スタミナとひと口に言っても、いくつかの種類がある。
ひとつは純粋な意味合いでのスタミナ。これはどれだけ長い距離を走れるかを問う部分で、主に心肺能力がここに関わってくる。
もうひとつは精神面。脳のスタミナ。単に頭脳を問うだけでなく、継続して思考し続けられるかが問題になる。集中力の問題もあるし、思考力の問題もあるし、もっと根本的に栄養が脳に行ってるかどうかの問題もある。
そしてもうひとつ。トップスピードを維持するスタミナ能力。これは心肺機能もだが、骨格や筋肉も大きく影響する。場合によっては筋肉の断裂や疲労骨折もありうるため、この分野に関しては繊細な見極めが必要だ。
MAX64km/h。概ね定着したこの速度で1ハロンを走れば11秒25ほど。上がり3ハロンの間維持できればだいたい34秒というところだろうか。
他方、例えばテイオーはダービーで上がり3ハロン36秒ジャスト。これは先行策を取っていたせいもあるが、クラシック級のこの時期はこのくらいが最速だという事情もある。
他のウマ娘にも目を向けると、タキオン先輩が皐月賞で35秒5。ネイチャが小倉記念で34秒6だったかな。フラッシュ先輩のような規格外を除けば、先行から逃げの立ち位置を確保しておけば、最速を維持して概ね……35秒ペースで行けば十分勝てる計算にはなる。
計算通りに行くなら毎回勝てるんだが、もちろんそんなわけは無い。調子の良し悪しもあるしコーナーや坂もあるため、だいたいは上がり3ハロン36秒弱というところに落ち着く。
普段なら十分――ではあるんだけど。
(デイブレイク相手にこの「遅さ」はなぁ)
――上がり3ハロン、推定34秒。
本気で差しに来る彼女なら、そのくらいやってもおかしなことは何も無い。大きくリードを取ることができていればいいが……あっちだって殺人的ペースで行くことは分かっているだろう。多分途中で上がってきて勝負をかけてくる。
最後の最後で脚が残らないとは思うけど……中距離だから、そういうわけにもいかないだろう。
「1ハロン11秒8、ここまで35秒強……マイルじゃねェンだぞ!?」
普通のウマ娘はその筋肉の質から、時速60kmで走るのは簡単でもその速さで「走り続ける」のは難しい。実を言えばぼくも人種の関係上速筋の割合が高かったりもするが、そこは心肺能力とトレーニングでカバーだ。逃げも主戦術にすると定まった中1の頃から元チーフからは徹底的にシゴかれてる。
とはいえ……。
(流石にッ、そろそろ無理、か!)
ペースが早いのはいいが、ちょっと続けすぎた。まだ続けられる余裕こそあるが、このペースを維持しようものならあと1000mも走れば先頭集団は共倒れだ。
それにしても芝が微妙に合わん。いや、全然ダメってわけじゃないんだけど、相対的に。
海外が合いすぎてたっていうのもある。他のウマ娘が遅くなりやすいロンシャンやアスコットの洋芝は、どっちでもそんなに速度が変わらないぼくにとっては追い風だったわけだ。
それと比べると日本の高速バ場は、ぼくの「どのバ場でもそれほど速度が変わらない」という特徴が完全に裏目に出ている。相対的に一番早ければいい、というのはぼくも常々言い続けているが……これもまた相対論。
息を入れるために徐々に速度を落としていくと、対応してマックイーンたちの速度も落ちる。いくらハイペースの方がいいと言っても度が過ぎれば単なる暴走でしかない。
それはそれとしてここでもう一回加速したらどんな顔するかな、なんて悪戯心が首をもたげるが、流石に驚かすためだけに自分の首を絞めるわけにはいかない。ブラフによる心理効果以上にここで息を入れられないデメリットの方が大きいからだ。
爪先から足裏にかけて熱を帯びている。ちょっとやりすぎたか。
「ふっ……」
息を入れると共に熱がわずかに抜けていく。我ながら反則めいた回復力だ。これでラストスパート*1をする元気くらいは湧いてきた。
「こっからはしばらく動かねーだろうな」
「しばらく……
「………………800mくれーか……?」
「ただ三分割しただけじゃねェか」
まあ序盤、中盤、終盤と分けるなら三分割するのが一番わかりやすいだろうし、的外れというほどではない。このペースで差すなら1400m付近で位置取りをしておかないと間に合わないだろうから。
ただ、これは差す側の都合で先頭集団のぼくらとしては残り3ハロンくらいまで動くことはまず無いだろう。逃げは駆け引きを講じる余地こそあるが、ここまでペースを上げてしまうと流石にやれることも少ない。
…………本当にそうだろうか?
