非科学的な犯罪事件を解決するために必要なものは何ですか?   作:色付きカルテ

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信じるべきもの

 

 

 

 

 東京の府中に位置する法務省管理の刑事施設、それが府中刑務所。

 多くの受刑者が収容されている府中刑務所から少し離れた場所に位置する特別棟には現在、急遽ではあるものの、一般受刑者とは別枠の『特異受刑者』と呼ばれる者達が収容されている。

 

 これは、数か月前に発生した“白き神”による『全世界同時多発大規模洗脳テロ』の標的となり、一時的に多数の受刑者の脱獄を許した教訓を踏まえたものでもある。

 刑務所として多数の受刑者に自由を許した事実は収容施設としては恥ずべき事実であるし、一件を踏まえたセキュリティーシステムの向上は施設を管理する者達にとっても急務であったからだ。

 だがこれは、いずれ予算が付いた時には大掛かりな工事の着手もあるだろうと言う程度の急務であり、ほんの数か月で使用できるほど設備を整えるなんていう急務では断じて無かったのだ。

 

 当然他に、それ相応の大きな理由が存在する。

 

 

「――――いつか会いに来てくれるとは思っていたよ。君も私に話したい事や聞きたい事が多くあるだろうからね。いずれ君は自分の気持ちに反してでも、私に会いに来るだろうとは思っていた。だが……予想が外れたのは認めざるを得ないね。君の訪問は私の想像を越えて随分早かった。歓迎するよ」

 

 

 それは――――ある一人の男の影響があまりに大きかったからだ。

 

 各国の要人が罪を犯したと知ってなお日本政府に対し保護を強く要望し、判明した異能があまりに神域に近い絶対的なものであり、今なお世界最高の呼び声が衰えない“医神”。

 

 神薙隆一郎の収容をするために、日本政府はあらゆる面での準備を進める必要があった。

 

 

「……御託は良い。前口上も聞きたくない。俺は今でもお前を憎んでいて、お前はあくまで仇だと言う事に変わりはない」

「ふ……一対一の会話だと随分辛辣だね。だが、君の言い分に間違いはない。甘んじてその言葉を受け止めよう」

 

 

 そして、透明な強化プラスチック板を挟んで向かい合っている男を見て、神薙隆一郎は柔らかな笑みを浮かべた。

 

 通常『特異受刑者』と呼ばれる者達、つまり異能を持つ受刑者は一般とは異なり、様々な制約が課されている。

 特に、面会についても、容易に面会相手の命を奪う事や面会相手が異能を有する場合脱獄が可能な事を考慮して、慎重な精査が行われる。

 そのため、『特異受刑者』への面会は実質的には難しいのだが、今回のこの相手は身柄や信頼が疑う余地も無く、また神薙隆一郎にとっても面会を望む相手でもあり、こうして面会を実現する事が出来たのだ。

 

 

「私の面会に来た者は、国際警察や政府高官以外では初めてだよ。さて……何が聞きたいのかな神楽坂君」

「……」

 

 

 警察官と医者。

 被害者と加害者。

 逮捕した者と逮捕された者。

 

 神楽坂上矢と神薙隆一郎が、他に人のいない面会室で向かい合っていた。

 

 

 

 

 ‐1‐

 

 

 

 

 逮捕から今日まで。

 異能が表に出て、国を挙げて対策や対応法案、過去の事象に対する再評価が進められ、神楽坂の立場も大きく変わる事となった、これまでに無いほど忙しい期間。

 そんな数か月、神楽坂はずっと考えていたことがあった。

 

 それは、神薙隆一郎の元にいた昏睡状態の恋人の治療が本当は可能ではないのかと言う事や出回っている異能開花薬品についての情報を持っているのではないかといった事、あるいは白崎天満を含めたUNNと言う組織との関連性。

 もしも想像しているそれらが最悪の方向へ繋がったのなら、解決の形を見せた現在が実のところ次なる悪意の序章であったのなら。

 そう考えて出してしまえば、神楽坂は忙殺される日々の中で正体の分からない重圧に延々と襲われ続ける事となったのだ。

 

 疑い出せばキリは無く、考え始めれば最悪は簡単に頭を埋め尽くした。

 

