、それが彼女の友人達にも適用されるかと言えばそうではない。

 

 

「あのさぁ……そろそろあいつらに突っかかりに行くの止めようぜ。今まで岬が突っかかりに行って一回も言い負かしたことないじゃん。いや分かるよ。あれ、絶対勝てない部類の奴らだから、仕方ないって言うのは分かる。だからさぁ、適当なところで諦めるべき相手なんだって。なあ、舘林もそう思うだろ?」

「えっと……うん。山峰さんも佐取さんも、ちょっと比較しようと思えない相手だよね……山峰さんは本物のお嬢様みたいだし、佐取さんは新入生代表の挨拶してたんだから多分入試の主席合格者なんだよね……? 正直話し掛けるのも躊躇しちゃうよ……」

「はぁ? 何負け犬根性が染みついたような事言ってんの? 同じ人間なんだからどうとでもなるわよ! 山峰のすかした顔もっ、佐取の気の抜けた顔もっ、どっちも必ずぎゃふんと言わせてやるんだから!!」

 

 

 最初は同じ感性を持っていそうだった山峰袖子に喜び勇んで話し掛けに行っていたのに、と角園と舘林は思う。

 

 可愛さ余って憎さ百倍。

 ちょっと意味は違うが、鯉田の内心を表現するならそんなものだろうかと思いながら、友人二人は曖昧な表情で口を噤んだ。

 

 そもそも有数の進学校に通うのだから、こんな派手な見た目をしている彼女が学校内でもトップクラスの成績を収められるなんて誰も期待して無かった筈だ。

 彼女の相手が悪すぎる負けず嫌いは一体どこからくるのだろう。

 

 そんなことを思った角園が溜息混じりに口を開く。

 

 

「いや、あのさ。別に勝つのを諦めろっていう訳じゃ無くて、変に絡みに行くのを止めろって言いたいんだよ。いつかやるとは思ってたけど、今日なんて佐取の奴引っ叩いたろ。あれ、佐取が許さなかったらお前停学か何かさせられてたぞ。山峰の事だ、最悪退学にまで追い込むのも考えられた。お前の動機は分からなくも無いけど、空回りしてるって自覚しろ」

「うぐ……で、でも、あれはアイツが……」

「酷い言葉を投げかけられたって言うなら、お前はどうなんだ。お前はこれまで勝手に絡みに行ってどんな酷い事を言って来たんだ? 先に言葉で手を出したのはお前だし、実際に手を出したのもお前だ。私は正直、佐取の奴の寛容さに驚いたくらいだ」

「…………分かってるわよ」

 

 

 小さく呟くようにそう言った鯉田は、すっかり冷えてしまったコーヒーに口を付ける。

 いつもは楽しいお気に入りの喫茶店も、今はどこか色あせて見えた。

 

 気の強い鯉田や角園は多少の言い合いくらいでは何とも思わないが、小心者で大人しい舘林はそうでは無い。

 軽く火花を散らした二人に舘林はオロオロとお互いを窺い、話を変えようと必死に話題を探し、外の電柱に張られた行方不明者を探しているという紙を見付ける。

 

 

「あっ、そ、そう言えば、佐取さん達も話してたけど最近この辺りで行方不明者が多いらしいね。子供ばかりが誘拐されてた前の事件とは違って、性別も年齢もバラバラで、共通性が無いから誘拐とかじゃないんだろうけど。これまで怖い事件が一杯あったから、ちょっと警戒しちゃうよね」

「そんなのがあったのか? ふうん……まあ、確かに怖いな。最近はテレビとかで、超能力なんていうのを馬鹿真面目に放送してるし、何があってもおかしくはないんだろうけど……ただまあ、実際、見たことの無い超能力なんてもの、いきなり信じろって言う方が無理あるよな」