自分に対しては特にだけど、ぼくは限界というものを自分で勝手に設ける悪癖がある。ここからできることが何かあるのではないだろうか? このまま漠然と先頭を走り続けるのはぼくにとってベストを尽くしたと言えるか?
思考が凝り固まって硬直しているようにも思う。通じるブラフは――まだある。
『半分を過ぎました。中団より後ろ、位置取りを始めます。まだハイペース』
『先頭集団に迫れるかが気がかりですね』
中団――場合によっては先行脚質も、この辺で仕掛ける位置をさだめなければならない関係上、先頭集団も一定以上は後ろに注意を向ける必要がある。スパートのタイミングを誤って追いつかれたら巻き返しも難しいからだ。
同時に、2番手以降に控えることになったマックイーンたちは、ぼくの動向にも気を配らなければいけない。何をしでかすのか分からないからだ。
そこで、前から後ろに注意が向かう瞬間、その隙を突いて前に出る。
「!?」
「っ――――!?」
――ように、見せかける。
やったことはごく単純、僅かな間だけ歩幅を縮めて、スパートをかけるかのような足音をさせただけだ。
ぼくがメタ読みで相手の性格や性質を考慮に入れた先読みをするのと同じく、他のウマ娘だってぼくに対してメタ読みを仕掛けている。
アイツの性格はこうだ。こういう場面だときっとこうする。……そういう考え方自体は悪いものじゃない。顔を合わせることが多い相手なら尚更だ。
また、マックイーンもアイネス先輩も一流……いや、超一流のランナーだ。
たとえ視界の外の出来事であろうと――いや、視界の外
「!?」
「マックイーンたちが急に動いた!?」
「今何をしたんですか!?」
「歩幅を変えた上で速度を変えないフェイントだと!? なんて無駄な技術を!!」
こちらから注意を外していたからこそ、ふたりはただ歩幅を縮めただけなのを踏み込みの前動作だと誤認した。
結果、数秒足らずの短時間とはいえ、こちらの思惑に気がつくまで仕掛け所でもないのに加速してしまう。
更に、ここで再度選択肢を突きつけられる。すなわち抜くか留まるかだ。
当然だが、この局面で抜きにかかるなんて愚の骨頂だ。なので、ふたりとも最終的にはまず確実にその場に留まろうとする。だが、1秒、0.1秒でも迷いが生じればそれだけスタミナは削れる。
――結果、先に状況を察して付き合っちゃダメだと判断したのはアイネス先輩だった。
元々マイルから2400までに特化した能力の持ち主だ。無駄に使える体力は無いため即決できたのだろう。
対して判断を迷っているのがマックイーン。スタミナが豊富にあるからこそ、このままこちらの罠を食い破るかどうかを選択肢に挙げられているようだ。
だが現状、それは悪手だ。
張り合ってくるなら構わない。止めはしない。苦しい展開になってくるが、ぼくにとっての「苦しい」はぼく以外のウマ娘にとっては「地獄」だ。
マックイーンがいかにスタミナに優れるとは言っても、脚がそれに常に耐えきれるわけじゃない。デビュー前に
そうなったらこっちもタダでは済まないが、ぼくがタダで済まないレースなら全員タダじゃ済まない。皆仲良く負傷全滅、さもなきゃ脱落で着外である。
で、そんな状態に陥れば九分九厘ぼくが勝つ。純粋な体力勝負でしかなくなるからだ。100%脚に甚大なダメージを負うだろうからこっちは絶対やらないけど。
(……あっちもそんなことは分かってるはず)
勝敗を競う上でわざわざこっちに有利になるような真似はするまい。意固地になっているように見えるのは表面上のこと。内心ではここからどうすれば出し抜けるのかを考えているはずだ。
フェイント――通じない。見せすぎたか。並ぶ気は……流石に無いだろう。後ろに降りて2番手になった。
『向正面、トウカイテイオーとデイブレイク、上がってきた』
そろそろか。もう少しで3コーナーに差し掛かる。スパートをかけるとするならこのあたりか?