 目の前の仕事に明け暮れている筈なのに、気が付けばまた同じ疑心に囚われる毎日。

 だからこそ、その疑惑を解決する為にも、神楽坂はこうして過去に自身が巻き込まれた凶悪事件の主犯と呼べる神薙の元に足を運ぶことを選んだのだ。

 

 

「――――過去、私は医者として患者の治療を進めながら多くのコネクションを構築した。その過程で、悪事を為し欲望を満たし、ただ地位に鎮座し優秀な者達の芽を摘む無能を幾度となく目の当たりにした。最初こそ私の働きかけは言論によるもので暴力的な行為までは足を踏み入れていなかったが……異能を手にし、言論では通用しない者達が私に立ち塞がり、最初の一線を越えてしまった時から私の感覚は狂ったんだろう。私の判断による処分が、幾度となく行われることとなっていった」

 

「私の医者としての技術に加え、異能が開花した事によってさらに治療の精度は増し、私に治せない病や怪我がほとんど無くなった後、あらゆる権力者が私に接触してきた。だからこそ、私の異能と職業であればいくらでも私がいらないと判断した者達の始末は簡単であり、私は同じ過ちを積み重ね続けた。だが、積もり積もった私の過ちを見て、私が保護した和泉君や白崎君が異能を使用し悪事を為すようになってしまった。私は異能と言う凶器を見誤っていた。それからは君の知っての通りだ」

 

「……今更語るようなものもない。君の疑問の答えになったかは分からないが、私の歩みはこんなものだ。そして、君の言う『UNN』や異能開花薬品は、私の預かり知るところではない。私の行動範囲は基本的にこの国のみであり、世界を股に掛けて活動する……子供を攫って実験をするような者達と私の主張は相容れるものではないさ。私と彼らに出会いがあれば、あるのは争いだけだっただろう……勿論、この話を信じるかどうかは君の自由だ」

 

 

 長年本性を晒さなかった老獪な人物との面会。

 情報一つ引き出すのも一筋縄ではいかないだろうという神楽坂の予想を裏切って出て来たのは、そんな淀みない神薙の解答だった。

 

 

(……ここまで簡単に口を割るだと? 何かしらの思惑が……いや、虚偽を含ませて情報を混乱させようとしているのか? ……チッ、信用するな。この男は聖人と呼ばれる裏で何人も人を殺めていた奴だ。腹芸の一つや二つ……)

 

 

 そんな疑心を神薙に抱き、返答を受けた神楽坂は口を噤んだまま重苦しい沈黙を貫く。

 微妙な沈黙にも、神薙は感情の分からない柔和な笑みを浮かべて表情を崩さない。

 

 しばらくして、神楽坂が話に迷いを見せている事に気が付いた神薙は、部屋の四隅にあるカメラへと視線を流しつつ逆に話を切り出した。

 

 

「……君が本当に聞きたい事が何なのかは私には分からないが、私から一つはっきりと言っておきたいことがある。それは君の恋人についてだ」

 

 

 返答の無い神楽坂に神薙は続ける。

 

 

「私の元に入院していた君の恋人の症状は私の医療技術、あるいは異能を行使しても完治させられないものだった。私は断じて、あえて治療しないと言う事はしていない。アレは、肉体的な傷病の類で昏睡しているものでは無い……恐らく、白崎君の異能が彼女の精神の根本的な部分に何かしらの障害を残したと、私はそう考えている」

「……精神が、死んでいると言う事か?」

「私は精神に関しては門外漢だ。そこまでは言わないし、専門的な事は断定できないが、深刻な損傷、あるいは精神構成が崩壊していると考えるべきだろう。……それを行った白崎君本人に話を聞ければ、何か分かるかもしれないが……」

 

 

 少し想いを馳せるように視線を下げた神薙は、手のひらを合わせて指先を組み直す。

 

 

「君の恋人に手を掛けた時の詳細について知っている事はあくまで伝聞のみだが……彼女の意識を乗っ取り、君達の捜査情報を筒抜けにしながら兄である落合君を追い詰めた。私の知る限り、最も長い期間意識を乗っ取る異能行使をしたのがアレだろう。つまり、彼女の本心に反する行動を長期間に渡って強要したんだ。その結果彼女の精神がどのような悪影響を受けるのか、正確なものは分からないが現状を考えると……」