「……どうせあれでしょ、一時的なブームみたいなやつ。そのうち誰もそんな話すらしなくなるわよ。お伽噺じゃないんだし、超能力とかある訳ないし」

「えっ、で、でもっ、あの神薙隆一郎さんが実際に持っていたって話が……!」

「馬鹿ねぇ、そういう話があった方が盛り上がるからに決まってるじゃない。マスメディアの創作とかよ」

 

 

 舘林の話を「捏造よ捏造」とまともに取り合わず適当にあしらって、鯉田は時計を見た。

 

 もうそろそろ日も暮れる。

 家に帰って勉強して、明日の準備をしなくてはいけない。

 友人達との談笑といった最低限の息抜きは必要だが、奴らの鼻を明かすためには一日だって無駄には出来ない事は分かっている。

 友人達がいくら言おうが、彼女はまだまだ諦めるつもりなんてないのだ。

 

 そんな事情から鯉田は友人達にそろそろ帰ろうと提案し、帰り支度を進める様に促す。

 そして会計前に手洗いを済ませようと、角園達に一言言って席を立った鯉田はふと自分達の後ろの席の男性に目が留まった。

 

 

(……? なんか……変な人)

 

 

 お洒落な喫茶店に似合わないどこかみすぼらしさのある男性。

 小奇麗なペット用のケースを足元に置いて、手元にあるキャラクターを模したぬいぐるみの清掃を、これ以上無いくらい真剣に脇目も振らずに行っているちぐはぐな人物。

 自分の見た目には欠片も意識を払っていないようなのに持ち物にはこれ以上無いくらい意識を割いているのかと、そんなことは思ったものの、鯉田はそれ以上疑問を抱かず、男性の横を素通りした。

 

 

「――――それで、舘林が言ってたその行方不明者って……」

「あ、えっと、私も詳しくは知らないんだけど、全員が外出中に何の切っ掛けも無しに行方不明になってるから、外出中は気を付けないとって山峰さんが言ってた気が……」

「外出中ね。別に不思議でもないんでも無い事だけど、まあお互い気を付けようぜ。何かあっても鯉田みたいな怖いもの知らずなら大声上げて暴れられそうだけど、私らみたいな小心者だとそうはいかないからな」

「……わ、私はともかく角園さんは鯉田さん側なんじゃ……?」

「はぁ? 私を粗暴者って言いたいのか? 言うようになったじゃねえか」

「ひぇ、ご、ごめんなさいっ……!」

 

 

 そんな友人達の話し声を背に、鯉田は手洗い所へと向かっていった。

 

 

 

 

 

 女性用の手洗い所で用を足し、手を洗い、鏡の前で髪型を整えていた鯉田はぼんやりと考え事をする。

 

 どうすればあの自分を意にも介さない二人組に勝てるのかを考えていた。

 今現在色んな努力をしているが、どれも奴らの鼻を明かすほどの成果を上げられていないのは事実。

 かと言って、どれかを一つを充実させたところで他で大敗を喫していたら意味など無いし、全てを充実させられる程、鯉田の家庭は裕福では無かった。

 

 これまで生まれながらの出自、平凡すぎる家庭に生まれた自分の事を卑下したのは一度や二度では無い。

 だが、そんな事はいくら問題視したところで変わるものでは無いのは充分理解している。

 実際これまでは努力だけで何とかなるだけの才能があったし、努力を積み重ねるだけの胆力もあった。

 家庭の状況で影響を受けるような、そんな環境にいる事が無かったのだ。

 

 産まれて初めて対峙した大きすぎる壁。

 ここ半年ほど様々な試行錯誤を繰り返してきたが、どれも失敗ばかり。

 心のどこかで諦めを覚えるほどの挫折を味わいつつも、それでも鯉田は今なお彼女達に勝つ方法を探り続けていた。

 

 

