手を伸ばしても、掴んでも、解けて消えていくものがあると知ったのはつい最近のことだ。
掴みそこねたその右手に、いったい何が宿っていたんだろうか。
絶望、無力、失望。私には分かりかねる内容で、私の知らない、エンリさん。
あの夏祭りフェスの出来事から数日が経過した。
どこを探してもエンリさんの影も形もなくて、ただただ無意味な時間だけが過ぎ去っていた。
あの日以降、ちょこちょことエンリさんの出没情報は出ていたけれど、目の前にあるウィンドウのフレンド情報には、無情にも『オフライン』と表示されている。きっと、ログイン情報を隠しているんだろう。
……そんなに、探してほしくないんですか? 私たち、これでもエンリさんのことが心配で。
「エンリさん、フォースを抜けてしまうのでしょうか」
「そんなわけありません!」
フォースネスト『ロイヤルワグリア』に大きな怒号が鳴り響く。
しまった。そう考えて、立ち上がったその心と体をソファーに座らせた。
怖い。今はエンリさんがいなくなってしまうことが怖い。
怖い。彼女のことを知らないことが怖い。
怖い。彼女のことを知らぬ間に傷つけてしまっていたとしたら、怖い。
「まぁ、エンリちゃんの邪魔をしない、がフォース加入の条件だったもんね」
「それは、そうですけど……」
事情は話した。
ナツキさんという人にエンリさんは何かしら因縁を持っていること。
そしてその因縁の相手に完膚なきまでに敗北したこと。
今思えば、あの時のエンリさんは少し状況がおかしかった覚えがある。エンリさんは相手のことを着実に追い詰めていき、最終的に叩き潰す戦術を得意としているはずだ。実際一番最初のゼダスM5機相手だって、相手の混乱を利用した対処をしていた。
だから、ナツキさんと戦ったときのような『らしくない』戦い方。言ってしまえば、子供のワガママのような戦い方は普段は見せない。
それほどの相手だったんでしょうか。自分がどうにかなってしまうほどの相手。人が人に対して考えうる最悪の殺意。
それが、本当のエンリさんだったんでしょうか。
しばらく考えて、違うと感じる。
だってエンリさん、ナツキさんが話しかける前はすっごく優しい顔してて、またエンリさんの知らない一面が見れたって思って嬉しくなったのに。
かっこいいも、怖いも、綺麗もかわいいも。その全てがエンリさんの魅力だって、本当のエンリさんだって、私が一番最初に受け入れるつもりだったのに。
受け入れられれば、あの時何か声をかけてあげられたはずなのに。分からない。分からないですよ……。
「ユーカリさん、フォース戦のお話、結構受けているのでしょう? どうしますか。全部取り消しますの?」
「……すみません、後でお断りのメールを出します」
ノイヤーさんとフレンさんがお互いに顔を見合わせて、私の心配をしてくれた。
分かってる。2人は私ほどエンリさんに固執してなければ、エンリさんじゃなくちゃいけないって考えてない。
でも心の中が、どうしてフォースの仲間をそんな簡単に捨てられるのって。この薄情者って、ざわついている。
分かってるけど飲み込めない。どうすればいいか、分からない。
後悔と恐怖を大釜に入れてぐるぐるとかき混ぜるだけ。かき混ぜても生まれるものは特にない。不快感だけが、胃の中で煮えたぎっている。
「やっぱアタシ、エンリちゃん探してくる!」
「わたくしは、あまり推奨いたしません」
「なんで?! ノイヤーちゃんがエンリちゃんのことを目の敵にしてるってことは分かるけど!」
「人には、そっとしておいてほしい時ぐらいあるんですのよ」
それは経験則。あるいは、同情か。
フレンさんの言葉を遮るように、ノイヤーさんは半ば諦めにも似た感情を浮上させる。
