このプレッシャーを感じて理解できないのなら、説明しても仕方がない。
このプレッシャーを感じて理解できたのなら、説明の必要は無い。
スタート直後の領域突入というのは、それだけ特異な状況ということだ。
何よりも、前例が無い。なんだかんだ言っても
ぼくが去年の有馬以降全レースでそういう相手にぶち当たってるのは置いておく。
まずトップ層のウマ娘はよっぽどのことがなければG2やG3に出る必要はない。必然的にG1に集まりやすくはあるけど、じゃあ路線が被るかってのは別問題だし、同じレースに出るとも限らない。ライバル関係に固執しないのなら、同じレースに出ることは避けて勝てるところを選ぶのも十分アリだ。距離適性被りまくりでやろうにもできないという例は、残念ながらあるが。
関係ねえ戦いてえ、競い合って勝ちてえ、世界最強の座を手に入れてえ――とまで考えるのは少数派だ。海外ならなおのこと、G1の数自体が日本よりも多かったり、島国の日本と違って気軽に隣国のG1に挑みに行くことだってできる。
それでももちろん強豪と当たることはあるから、対
――では、定石外れを通り越して暴走とも蛮行と言える、レース開始直後の
それが4000mをコースレコードで走りきった生粋のステイヤーだったとしたら?
「アッハッハッハッハ! なるほど、こういう意味の『面白い』か!」
「できるならやる方が効率が良いのは確かですけどね……」
「
「任意で超集中状態に入れるほど微細に精神状態をコントロールなんてできないし、できたとしても体力の消耗で継続できるわけがない、ですからね」
別にぼくも完全に任意で超集中状態に入れるわけじゃない。
ただ、強い相手がいる! 楽しい! と思えば割とイケる。長めに返しをしたのはそのためだ。ランフィニたちが乗ってきたのは想定外だけど、精神状態を最高潮に持っていくという意味ではある意味功を奏したと言えるだろう。
いずれにせよ、発せられたプレッシャーは他の走者を一気に混乱に陥らせるには十分な威力を秘めていた。
いち早く我に返ったのは、デイブレイクをはじめとする前年から活躍を見せているG1覇者だ。場数と、何より大きく強いプライドの分この程度のことに揺らされるわけにいかないと見える。
(タマ先輩に多少
カドラン賞のぼくのレースを確認したひとは恐らく相当数いることだろう。良くも悪くも色々と語り草のレースだ。当然、ハナを切らせるとまずいと考えるひともそれだけいる。
だから、ここからの展開は……やはり、先頭に出たひとが一気に最内に寄って牽制しに来た。
「そうなりますよねぇ」
「彼女らからするとやらない理由は無いだろうね。で、強引に出てスズカ君めいた大逃げでもするかい?」
「それは流石に無理でしょう。ですが、ストライプを意識して行動してしまった時点でもう……ねぇ?」
「それはそうだ」
前に出るか、後ろに回るか。少なくとも引くのは無いだろう。ぼくの脚では恐らく届かなくなる。となると前に出る方が重要だが――こちらもこちらであまり得策とは言い難い。どうしたって軽微なロスが発生する。2000mの環境でそれはまずい。
もっとも、やることはもうとっくにぼくの中では決まってる。前に出てくれたのなら、それこそ狙い通りだ。
「っ……」
「!?」
ここがぼくの小さい体の活かし所。領域に入ったことで向上した情報処理能力によって、包まれて逃げ場を失う前に隙間を見出して
いざというタイミングで前が壁になって抜け出せない、みたいなことになるわけにはいかない。
今この場で先頭を奪うことができないなら、選択肢はもうひとつ。先団に合流することだ。
「くっ……!」
先頭に立たされたウマ娘の喉から苦しげな息が漏れる。他に逃げウマ娘がいない時、先行脚質のウマ娘が前に出ることになってしまうケースは少なくないが、海外の場合はラビットの件もあるためもう少し状況は複雑化する。すなわち、駆け引きとしてラビットを出すか出さないかという点だ。
欧州では差しが主流だが、中には先行策に近い走り方をする者もいる。鋭い末脚が無いなら、好位抜け出しが最適解に近いためだ。
そういうウマ娘の場合ラビットが半ば必須なのだが、必ずしも毎回それができるわけじゃない。なにせアスコットで催されるチャンピオンステークス*1は、毎年ほとんどのケースで出走枠が10名前後の狭き門だからだ。
そこにわけわからん海外のシマシマが飛び込んで出走枠が潰されているので、ラビットを出す枠は更に絞られる。