(……よし決めた。まずはアイツ、佐取の方に勝とう。アイツは確か運動が苦手だったから、何かしら運動のペアになって、私の運動神経を見せつけて勝つ。それで……私を尊敬したアイツに今日の、叩いちゃった事を謝って……それで、うん。あの忌々しい山峰に勝つための準備を進める。それで行こう)

 

 

 正直、今日の佐取というクラスメイトを叩いてしまったのはかなり鯉田の心に尾を引いていた。

 

 今まで好かれるようなことはやってこなかった訳だし、よりにもよって相手が鯉田の家庭事情という秘密を所々ちらつかせてくるあの性格悪い奴だから、今回の事では絶対に何かしら悪いように事を運ばれると思っていただけに、彼女の対応は想定外だった。

 だからこそ、鯉田の立場が悪くならないよう立ち振る舞ってくれた佐取には内心感謝しているし、今なんて「もしかしてアイツ本当は良い奴なんじゃ……」「接し方を変えれば仲良くなれるんじゃ……」と言う疑惑に駆られていた。

 

 もしも巨大な敵として立ちはだかっている奴を味方に付けることが出来たなら、忌々しい山峰の鼻を明かすための協力もしてくれるだろうし、勉強も教えてくれるかもしれない。

 今でも寝る前に思い出すあの耳元に吹きかけられた息と声を、今度は何かを教えながらしてくれるかもしれない――――なんて不埒な事を考えて、鯉田はハッと我に返る。

 

 

「ばっ……!! そういうんじゃないわ!! あくまで忌々しい山峰をぶっ飛ばすための準備であってっ……くそっ、本当に調子が崩れるっ……!」

 

 

 一人きりのお手洗い所でそんな風に騒いだ鯉田は、気を取り直してまた髪の調整に入る。

 そろそろ戻らないと二人に心配を掛けるかな、なんて思いながら、家で待っているだろう母親と仕事から帰ってくる父親の姿を思い浮かべた。

 

 さきほど話題に出た行方不明者達。

 鯉田は両親の事が嫌いではないが、行方不明者達の失踪したくなる気持ちも分かる。

 誰にも介入されない人生を、自分が好きなように過ごしてみたいと思うのはきっと現実の厳しさを知らない者の病みたいなものだろう。

 そんな衝動を行動に移しているのはとんでもないアホだと思うが……なんて、そんなことを思っていた鯉田が鏡越しに、トイレのドアノブが動くのに気が付いた。

 

 カチャリと、控えめな音と共に扉が開いていく。

 最初は自分を心配した友人である二人の内のどちらかかと思って、次に誰か別の女性客かと思って、直ぐにそのどちらでも無い事に気が付いた。

 

 男だ。

 先ほどのどこかちぐはぐな男性が、ペット用のケースを持って女性用のお手洗い所に入ってきている。

 弾かれた様に振り返った鯉田が目を見開いて、その光景が間違いない事をしっかりと自分の目で認識した。

 

 そして、気の強い鯉田だからこそ、相手の間違いを疑いもしないで大声で男性を糾弾しようと口を大きく開き―――――男と目が合った。

 

 淀んだ執着心を映す男性の目と視線が交わる。

 

 きっとそれがきっかけだった。

 

 

(な……に、こっれ?)

 

 

 ぐにゃり、と足元が歪んだ。

 立っていられなくなって、両手を床に突いて、声が喉から出てこない事に気が付いた。

 頭が歪む、視界が歪む、手足が捻じれ、感覚が狂った。

 

 おかしい、普通ではない。

 体調不良の類ではない。

 気持ち悪さはあるが、それは体調に起因するのではなくもっと根本的なもの、構成する何かが変わる事への強烈な不快感。

 

 徐々に自分の周りにあるものが巨大化していく事に気が付く余裕も無く、ただ床をのたうち回った。

 自分の手が、足が、口や目が、変貌していく異常な感覚が収まった頃、いつの間にか自分へ向けて伸びる巨大な男の手に気が付いた。

 

 

「――――やっぱり想像通り、こっちの方が可愛らしいよ」

 

(なにが……なにが起きてるのっ……? いやっっ、何が起きたのっ!!??)