「もういい……黙ってくれ」

「…………白崎君の異能は他者を操ることに特化した精神干渉系の異能だ。精神と言う、言ってしまえば形に無いものを観測する術を私は持たない。だから、それがどのような原理で成り立っているのかの説明は難しい。だが、神経系や感覚、意識系統に至るまでを支配できるあの異能は人の知性の根本的な部分、宗教的には魂と呼ばれるものに触れているのだと解せる。そんなものがあるとは、医療に携わる者としては言いたくないがね」

「……」

「治療は、私には不可能だった。私には彼女を治すことが出来なかった。それだけは、真実として君に伝えたかったんだ」

 

 

 犯罪者としての神薙隆一郎ではなく、世界最高の医者“医神”としての断言。

 それは実質的に、現在の医療技術では昏睡状態の彼女の治療は不可能だと言う宣告と同義だ。

 

 疑っていた事のいくつもが解消されるのを実感するとともに、より八方塞りの現状を自覚した神楽坂は強く歯を噛み締めた。

 “医神”が匙を投げ、“白き神”こと白崎天満の行方が分からない今、昏睡状態の恋人を救う手立てが見当たらない。

 

 ただ一つ、精神干渉系の損傷という部分を除けば。

 

 神楽坂の頭を過ったのは一人の少女の姿だ。

 

 

(……佐取の、あの子の異能は確か、“精神干渉”だった筈。白崎天満と佐取の異能の質はどれほど違うのか分からないし、どちらが優先される異能かも、そもそも損傷を治す技術を確立できるのかも謎だ……以前、佐取が診てくれた時は、異能の残骸があるかどうかという話だけだったか……?)

 

「君が考えている事は分かる。君の協力者、“顔の無い巨人”の話だろう? 確かに、あれほどの出力を持つ精神干渉系統の異能持ちならば、質の違いがあっても強引に治療出来る可能性は高いと思う」

「……っ!?」

 

 

 あくまで第三者の監視下にあるこの場で何を言おうとしているのかと、咄嗟に身構えた神楽坂に対して、神薙は軽く片手を上げてそれを制する。

 口にした発言がどれほど重大なものか、ある意味神楽坂よりもずっと理解している筈の神薙は、ほんの少しも動揺することなくもう一度部屋の四隅に視線を向けた。

 

 

「安心しなさい。今この場にある監視装置は全て作動していない」

「……なんだと?」

「先ほどまで起動していた四隅のカメラが停止している。私を監視している存在が、この情報を外に出すことを認めていないと言う事だろう。だが……一方で、君に伝えることは許しているようだ。今のところ私に直接干渉してくる素振りはない。私達の会話をどうこうしようとする気は無いのだろう。そして、この部屋は完全な密室で外から我々の状況を確認できるのは監視装置を通した映像だけ。私達が何を話しているのか、私達以外に伝わることは無い。そうだね……少し内緒の話をしようか」

「お前は……何を言っている? 俺達を監視している存在? 監視装置の遮断だと? そんな事を出来る存在がこの場にいると……」

「……妙なことを言う。君の協力者の話だろう?」

 

 

 話が噛み合わない事にお互い少しだけ眉を顰めたが、神薙はそれ以上気にせず手の内を晒す。

 

 

「君の反応で私の推測が正しいと確信できたが、実のところ私はもはや、君と一緒にいた存在が何だったのかおぼろげにしか思い出すことが出来ないんだ。どんな姿をしていたのか思い出せないし、君の協力者が“顔の無い巨人”である事すら思い出すことが出来なかった。恐らく彼の異能による情報遮断の影響だろうが、記憶操作に関する異能でも無いのにまさかここまで何も思い出せなくなるなど思ってもいなかった。恐ろしい力だと、改めて実感させられたよ」

 

 

 神薙が言っている内容に理解が追い付かず、神楽坂は口を噤む。

 

 “顔の無い巨人”と言う名は前々からよく聞く名だ。

 飛鳥やICPOの職員が名前を出し警戒していた異能持ちであり、異能により10億近くの人間に影響を与えたと、そう話を聞いている。

 そして、その存在が自分の協力者である佐取燐香の別称であるとは神楽坂も分かっている。

 