いや――ここまでのやり取りで脚へのダメージも大きい。今回は4コーナーまで我慢すべきだろう。
逆に、4コーナーまで行けるならあとはもう速度を落とさずにいけるはず。残りは他のウマ娘の体力をどれだけ削り切れたか……だ。
『3コーナー抜けて間もなく4コーナー、後続がぐんぐん上がってくる!』
痛烈なプレッシャーが背中に突き刺さる。
この場にいる他の17人全員がぼくに強く大きく意識を向けてきている。たとえ最遅であろうとも、どれだけ軽んじられていたとしても、実績と戦い方次第でこんなにも世界の一流たちと張り合うことができる。
モノちゃんたちは今このレースを見ているだろうか? いや、そこまで考える必要は無いか。
まずは眼の前のレースに勝つことだ。――そうしてはじめて、胸を張ってぼくは強いんだと言い切れる。
「――――ッ!!」
「ストライプが上がって……上がっ……上がってる?」
「9割5分から10割に引き上げても上げ幅が少なすぎて上がってきているように見えないだけでしょう」
「マジ切れ味と無縁だなアイツ」
うるさいやい。
確かにぼくのジリ脚はフラッシュ先輩のようなズンバラリンと行く切れ味とは無縁だ。ナタの切れ味と呼ばれたかのシンザンよりも更に鈍い。どっちかと言うと棍棒でタコ殴りにして引きちぎりに行ってるようなものだ。蛮族かよ。蛮族だな。
だが持続力という一点に関して言えば他の追随を許さないと自負している。極論、断ち切るという出力さえ同じなら過程は多少なんでもいい。
他のウマ娘が体力を使い果たして速度が落ちる時にぼくの速度が落ちないことで、差し返す余地が生じる。本当の勝負はそのタイミング……!
『ここで直線に向いた! 残り500m、長い直線が待ち受ける!!』
ここでそろそろマックイーンたちも
ギリギリを突いている……とは思うんだが……プレッシャーはどんどん近づいてきている。ひとつ、ふたつ――いや、4つ。
猛スピードで追い込んでくるこの白い影は――――!
『400を切った、高低差2mの坂! ここでトウカイテイオーとデイブレイクが突っ込んで来たぁぁーッ!! 1番手に躍り出る!』
「!」
「――――ッ」
やはり来たか!
2400mという彼女たちの得意距離だからこそまかり通る無法。最高速の維持ではなく一瞬の閃きに全てを託すからこそ成立する極限の切れ味。本来クラシック級のテイオーがここまでやってのけるのは想定外だが、デイブレイクに触発されて引き上げられたか、あるいは
……どっちでもいい!
徹底的に速度を維持する。抜かれようが今は構わない。あと400――300m、この坂で脚にダメージを受けているのは間違いない。速度は絶対に落ちるのだからそこを狙う。
抜こうとしてきた時に見えた横顔は、見るからに苦しそうなものだった。ダメージはある!