 

 

 ひょいっ、と片手で軽々しく鯉田を持ち上げた巨大な男。

 まるで巨人のような大きさの男に鯉田は恐怖で碌な抵抗も出来ずにいれば、男がもう片方の手を鯉田の口元に近付ける。

 

 針だ。

 糸が付いた鋭利な針。

 男の片手に持たれているその針は、今の鯉田からすると顔程の大きさもある巨大な凶器だ。

 

 鋭利な針を口元に添えられ恐怖の悲鳴をあげかけた鯉田の口に、男は躊躇なく針を突き刺す。

 自分に襲い掛かる猟奇的な光景を想像し、恐怖と共に痛みを覚悟した鯉田だったが、そんな想いとは裏腹に、自分の口元に何度も突き刺される針の痛みは一向にやってこない。

 

 慣れた様子で何度か鯉田の口を縫った男は、満足げに、そして何処か悲し気に表情を歪めた。

 

 

「……本当はこんな手を加えたくないんだけど、騒がれちゃうと困るからさ。しばらくこうして口を縫わせておいてよ」

 

(なんで痛みが無いの……? 私の口は、針で縫われたんでしょう……!? それにどうしてコイツは私を片手で持ち上げて……あり得ない。そんなことできるなんて、今私はいったいどんな風に……!?)

 

「――――ああ、ごめんね。ちゃんと君にも見せないとね。ほら、鏡を見て。今の君、とっても可愛らしいよ」

 

 

 そう言って男は、鯉田の体を鏡に向けた。

 何が起きているか分からなかった鯉田の疑問は、鏡に映った自分の姿を見て氷解する。

 

 

 ――――自分が、『手のひらサイズのぬいぐるみ』となっている。

 

 

 驚愕で目を見開いた筈なのに、鏡の中のボタンで出来たぬいぐるみの目は、ちっとも動きやしなかった。

 

 

 

 

 ‐1‐

 

 

 

 

 繊維と綿とほんの少しの飾りでできた無機物の体。

 ボタンで出来た目でどのように周囲を視認しているのだろうか。

 自分の体である筈なのに、そんな事も分からない。

 

 筋肉も無いのに手足が動く原理が分からない。

 臓器も無いのか、胸の鼓動もありはしない。

 悲鳴を上げる事は出来たのかもしれないが、糸で縫われた口は少しも開かなくて、今は声を出す事すら出来ない。

 

 呼吸をしているつもりだが、本当に出来ているのか。

 それどころか、ぬいぐるみになってしまった自分の体が本当に生きているのかすら、今の彼女には分からなかった。

 

 

(これが……まさかこれがっ……テレビで言われてた超能力なのっ……!?)

 

 

 自分の姿を鏡で見て、ゾッとする。

 人間の存在、構成そのものを作り替えられた。

 到底あり得るものでは無い、到底科学的にはあり得ないだろう現象。

 超能力という、空想の現象が今自分の身に起きている事にようやく鯉田は思い当たった。

 

 

(なんでっ、どうすればっ……!? 私の体は何処に行ったの!? どうすれば私は元の姿に……私は……本当に私は元に戻れるの……?)

 

 

 状況を理解し、絶望が鯉田を圧し潰す。

 それでも、呼吸も乱れなければ心拍が早まることも無い、無機質な自分の体がこれは現実であると言う事をありありと示していた。

 

 

「じゃあ行こうか。お友達に別れの挨拶は出来ないけど大丈夫。新しいお友達が君を待ってるからね」

 

(ひっ……!?)