結果、やりたくもないのに自分が逃げを打たなければならない……というような八方塞がりの状況が出来上がるわけだ。
(海外は逃げのノウハウに乏しい……というか、この場合日本が先進的すぎるだけか。ともかく、急に逃げにシフトしたってまともな走りなんてそうそうできはしない)
だが、それでも諦めないからこそ一流は一流たりうるのだ。似た事態に遭遇したこともあるだろうし、逃げが実際に勝ったという事例も目にしたことはあるだろう。
だから必死になる。足を回す。いつも以上に周囲に注意を向ける。神経も鋭敏になる。擬似的に領域に突入したような感覚に陥ることもあるかもしれない。
(
だからこそ、極めて煽りやすい。
足音を立ててスピードを上げる「フリ」をする足技はまさしく効果覿面だった。アスコットレース場2000m*2のコース構造もそこに拍車をかける。スタート直後から最初のコーナーまでずっと下り坂になっている関係上、非常にスピードが乗りやすいためだ。
それに加えてカドラン賞で逃げを打ってレースを破壊したぼくが真後ろにいる。「こいつに逃げられるとまずい!」という心理が働くのも自然だろう。
『先行集団がいち早く飛び出してスタート。ややペースは早いか』
ピッタリと先頭のウマ娘の後ろにつく。
足先を覗かせ、音を発し、徹底的にこちらの速度を誤認させる。いつもやっていることだが、それを
相手がこちらに対する注意を切ったその瞬間に足音を立て、再び注意を向けさせて精神を削る。視線が揺らいだ一瞬を見て横から足を見せてペースアップを誘う。
言ってしまえば普段やってることの延長でそれだけのことだが、これまで「だいたいこのくらいじゃないか」という推測で行っていたものが確かな「観測」のもと行われるだけで効果は数割増しになる。
『スウィンリーボトム*3を超えてペースは落ちません。これはタフなレースになりそうだ。先頭は依然6番……』
「スピードが落ちねえ!?」
「ん? あー……どういうことだい?」
「あ゛? ……っス。アスコットはこっからずっと登り坂なんで」
「ほほう」
アスコットレース場は世界でも有数と言える20mもの高低差があるコースとして知られる。スウィンリーボトムを超えた後はずっと登り坂で、世界の強豪でも大いに苦戦させられるほどだ。
そのため、本来ならここからの登り坂は最も注意が必要な難所……なのだが。
「はぁっ! はっ、ふっ……!!」
先頭を走る彼女が勝ちを狙うなら、もう賭けに出るほか無い。
とにかく逃げて逃げて逃げまくる。デイブレイクなどは特にそうだが、上がり3
「しかしねぇ、ストライプ君もあんなスタートを切ったんだから逃げに回ればいいのに。得意だろう? 彼女」
「できたでしょうね。逃げが最適だったら、今回もそうしていたとは思いますよ」
「おや、今回は最適じゃない?」
「本質的にペースを
タキオン先輩はその場で腹がよじれるほど笑い始めた。
貶されてんのか褒められてんのか分かんねえなこれ。
「後ろから押し上げて殺人的なハイペースに追い込んで、競り潰す。誤解を恐れない言い方をすると、あの子が本領を発揮できるのはメジロマックイーンと同じ王道の先行策ですよ」
「王道……?」
「と言うにはいささか悪辣ですが」
「二択を迫って二択のどっちを選んでも詰みの状況に持っていくのは『いささか』でいいのかい?」
「三択目を作ればいいでしょう」
「確かに」
「確かに」じゃないんだよ何だよこの超一流がよぉ。
こっちが必死で二択まで詰めてるのに三択目を容易に捻出されたらこっちが詰むだろうがよぉ……。
……その辺は置いといて。
実際のとこ、ぼくが張っていた線は3つ。ラビットがいて先行策を取るか、ラビットがいないことで誰かが逃げに回ることで先行策を取れるか、誰も逃げもしないしラビットもいないからひとりで全力で逃げるか。
差しや追い込みは最初から頭に無かった。ぼくの
だから、先行策か、大逃げか。いずれにせよ、そこに至るまでの策こそ組み立ててはきたがあとはほぼアドリブ同然だ。スタート直後の
「はっ! ……はっ、あ……!!」
先頭を走るウマ娘の体が一瞬揺らぐ。慣れない逃げに加えて、前残りを狙った大逃げペース。そこに加えて高低差20mの延々と続く坂が体力を削ったようだ。
なら――この辺でこじ開けに行こう。
『ここで先頭が替わってストライプ! サバンナストライプ! 800mもの距離を残し、高低差のある坂の途中で先頭に躍り出た!』
