6月下旬、阪神レース場。この年の上半期における最強決定戦とも言える宝塚記念の日とあって、会場は大入りの満員だった。
流石は世界的に見ても高いグレードを誇るレース。大勢のファンによる投票の結果選出されることも相まって、注目しているファンはそれだけ多くなる。
『――本日の2番人気、4番、ピーピードーナッツ。ファン投票は堂々の3位、客席から罵声が飛んでいます』
「なして?」
「恒例行事だ」
「なして?」
ぼくわかんない。
何で急にこのタイミングで民度が世紀末に?
「ありゃそういう歓声なんだよ」
「ちょっと仰る意味がわかんないです」
「ヒールレスラーに対するアレだ」
「何となく分かりました」
つまりそういう演出と。
ドーナッツ先輩の勝負服は、いわゆるテンプレート的な海賊の服を少し改造したような格好だ。花浅葱をメインカラーに据えており、色合いはなかなかに派手だった。
眼帯は着けていない。本人に聞くと、「いや視界狭めるとかアホだろ」とツッコまれた。仰る通りである。
ドーナッツ先輩の性格は、今日まで接して分かる通りかなり荒い。言動もそうだし、態度もそんなだ。身内には甘いけど、外部のひとに対しては犬歯を剥き出しにして威嚇することがままある。敵を作りやすいひとと言えばいいのだろうか。
そんななので、これまでのレースでもその前後の記者会見やパドックでも、気の強さを存分に発揮してきたのだろう。で、「海賊」だからヤジを受けたりするところまで含めて恒例の流れになって、今まで継続しているというところだろうか。それはそれとして「親分」などのやけに野太い歓声もあるし、ファン人気投票トップ3に入っているという時点で確実に人気はあるのだけど。
「それでもあんなになりますか?」
「ドーナッツさんは『海賊』という異名を持っています。外見に由来するのもそうなのですが、それ以上に……レース記録を阻んでいることが大きいですね」
「記録っていうと、連覇とか三冠とか……ですか?」
「はい。二冠を達成したニューコスモスさん*1を菊花賞で差し切って一着。それから目黒記念連覇を狙っていたアドリアシングさん*2を差し切ってこれも一着……後者が特に、アドリア海が有名ですので余計にそちらになぞらえて……」
フラッシュ先輩のおかげで更によく分かった。それは確かに海賊だし、
本人がそれを望んでやっているらしいのが幸いなところだろうか。客席から見る限り、観客や他のウマ娘も、マイクパフォーマンスに対してノリノリで応対している。
「ところでスカイさんとスナイパーさんは大丈夫ですカ?」
「死んでます」
「Oh……」
時期は6月下旬。気温は安田記念の時よりも更に高い。更に天候は晴れ。レース場の状態の発表は「良」。走るには最適の状態だが同時にそれ以上に
かく言うぼくも、会話に参加はできているが別に無事というわけではない。さっきから垂れ流しになってる汗を拭き続けてるタオルが、そろそろ絞れそうなくらいに汗を吸っている。
時期柄、冷房の出力が弱められているのもあるし、高い湿度のせいでなんというか空気がまとわりつくようで余計に暑いというのもある。
日本人だった頃のぼくはどう対処してたっけ? と思い返すけど、エアコンでガンガンに冷やしていただけなのを思い出して考えるのをやめた。付け焼刃で対策を練ったところで自然には勝てないものだ。ぼくの雨ごいも成功率は5割を切る。
「んぐ」
買ってきた水をあおる。
が、もうだいぶぬるくなっていたそれでは体温は下がらない。むしろ水分を摂ったことでより汗が噴き出してくる。
……もっともコレ、汗が出なくなる方が更にヤバいんだけど。そこまで行ったら脱水症状が行きつくところまで行ってしまっているということだ。命の危険がある。
『各ウマ娘、ゲートイン完了』
「あ」
ようやくスタートだ。
と――ゲートが開くまでの数秒、未だ喧騒にあふれているはずのレース場に、一瞬ひやりとした空気が差すのを感じた。
ドーナッツ先輩の方に目を向ける。と、その笑みはいつも浮かべているイタズラっぽいものとは打って変わって、獰猛なものに転じていた。
そして、わずかな間隙の直後……。
『さあ、ゲートが開いた!』
弾けるように、全てのウマ娘がゲートから飛び出した。
先頭集団として飛び出した数名のウマ娘に続くように、ドーナッツ先輩は中団に位置してレース展開を窺うかたちだ。戦法としては、ぼくやリムジン先輩と同じく差し……なのだけど、少し不安要素がある。
(……そもそも、ドーナッツ先輩はそこまでのパワーがあるのかな?)