 

 

 ぬいぐるみの力はかなり非力なのだろう。

 必死に暴れる鯉田を軽く持ち上げ、ペット用のケースに彼女を閉じ込めた男は、本当に何でもないかのようにお手洗い所から出ていく。

 

 ペット用のケースの内側から見える世界は、何もかもが大きすぎた。

 机も椅子も、見上げるほど巨大な物が並んだ世界は、まるで童話にある不思議の国のアリスの世界のよう。

 さらに恐ろしいのは、自分にとってこんな異常事態であるにも関わらず、周りの人達は何一つだって代わり映えしない事だ。

 

 つい先ほどと同じように日常を過ごしている。

 いつも通りの日常だと、信じて疑っていない。

 誰も鯉田岬という少女の危機に気が付いていないのだ。

 

 そんな中で鯉田の戻りが遅いのを気にしているのか、しきりにお手洗い所の方に視線をやっている友人二人に気が付いた。

 

 

(助けてっ……! 助けてよ美穂、舘林! 気が付いてっ、私はここにいるの!! 私はここなのっ!!)

 

「……鯉田の奴遅いなぁ、また髪に時間を掛けてるのか?」

「鯉田さんお洒落だもんね……結んだ髪型も、髪質も相当さらさらしてるし、かなり気を遣ってるんだと思うよ?」

「ふーん、まあ、なんでも良いけどよ。人を待たせてる時くらい急げよな」

「そ、そうだね…………あれ?」

 

(どうして、どうして気が付かないの……? 私はここにいるのに……声も出せなくて……私は…………わたし……どうしたら……)

 

 

 会計が終わり、鯉田を閉じ込めたペット用ケースを持った男が店を出ていく。

 最後まで友人達に気が付かれることなく、必死に伸ばしていた繊維の手も誰にも気が付かれず、視界から消えていく友人達の姿に泣きそうになるが、この体では涙すら零れなかった。

 

 

「ん? どうした舘林」

「えっ、あ、ううん。大したことじゃないんだけど、さっき出て行った男の人のケース。最初何も入ってなかったと思ったんだけど、今見たら何か動くものがいた気がして……多分気のせいかな……」

 

 

 そんな彼女達の些細な疑問など、きっと時間と共に消えていく。

 最後に友人達のそんな会話を聞いた鯉田は、そんな事を心の内でどこか確信していた。

 

 

 ゆらゆらと揺れる。

 男の歩調に合わせて、鯉田が入れられたケースが揺れる。

 ペット用のケースの中は何もない。

 空虚でやけに広いケースの中では何の打開策も見つからない。

 外の光景は人ごみと雑音だらけで、助けを求めて暴れたところでを誰にも気が付かれないのは目に見えていた。

 

 

(このまま連れて行かれたら……私、どうなっちゃうんだろう……誰にも知られず、こんな力を使った誘拐なんてきっと誰にも分からない。きっと、誰も助けに来ないまま……わたしは、家にも帰れない……)

 

 

 ぐちゃぐちゃの感情。

 理解が追い付き、どうしようもない現象に体は震え、これからを考えて絶望する。

 しゃくり声を上げて泣こうにも、声も出なければ涙も出ない。

 

 そのことが一層、鯉田の恐怖心を掻き立てる。

 

 

(お母さんがオムライスを作ってくれてるのに……お父さんは早くに帰って来るのに……来週はお父さんの誕生日で……私……わた、し……)

 

 

 酷く息苦しい。

 鉄柵の中から見える世界はあまりにも冷たい。

 誰も自分に興味がなくて、誰も自分に気が付かない。

 きっと両親ですら今の自分を見ても、自分の娘だとは気が付かないだろう。

 

 ビル群に囲まれた交差点。

 信号を待つ人々が周囲にこれだけ存在し、これだけ色んな色が世界を満たしているのに。

 

 鯉田にとって、今の世界の色はこれまでのどんな時よりもモノクロに見えた。

 

 

(いやだよぅ……だれか気がついてよぉ……。わたしはここなの……ここにいるの……どうしてなの……? どうしてだれもわたしに気がついてくれないの……? わたしはにんげんなの、わたしは『こいだみさき』なの……ぬいぐるみなんかじゃないよ)