 つい先日、彼女本人がしょぼくれた顔で「中学の頃は色々やって、多くの人に異能を使ってしまった」と、「名乗ったつもりは無いけれど“顔の無い巨人”と呼ばれる異能持ちの原型は自分だと思う」と告白した。

 神楽坂はあの告白が嘘だとは思わないし、以前飛鳥が言っていた、佐取が異常に異能の扱いが上手い理由もそれでおおよそ合点がいった。

 むしろ、これまで数々の犯罪者の異能持ちと対峙して圧倒する事が可能だったのも、その経験があったからだろうと腑に落ちる思いだったのだ。

 

 理解はした。納得もした。

 だがそれでも、どうしても、神楽坂の中で合致しない事があった。

 それは、話に出て来る“顔の無い巨人”と言う巨悪と、自分が知る佐取燐香と言う少女が同じ人物である、と言う点だ。

 

 これまで近くで人格面を見て来た神楽坂としては、佐取燐香という少女がどうしても、異能を悪用して大望を為そうという意思を持つとは想像も出来なかった。

 常に受け身であり、周囲が平和であれば特に問題を起こそうとする気配は微塵も無い。

 そういう人物だと、神楽坂は判断していた。

 

 その上、彼女の異能についても違和感がある。

 彼女の異能は直接色々と説明を受けているし、性能についてもかなり細かく教えてくれてはいるが、話の中に出てくるような、世界を覆う凶悪な異能とは全くの別物のように思えてならない。

 

 人格も異能も、話に出て来る存在とあまりに乖離がある。

 だからこそ、神楽坂は話に出て来る存在を信じるのではなく、これまで協力してきてくれた少女の姿を信じる事にしてきたのだが……もし神薙の記憶操作や情報遮断の話が真実なら、少なくとも彼女の異能には何か秘密が存在する事になる。

 

 そう神楽坂は確信するとともに、神薙が持てていなかった情報を自分が与えてしまった事実に、警戒するように神薙を睨んだ。

 

 

「とは言え、私と和泉君の異能を考えると同時に相手取れる存在など限られていたが……ふふ、神楽坂君もまだまだ青い。私のような老人を相手にする時は反応一つ慎重に行わないと、気が付かぬ間に首を絞められていく事になる。これから『UNN』やICPOの妖怪を相手にするなら、特に注意しないといけないよ」

 

 

 だが、弱みを握った筈の神薙は優し気な老人の表情を崩さない。

 まるで自身の孫を見るような柔和な笑みで、安心させるような口調で神楽坂に語り掛ける。

 

 

「あらかじめ言っておくが、私は“顔の無い巨人”の話を他の誰かにするつもりはない」

「……持っている情報が少なく、暴露した所で信頼されないと思っているからか?」

「いや、と言うよりも、あれだけの異能を腐った者達が知れば悪用しようとするのは目に見えているからね。私は“顔の無い巨人”の支配する世界を悪くないと思っているが、現状世界にのさばっている者の中には唾棄するべき者が多くいると確信している。国家、国際機関、あらゆる慈善団体や警察機関も、私は信頼しようとは思わない」

「…………お前は、何を知っている?」

「むしろ君は何を知らない? 国際機関による接触で少なからず君は過去の異能の事件について知る機会はあった筈。親交があり協力してくれている異能持ちの詳細を君は何も知らないのかい? 4ヶ月間の“夢幻世界”の話は? その期間何があったのかは? “顔の無い巨人”と呼ばれる異能持ちの詳細は?」

「……」

 

 

 黙り込んだ神楽坂が何一つ返答をしない事に、困ったように眉尻を下げた神薙は「まさか」と呟いた。

 

 

「君は、自分が何に頼っているのか。まるで分かっていないのかい?」

「……いや、ICPOの人達が過去の事件については軽く教えてくれた。世界を股にかけ、およそ10億の人に対して精神干渉を行った、と」

 

 

 そこまで言って、神楽坂は神薙の目が大きく見開かれたのに気が付いた。

 まるで信じられないものを聞いたように唖然とした表情を浮かべ神楽坂をまじまじと見つめる。

 

 そして、神薙は噴き出すように笑いだした。

 

 

