8月中旬。合宿を途中で抜けることになったぼくらは、およそ15時間ほどをかけてパリ、シャルル・ド・ゴール空港に到着することになった。
久しぶりの海外渡航だ。とはいえ、ぼくは日本に来る時にまずパスポートを取って手続きをして……というところまで済ませた経験があるので多少の手間も問題じゃない。
ぐっ、と伸びをしながら入国審査の順番を待つ。流石に長時間のフライトは堪えた。トレーナーさんは慣れてるからかほとんどダメージが有るように見えないけど、一方で桐生院トレーナーやミークは疲労の色が濃い。
「Why are you here?」*1
「Business」*2
「Business」
「ちょっと待ちなさいストライプ」
「さいとしーいんぐ」*3
「ちょっと待ってくださいミーク」
サムズアップしながら告げた渡航目的は即座にトレーナー二名に抑えられた。
いや実は間違ってないんだよ。観光には行く予定だし、ぼくに関しては仕事の販路拡大や外国の市場調査も含むし。トレーナーさんたちは社会人だから総合的に見てビジネスで間違ってないだろうけど。
で、実際のところは――。
「Race」*4
ウマ娘かつトレセン学園の制服を着用しているので、これで通じる。
・・・≠・・・
レースの本場、欧州フランス――パリ。レースそのものの起源は古代ギリシャまで遡ると言うが、近代レースの原型が構築されたのは16世紀イギリス。そこから17~18世紀にかけて欧州各国に伝わることとなった。
フランスで最古のレース場はシャンティイレース場。世界トップクラスのレースと呼ばれる凱旋門賞だが、フランスオークスやフランスダービーと比較すると実のところ100年近く歴史が浅い。それでも日本のレースと比べると数十年以上の歴史を積み重ねている。
ともかく、パリにやってきた時に感じたのは、言わば歴史の重みとも呼ぶべき何かだ。街を行く現地住民……らしき人も、そうした重みの中を生きているという自信や自負のようなものを感じる。
とはいえ、だ。
「皆さん、気をつけてくださいね。パリは観光都市ですが、治安は日本と比べると悪い方ですので」
「そうなんですね……」
トレーナーさんの言う通り、フランスの治安はそこそこ悪い。
世界の治安ランキングを見ると50位未満*5と、備えもせずに歩けば、スリや置き引きに遭ったり詐欺に遭ったりということが考えられる。
元チーフに同行して海外渡航経験の多いトレーナーさんはこの辺をよく理解しているのだろう。華やかな印象に反して語られる剣呑な話に、桐生院トレーナーは気を引き締めたようだった。
「まあぼかぁ更に治安悪いケニアの出身なんですけどね!」
「あなたはそうかもしれませんが」
ちなみにケニアの治安ランキングは全世界で100位未満である。
スリや万引きひったくりは日常茶飯事。頻度はそう多くないが強盗や銃撃も起きるし、観光客と見たらまず間違いなくボられる。ぼくが住んでたのは農村部だったのでそこまで剣呑なことにはなってなかったが、それでも市街地の方はかなりダメ寄りのダメな治安だった。
なので……まあ、多少は治安の悪い場所での歩き方は理解しているつもりだ。
「トレーナーさんお財布持ってます?」
「は? ……持っていないと何もできませんが……?」
「あ、いえ、そうじゃなくって、強盗に差し出す用の」
「想定外のところからガツンとカルチャーギャップで殴りつけてくるのはやめませんかストライプ」
物騒な地域では、昼間でも強盗が現れることがある。たとえウマ娘でも武器を持たれると非常に危険だ。銃、ナイフ……ちょっと対処を間違えたら大怪我は免れない。普通にしてれば逃げること自体は難しくないが、相手が必ず人間の男性とは限らない。ウマ娘が相手だと逃げようにも逃げられないというケースがあるし、袋小路に入ったらそれこそ逃げるのは難しい。
なので、そういう時の備えが強盗に渡す用のお財布だ。
心理として、犯罪を行ったというならそのひとはすぐに逃げ出したいはずだ。周りに別の誰かがいて、見咎められれば反撃を受けることもあるし、警察を呼ばれればもっとまずい。なので「とりあえず」の成果を渡せば、その後のリスクを考慮して大抵はそれで去っていく。この「財布」というのはそうやって危機を脱するための手段だ。
もちろん使わないに越したことはないんだけど。
「一番の対策は『危険そうな場所に近寄らない』ことですよ」
「おっしゃる通りです」
――そして一番の危険への対策とは、つまり「危険に近寄らないこと」だ。
治安の悪い国、地域、区画へ近寄らない。それだけで相当危険は減る。
……まあ、ウマ娘三名にそれに比肩するんじゃないかという運動能力の人が一名いれば多少強盗を相手にしても制圧できそうだけど。