フレンさんの言葉は嬉しい。ちゃんと言いたいことを言いたいって気持ちだろう。でなければ、他人のエンリさんなんてほっとくべきなんだから。
ノイヤーさんの言葉だって一理ある。放っておいてほしい時は確かにあった。その方が自分と向き合えるから。
じゃあ私は。私は、エンリさんに何がしたいんだろう。
「それでもだよ! 何も言わずに数日って、そんなの!」
「あんまりだとは思いますわ! ですが、人の心にズケズケと踏み込むのがベストだとは思いません!」
「それでも!!」
「もう止めてください……」
聞きたくなかった。ノイヤーさんもフレンさんも、もう喧嘩腰だった。
何もしてないのに、何もしなかったからフォースが空中分解していくなんて、私はもう耐えられなくなってしまう。その原因が紛れもなくエンリさんだから。
「……ごめんなさい、落ちます」
私はログアウトボタンを押して、そのままGBNから姿を消した。
申し訳なさそうなノイヤーさんとフレンさんの顔を目に入れながら。
◇
「はぁ……」
エンリさん譲りの深いため息を1つ。
GBNの使用を終わったことを報告すべく、マツムラさんに声をかける。
「どうしたんだい、そんな疲れた顔をして」
「ぁ……。いえ、なんでもないですよ!」
そんな偽りの愛想笑いをして。
どうすればいいんだろうか。もし今エンリさんと出会って、対面して、私は何が言えるだろう。
答えが一切分からない。あのエンリさんの悲痛な叫びは並々ならぬ憎しみがこもっていた。膝をついた彼女は失意を象徴していた。なのに私は何一つ言えることがなかった。たった一言も、一音も。彼女の為を思っているのに、何一つ声をかけることができなかった。
重い足で、ガンダムベースの出入り口を目指す。
きっと明日もエンリさんはいない。フォースにいなくて、どこかで何かと戦っているだけ。戻ってくることなんて、もう……。
ドサッ。うつむいていた顔が不意に誰かと当たる衝撃が走る。
無気力なまま顔を上げれば、そこには黒い髪の長いツインテールが素敵な、リアルの彼女と目が合う。
「エンリ、さん?」
「ッ!」
エンリさんの顔が一瞬こわばるのと同時に、すぐさま出入り口から外に出ようとする。
待って。ここで逃したら、ここで手放したら、私はエンリさんを見失う。見失ったら最後、もう会えない気がするんだ。
だから待って。待ってよ……。待ってください。
雨が降る真夏の夜。
普段運動しない身体にムチを打ってエンリさんの後を追う。
幸いにも向こうも足が速くないのか、付きず離れずの速さだった。
行かせたくない。
「待ってください!」
必死だった。
「待ってよ!!」
泣きそうだった。
「待ってッ!!」
すぐそこまで接近した私は勢いよくエンリさんの腰へとダイブする。
抱きしめるようにしてエンリさんを離さないようにした私は雨が降りしきる中、次に言おうとした言葉を考えた。
けれど、何もなかった。離れないで、待って。消えないで。そんな言葉だけが湯水のように湧いて、蒸発していく。
「離して」
「嫌です!」
「わたしは負けたの。だから自分を鍛えなきゃいけない。こんなところで、くじけたままにしておきたくないのよ!」
どこまでも自分に厳しくて、どこまで行っても過去のことを見えている。それだけはさすがの私にも理解することができた。
「だったら、私たちと一緒に!」
「ッ! 甘えさせないで! わたしは強くならなきゃいけないの! あんたたちに迷惑をかける気はないの!!」
「迷惑なんて……」
固定していた腰回りからするりと手の力が抜けていく。
どうして、そんな事言うんですか。迷惑だなんて思ってない。むしろ頼ってほしい。私たちはフォースの仲間だったんじゃないんですか?