「10億? ……くっ……ふ、ははっはっはっ! 嘘だろう!? 世界の異能対策組織のトップがまだそんなことを言っているのか!? そうして君は過去の世界的な異能の事件についてさえ何も知る術が無いまま私を捕まえるまでに至ったのか!? そうかそうか! なるほどそういう事だったのか! 綿密に積み重ねられた調査ではなく、あくまで偶然私と鉢合わせた形だったのか……! これは、何と言うべきか……“顔の無い巨人”の力を称賛するべきか、それとも君の巡り合わせの良さを称賛するべきか。いや、それにしても……あの婆も随分と耄碌したものだ」

「……お前一人で何を納得している。ふざけた事しか言わないのならもう充分だ。あいにく俺は、お前のような奴よりも、事件の解決に協力してくれている人を信頼する。お前の狂言は俺にとって何の価値もない」

「くくっ……いやすまない。君を馬鹿にしている訳じゃ無いんだ。私と和泉君がどれほどかの存在を恐れていたのか、それに反して他の組織が過去にすら理解の手が及んでいなかったのかと、その違いに笑ってしまったんだ。しかし……となると、『UNN』とやらの方が正しく警戒している訳か」

「……」

 

 

 もう最低限必要だった情報は得られた、と神楽坂は会話を一方的に放棄する。

 

 真実を語っているのかどうかは分からないが、これ以上は協力してくれているあの子に対してあまりに不義だと、席を立ち上がった神楽坂は何も言わないまま神薙に背を向けた。

 

 

「まあ待ちたまえ。そう結論を急ぐこともないだろう神楽坂君。異能を持つ子を間違った方向へ導いてしまった私の話は、きっと君の無駄にはならない筈だよ」

 

 

 そんな神薙の制止の声にも神楽坂は耳を貸さない。

 面会室のドアノブに手を掛けてそのまま出て行こうとした神楽坂だったが、神薙はその背中に目を細めると指先を軽く動かした。

 

 それだけで、ドアノブに掛けていた神楽坂の腕は一切動かなくなってしまう。

 

 

「!?」

「――――もう一つ君に言っておきたいことがあったんだ神楽坂君。それは、現状の科学では異能の行使を抑え込む技術は確立しておらず、受刑者の異能を封じる手立てがないと言う事。こんな強化プラスチック板など、異能の種類によってはなんの障害にもならない場合もあるんだよ。いささか、君は異能に対する危険性を正しく認識しているようには思えない。……とは言え、私には今更君を傷付けようなどと言う考えは微塵も無い。もう少しだけ私の話に付き合って欲しいだけさ」

「いったい何をした……?」

「腕の筋肉の動きを抑え込んでいるだけさ。指の自由も利かないだろうが、足は動くだろう?」

 

 

 神楽坂の刃物のような眼光を、まるでそよ風のように受け流しながら神薙は笑う。

 

 

「君は、黒い太陽は見たことあるかな?」

「何を……」

「私と和泉君を覆っていた異能を弾く外皮は、かの存在の世界規模の異能使用から唯一私達を守り通した。だからこそ、私達しか知り得ない情報が存在する。“夢幻世界”を正しく観測した私の話を聞きたくは無いかな?」

「……興味ない」

「本当かい? であれば逆に、かの存在がどれほど強大な異能を有しているか、世界を掌握したその凶悪な手法を、君の考えで良いから教えてはくれないかな? 彼が本格的に世界の掌握に動き出してからどれだけの時間でそれが為されたのか、そんな事も君は知らないのだろう?」

 

 

 神薙のこれは、別に悪意のあるものではなかった。

 あくまで異能の危険性を知る者として、神楽坂の歪な状態を指摘する必要があると思った神薙の、親切心に近い助言のようなもの。

 “顔の無い巨人”が掌握したとされる環境を正確に知っている身が行う忠告は、神楽坂の役に立つだろうと思ったのだ。

 

 ――――だが。

 

 

「危険だ神楽坂君。君がかの存在の協力をどのような経緯で取り付けたのかは分からないが、君は正しく、かの存在の危険性を理解し、今の自身の甘い考えを改める必要がある。でなければ、私などが引き起こした被害よりも、もっと取り返しのつかない大きな被害が君の過ちで生まれる可能性があるんだ。君はかの存在に対して、もっと知識を深め、疑う必要がある。君の協力者は君を助けるだけの単なる善人などではない。正真正銘、世界を一変させる怪物で――――」