はてさて、フランスにやって来はしたが、ぼくらはフランスの所属じゃないためフランストレセン学園の設備は基本使えない。そのため、ジャパンカップへの来日ウマ娘のように*6レース場を借りたりトレーニング場を借りたりしてはじめて調整ができるようになるわけだ。
その辺うちのトレーナーは、元チーフから受け継いだノウハウがあるため抜かり無い。到着当日は時差ボケや長時間の渡航による体力の消耗の回復のために、宿泊先で休むことに集中することになったが、翌日からは即トレーニングが開始できる態勢が整うことになった。
やってきたのはサンクルーレース場。8月はレースの開催が無いため、ぼくら以外に練習に使っているらしいウマ娘の姿も見ることができた。
「老舗チームのトレーニング、拝見させていただきますね!」
「葵が思うほど特別なことはしませんが……」
トレーナーさん桐生院トレーナーのこと下の名前で呼んでるんだ。まあ年齢的に近い同性だからそうか。
さて、トレーニング理論に関してだが、うちのチームも親娘二代で長い歴史があるが、代々トレーナーを輩出してきたという桐生院家も大概だ。長年の経験で蓄積したノウハウはトレーナー白書という形で長年受け継がれており、それも毎年更新されている。
ミークの存在は、そんなトレーナー白書に大きな影響を与えているはずだ。距離万能、バ場不問なんていう、どう導くかが問われるウマ娘の極致のような子なのだから、ノウハウの蓄積がエグいことになっていそうな気がする。こういうことをやってみてほしいと言われたら大抵できるし、基本的に素直だからトレーニングの指示にもちゃんと従う。基準値としてはもってこいの能力と言っていい。
一方ぼくは外れ値の極みみたいな存在なので果たしてトレーニングのノウハウの役に立っているかは疑問だ。
それでも、元々ベテルギウスは最新のデータを常に調査し導入し続けている、データ主義や効率主義を突き詰めたようなチームだ。このやり方を学ぶのは少なからず刺激になるだろう。トレーナーさんも、桐生院トレーナーのやり方というか桐生院家のノウハウからなにか学び取れるものは必ずあるはずだ。
「ミーク、芝はどう?」
「まあまあ」
さて、一方のぼくたちは軽く併せをしてまずフランスの芝の具合をよく確かめることにした。
ぼくはとくに引っかかりがなく、対応できたが、ミークの回答は「まあまあ」。しかしこれ、違和感があるとかそういう話ですらなく、だいたいどのバ場でも同じように言ってることである。つまり他のバ場と同じように走れるという宣言だ。
万能具合が凄まじい。ぼくの言えるこっちゃないが。
入念にストレッチをこなし、洋芝を走る方向に頭を切り替えてコースを眺める。うーん、原っぱ。芝って印象よりも草が生え放題の草原という感が強い。
これはケニアにいるときに走っていた地形とよく似ているということだ。
靴放り出して走りたいな。ダメだけど。
「見たところ、やはりストライプは問題ないようですね」
「そですね」
腕立て、折りたたみ体操、ジャンプ、側転、バク宙。うん、いけるいける。
その場で披露した一連の動きにトレーナーさんは渋い顔をしていたが、ミークと桐生院トレーナーは素直に拍手で返してきた。
「無茶な動きをしたらまた怪我をしますよ?」
「大丈夫ですよっと」
その場でひょいこらひょいこら、心が概ね満足するまでバク転をして着地。パドックでのパフォーマンスとしては危険極まりないから絶対やらないけど、ここは草地だし大して問題はないだろう。成功したし。
それにこれはぼく個人というより魂の奥の方からサンコンさんが騒いでるのが悪いと思う。*7
「あなた日本でそんなことほとんどしてなかったじゃないですか」
「なんでなんでしょうね。ぼくも何でこんなことし始めたか分からんのですよ」
「そんな馬鹿げたことが――あー……無いとは言いませんが」
「無いと言わないでいいんですか!?」
「経験上……はい……」
うちのチーム、突飛なことをしだすひとが結構いるので*8何しても大概「そういうこともあるか」で済ませてしまう土壌ができてる。
何がアレってタキオン先輩が日常的に出入りしている以上何が起きても不思議じゃないんですよマジで。
まあ桐生院トレーナーには分からないか、この
「……ともかく絶好調なようで何よりです。フォワ賞はステップレースとはいえ、軽視していいレースというわけではありませんので、分かっているとは思いますがそのつもりでお願いします」
「はっはっは。イカダにでも乗ったつもりで見ててくださいよ」
「それは不安視しろという意味ですか?」
「だって海外レース初めてで情報戦も心理戦も何もあったもんじゃないですし……」
強みがひとつ完全に消されてるもんだから、安心して見ていてくれとは口が裂けても言えなかった。
……まあ、もしかしたらなんやかんやでこのイカダが魔改造されてないとは限らないわけだけど。今回は出たとこ勝負で行ってみよう。