 

 

 そんな声にならない悲鳴を、彼女は上げた。

 

 

(たすけて……おねがい…………だれか、たすけて――――)

 

 

 ボロボロの心で泣いて、泣いて、泣き叫んだ時。

 ズドンッ、と大きな衝撃が鯉田の入ったケースを襲った。

 

 悲鳴に近い声が外から聞こえ、地面に落ちたらしいケースの扉が衝撃で開く。

 されるがまま、衝撃で外に放り出された鯉田がアスファルトの上に落ち、何が起きたのかと周囲を見渡せば、自分をぬいぐるみに変えた男と少女が尻もちを突いていて、周囲の人達がその姿を注目していた。

 

 衝突した、のだろうか?

 これ幸いと直ぐに逃げ出そうとした鯉田だったが、直ぐに男がケースから飛び出した彼女に気が付き、逃げようとした体を抑え付けた。

 

 逃げられない。

 だが、鯉田が再びケースに入れられる前に、同じく尻もちを突いていた少女が男のその手を上から掴み取る。

 

 

「ごめんなさい、それ私のぬいぐるみです」

「――――は?」

 

(……え?)

 

 

 少女の言葉に男も、鯉田も、理解できなくなる。

 何を言っているのだろうと目を瞬かせた男から、少女はぬいぐるみとなった鯉田を優しく奪い取ると、さも大切そうに抱きしめた。

 

 

「私の大切なぬいぐるみ。拾ってくださってありがとうございますお兄さん」

「なっ、何を言ってるんだっ!? そのぬいぐるみは俺のっ」

「ええ、このぬいぐるみは私のです。当たり前ですよね。だって、私が特注したぬいぐるみだから、こうして私の学校の制服を着ているんですもん」

「――――」

 

 

 男が唖然とする。

 少女の言っているデタラメは、周りから見れば異常なまでに真実味がある。

 ペット用のケースにぬいぐるみを入れた男と、ぬいぐるみの服装と同じ制服を着た女子であるなら、普通はどちらが真実と思うのか。

 

 そんな事、考えるまでも無かった。

 

 

「ごめんなさい、所有権を争うならこのまま警察に行きましょう。ぶつかっちゃったことは謝りますけど、これは私の大切なぬいぐるみなので譲れません」

「っっ……ふざけるなっ……! 俺のぬいぐるみだ! 俺の大切なぬいぐるみだ!! 返せよ俺のぬいぐるみぃぃ!!!」

「お、おい、君何をしてるんだ!?」

「何をそんなに争ってるんだ!? たかがぶつかっただけだろ!?」

「離せぇ! 離せぇぇっ!!!」

 

 

 発狂するように、大声を上げて少女に掴み掛ろうとする男を、周囲の大人達が慌てて掴み抑え込んだ。

 それでも暴れ続けようとする男に対し、ただ厄介ごとに巻き込まれた被害者かのように眉尻を下げた少女は周りに軽く頭を下げると、鯉田を抱えたまま歩き出す。

 

 まるでこの少女の真意が読めず、どういう状況なのかと混乱していた鯉田が自分を抱える少女の顔を見るためそっと顔を上げる。

 

 

「…………ギャル子さ……じゃない。鯉田さん、ですよね……?」

 

(こいつ……なんで……?)

 

 

 囁くように小さな声での問い掛けに、鯉田は驚愕に体を震わせる。

 

 誰にも気付かれることは無いと思っていたのに、まるで確信を持ったかのような口ぶり。

 救い出されることは無いと思っていたあの牢獄から、いともたやすく救い出した。

 誰も見ようともしなかった異常事態に、たった一人気が付いたこの人物。

 

 つい数時間前に鯉田が頬を叩いてしまった少女、佐取燐香が自分を抱きしめていた。

 

 

 

 

 


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