「エンリさん、私は……」
「……フォースは抜ける。もう、関わらないで」
空気が凍った。凍てついた雨ではない。少し生ぬるい、気持ち悪い雨だ。
でもその言葉だけで、私の心を凍りつかせるには十分だった。
それは、明確な拒絶の言葉。憧れの人からの拒否は、手が届かない永遠のようで。
「なんで、そんなこと……」
膝をつく。濡れた地面なんてお構いなしに腰をつける。
見上げるのは絶望で濡れたエンリさんと、曇天の空。
まるで、なんてものではない。でも私とエンリさんの心を表しているみたいで。
「……ごめん」
エンリさんは、そのツインテールを空気に乗せて走り始める。
行っちゃう。行かないで。行かないでください。
手を伸ばしても、声を上げても、彼女が振り返ることはない。
もう、涙と雨の境なんて分からない。泣き止むことのない雫たちは、どうすればいいか分からない私を容赦なく凍えさせていった。
◇
「嫌な予感はしていましたが、何が起きましたのユカリさん」
しとしとと降る絶望に傘を差してくれたのは、帰宅方向が反対のムスビさんだった。
どうして。いや、それを聞くのは野暮か。最後に去ろうとしたときの私は、結構参ってたから仕方ない。
「……なんでも、ありません」
なんでもなくない。だって、あのエンリさんがフォースを抜けるって、そう確かに言ったんだから。
憧れの人からの拒絶の言葉なんて、普通聞きたくないじゃないですか。私の、この感情まで否定された気がして。
「行きますわよ」
「どこに……」
「ユカリさんの家ですわ。そんなびしょ濡れじゃ風邪を引きますわ」
うん、それもそうですね。
どうでもいいことなのに、同意してしまった。
私のことなんてどうでもいい。エンリさんは今どうしているだろうか。あの人も傘を持ってなかったから風邪を引いてしまうかもしれない。嫌だな、それ。私のせいで、エンリさんにまで迷惑をかけてしまうなんて。
家に帰って、家族はみんなびっくりしていた。
それもそうか。愛娘がびしょ濡れで帰ってきてるんだもん。
すぐさまシャワーに入れられて、そのまま空虚な時間だけが過ぎてった。
考えたくないけど、冷えた身体で何かを考えても良い結果は得られない。十分に温まった身体でも、あんまりいいアイディアは思い浮かばなかったけど。
「本当に、何がありましたの?」
ムスビさんが極めて優しい声で、当然の疑問を口にした。
私は、先ほどエンリさんに出会ったこと。そして、フォースを抜けると宣言されたことを告げた。ムスビさん、怒ってるかな。好き勝手してるもんね、私とエンリさん。
「……事情はなんとなく分かりましたが、そうですか」
「私、どうすればいいか分からないんです」
ようやく固まった2つの感情はまったく真逆のステータスを持っていた。
1つはエンリさんを止めたいってこと。復讐なんか止めて一緒にいてほしいって、そう言いたい都合のいい感情。
もう1つはエンリさんの邪魔はしたくない。因縁にしっかり決着を着けてほしいっていうワガママな気持ち。
相反する感情論が私の中をぐちゃぐちゃにかき乱していて。
正直、どうすればいいか分からなかった。
あれだけの拒絶をされたんだから、エンリさんだって私たちといることを望んでないかもしれない。だけど、私は一緒にいてほしい。本当に、私はどうすればいいんでしょうか。
「ユカリさんは、どうしたいんですか?」
「私じゃなくて、エンリさんが……」
「少し冷静になってください。あなたらしくありませんわ」
「私は……」
私がどうしたいかじゃなくて、エンリさんの復讐を果たさせたい。
だけど、それは私たちのフォースにいるとできなくて。
「ではなくて。ユカリさんは本当に望んでいることはなんですか?」
「私は。わた、し。は…………」
エンリさんと一緒にいたい。
だけど、エンリさんの邪魔はしたくない。
反発しあう2つの感情はどうにかして片方斬り捨てなきゃいけない。
でも! 私にはできない。私の、本当の想いなんて……。
ムスビさんはその言葉を口にして後、私の家から立ち去っていく。
私の中にはまだシコリがあって、それがますます大きくなっていくのを感じた。
分からない。分からないですよ、自分が望んでることも、エンリさんのことも。
阻止と続行の間で