ドーナッツ先輩の体はすこぶる小さい。不安になるくらいちっさい。ぼくから見てなお小さいと感じるくらいなのだから相当だ。
鍛えてないわけじゃないとはいえ、そうなると筋肉の絶対量というのはどうしたって限られてくる。必然的にパワーは落ちるし、加速力もそれに従ってまた、落ちる。
ではどうやって集団から抜け出すのか……そう疑問を呈したところで、ようやくドーナッツ先輩の走り方を目にすることができた。
『4番ピーピードーナッツ、中団を軽快に進む。目の前に9番を置いた位置』
(……なるほど)
スリップストリーム走法。競争相手の背後に位置取ることで、風の抵抗を最小限に抑え、速度を維持しながら体力の消耗を減らす技術だ。
……言ってはなんだけど、少し面食らった。一体どんなトンデモ走法なんだ……!? と内心戦々恐々としていたから肩透かしを食らったというのが大きいけど、スリップストリームを利用することは程度の差こそあれ誰でも――よっぽど逃げに特化したひとは除く――やっていることだからだ。
リムジン先輩のように体格的にちょっとそれが難しいひとはともかくとして、意識しないということはまあ、まず無い。
(大勢ランナーがいる状況じゃないと見せられない走法って言ってたけど……)
つまり、多分まだ何かがある。
半ば確信めいた予感を覚えながらレースを見ていると、中盤、ドーナッツ先輩の前を走っていたウマ娘が中団から逸れ始める。仕掛ける前の溜めなのか、失速か、それともそういう作戦か……いずれにしてもこれでは引っ張られてズルズルと後退しかねない。
「……!」
そう考えてハラハラしていたところで、ドーナッツ先輩は素早い身のこなしでそれを躱し、別のウマ娘の背後につけた。
危ないタイミングだった……もう一瞬でも遅かったら、他の走者の後ろにつくにしても、中団からは外れてしまうところだった。
「……シャカール先輩、あれ結構際どかったですよね?」
しかしシャカール先輩たちは、今の一瞬の攻防に対してさして感情を出すような姿を見せない。
安心もしてないし、かと言って興奮もしてない。まだ気が抜けないとか、そういう風でもない。あれ?
「あいつに『際どい』はねーよ」
「え?」
「それも含めて狙いの内だ。そろそろ仕掛けるから見とけ」
『第3コーナー! ――ここでピーピードーナッツ前に出る!』
「!」
あれは!?
……前に出ると言ってはいるけどまた別の走者の後ろについた!?
「仕掛けてます!?」
「
「えぇ!?」
どういうこと!?
その時、混乱と共に過去の記憶が湧き上がる。第二回JWCの映像……ピーピードーナッツとカルキンJrの勝利シーンだ。
あっ、とその理由に行き着くと同時、ドーナッツ先輩は更に前を走っているウマ娘の背後についた。
『10番の後ろ海賊ピーピードーナッツ! 取舵一杯!』
そして次、ドーナッツ先輩はそこで加速した。前を行くウマ娘の背後につき、そこからスパンと抜いて更に前へ!
まさかドーナッツ先輩、これ……スリップストリームを常に維持したまま走ってる? それってつまるところ、今走ってる全てのウマ娘の走行フォームに合わせて後ろを走っていける、息を合わせられるってことになる……よね。
だから「大勢いるところじゃないと強みが分からない」ってことなのか……!
チーム内の併走だとどうしても少人数でしか走れないし、走る相手もおおむね決まった組み合わせになる。息を合わせるにしたって、いつも一緒に練習してるんだからお互いの息の入れ方も強み弱みもだいたい理解してるわけで、息を合わせてスリップストリーム走法に入ることができるのは当たり前のこと。外部のレース……今回みたいなフルゲートのレースになってようやくその異常性が見えてくる。
『最終直線に入った! 先頭は依然9番粘っている粘っている! 逃げ切るか! 後ろからピーピードーナッツ迫る! 撃ち方用ォ意!』
……それはそれとして実況の人ちょっとテンションおかしくなってんな?
「っあああぁぁぁ!!」
「ッラアアアアァァッ!!」
ラスト1ハロン。ドーナッツ先輩がここまで温存してきた体力全てを振り絞り、先頭に躍り出る!
しかし、相手もさるもの。宝塚記念に出走するほどの実力をフルに発揮した彼女は、ドーナッツ先輩を差し返すべく再加速した!
もはやこうなってくると気迫と気迫のぶつかり合いだ。犬歯を剥き出しに、見栄も外聞もなくただ全力で駆け抜ける。
『二人もつれるようにゴールインッ!! 一着は――――ハナ差! ピーピードーナッツ!!』
――わっ、と花開くように……いや、と言うよりはむしろ、大砲がドカンドカンと撃ち放たれるように、歓声が弾けた。
『阪神レース場の「宝」を手に! キャプテン・ドーナッツ、祝杯を上げる! 2着は9番、3着は11番――――』
これで、ドーナッツ先輩も海外G1、コックスプレートの挑戦権を得たわけだ。
リムジン先輩が勝つのを見届けた時のような緊張感が背に走った。
……日々弛まぬ努力を続けるのは当然のこと。その上で、あれだけの特別な走りを見せることでようやく勝てるものなのか、G1という舞台は。
改めて、少し怖くなった。と同時に、心の奥底から少なからず闘志が湧いてくるのを感じる。
これが、武者震いというやつだろうか。少しだけ奇妙な感覚を抱きながら、ぼくはウイニングライブを待つために絶賛ダウン中の二人を引っ張ってクーラーの効いた室内の方へと向かっていった。
実況のテンションがちょっとおかしくなるのは原作(JWC)からそうなのでそういうものとして捉えていただければと思います。
なお本作ではだいぶマイルド方向に下方修正されています。