『先頭は大混戦! サバンナストライプは未だ譲らず、メジロマックイーンも並びかける! アイネスフウジン食い下がってきた!』
「ああっ! クソッ、デイブレイクのヤツ微妙に塞いできやがった!」
「これじゃあ最内から抜きにかかることが……!」
……前を塞がれただけなら無減速クロスステップで突破できないことはない。
問題は、デイブレイクがどれだけの速度を維持できるかだ。海外ウマ娘特有の鋭い差し脚が、前回の敗戦を期に鍛え直して粘りをも伴っていたら……悪ければそのまま負け。
天皇賞の時と状況はよく似ている。そもそものぼくの戦法がギリギリを狙いに行くものなのだからこればかりはどうしようもない。
(……じゃあ引き分けに甘んじられるかって、そんなのはありえない)
ではどうするか?
記憶を辿る。疑似等速ストライドというわかりやすい手段こそあるが、あれは禁じ手を通り越した愚策だ。確かに根本的な速度に手を入れることはできるが、使えば0.1秒後に自爆しかねないような欠陥技など考慮に値しない。
だが――無減速クロスステップ、ミスディレクション、スリップストリーム、前傾姿勢……総じて速度を上げる決定打にはなり得ない。
『速い速い! まだ伸びる! やはりチャンピオンステークス前年覇者は伊達ではないか!』
当たり前だ。ぼくが言うのもなんだが、展開に恵まれなかったのとたまたま策がハマったこと、加えてあの時は疑似等速ストライドがフルに使えたことが勝因として一番大きい。
徐々にスピードは落ちつつある。だが、こちらの速度を完璧に読み切っているためか本当にギリギリで速度が足りない。
あと1秒! 時速1kmでも加速できるなら……! けれど、今の手の内では……!!
「尻尾さえ回ってなけりゃああ~!!」
「尻尾は関係ないでしょう!!」
余計な
勝手に回転する尻尾は、ぼくにとってある意味ではずっと付き合い続けてきた悪癖だ。こんなのがあるから遅くなったんじゃないかとも、これがあって始めてこの速度が保てるとも思ってきたが……「尻尾が動く」という動作から見つめ直せば、これは本来バランスを取るための器官であり機能だ。
回転によって微妙な重心の変化に対応していると考えれば、これまでの極端な走り方の一助になっていたことは間違いない。
ひとつひとつの経験と、自分に今できることを思い出す。
無減速クロスステップ。
ミスディレクション。
八艘飛びとスリップストリーム。
急激に向上したパワーと体幹。
――疑似等速ストライド。
ひとつひとつをそれぞれの本来の使い手と比べれば、熟練度に圧倒的な差が生じるのは間違いない。同じ土俵で比べたらどの分野でも確実に負ける。
だが、それぞれの要素を突き詰めて抜き出せばどうだ? 無減速クロスステップのための足捌き、ミスディレクションのための体捌き、スリップストリームや八艘飛びをするための観察眼、重心移動と強靭な体幹、疑似等速ストライドのための――最適化能力。そして、「回転」による姿勢制御。
それら全てを繋ぎ合わせ、再構築する。
我ながら馬鹿げた発想だと思う。多分どうかしてるんだと思う。
けど、
『サバンナストライプが猛追する! まだ垂れない、まだ垂れない!! 間に合うのかぁぁーっ!?』
徐々にデイブレイクの背が近づいてくる。いつもと同じ無減速クロスステップの始動、その中途で体を傾け、「落とす」。
同時に外向きの力と内向きの力を
ほんの1秒足らず。
ほんの1km足らず。
それでも確かにこの脚は、
「な…………」
「今の、は――――」
『ご……ゴール! インッッ!!』
尻尾が
教わった全てと培ってきた全てをつぎ込んだ集大成。
あえて名付けるとするなら――
『まさかの差し返し、まさかの急加速! これが世界を制したウマ娘だ! ジャパンカップ、勝者は――ハナ差で、サバンナストライプ!!』
どよめきと歓声が天を衝く。
ドーナッツ先輩の「バグかよ」というボヤきが、ある意味で現状をよく示しているようだった。
ぼくは腕を高く空に掲げ――――解けた緊張感のせいでもつれた脚を直しきれず、そのまま思いっきりすっ転んだ。