 

「――――ふざけるなっ!」

 

 

 神楽坂が吠えた。

 

 その声に含まれる激情は、純粋な怒りだ。

 興奮したように捲し立てていた神薙が思わず口を閉ざすほどその声量は大きく、神楽坂の鋭い視線は少しだって揺らぎはない。

 

 動かない腕を放置したまま、神薙と自分を隔てる強化プラスチック板に大股で近付いて強く蹴り付けると、神楽坂は目を見開き固まっている神薙に怒りを叩き付けた。

 

 

「お前らがっ、お前らのような奴らがっ、異能を使用して不幸を撒き散らしている中っ! どん底にいた俺に手を差し伸べてくれたのがあの子なんだ!! 誰もが俺をありもしない妄想を騙る狂人だと蔑む中で、あの子だけが自分の身を省みず才能を振るってくれたんだ!」

 

「それを凶悪な異能だと!? 危険な人間だと!? あの子は罪も無い誰かを好んで傷付けた事は一度だってないっ!! 本当は危険な事になんか近付きたくない怖がりなあの子が、俺を助けるために何度身を呈したと思っている!? お前らのような奴が誰かを傷付けなければ、俺があの子を巻き込まなければっ、あの子はもっと平穏な生活を送れている筈なんだ!!」

 

「あの子は優しい子だっ……! お前のような、異能を誰かを傷付ける為だけにしか使えない奴なんかとは違う……! 」

「――――…………」

 

 

 呆然と、神薙は目の前の男を見上げる。

 肩で息をして、鬼気迫る形相で激昂して、鋭い目付きで自分を睨む一人の男の言葉を、神薙は噛み締め、ゆっくりと視線を下げた。

 

 神楽坂の経験してきた事は神薙には分からない。

 彼の不幸が始まったあの事件から、どれほど苦しかったのか、どれほど打ちのめされたのか、どれほど後悔したのか。

 誰にも理解されず、誰にも信じてもらえず、頼る者の居ない暗闇の中で彷徨い歩く日々。

 

 そうして差し伸べられた手が、どれほど彼にとって救いだったのか。

 

 加害者側に立つ神薙が、それらをどうこう言う資格などありはしない。

 きっと、神薙が思うよりも彼らが積み重ねたものは確かなものなのだろう。

 

 “顔の無い巨人”と言う一側面だけしか見ていなかった自分は本当に、この男の言葉を否定できるのだろうか。

 

 そんなことを思った。

 

 

「……いや……すまない」

「……」

 

 

 思わず口に出た本心の謝罪。

 “顔の無い巨人”と呼ばれる存在がどのようにして世界を掌握して、どんな経緯でそれを放棄するに至ったのかを神薙は知らない。

 だが確かに、世界中の誰もが犯罪を起こさない、自分が見たあの世界も、不必要に誰かを傷付けるようなものでは無かった。

 

 優しいあの子、という神楽坂の言葉で、思い出すように神薙の頭に過ったのはあの廃倉庫で見た泣き顔の少女。

 今まで忘れさせられていたその姿を思い出して、神薙は「そうだった」と呟いた。

 

 想像していたよりもずっと人間らしく、異能を誰かを救うために使う事を是とする“顔の無い巨人”の少女。

 神楽坂という、異能に人生を踏み荒らされた男の為に涙を流していた少女。

 

 そんな彼女を危険だなんて、罪も無い者達さえ傷付けた自分は言う資格なんて無いだろう。

 

 

「……抱えていた疑問は解消できた、助かった」

 

 

 そして、そんな自問自答をしている内に、今度こそ神楽坂は面会室から出て行ってしまう。

 

 きっと、もう二度と、この場に現れることが無いだろう男の背中を見送って、神薙は何も言わないまま溜息を吐いた。

 すっかり疲れてしまったように、椅子にもたれ掛かるようにして脱力した神薙はぼんやりと虚空を眺める。

 

 神楽坂とあの少女、二人の姿を思い浮かべて神薙は目を閉じる。

 

 

「……私のようにはなるなよ、神楽坂君」

 

 

 神薙はただ、そんなことをポツリと呟いた。

 

 

 

 

 

 


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