「……マ……ッジかよ……! バカなのか姉貴!?」
「バカだろう?」
「大別すればバカですよ彼女」
「XXXX!!!!!」*4
再びの無減速クロスステップで先頭に躍り出る。オールドマイルと呼ばれる直線は、しかし、やはり坂の途中だけあって相当なパワーが必要になる。
ここから最終コーナーを回って最終直線に至るまで、アスコットレース場の坂はこの調子だ。1200mの間ずっと坂と言うとその異常性が理解できるだろうか。
と言っても、異常には異常。常識外れのパワーと体幹があるぼくにとって坂はむしろ味方と言っていい。
残り800。ここからは本当にただの押し切り体勢、真っ向勝負だ。
(――なんとなく、「まだ」だって感覚がある)
得意な状況、得意なバ場に、得意な芝質だからだろうか。ほぼトップスピードに乗っているにも関わらず、もうちょっと行ける気がする。
――最終コーナーを回る。
背後から一気にプレッシャーが噴出した。恐らく、ランフィニとデイブレイクのものだ。彼女たちも遅れて――むしろレースの常識で考えれば早いくらいだが――
ぼくは今からこの脅威的なプレッシャーふたつを退けなければならない。英国トゥインクルシリーズ史に刻まれるであろう実力を秘めたウマ娘ふたりだ。その末脚もまた、豪脚と呼ぶに相応しいほどの威力を持つ。
不意に、汗が吹き出した。
スタート直後に
(
不思議と、心は高揚した。
ここから勝てばどれだけ爽快だろう。この圧倒的強者を出し抜ければどれだけ痛快だろう。
そう考えるだけで不思議と心の底から活力が湧き、道を示してくれる。
(――――そうか)
ふと、気付いたことがある。
等速ストライドとは、あくまで一つの技術の到達点。常時最適なストライドを保つことで「最速」を常に維持するセクレタリアトが編み出した技術の極地だ。
セクレタリアトは極めて自然に、それこそ生まれた時からできるような自然さでこれを使いこなしていた。それだけのことができなければ本家本元等速ストライドと言えはしない。
だが――ある程度は等速ストライドを再現できるのではないだろうか?
例えばそれこそ
本家本元のそれには敵わないまでも、あるいは。そこにある程度まで近付くことができるのでは――?
一歩。この最終直線は常に登り坂だ。そこには一定の法則性こそあるが、一方でところどころに段差や細かな勾配の差が生じている。力任せにそれを踏み砕くのではなく、ミリ単位で正確に踏み込む。
大丈夫。データは入ってる。
「うおおおおおおおぉぉぉっ!!」
「っ、はあぁぁぁぁぁぁッ!!」
気迫の声が近付く。
背後に、プレッシャーが迫る。
「あああああああァァッ!!」
振り払うように放った裂帛の気合と共に、ぼくの脚は
頭が痛む。鼻の奥がツンとして粘っこい何かが漏れ出しそうになる。全身から汗が吹き出す。それでも計算は止まらないし算出は終わらない。1mm単位の修正、1nm単位の見極めがぼくの体をより速く前に進ませる。
「行けぇーっ! ストライプー!!」
「フフフフフッ!」
「~~~~!!! ああああああもうッ!! みんな頑張れぇぇぇぇ!!」
視界が明滅する。音が遠退く。もはやゴール板しか、意識には無かった。
それでも、勢いは――止まらない。
『ゴォォォォル! インッ!! なんと勝者は、まさかの……一バ身半!! 羽ばたくような走りで、まさかの! チャンピオンステークス勝者は――カドラン賞の覇者、サバンナストライプ!!』
「が……はッ……ハッ……! ハァッ……!」
喉が熱い。鉄の味がする。興奮し過ぎで鼻血でも逆流したか。
脳を酷使しすぎた影響か頭痛も酷い。歯を食いしばっていないとまともに立っていられない。
けれど、確かに聞こえた。今、見えた。ぼくの勝利を告げるアナウンスと、掲示板の数字が。
「ッ、はぁ、どうだぁぁぁぁっ!!」
それでも勝者として、無様な姿を見せることだけはできなかった。
上を向いて鼻血を喉に流し、食いしばった歯が威嚇的にならないように唇を持ち上げて努めて笑顔を作る。
観客席に向けて拳を突き出せば――大きくはなくとも、それでも確かな歓声を感じ取ることができた。
○ 疑似・等速ストライド
本家ほどの精度は無い。
コースのデータが完璧に頭に入っていること、ストライプの最も得意な洋芝コースであること、領域に入ることの条件が整っていなければ発動できない。
長時間やると脳が過負荷で死ぬ。